わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

戦後レジームとヘイトスピーチ

なんかやけに真面目そうな題ですが、結構真面目に考え事記事です。ここ最近、ネットや出版で見る「ヘイトスピーチ」これがよく見られるようになったというか。まぁ、巷で言うところの「嫌~」「呆~」みたいなやつです。僕のお仕事って出版に関わっているのですが、今年に入ってから「反韓」「反中」的本が売れる売れる。恐ろしいくらい重版かかってて、ちょっと気になっていまして。

 

 

んで今日。ツイッターで河出書房さんのこんなフェアを見かけて。

http://www.magazine9.jp/article/biboroku/12676/

 

あぁ、この反ヘイトって重要な発想だなと。戦時の日本もヘイトスピーチに踊らされたわけで。ただ、戦後70年を迎えようとしている現代は、そうした主張に踊らせられないほどに地に足が着いているかと言えばそうでもなさそうで。そんな事を思いつつ、文章を書いてみようと思った次第です。あんまし偏りないように書くつもりですが、そこは柔軟に読んでいただければ。

 

 

そもそも、普段から思っていてここで主張したいのは、何かを「嫌う」ということは、何かを「好き」になることよりも、より、人の人格にとって重要なことであるということです。何故かと言えば、そこにはリスクがあるからです。そりゃよっぽど変なもの愛好すればリスクですけど(僕の性癖もそうですが)一般的に考えて「誰かを好きになること」より「誰かを嫌うこと」のほうが、その人との関係を考えればリスクになります。

 

その関係性が断たれるというリスクを背負ってまで何かを嫌うこと。これは人格形成において、もっと着目されるべき事だと思います。自分の人生の中で受け入れられるか受け入れられないか。その取捨選択をした結果、ダメでしたと。やっぱしこのモノや人は受け付けない。と何かを選ぶこと。

 

この思考の過程がその人の「個」をより強くするのではと。逆に何でも受動的に受け入れる人は、それはそれで器量の大きい人だけど、果たしてそこに自分の主張があるのか、と疑いたくもなるのはそのせいかと思います。 それが良いかどうかは置いておいて、自我が強い人ほど、したくないこと、嫌いな人が明白でしょう。

 

 

ここで冒頭のヘイトスピーチに話を戻しますが、ヘイトスピーチとは「嫌う」ということを一種のプロパガンダとして宣揚する。それは、人として何を嫌うかを、啓蒙的に教え込むという行いです。当然、そのヘイトスピーチを判断材料に出来る人は問題ないのですが、その反面、それをそのまま飲み込み自分の主張にまで押し上げてしまう人もいます。この傾向がより強いものになれば、やはり危険な思想となることも想像に易いところではあります。流れてくるかなり右なツイートを眺めながら、やはり不安に駆られたりもします。

 

 

ただ、逆に今のこの国の平和主義って、戦争に対するヘイトスピーチでしかないのでは。とも考えられます。戦時の日本もまさに「鬼畜米英」との戦いだったわけで。本当に「鬼畜」だったかどうかは、別の議論に任せるとして、日本人であれば米英をやはり「鬼畜」とする思想があったのは確かです。それも当然、教育にヘイトスピーチが取り入れられ、とりあえず米英は鬼畜なのだ。という前提からスタートする。そこに個としての取捨選択の余地はありません。「何故嫌うのか」というスタートが切り取られてしまっています。

 

僕らは歴史等の授業で戦時の日本を学ぶと、反省の情念がしきりに出てくる演出となっています。それは例えば、国家が神道と結びついた教育であったり、暴走した軍部であったり。または、それに踊らされた国民であったり。

 

完全に僕が小中学生だったころの乱暴な感想ですが、日本史の授業を受けていると「戦時=みんなアホ、 今=賢くなってきた」というざっくりとした印象を受けたのも確かです。平和主義という発想に行き着いた今が一番正しいものだと、そのような感情を持ったのは覚えています。

 

ただ、先に触れたように、今の教育はどちらかと言えば「戦争という愚かしい行いをヘイトする」そんな意味合いがあるように思えて仕方ないのです。ベクトルが違うことはいいのかもしれませんが、どうも教育の過程が「鬼畜米英」と同じではないかと思ってしまうのです。「では、何故戦争がいけないものなのか。」と問われたとき、それに対する答えは大抵、戦後教育下で刷り込まれた戦争ヘイト感情でしかないのです。

 

 戦争反対という結論が一緒なら、ヘイトでも構わないじゃないか。という論も聴こえてきそうですが、ここで当初言っていた「個」の問題に立ち返ります。教育下で教えられた戦争ヘイトスピーチは、逆ベクトルの大きなヘイトスピーチに勝てない恐れがあります。

 

要は、小学校教育の道徳レベルの戦争反対感情が、実益や国民感情を煽った、より具体例を伴った戦争賛美論に勝てるのかと言えばかなり怪しくはないでしょうか。戦後レジームという言葉がありますが、どうもその国民レベルでのレジームは、ベクトルは戦前と対にはなるものの、その本質はあまり変わらないようなイメージを抱いてしまいます。

 

自分の頭で、自分の経験でたどり着いた平和主義にのみ、本当の価値はあるのでは。と。

 

 僕らは憲法9条で、平和主義を掲げた憲法を保持していることになっていますが、戦後100年も経てば、この条文も今のような集団的自衛権の解釈論議に巻き込まれ、「実務上」という名目のもと、比較的容易に武力行使という手段を講じる発想も生まれてくるでしょう。

 

その時に、上記のようなヘイト的平和主義であれば、やはり「個」がないままに、「メディアがそう言ってるから」「周りもそんな空気だし」「海外メディアもそういってる」といういつもの感じで、覆りかねない弱い地盤になってしまうのではと感じます。

 

 先日、集団自衛権の特集をやっているTV番組を見ていて印象的だったシーンがあります。アメリカ軍広報に日本が集団的自衛権についてどうするべきかを聴くインタビューがありました。

 

答えは一言。「それは日本が決める事だ」

 

その通りだなと。道徳がどうも宗教と化しているようなこの国では「評判」こそが大きな判断基準になります。周りの意見が、自分の主張となりやすい、いわばヘイトスピーチが蔓延りやすい国なのかもしれません。その際、何かを嫌うときには、自分で考えて嫌えと。嫌という感情から、もっと自分を見つめなおす必要があるのではないかと思いました。主張していることの正当性はさておき、例えば今の対アジアに対する安易な論調を見ていると強く思います。

 

また、ヘイトスピーチの特徴は「嫌う人が他にもいる」という賛同と同期の安心感です。最初に言った「個」とはまるで逆の嫌悪感情です。ファッション的嫌悪とでも言いましょうか。あの人がこんな主張をしているから。と自分の思考プロセスを飛び越え、借りてきたヘイトで自我を構築する。すると、最初に挙げた「嫌うことによるリスク」。これが見事に分散します。

 

「みんなが嫌っているから」

 

自分だけにリスクは振りかからない。この保身こそ、ヘイトスピーチが与える「嫌うこと」の感覚麻痺です。社会情勢が混迷してくるなかで、なんだか善悪がはっきり分かれるという時代でもなくなってきて。その時に、好意と嫌悪というふたつの感情が複雑に入り組んできます。果たしてそれは自分自身の考えで、嫌うことが出来ているのか。自分の頭で考えた結論なのだろうか。そんな疑念を自分含めて、投げかけたくなる夜でした。

 

 

まぁ、ここまでうざったく書いてますが、最初はツイッターなんかで見るカゲプロ厨、東方厨のやりあいとか、アルファレイヤー取り巻き界隈の醜い言い争いとか。ほんとにそれって、頭で考えた末の怒りや嫌悪なんですかと。思わずツッコミを入れたくなるような低次元の問題をぼんやり考えてたら、話が大きくなってしまいました。

 

ヘイトという問題については、自戒としても、改めてよくよく考えて生きたい所存です。