わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

普通に生きられないということ(コミケ雑感として)

 

今年も夏コミが終わった。

 

気づいたら、同人誌を作っては、頒布する、というルーティンも今年で15年になるらしい。自分事ながらTwitterを続けている事と同様に、ちょっと呆れてしまう。

 

当サークルは基本的に拗れた性癖をメインテーマに置きつつ、文章を主にして活動している。そもそも余り華やかなジャンルでもなく、パッと見てすぐ「ほしい」と思えるキャッチ―な本を作れる器量もない。ただただ、自分の興味関心に沿ったテーマの本を作り、イベント中に列が出来るわけでもない規模感のスペースにおいて粛々と頒布する。これを繰り返している訳である。

 

そうは言うものの毎度コミケは参加すれば楽しい時間だ。そこでしか挨拶が出来ない知人も多いし、そうした御仁と顔を合わせれば、相も変わらずにオタクでいることに安堵の念を抱く。ある程度参加年数が経つとコミケは同窓会になる、というのも頷けるというか、実際そうなっている。健康確認やコミュニティの実感を得る為に、リアルイベントは重要であるとも思う。

 

では、そこに果たして同人誌発刊なんていう過程は必要なんだろうか。単純にオフ会を開けばいいのでは?年齢を重ねるごと、そんな疑問が、徐々に自分の中で大きくなっていることに気づいてきた。

 

ハッキリ言ってしまえば、同人活動は非常にコスパの悪い趣味であると思う。得られる効用というのは、自分の頭の中が本などの現物になった瞬間や、あるいはそれを頒布出来た時くらいなものだろう。

 

そうした瞬間最大風速を除いてしまえば、日々生活があるにも関わらず、締切に追われながらイラスト・マンガ、文章を書き、コミケ参加者ならイベント当日は猛暑・極寒という厳しい環境だったりもする。更にイベント後には作ってしまった在庫に部屋が圧迫されながら、発行部数の反省を繰り返す。この趣味におけるしんどい側面はいくらでも目についてしまう。

 

加えて昨今においては、制作物をネットに開示することで、いくらでもそうした自己表現の場は作り出す事が出来る。報酬を受け取る仕組みも増えてきた。敢えて同人誌やコミケという場に拘る必要はまるでない。

 

そんな思考を抱きつつ。

 

コロナ禍を経て、コミケすら中止になる中で。僕自身の生活も少しずつ変わった。2019年を最後に同人活動を一旦休止。その後、結婚をし、家も構え、なんだかんだ年齢もいい歳になり、会社でも中堅と呼ばれる年次になった。偶然か、フェティシズム的欲求も相当に薄れてきた。ぼんやりとではあるものの、自分の人生の行く末が見通せる状況になったのは間違いない。

 

そんな中で、「あぁどうやら自分は、わざわざ自己表現なんかしなくとも普通に生きる事が出来るのでは」と感じた。それまで、自分の性癖や嗜好に悩み、世間一般とのズレを理解しようと必死に同人誌を作ってみたり、ブログで発散したり、様々な対抗措置を取ってきた。

 

でも、実際にはそうした内省は時間や年齢、立場が自動的に解決してくれて、ある程度社会のレールの上に乗れてしまえば、世間一般、同僚たちと同じように普通に生きていくことが出来る、そういう類の気づきだったと思う。

 

男子ならば誰もがどこかで抱いてしまう「俺は他のヤツらとは違うんだ」というイキりなど、早々に捨てた方がいい。小中学生ならまだしも、なまじ大人にもなって、そんなメンタリティのヤツは痛いだけ。芯になるアイデンティティもないから、自分を保つために他者との違いをピックアップして、そこに安住するしかなくなる。そんな自意識はサブイことこの上ない。迎合出来るのであればいいじゃないか。

 

そう考えていたのだけれど。

 

コロナとも徐々に付き合い方が分かってきた2022年夏。久々のコミケはナンバリングが「C100」ということで、今回だけの記念、という事で総集本を作った。「もうこれ以上は」そう思いつつ、やはりその次も、その次も、サークル申し込みを行っている自分がいる。正直ネタは尽きている。企画など、その時の思いつきに等しい。でも本を出したい、という妄執はどこからか沸いてくる。

 

更に元来抱いてしまったフェティシズムも弱まりはすれど、決して治らないものである、という事が徐々に分かってきた。まるで通常の行為に興味が沸くことはなく、他の各種性癖がそうであるように、一度抱いてしまった特殊性癖が正常に戻ってくれることなど、やはりないのだと実感として知った。

 

いくら迎合しようとしても、社会の中で、本を毎度自費出版している人間などどう足掻いてもマジョリティな筈はない。また、結婚をすれば子供の予定やらを尋ねられ、その都度、微妙な気持ちになりながら返答する。日々仕事をしても空転しているような心地が続き、そこが自分の居場所とも思えない。一度「正常になれるのでは」と期待してみたものの、拗らせでもなんでもなく、あぁ、自分は本当にただ静かにズレているのだと最近ようやく理解した。

 

反面、そう自覚してから。何だか、コミケやら同人イベントがとても暖かな場所に思えたのだった。訳の分からない妄執を抱いて、自分の本に意味があると信じ込んで、季節の度に苦しい思いをしながら本を作るなんて異常者に溢れている事が、ある種の救いに思えたのは間違いない。当然に作られている本の趣向や、ジャンルについて差異はあれども、発刊をするに至る物語が各作家ごと、随所に存在している。それだけで、マジョリティにすんなり迎合することが出来ない自身を、少し肯定された気がしたのは確かだった。

 

過去にもこの手の文章は書いてきた気がする。同人活動を続ける、コミケに参加する意義について似たような文章を書いた覚えがある。ただ、歳をとる中で。どうしたって、自分には無理な生き方や、逆によくわからないけれど捨てられない義務感のようなものが徐々に先鋭化してくるようで。そうしたものを社会一般に照らし合わせ、修正しようとしても、恐らく難しいという事が分かってきた。

 

その時に、自分本来のスタンスを受け入れてくれる土壌がある、というのはありがたいことだと思う。わざわざ面倒な同人活動なんかせず、粛々と日々の幸せを受け入れる。これが出来たら、どれだけ良かったことか。そう思いながら、また冬コミの申し込みを成立させてしまった。やはり、何かしらの形で脳内にある企画を表出したい。意欲がなくなったとしても、どこかで燻っている。もう、そういう性なのだと思う事にした。

 

世の中から見て、痛々しくとも、どこかには受け入れてくれる場所がある。なんとなく、コミケの後、ふと部屋の片隅に残っている本の在庫を眺めながら感じ入ってしまいこんな文章を書きだしてしまった。特段、僕自身の内省的ぼやきなので、主張もクソもないのだけれど、コミケという場所に対して感じる感謝の念を、根暗な発想ベースで改めて文章化してみた次第。

 

とりあえず夏の新刊やら既刊は残っており、BOOTHにて通販もしているので何卒宜しくお願い致します。

sukumidu.booth.pm

 

明日からの仕事再開に今一つ現実感を感じないのだけれど、やはり働かなくては。そんなお盆休み、最後の夜でした。