わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

『16bit センセーション ANOTHER LAYER』熱量と未来、虚無と願いの話

C103が終わり、新年を迎えた。スペースに来て頂いた方はありがとうございました。新刊についてBOOTHでの販売を始めたので、コミケ参加出来なかった方はぜひ覗いてみて下さい。女装子マンガを読んで感想を書いた新刊売ってます。

 

sukumidu.booth.pm

 

それにしても、大きな地震があったり、航空機事故火災があったりと、年始2日目にしてもう気が滅入って仕方がない。改めて心から皆様の安心と安全をここで祈りたい。

 

 

何をしても不謹慎に感じるそんな中、新年早々溜まっていたアニメを消化する事で心の平静を保っていたのだけれど、ようやく『16bit センセーション ANOTHER LAYER』を見る事が出来たので、その話でも。

テレビアニメ『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』公式サイト

 

いや、ぶっ飛んでいるなと思った。本当にぶっ飛んでいる。

 

個人的な感想を先に言ってしまえば、緻密なタイムリープというより『バックトゥザフューチャー』をオタク文化という土壌で「雑に」やった感じ。なので、細かい考証とか置いておいて「歴史改ざん?!ヤッベーどうしよう!!」みたいなテンションで最後まで眺めると、多分余計なフラストレーションが少なくて済む。なんなら、小ネタは悉くおっさん向けだし、若い子が楽しんで観るには多少ハードルが高い気もする。

 

ただ、この作品が根底でやろうとしているのは、物語の緻密さなんかでなく、単純に熱量と未来の話だったと思う。あの時秋葉原の片隅で「何か面白いモノをつくってやろう」と息巻いた彼ら彼女らの気概が、今、この美少女文化を作った。あの頃では想像も出来ない未来を、ゲームは、クリエイターは作り出せる。そして、今後も。そんな前向きなメッセージだったように思う。年始に見るには元気が出る作品だったので是非紹介したい。

 

 

・簡単なあらすじ

以下概要。本作の元ネタは2016年の冬コミC91にて、90年代以降ギャルゲ、エロゲ開発に一線で携わってきたみつみ美里氏、甘露樹氏のエピソードをもとに、若木民喜氏が漫画として描いた同人作品だ。物語というよりも、記録マンガという性質が強く、時代と共に進むPCの進化、伴う開発環境の変遷、そして一気に盛り上がるエロゲ制作現場とそれに沸く90年代秋葉原の様子を、半ば資料的に楽しんで読むことが出来る。

 

そして、その作品をアニメ化するに辺り、単純なドキュメンタリーに留まらず物語化させたのが今作『16bitセンセーションANOTHER LAYER』である。

 

簡単なあらすじだけ記しておく。見た人はスルーで。

 

主人公・秋里コノハは美少女ゲームが大好きで、秋葉原美少女ゲーム制作会社にイラストレーターとして勤めていた。ただ、サブ絵師に留まり、日々モブ男性や背景を描く日々。企画も通せず悶々とした毎日を過ごす中、ふと秋葉原に見慣れないエロゲ屋を見つける。ワゴンセールの棚には『同級生』『Cannon』『こみっくパーティ』といった往年のエロゲが100円で投げ売りされていた。

 

店主らしいおばあさんに、その価格が安すぎること、またそれらゲームがいかに名作であるかを語ったのち、その店を去ったのだが、翌日その店を訪れるともぬけの殻に。そこに、投げ売りされていたえエロゲ作品の数々が手紙と共に残され、コノハに譲る旨書かれていた。

 

ふと、コノハはその中から『同級生』のパッケージを開くと、そのゲームが発売された1992年の秋葉原にタイムスリップ。そのタイムスリップした先で出会った美少女ゲーム製作会社「アルコールソフト」の面々と、ゲーム作りに勤しむこととなり…という感じ。

 

あらすじ終えた所で、少しずつネタバレも混ざってくるし、全部説明するのも無理なので、ここからは基本的に見た人向けに書いていく。読むかどうかは自己判断で。

 

 

タイムリープモノとしての「出来の悪さ」

序盤から中盤は、上記タイムスリップを経て、2023年現在の知識と技術を持っているコノハが、当時の作業環境(PC98でのグラフィック着色作業など)に苦戦する姿がコミカルに描かれる。そうした様子からおじさん視聴者には当時の懐かしさを、若い視聴者にはある種資料的、そして一周回って新鮮な感情を与えながら、進んでいくドタバタコメディとなっている。

 

次第に物語の本筋は、コノハの歴史改ざんと、それを修正するという所に収束する。過去に飛び、無邪気にゲーム会社を手伝う事を繰り返す中で、徐々にコノハの持っている現在の知識や情報がその時点でのゲーム開発に影響を与え、最終的に99年にアルコールソフトが開発した『ラスト・ワルツ』というタイトルの大ヒットで、秋葉原どころか、以後のオタク文化を決定的に変化させてしまう。

 

『ラスト・ワルツ』を経た2023年の秋葉原は、高級住宅街と化し、多くのオタク文化は消え去った。老舗エロゲ会社は軒並みアメリカ西海岸に移転。(ちよれんすら、LAに移転し「ろすれん」と名乗っている説明はクッソ笑った)直接的な原因は分からないが、常磐新線プロジェクト(現・つくばエクスプレス)は頓挫し、スカイツリーは押上に立たず「電波塔」として秋葉原に誘致されている。

 

コノハはこの事態の重さに心を痛め、再度『ラスト・ワルツ』の後、秋葉原美少女ゲームが残るよう意図したゲーム作品を作り、歴史の再修正を図る。最後に残った『こみっくパーティ』(99年)を開き、『ラスト・ワルツ』の直後にその作品を発表し、果たして2023年の秋葉原は…?というラストの筋書きだ。

 

 

いや待て、と。フィクションなのは百も承知なのだけれど、コノハは今現実世界で存在する数々の作品をアイデアとして持っているのだがら、完全に「競馬結果を知ってから、過去に戻って儲ける」のと一緒じゃん。冒頭挙げた『バックトゥザフューチャー』でも禁忌として描かれているじゃん、と思ってしまう。

 

なんかタイムリープと仲間との再会によって、気持ちエモくしてるけれど、普通にズルである。コノハは、そのおかげでヒット作に関わった「伝説的クリエイター」という地位を得てしまうし、葉鍵や型月、ニトロ他、多くの名作が、コノハの歴史改ざんによって、ちゃんと正史通り世に出たかどうかの記述や説明はない。

 

そういう部分を見てしまうと、非常に本作は消化不良に終わる。実際、半分現実を踏まえた上で、タイムリープをするストーリー組立は難しい。映画『イエスタデイ』のオチで主人公が全て真実を吐き、曲の権利を投げ捨てた通り「フィクションだから」と何度建前を作ったところで、舞台は実際の秋葉原だし、作中作品はまぎれもなく、俺らが遊んだゲームの数々。見る側の人間は現実の社会が頭の片隅に過ってしまう。いや、全てハッピーエンドで良かったのかもしれないが、俺らの歴史を改ざんをしておいて、コノハの一人勝ち。なんだそれ、と正直思う。

 

 

・AIを超えるものを明確に提示する意味

しかし、主軸が雑なほど、この作品が描きたいモノは「90年代エロゲクロニクルを使った緻密なタイムリープ作品」でないことは明白である。タイムリープはあくまでも、型でありフォーマットなのだ。

 

それを示す象徴的な8話『エコー』。99年の『ラスト・ワルツ』製作直後、コノハの代わりに、アルコールソフトで一緒にゲーム開発を行っていたプログラマーのマモルが『天使たちの午後』を開き、85年にタイムスリップ。そこで出会ったのは「エコーソフト」という会社でゲーム開発に勤しんでいた「エコー」という人物だった。

 

明確に言及されないが、このタイムリープ現象の原因と思われる。人智を超えた存在であり、人間の想像力が一体どういったものなのかが分からない。恐らく、どこかの世界線でコノハの作ったゲームをプレイしその熱量に驚いた彼は、彼女に美少女ゲームを作らせる為、このようなタイムリープを仕組んだ事が推測される。

 

エコーは美少女ゲーム製作を通して、人間の想像力がどんなものなのかを試していた。ただゲームを何度作っても「面白い」と感じるモノは作れない。何が足りないのかが分からずにいる。そんな中、マモルとの会話の中で、人間の想像力のヒントを得ていく。彼が暗喩するものはまぎれもなく、現在におけるAIだ。学習し、正確なモノは迅速に作れるが、どこか面白くない。

 

2024年現在時点、AI自身が学習によって生み出す生成物の「面白さ」は、どちらかと言えば人間の文脈から外れる所にある。詰まるところ勘違い、可笑しさに近い。日本語話者でない人が話す、日本語の変なイントネーションが面白い、というレベル感にまだ留まっている。ただ恐らく、以後物語の生成も緻密になるだろう。ストーリーも演出も、AIが正しく「面白い」モノを提示する事は可能と思う。

 

しかし、本作では、ゲームを本当に面白くするものとして、クリエイターの「熱量」を明確に掲げている。エコーと出会った世界線のマモルは『ラスト・ワルツ』後の2023年、実際の今よりはるかにAIが発達した社会で生きている。ゲームを作るにもAIがほとんど作ってくれる。そんな世の中で、自分の罪の重さに打ちひしがれ、自分の手でゲームを作る意味を見失うコノハに、マモルはもう一度ゲームを作れと言う。本当に面白いゲームはお前が持っている「熱量」によって作られる、と彼女に説得をする。

 

ハッキリ言えば非常に陳腐な結論だと思う。「熱量」だ。そんな定量のものでもなく、理論でもない。言ってしまえば昭和における根性論の焼き直し結論だと掃いて捨てることも出来る。今、そんなの流行らないでしょ。そう思う。でも、完全に否定は出来ずにいる。少なくとも、僕個人はそう思う。

 

オタクという人種に嫌悪のまなざしが向いていた90年代初頭。美少女キャラクターそのものが、世間から見て一種の犯罪性の象徴に近かった時代から30年余り。現在において媒体の変化はあったものの、最早美少女という存在が一般化、日常化した事は間違いない。2000年代を青春として過ごした僕自身も実感として思う。それらはもっと日陰に隠れていて、なんなら通学中、総武線の車窓から一瞬だけ見えるラジオ会館電撃大王広告を毎日見たくてドアに張り付いていたのも懐かしい。出来るだけ美少女キャラが見たかった、そんな思いが当時あった。

 

今、そんな美少女キャラクターは、世に溢れ、様々な形で受容され、数々のコンテンツとなっている。それはひとえにモノを生み出してきた人々、またその熱量に感化され、広く広めようとした人々の熱量の総和よるものなのだろう。

 

僕自身も絵を描いたり、音楽を作ったりする中で、生成AIはある種、人間の想像力を虚無に近づける存在と感じることもあった。もう、自分が駄作を作らなくていいじゃん。いちいち時間をかけるだけ時間の無駄なんだよな。そういう発想に占められがちになったのは確かだ。ただ、本作が示すのは、AIが主流になった世界であっても、創作における熱量こそ「面白さ」の源泉であると高らかに宣言しているように思える。確信であり、ある種それは願いに近い。

 

やはり不透明な時代になればなるほど、この先を灯すのは、歴史であり、先人たちの意思だったりするのかもしれない。たとえ、それがいかに前時代的なモノに見えたとしても「熱量」こそが良質な物語を生み、そして世界さえも変えてしまう。秋葉原という街の在り方も、そこに居る人の幻想がより濃く反映されるという意味で、やはりどうしたって愛着を捨てられずにいる。その時代を現に見てきた人らの言葉と、そこで紡がれた物語は、一考に値するものだと正月から感じてしまった次第。

 

色々当時について知っていたり、現場を見た人の反感とか、純粋に面白くないとかいう反応もありそうなのだけれど、恐らくこの作品は、そうした純粋な思いによって構築されている。そう感じている。

 

 

と、気づいたら少し長めの文章になってしまった。すんません。

 

なんならあまり作品レビューにもなってなかったなと反省。自分自身もいい歳になり、仕事やら創作活動やら本当にどうすんだ。と自問する日々は増えてきたのだけれど、改めてこの作品からもらった熱量を、少しでも前向きな行為に変えていけるよう、頑張ろうと思います。

 

本当に日々ツライ、信じられない事が続くけれど、いつかそれが、それぞれの人生の行く先を照らすものになる事を祈って。今年もよろしくお願いします。