僕が小学1年生の頃、恐らく夏休みのことだったと思う。お盆だったので母方の実家に帰った。そこで、突然親からスーパーファミコンをプレゼントされたのだ。ただ、この歳になるまで、ずっとこの出来事がどうも不思議というか、腑に落ちなかったのだ。
何より家は貧しかった。ゲーム機なんていう高額の趣味用品を買えるだけの余裕はなかったはずである。初代ファミコンは家にあったが、それすらも友人からの借り物だった。小さな頃に僕が怪我をして、外で遊べなくなった事を同情した友人が貸してくれたのだ。タチが悪いことに、治ってからもずっと借りパク状態にあったし、なんなら一番遊んでいたのは親父だった。そして令和7年、未だに実家に眠っている。
そんな家だったから、スーパーファミコンなど買える状況にないということは分かっていた。しかも、僕の誕生日でもなく、正月も関係のないお盆に。しかも、敢えてわざわざ母の田舎でなんか買う必要もない。だから、おそらく母方の祖母あたりが、遊びに来てくれた孫を不憫に感じ、スーファミを買ってくれて、親経由のプレゼントにしたというのが落とし所ではないか、そう、この歳まで思っていた。
つい先日。久々に僕の実家に帰り、その時の事が話題にでた。「そういえばあのスーパーファミコン、どうせ母方の実家から買ってもらったモノでしょ」とすると親父が、違う違うと否定し「母方の実家が気まずくなり、適当に散歩すると言って外出し、近場のパチ屋に行ったら入れ食いになって景品交換した。」という事だった。まぁ、あり得る話なのだけれど、想像以上にしょうもなかった。親父は「当時あんな高いもの、買えるはずないだろ」と笑っていた。
今となってはどうでもいいのだけれど、そうか、パチ屋かぁとぼんやり感じ入ってしまった。人付き合いが苦手な親父がパチ屋に逃げ、入れ食いとなった世界線にいなかったら、僕はスーパーファミコンを手に入れてなかったということになる。誰か親族が僕のために用意したわけでもなく、偶然、運によって顕現したスーパーファミコンに僕はとても喜んでいたのだと、少し切なくなった。いや、いいのだけれど。
ふとこれに関連して、そういえば。我が家には初代プレステがあった。たしか、あれもクリスマスでも誕生日でもない、変な時期に家にやってきた代物だった。当然、僕は喜んだけれど、よくよく思えばその頃、家の貧困度はさらに上がっていた。家族で昼にカップ麺を食って、その汁を残して凍らせて、夜に解凍して米と雑炊にして食べていたくらいの時期。プレステについても深く考えないようにしていたのだが、恐らくあれも景品だろう。
思えば親父は「散歩」をしによく外へ出ていた。その都度何かを持って帰っていた気がする。当時の小学生向けホビーはよく売れすぎて品薄になっていた。ハイパーヨーヨー、たまごっちとか。そういった類のモノを突如持ち帰ってきていたから、ある種ヒーロー的な見方をしていたが、全部パチスロの景品だと思うと一抹の寂寥感がある。親からのプレゼントは基本的に運ゲーだったのだ。そういえばお年玉も、あみだくじで金額が決まっていたのだから、むしろその姿勢は一貫している。
案の定というか、小学5年生の頃だったか。本当に欲しがっていたプレステ2については、ついぞ我が家にやってこなかった。あのデフレの最中、4万円を超す価格帯である。景品でもなかなか厳しい出玉を要求されたことと思う。正月、誕生日、クリスマスと小学生が持てるすべての権利を放出しても、尚届かず。欲しいものが手に入らず本当に落ち込んだのはあの一度だけだった。
小学校も5、6年になり、ゲームは高いので誕生日やクリスマスのプレゼントは次第に音楽CDになった。そんな中、ビートルズにハマって買ってもらった『アビーロード』。音楽で感動して、初めて泣いたアルバムだったのだけれども、その中の収録曲『Carry That Weight』の「Boy you’re gonna carry that weight,carry that weight a long time(少年よ、これからの長い人生、君は重荷を背負っていくんだ)」という歌詞に、当時から何か嫌な予感を感じていた気がする。
人付き合いが苦手だったり、労働を忌避したり、何故か真っすぐ生きていけない親の血は自分にも流れているのだと、今更ながらに思い知らされている。(反面教師でちゃんと働いてはいる。今の所。)
過去、色々ゲームもプレイしたのだが、その体験も親父の悪運のおかげだったと思い知った今日この頃。純然たる善意からでなく、親父のパチスロの結果で僕の原体験や思い出は形作られていたわけだ。子供に対して、明確な意思による確実な体験がなくとも、子供はいつか大きくなるのだなと、しみじみと感じ入った師走の初旬でした。少し寂しくもある。