インフルエンザが大流行とのこと。弊社もやはり例にもれず、各所で人が消え、その人が復活しては人がまた消えと、もはや職場がシャマラン監督の『ヴィレッジ』よろしくな世界感を醸している今日この頃。実際、僕も風邪をひいたので何も言えないのだけど、ちょっと諸々身の回りであったりしたことから「批評」についての考え事を書いてみようと思う。
・叩かれる作品なんか作りたくはない
先日とある久しい友人から「話を聞いて欲しい」という事で、電話がかかってきた。彼は藪から棒に「作品に対して批評をする人、
その原因として。ある時発表した作品がとあるサイトのユーザーの評価ランキングにおいて上位を獲得し、一定の評価を受けていた頃があったという。そんな中。どのコミュニティにおいてもやはり一目置かれている人というのは居るもので。いわゆる「ご意見番」のような人間から当該作品を「
どうもそれ以降、なかなか文章が書き出せなくなってしまったらしい。なるほど、小説サイトにおけるそうしたやり取りは、想像でなんとなく「あるんだろうな」と思っていたが、実体験を聞かされると身につまされる思いがする。「ワナビー」なんて言葉が生まれた場でもあり、昨今の小説サイトというのはなかなかに修羅の世界なのだなと痛感する。
そうした鬱々とした心境の中、ブログやら同人誌やらで批評めいた事をしているという認識から僕に連絡を頂いたようで。物事や作品の「批評」をすることってどういうことなのか。
ふと気になったので僕は、彼に「
彼の言う通りで、文章や絵、音楽やら映像に至るまで。
そして「自分の作品が絶対的に優れている」という自信を持てる人はなかなか少
・マイナスの意見を書くということ
そして思うのだ。彼が言う通り、非難や批判が詰まった批評なんて文化のどこに意味があるのかと。詰まらないと思った作品は無視すればいいじゃないか。なんでわざわざ、マイナスの感情を振りまく必要があるんだ、という声もよくネットで見かける。わざわざネガキャンなんて、小さい人間のすることだろう。うん。確かにそう思う。
ましてや、今の時代。何かマイナスな意見を言えば、すぐにでも製作者に届く時代だ。僕自身も繰り返してる通り、エゴサなんて当たり前の時代である。「〇〇って作品クソだな」なんて言った日には確実にそれに携わった関係者の目には入っているはずで、ある程度立場のある人がそういう「叩き」をすると、それは昨今炎上にまで繋がったりする。
先日Netflixで配信中の『DEVILMAN crybaby』について。カオスラウンジ代表の黒瀬氏の「批判ツイート」が監督の湯浅氏に捕捉され、ちょっとした物議を醸したのが印象的だった。
物語、脚本、演出、かなり酷いものらしい https://t.co/BvrY9M4nCg
— 湯浅政明 THE LIGHTS IN THE SKY ARE STARS (@masaakiyuasa) 2018年1月15日
— 湯浅政明 THE LIGHTS IN THE SKY ARE STARS (@masaakiyuasa) 2018年1月15日
黒瀬氏は自身のラジオ配信において、今回の『DEVILMAN crybaby』について語り、その要約をツイートに記したらしいのだが、その内容は傍から見れば非常に浅い「叩き」にしかなっていない。「サブカルオシャレアニメ」意識の海外受けを狙ったドメスティック作品であり、物語・脚本・演出はひどく、昨今の深夜アニメの方がマシという発言をしている。
確かに、ラジオでの発言を聞いていないので「細かいフォローもあったのかな」とは想像する余地はあれどこのツイートが発言の「要約」と自分で言ってしまっている時点で、この批判の羅列が評価すべてになってしまう。こうした発言がアニメ文化における「批評」というものだとするならば、冒頭友人が疑問視した「批評って精神性に意味はあるのか」という不信感には同意せざるを得ない。叩くにしては、言葉や視座が雑すぎる。
・期待と根拠と提案と
じゃあ、単にモノが作れない人間は。マイナスの意見について黙ってた方がいいのだろうか。
いや、何を作れなかったとしても、それでも作品に何かを感じたのなら言うべき事があると僕は思う。「批評」とは「非難」や「ヘイト」とは異なる。少なくとも僕はそう信じたい。作品のことを語るのは、詰まらないことをあげつらってマウントを取りたいからではなく。作者と同様に映画が作れなくとも、漫画が描けなくとも。その負い目を抱えながら、それでも作品を語ってしまう。もし作品に何かマイナスに感じたならば、その不足点を言葉にして更に高次の想像力に繋げる事、それがオタクとしてなすべき「批評」の、そして吐くべき「言葉」の役割そのものだろう。
そうであるならば、やはり一つ一つの言葉を大切にしなければならない筈だ。何か本当に批判的な事を書くにしても、それはやはり「どのスタンスから」そう思うのかを明らかにしなければならない。例えばリメイク作品を「酷い」と一言に言っても、それは「原作に準拠していない」からなのか「物語の本質がズレているから」なのか。「脚本のテンポが遅すぎる」からなのか。詰まらないをただ、詰まらないと言ったら、それはオタクとしての思考停止状態でしかないように思う。
例えば先ほどの『DEVILMAN crybaby』に対して、実は僕も惜しいモノを感じた。今の時代に合わせながら、原作『デビルマン』がやっていたことをなるだけ自然に取り込もうというその姿勢には感服した。細部において、表現方法を変えながらシーンを踏襲するその在り方にまずはしっかりと目を向けなければならない。
しかしながら、7~9話あたり終盤における幸田の哀しみ、ミーコと美樹の会話、追いつめられたデビルマンと石を投げる民衆のやりとり、そうした最後の友情の確認や、人間くさい言葉の応酬、そうしたモチーフには個人的に見ていて違和感を感じてしまった。
そうした一つ一つの描写では原作にない「悪魔になっても残り続ける人としての慈愛」「滅びゆく人間における最後の救いの姿」が描かれているわけだが、それらシーンが却って、人間の本質的な悪を描くはずのデビルマンの中で、災害パニックモノのようなチープさとなって浮いてしまっている。またSNSを積極的に登場させ、さながら現在でも起こりうる破滅としてのリアリズムを求めた結果が、逆に神と悪魔、そして善と悪、という大きな宗教観すら巻き込む『デビルマン』の大枠を狭めてしまっているような印象を受けたのである。
本作の感想としてはまだまだあるのだけど、とりあえず一部分ということで。
・「批評」とは何のために
ふとなんとなしに話が逸れてしまったが、結局のところ上記数行は単なる僕個人の感想である。『デビルマン』という作品に高校時代衝撃を受けたからこそ、もう少し表現の方向性を不動と飛鳥の内省にフォーカスしてほしかったと思ってしまうのだ。まぁ「あるべき批評とは」とか偉そうな事抜かして、書いているのはこのレベルなので「まったくわかっていない」と怒られるかもしれない。どちらにしろ、所詮うぬぼれなのだけれども。
冒頭。会話をした友人との話の中で。結局のところ、何かを言葉にしてネットで発表したり、作品を作るというのはやはりリスクなのだ。批判を覚悟し、自分の力不足を恐れながらも、何かしら吐き出すということ。当然それは周囲の目線というリスクだけでなく、自分の時間すらコストとして費やす。今行っていることが、人生において果たして本当に意味があることなのかと懇々と自分に問い詰め始めれば、自然とこのタイピングしている指も止まるだろう。
改めて言うが、批評という文化、精神性は非難やヘイトとは違う。リスクを負いながら、結果どうなるかもわからないような文章や漫画を淡々と書き続けること、そうした人たちへのリスペクトから生じる、オタクなりの激励であり自己表現だと、勝手に思う。
最後、その批評というものが真に批評であるかどうかを見分けるためには。
ポジティブなエネルギーの為に言葉を吐いているかどうか、それを見極める必要がある。まずは、その作者の為に。もっと面白いものが作れるんじゃないかという期待を込めて。そしてそれは、そのより素晴らしいものを見たいという自分の欲求の為でもある。何かを考えながら色んな作品を見るということは、より面白い作品を作る一助になるのだと、一趣味者として身勝手なことを思う夜半でした。
みなさんもインフルエンザとか気を付けてくださいね。