文学フリマ新刊の話とエッセイを書くことについて
久々にブログを更新する。同人誌を作っていたら、案外満足してしまったので長めの文章を書かなくなっていた。今週末、文学フリマに参加する事もあり、新刊について多少語りたかったので、短いけれど更新することとしてみたい。
前回の宗教二世に関するエッセイに続き、躁うつ病をテーマにしたエッセイを書くことにした。前回は多少肩肘張って書いたのだが、今回についてはもっと自然体に。ぶっちゃけ、あまり読む人のことを考えずに書いた気がする。
自分の病気の事を書く、というのは正直読む人のためでなく、自分の為に書くという方がしっくりくる。僕の場合、そこまで大病したわけでもなく、少し生きづらいだけ。誰が読みたいんだそんなもの、とも思う。それでも、文字にしてみようと思った。そのきっかけは、作中でも記載したが、もっと色々なことを肩肘張らずに書いていいのではと感じたからである。
なんなら僕は昔からエッセイが好きだ。文筆家に限らず、お笑い芸人、よく分からない文化人に至るまで。これまで数々の「名作おもしろエッセイ」を読んできた結果、エッセイなんてものは文才ある人間の独壇場である、という認識を持つようになった。人生の棚卸が面白いのだから、その人自身が面白いのだろう。文字を書くのを趣味にしていたが、僕が書けるようなものでもないと思っていた。
そんな中、いつだかの文学フリマでその認識が少し変わった。当然のことながら、エッセイジャンルで同人誌やZINEを書いている人も多くいる。そんな本を手に取ってみたのだった。失礼な話なのだが、案の定そこまで面白いものでもない。日常が日常として描かれており、とても些細な事ばかりが書かれている気がした。
それでも文字になったその日常は、思いのほか心に沁みた。わかりやすい面白さはないのだけれど、その反面しっかりリアルで、嘘がないのだなと感じた。俗に言う飾らない文章、というヤツだろう。文学フリマで適当に買ったのだから、その著者のパーソナリティもつかめず、書いている人が誰かも分からないのだが、なんだか「そういう人も現実社会にいるのだな」ということがじんわりと胸に響くような、そんな心地良さが残った。
いくつか買って読んでみるうち、自分でも書いてみたくなった。前回夏コミの宗教二世の話は正直、少しだけ話題になればいいなという狙いがあった。話題も話題だし、時事的にも気になる人が出てくるだろうという打算があった。ただ、今回文学フリマで出す「躁うつ病エッセイ」に関しては、需要がまるで分からない。作った自分で言うのもなんだけれど、ただただ僕がぼやいているという感じ。恐らく5年前の自分なら、決して世に出さないタイプの文章だろう。
きっと歳をとって変化したのだろうと思う。文学フリマで買ったいくつかのエッセイに影響を受けたのもあるし、ただただ自分の人生に諦めがついてきたというのも確かだ。エッセイを書くと、その人間の身の程が知れてしまう。哀しいかな、大して面白くない人間であることがバレるのだ。
でもそろそろ、その面白くもない自分の人生と向かい合うべき時期がやってきたのかもしれない。なるべく、話せば面白いヤツだと思われたくて、文章を読んでもらえれば、何か一物あるヤツだと。そんな風に思ってほしいという欲がずっと頭の片隅に存在していたのは確かだ。でももう、そろそろそういった類の妄執とも別れる時がきたのだろう。
だから、今回の文学フリマ新刊で出す『脱物語としての躁うつ病カウンセリング記』はさして面白くもないと思う。
なんなら、ワナビー的思考に対する諦めを滔々と語っている。いつか成功する、報われるという物語がなくとも人はなんとか生きていけるんじゃないの、という提案をしている本だと思う。なので、同世代だったり、同じように足掻いている人、あるいは躁うつ病の当事者に届けば嬉しい。背伸びするのでなく、地に足付いた文章を書いたつもりなので、そういう姿勢が伝わってくれればこれ以上のことはない。
ブログも久々書いたものだから、なんだか文字がギクシャクしているけれど、たまに書き散らすのも悪くない気がする。
文学フリマに参加するのは久々なので、楽しみにしたい。当日お会いできる方は、ご挨拶させてください。