わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

オタとSFの現在についての話

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伊藤計劃2作品を読んで、SF全般とオタクについて考え事。

 

晴れ間のない日々が続く。

 

小生の根暗さにより一層の磨きがかかる天候である。脳内会議では「予定もないのに外出などするものか!」と盛大なシュプレヒコールが起こる。ただ、食料もない我が家。週末餓死という悲しい事態を回避すべく玄関を出ても行き着く先は、家から300m先のコメダ珈琲。結局、ミルクコーヒー1杯と豆のみで粘って読書の秋を満喫してきた。

 

・既にサイエンスフィクションな今 

今回、そんな近所コメダで読んだのは伊藤計劃の「ハーモニー」と「虐殺器官」の2冊。ここ数年での輝かしい受賞歴と著者の訃報も知り長い間「読まなくては」と思っていた。秋という事で一気読み。いやぁ、面白かった。ていうか、久々にSFを読んだ。

 

本論ではないのでちょろっと感想。それぞれ近未来の世界をミリタリ情緒溢れる感じで描いた作品で「虐殺器官」は男性主役でハードボイルド系、「ハーモニー」は女性主役でラノベ感ありといった印象。それぞれ考証されている内容も緻密で、飽きの来ないミステリ要素もあり一気に読めた。多少ラストを流す感があり、虚淵玄みたいな「言いたいのは中身なので」というスタンスがちょっと垣間見える。「虐殺器官」についてはこの冬にアニメ映画が公開される。楽しみである。

 

そんなしっかりとしたSF小説を久々読んでしまったものだから、色々と考え事が捗る。オタクとSFについて、そんな中でふと考えが及んだ次第だ。ただ正直あまり触りたくなかったこのテーマ。この2語は過去には「ある一定以上の世代の前では一緒に並べて語らない方がいい」と曰くが付いて回った。ざっくりと勝手に当時を想像するに、文学界としてもSFというジャンルがしっかりと確立し、かつ硬派な存在として扱われている中、突如沸いて出てきたマンガ風情と一緒にするなというような境界線論争があったのだろう。そんな空気の存在は理解できる。

 

ただ近年になるとそんな空気も消えつつある。行きすぎて逆に、若者の間では「SF」がなんの略語かすら分からない、という事態も耳にしたりする。確かに、わざわざ古典作品に則りながらサイエンスでフィクションをするまでもなく、今ってかなり近未来的である。様々なメディアで現実を仮想化したり拡張して、ポケモンすら道端にいるし、自動車もまさに自動の車になろうとしている、個人の持つ端末が容易に世界と自分を繋げてくれる。すごい時代だ。

 

「SF作品がわざわざ近未来の世界を長ったらしい文脈で見せてくれなくても、今って十分SFじゃん。」僕らでさえ、日々の進歩に驚かされているのだから、頷かざるを得ない。

 

・今はSFしづらい時代

ただ、今がどれだけあの頃の「近未来」になろうと、今はまた現在であり「近未来」はその先にある。SF作品、特に今回取り上げた「虐殺器官」「ハーモニー」のような、世界の在り方そのものを考察する作品に触れるとそんな気づきをもらうことが出来る。

 

詰まるところSFとは「たられば」の話だと言える。よく過去の事について、~だったら、~してれば、と後悔の念とセットにされる事が多い「たられば」だが、SF作品はこれからの「たられば」を教えてくれる。つまり、描かれた想像上の近未来図を覗くことで、現在の自分、社会を見つめなおす作業をさせられるのである。そして、その「たられば」的作品の多くを享受してきたのは、漫画やアニメを愛するオタクと呼ばれる存在であることに、そこまでの異論はないだろう。

 

古典作品では「ドラえもん」に代表される通り「モノやロボット」を扱う作品が代表格だった。「こんな便利なものがあれば」というモノに対する「たられば」作品である。しかしながら、ここ10年、スマートフォンが普及し、ロボットの開発も発達。徐々に自分たちの想像した「たられば」を超えるモノが徐々に生み出される。モノは克服しつつある、それでは次の「たられば」は何なのか、そう問うたら「人間は何を望むのか」自然とその一点に焦点が合わさってくる。

 

実際、この「将来人間は何を望むのか」という問いは過去にも「ガンダム」やら「イデオン」やら挙げればキリがないほど取り上げられているテーマだ。特に90年代に流行ったセカイ系でも、その問いに答える試みをしたり、あるいは人間の限界をまざまざと見せつけるような作品が数多くあった。顕著な例を挙げるなら「エヴァ」は前者であり「なるたる」は後者だと言える。社会も、宮崎事件からのオタクに対する嫌疑、オウム事件からの宗教性への嫌悪、そしてバブル経済期から「失われた10年」へ突入、その人間自体の在り様の変化に作品としての「たられば」も敏感に呼応し反応をしていた。

 

じゃあ、もうそんなSF的作品なんかとっくに手垢ついてるし、改めてそれらジャンルの作品を見直す必要はあるのか?そう感じるかもしれない。

 

しかし、現在。実際に人間の創造の可能性がVRや機械による作業のオートメーションなどにより、ある一定のレベルに達したとき「一体、セカイはどうなるんだろう。」という漠然とした疑問や不安は薄れ、次の革新的な技術への期待感のみが、それらに替わっているように思える。

 

もはや、失われ続けて何十年経ったのか。ていうか、僕らは何を失ったのだろうか。むしろ欠如状態がスタンダード化した社会においては、次に産み出されるものへの期待感の方が優位に働いているように思える。これ以上無駄に不安を煽るんじゃないと。もう失うモノなんかないだろうと。ただ、そんな時代だからこそ、思考停止に陥りやすいし、またあえて次の「たられば」を考えなければならないように感じる。

 

・「たられば」を考える事はオタクの義務だと思う

オタクは、単に漫画やアニメと関係なく過去から「もしこうだったらいいな」「こうなったら面白いな」という妄想をついしてしまう病理を抱えた人のことを、そう呼ぶのかもしれない。

 

オタクはこれまでも同人誌の二次パロやゲームマスターが取り仕切るTRPG、選択肢で進むヴィジュアルノベルゲームなど、たくさんの「if」を産み出してはそれを享受し楽しんできた。「こうであったら」という未来妄想のSFの文脈はそのままオタクの文脈であると僕は思う。

 

これから将来の良き未来を考える事は、政治家やよき市民のなすべきことであると感じるかもしれない。ただ、そうした一般的当事者が行う将来予想は生活者である以上、利害が伴う。未来予想図は自分の身を守る地図だし、自分の範疇の域を出る必要がない。

 

オタクがSFとして行う未来妄想のそれは、もはやエンタメである。楽しむ為に、また利害関係のない真理を追うべくなされるものだ。「この先の将来どうなるんだろう」この漠然とした問いに「こうだったらいいな」「こうだったら面白いな」とただただ妄想を重ねていく。個人的な意見ではあるが、人間は実利を伴った判断以上にこうした妄想の方が本質を突いている場合の方が多いように思える。そこには建前も気遣いもない、人間の本質が遠慮なく貫かれているからだ。

 

今、世の中全体が本格的に次世代に向けて動き出していると実感できているからこそ、オタクみたいな人間が思い存分に描く未来を、僕らは改めて楽しむべきだし、そしてまた考えるべきだと強く感じる。

 

今回も独りよがりな思いで、SFを描く人を、またSFを享受する人を勝手に後押ししたくなり、こんな文章を書いてしまったという感じだ。僕自身がそんなにジャンルに詳しくないので、なんだこの野郎という感情を持たれた人もいるかもしれない。それはすません。ただ、近未来図の一番正解に近い答えを描けるのは、きっとオタクやSF作家だと。そんな感慨を伊藤計劃の2作から改めて受けたのだ。SFというジャンルを固定化させることなく、柔軟に捉えて楽しむこと。それは案外、全人類的にも重要なことなんじゃとぼんやり考え事でした。