わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

全人類中二病時代~積極的ニヒリズムのススメ~

煽ってるタイトルですね。自分でもちょっと引いてます。

 

何はともあれ働きだして、4年目突入です。石の上のヤツはなんとか乗り越えた感じなんですが、まだ働いています。自分にとっては既に毎日の社会生活がエクストラステージなので、日々モチベを保つために自分を褒めてます。

 

そろそろ、そのボキャブラリーもなくなってきて、「俺さすが」とか「俺ヤバイ」とか、何か見失ってきてる感も強くなってきたところで、仕事のことだったり、今同人でやってることだったり関連のあることについてちょっと考え事があったので。

 

 

ニチアサ見終わって、珍しくチャンネル変えて関口さんのサンデーモーニングなんか見てたんですよ。あの番組の中でも「風を読む」ってコーナーがありまして。まぁ、最近の時事を並べて共通点を抽出し、最終的にはアメリカのコラム二ストみたいになんかふわっとした結論残して、スタジオのコメンテーターに投げるというVTRコーナー。

 

結論の出し方はあれなんですけど、観点は良いなと思ってて。今週が「人為ミスって、果たして人為ミスなの?」みたいな。それは人間の在り方の限界とかそういう部分に起因してるんじゃないの。みたいな話でした。

 

企業活動では一般的になってきた「ヒューマンエラーはなくならない」ていう前提。それに基づいた確認作業。そこで確実にミスをなくしていくという、比較的性善的な発想によって日本の社会は成り立ってます。

 

ただ、それも多分限界があって、そのミスが起こったときに企業は「怠慢」とか「過失」を責められるんですが、そこにも限界がないかというニュアンスです。

そこで働いている社員も「サボりたい」とか「楽したい」とか。そういういわゆる責めるに値する感情がなかったとしても、起こっちゃうものは起こっちゃうのです。

 

そのVTRの中で教授の方も「我々人間は、自分が人間であるという自覚を忘れているのでは」という指摘があったりして、人間の限界というテーマにも軽く触れていました。

 

 

最近、ピケティの『21世紀の資本論』をはじめ、資本主義の限界論は盛んですし関連する書籍も売れています。多分、人はそろそろ20世紀までのやり方ではちょっとキツくなってきてて、21世紀の人間としてのあり方を模索する時期に入ってるんじゃ。と、皆うっすら思ってるのは確かかもしれません。

 

その上で、ふと湧いてきた言葉が、タイトルの「積極的ニヒリズム」というモノです。

 

実際、僕もその通りだと思ってて、これまでとは違う社会構造で、同じ成長スタイルを模索したところで、前提条件が異なるので、流石に歪みが生じてくると。歴史の勉強なんかをしてても、なんか人類アホじゃねえ?とか感じてしまうのは、人類アホという以上に、全ての時代が「未経験」だからという事が言えます。

 

要は、全て人類は、長い歴史で見たら、使えないバイトなんです。「最初だから、ミスしてもいいよ。そこから学ぼう」いい店長ならそう言って励ましてくれますが、ガイア先輩はそうは行きません。「お前の正しいと思うことをやれ、責任はお前がとれ」そう、完全にブラックなのです。

 

人類って、そんだけ不利な労働環境で働かせられているんですよ、って事をしっかりと各個人が認識すべきなんですよね。過去の類似パターンはあれども、同じ状況ではない。社会科学なんて、正しい結論は何もないので、最終的には宗教と一緒で「何を正しいとするか」というかなり人間の精神的な土壌に基づいたお話となります。

 

人類が生み出した「政治」なんて、そんな使えないバイトがわーわー言いながら、必死に自分らの生活をガイア先輩の非道から守りつつ、頑張る過程そのものです。エグイぶつ森みたいなものです。そう考えると、どんどんと色んな事がバカらしく思えてきますよね。それを一般的にニヒリズム虚無主義といいいます。結局人類なんて、本質的には意味なんかねえんじゃねえか。いわゆるひとつの中二病の症状の一つですが、ただ、何が問題かって、それ本質なんですよね。

 

そんな人間が無価値だと言ってたところで、生活は目の前にあるし、そこから目を背けてたところで、しょうがないでしょ。ほら、働いてれば生活は豊かになるし、目の前のことを考えようよ。それが、中二病に対する一般的な反駁です。

 

しかしながら、働いていても豊かになるんか・・・とか疑問に思えてしまうような21世紀。その疑問の噴出が、先ほど挙げたピケティブームの本体です。そう、これまで中二病の反駁材料になってきた「目の前の生活を見よう」という言葉は、徐々に価値を失いつつあるというわけです。20世紀の豊かさの保障が先進国では既に失われ、BRICSはじめ新興国も、既に「持続可能な成長モデル」を考え始めている。

 

ちょっと、暮らしづらいというか。人って希望を見出せないと、前向きな人生って送れないんですよね。結構これ欠陥な気がするんですが、そういうものなので甘んじて受け入れましょう。じゃあ、どう希望を見出すんか。という話に移ります。

 

先ほど挙げた「ニヒリズム」。これは、結構一度病んだ経験をお持ちならよく分かると思うんですが、「どうせ」という言葉、が密接に関係しています。自分の能力の低さや、経済環境全てを嘆いて、自分には何も出来ない・・・と塞ぎこむときにこの虚無感を強く感じるのです。

 

ただ、発想の転換として、先ほど人類とガイア先輩の関係図を見ましたが、本質的には、全人類、人として意味はないんです。どんだけ豪邸構えようが、立派な仕事をされていようが、歴史的史観の中では、意外と意味がなかったりします。

 

だったら、その根本的なニヒリズムを、自分から認めましょうよっていう話です。そもそも無価値なんだから、もうあとは自分らで意味合いを作るしかないよねと。確かに、これまでの20世紀的財政・経済重視の価値観は、そのニヒリズムからある種人類が産み出してきたものでもあります。

 

だから人類は毎度、大きな歴史の変動があるたびこの作業を自浄的に行ってきたともいえるわけです。ただ、21世紀ってなまじ人類が賢くなってきちゃったので、結構争いをうまいこと回避しながら、なんとかマネジメントしちゃう。特に日本はそうした、露骨な変容を避ける社会なので、目に見える形でのパラダイムシフトが行われないような感があります。

 

そこで、ちゃんとその自ら価値を作るという作業を、各個人が意識的に行う必要性がある。そう思うのです。これは次回、夏のコミケでオタク論評を予定している中でもちょっと触れた話で。

 

オタクって所詮は、漫画・アニメ、ゲームでも何でもいいんですが、とことん趣味を突き詰め、好きな声優にブヒブヒいったり、痛車乗り回したりそういう生き方をしている人を指す言葉ですが、これ、人間の生活になんの意味があるのかと言えば、「楽しいからする」「好きだからする」とかその程度のことですよね。

 

でも、その無駄に見える営みに生かされている人が、何人もいる。この昨今のオタクブームって、こうした生活のパラダイムが、金銭的な部分以上に、精神的充足に向かっているというひとつの表れなんじゃねえかなと。そんな事を考えながら、ツイッターやらを眺めていた次第です。

 

ただ、ここで勘違いしちゃいけないのは、「ええじゃないか」みたいに、完全に全てを投げ出して今の安楽に向かう。それは、ただのニヒリズムです。あえてここでススメとした積極的ニヒリズムは、人生に横たわる「本質的無意味」としっかりと向かい合い、その上で自分の命の在り方、与えられた「無駄な」人生をどう活かしていくのか。これを模索する作業そのものが重要になります。

 

 

ちょっととりまとめがないですが、大体言いたいというか、完全に自分に言い聞かせている節も強ので、こんくらいにしとこうかと思います。最近、どんどん無駄や、要らないモノを省こう。という風潮が強まる中で、本当に20世紀的価値観を持ち続けていると、多分「あれ?この今の生活って、無駄なんじゃ」とか余計な内省が始まっちゃう人って、結構いると思うんです。

 

それまで、自分の人生に価値は存在している!!と明確に持っていた人に限って、なまじそういう突如とした崩落っていう危険性を孕んでいるのかなと。メンタルヘルスの維持、あるいは改めて自分の人生の前向きな捉え方、そして金銭に捉われすぎない生き方。そうした、「勝ち組・負け組」みたいなクソみたいな言葉を消失させる為にも、こんな考え方というか、一度これまでの価値の土壌を見直してみてもいいんじゃないかなとか、思った次第です。

 

まぁ、こんなこと書いてますが目の前の労働に対しては怯えてますし、なんかやっぱし働くこと考えると動悸が止まらないしで、辛いんですが。まだ、やりたい事もあるんで、なんとか生きねば。と。鬱々しい雨の中で、そんな垂れ流し記事でございました。