わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

性差と普通と肯定と

この春で社会人生活丸3年が経ってしまったわけで。3年かぁと感慨にふけったような文章でも書こうと思ってたのですが、なんとなく全く違うことで考え事をしてしまったので、久々の更新です。

 

ふと自分の性自認を疑う瞬間って、普通にあるものなのだろうか。と。ね、自分でも呆れる程に全然別の話。

 

 この前の渋谷区の同姓婚に前向きなパートナーシップ条例に関するニュースなんかを見てて。ふつふつと思うこともあったわけです。ツイッターなんかを見てもらっている人はご承知の通り、僕自身も何の気なしに突然自分の女装写真をあげたりして、ちょっと尖った人物像なんかを演出したがってますが、それにしてもなんで女装なんだろうなと。

 

以前にも、このブログでSNSと女装についての記事を書きました。きっと性別に関わらない「可愛さ」というモノへの美的追及、あるいは特殊な社会性の演出という部分で、承認欲求や自己承認、そういったモノを媒介にした現象だと、そんな風に書きました。

 

自分自身、紛れもなく男だってことを自覚しているし、嫌でも骨格から、毛の生え方、生殖器、意思にかかわらず身体は自分は男だという事を主張してきて。また社会的にも、一般的な企業に勤め、営業職としての役割に準じていれば自分は男として扱われているんだなということくらい理解できる訳で。

 

ただ、たまにそんな「事実」としての性別を自覚しきれなくなるような違和感というか瞬間がありだらだらとこんな文章を書いております。

 

先に書いた女装の動機に関する説明も、間違いではないものの、それ以前というか、それ以上に深い部分での、性別への疑問というモノが存在しているのではと。結構このくらいの感情なら、SNSで女装とかしちゃう人なら感じているのかもしれません。男っていう自認はあるけど、女性っぽく振る舞った方が楽なときがあるとか。そういう行為にちょっとした憧憬があるとか。

 

性的にノーマルだったとしても、そうした些細な違和を感じつつ、普通に生活してる人も結構いるのかなと。多様な価値観で溢れてる現代だから、そこまで強く意識しなくとも、自ら振る舞うべきジェンダーに微妙な差異を感じているのも多いのかもしれません。

  

一方でネット等で見られる、いわゆるセクマイという方々の社会的権利を求める活動に対しては自分でも驚くほど関心がなかったりします。恐らく、自分がライトすぎて、その利害関係下にないからなんでしょうけどそうした人権団体の動きに関しては、あまり共感も湧かないのが正直な話。

 

ただ、逆に。そうした動きに強固な反対を示す人、団体。それには、底知れぬ違和感を感じてしまいます。彼らのロジックは様々で、家族という社会の基盤が崩れかねない。とか人類・生物としての在り方に反するとか。なんかやけに大げさだなと。

 

更に言ってしまえば、自分の性別に対する自負って、実際はかなり曖昧なものだと改めて自覚をすべきじゃないかなと。冒頭から並べている話の要点はここに繋がります。

 

特段、性的自己同一性に疑問を抱かない人もその「性別」って認識は意外と安易なものかもしれない。男として、女として。そう思ってるだけで、その境界線はファジーなものなんだと。

 

確かに、生物学的に違う生き物なのでその壁を超えることは容易ではありません。付いてしまったものはなかなか外せないし、そのまた逆も然りです。ただ、その壁って結構柔らかくって、押せば曲がったり、いろんな形になる。自分の経験ではありますが、そういった印象を持つに至りました。

 

人として性別を守らなければ。そういう主張の裏には、自らの確固たる「男」「女」があるんでしょうけど、我思う故に我ありなのであって、育ってきた環境が違うからすれ違いは否めないのです。

 

かくあるべき、という主張はどうしても自らの正義を信じるところから生じます。それ自体は結構なことで、啓蒙すべきものは良心に基づいて広めるべきです。ただ、そこには確実にエゴが存在します。主張が正しくとも間違っていても、エゴは消せません。

 

そうであればこそ、一度、自らがどれほど不確かな存在なのか。確固たる性別、理想的な生き方。それがどれだけ環境要因に左右されるものなのか。そうした立場に立って議論してほしいなと。

 

公共の福祉すら不確かな今の時代だからこそ、色々な生き方がある。それセクマイの権利として世に押し出す事も大切ですが、それ以上に、「普通」というイデオロギーを被って安穏と日々を送っている人にこそ、疑問を感じて欲しい。

 

何で僕は男で、何で自分は女なのか。と。

 

そうしたちょっとした疑う気持ちがあると、急に、色々な目線に立てるんじゃないかなと思いました。自分自身も、同人活動や女装という根底には、何かを強く主張するというよりは、「ノーマル」という認識に疑問を投げられればというような。そういう思いがあるのかもしれません。

 

様々な生き方と主張の仕方。否定をするのは簡単ですが、肯定するのは、「自己の普通」の否定が前提となります。その自己否定をする強さを、現代人は持つ必要があるんじゃないかなと、この頃のニュースなんかを見てて、ふと思ってしまいました。