わがはじ!

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『PERFECT DAYS』感想~文脈の集合体としての幸福~

www.perfectdays-movie.jp

誰に何を言われた訳でもないのだけれど、今年は月に2本くらいはブログ更新したいと思い。月2回でも話題を維持するのも大変なので、どうせ何かしらの感想になるはず。そしてそう決めてしまえば、月に数本は映画やらアニメ、マンガ、小説を読み続ける事が出来るだろうという打算もあった。そして、やはりその流れに乗っかって、今回も書いてみる事にする。

 

『PERFECT DAYS』である。カンヌ国際映画祭で最優秀主演男優賞を受賞、そしてアカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされている本作。言ってしまえば、この映画を見て感想を文字に起こすこと自体が陳腐な試みだと思う。余り長ったらしくダラダラ書くのも違うから、自分の感情を残す意味でシンプルな文章として残してみたい。



シンプルに言えば、役所広司が示す東京下町オフビート暮しの極地、とでも言えばいいだろうか。ただただ流れる日々、そこに挟まれる小さな非日常。家族や親族から離れ、都内のトイレ清掃を生業にして墨田区で一人暮らす初老男性の生活がループ形式で描かれている。

 

同じ主題が繰り返される中、さながら『8番出口』のように毎日少しずつ異変が挟まれ、ささやかな緊張と緩和の中に幸福を見いだす。映画の最後、恐らくヴィム・ヴェンダース監督が象徴的に「木漏れ日」という言葉を、この映画と重ねていた。確かに俯瞰してしまえば、全て同じに見える対象も、つぶさに見つめれば、日々異なる、それぞれの色や形が現れる。そうした揺らぎに焦点を当てたのが本作の趣旨と言える。

 

ここまで簡単に要約を書いたが、文字で何かを言おうとすればするほど、映画表現そのものの奥行きを感じてしまい、この感想自体の意味を見失う。これを読みながら「へえ」と言っている人は早いところ、見てほしい。

 

ただ、ぶっちゃけてしまえば、面白いかと言われればそんな事はない。よく言われるような快楽の元になるようなシズル感だったり、話としてのわかり易いツカミも、大きな問題の解消もなく、淡々と役所広司演じる「平山」が冒頭書いた通りの日々を繰り返すだけ。

 

一般的に物語は、何らかの葛藤と克服、行為と反省といった、直線的な時系列を前提にしている。そこには原因と結果があり、その整合性や納得感、緻密な伏線の回収などに対して視聴者は「面白い」などと満足を得るわけだが、本作はやはりそういう話でもない。

 

そもそも描いているのが「生活」なのだから当然なのかもしれない。だって、生活自体に意味はない。自分の日々に照らし合わせて見れば分かる通り、山もなく、谷もなく、終わる1日の方が遥かに多い。

 

しかし、そんなつまらない生活には、その人のバックボーンが少しずつ染み出している。ちょっとした他者への感情、夜寝る前に読む本や、通勤時に聴く音楽。その一つ一つ、生活を裏で支えている感受性、それまでどう生きてきたのかという過程がまざまざと小さな所作に顕れる。その細部に現れた所作を緻密に観察することで得られる喜びがあったりする。

 

その上で我々は想像出来る。淡々とした彼の仕事と生活の日々から、彼がどのような生い立ちを歩み、そして何を諦め、捨て、その代わりに今の生活を手に入れたのか。そこに及んだ選択と納得、そして後悔。決して直接的に語られず、表だって見えるものでなく、その底流を流れる文脈を感じ取る。

 

人が真に幸福や、生の実感を感じるのは、自分が歩んできた文脈に沿ったものと出会った時だ。何かに感情を動かされる時、それはそれまで生きてきた時間全てと眼前の事象が相対している。2時間と少し、平山の数日間から、個人的にはそこにあらゆる人生の美しい追体験を見たような心地すらする。



何なら、この表層には顕れないモノを見つめるという映画の構造自体、個人的には非常に今っぽい作品であるとも感じた。昨今、どんどんと、表面的なものに意味がなくなってきているように思う。言葉は正しいか否かを判断するものでなく、何を信じるかを示す指標になっている。

 

コンプライアンスや人権に沿った表現が自明の理となり、表層の意味を言葉の意味として、文字通り捉えてはいけないという感覚もある。芸術においてもAIの登場により、目に見えるものこそ全てになった今、その意味合いや動機が眼前には見えにくくなっている。

 

一様にそれが悪いとも言えない。それらはただ、時代の変遷であり、技術が存在するのであれば、それは実現してしまう。世の中で正しい事が定められたのならば、それに従わなければならない。それによって救われるものも多い。

 

でも、だからこそ、おそらく今。動機や文脈、なぜそれに至ったのか、それを察し、向き合うという事が、翻って重要さを増しているように思う。

 

表出される文字や絵についてもそうであるように。我々の人生そのものが、外面として何をしたのか以上に、どう生きたのかという点に集約される。ここまで書いてみたが、やはり陳腐な結論だと思う。この映画もそういう意味では陳腐な作品だと感じる。

 

それでも、言葉が氾濫し、何なら人間が自分で考えて言葉を紡ぐことにすら重要な意味がなくなってきた昨今だからこそ、この底流に流れる言葉を発する根源、生活を形作る文脈をよくよく見つめる必要がある。いや、そこにしか幸福という概念はないのだと感じる。この映画は、そんな今の時代だからこそ、刺さるモノがあったのだと感じる。

 

SNSを眺めても、絵は絵として、文字は文字として機能を果たしているようで、ただ、本当の役割や文脈を示す存在にはなり得ない。そして、先にも書いた通り、ふとした幸福や生きることの実感は、その底流にこそある。日頃、表層を流れる情報に浸かり過ぎて忘れがちになっていた暗渠の存在を、役所広司の演技によって思い起こされた心地。

 

久々にいい映画に出会ったなと思ったので、以上簡単ながら感想文でした。また引き続き、何かしら感想文やら雑感でも書ければと思います。