わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

「労働」と「宗教」に関するシンプルな話

 

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 ネット界隈のみならず、メディア各所でも取り上げられた電通の女子社員過労死の話題。

「いのちより大切な仕事はない」 電通過労死社員の遺族:朝日新聞デジタル

 

なんていうか、自分もいち労働者として。この国ってやっぱり「組織」や「働く」という点で、ちょっと特殊な空気があること、そして一体それが何なのかということについて考えていて。そして、それはきっとこの国の宗教意識にもつながるんじゃないかとか。そんなことについて軽くこぼしていく。

 

・「宗教」をもうちょいゆるく捉える

早速、火種みたいな話から先に始めるのだけど。

 

宗教自体、この国だと比較的避けられがちな存在である。そりゃ戦時中の国家神道やら20年前のオウム事件、海外を見れば各所で自宗教を掲げ紛争が起こる。あんましいいイメージがないのは理解できる。とりあえずウィキ先生に尋ねると、宗教の意味はこんな感じだ。

 

宗教(しゅうきょう、: religion)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり[1]、また、その観念体系にもとづく教義儀礼施設組織などをそなえた社会集団のことである。 [2][3]

 

んー。確かにこの文章見るとなんか怪しいって思う。多分「宗教と聞いて浮かぶ単語は?」とか街角でインタビューでもすれば「洗脳」「教祖」とかそういう感じになるんじゃないだろうか。

 

でも海外に行くと平気で宗教の話題になり、日本人の「無宗教」という宣言に対しては明らかに不可解さを示される。なんなんだろうこの差は。

 

そもそも宗教ってものを考えた時、ウィキで示されたような「超自然的」「社会集団」という要素を宗教は確かに持っているものの、それ自体が本質ではないと僕は思う。もっと単純に、人間が生きる上で抱える「なぜ?」を考える事そのものが宗教的な行為ではないだろうか。

 

「なんでこんなにもの悩みを抱えながら自分は生きなきゃいけないんだろう。」

「その悩みを乗り越えたのに、なんでその先に死が待っているんだろう。」

 

こうした人生にまつわる純粋な疑問に答えるのが本来の宗教の役割だ。わかりやすい回答例を出すなら

「今、良い行いをして死んだら天国に行って安穏に暮らせる」

「修行をすることで成仏できればこの生老病死という輪廻から解脱する」

とか色んな答えが用意されたりして、それぞれ答えと、そこに至る過程の差によって宗教団体があり、そして教義は異なっていく。

 

今の日本において上みたいな「なんで俺はツラい毎日を生きてるのか」とか人に聞いてみたところで心療内科を勧められるだけだし、よっぽど宗教にハマってなければ、その問いに答える術を一般的に身につけていない。「まぁ、酒でも飲んで風俗行ってまた頑張ろうや」となる。

 

だから、きっと海外の人は無宗教な日本人に対して「え?なんでそれで正気保ってるん?」「自分の人生どう考えてるの?大丈夫?」という懐疑の目を向けるのだろう。

 

・「労働」が与えてくれてるものを自覚する

じゃあ日本人ってそうした問いかけに対する回答なしに、この社会の荒波を生きているのだろうか。

 

そしてようやく今回の本題になる。我々日本人はそんな宗教の代替品、自分の存在の根拠を「労働」に求めすぎてはいないだろうか、という話だ。

 

すでに代替宗教としての労働なんて話はよく聞くことだし、ワーカーホリックなんて言葉も既にある。そもそもマックスヴェーバー先生よろしく、資本主義的労働はプロテスタントの発想をスタートにしている。

 

 なので、今更「日本人は労働を代替宗教にしてる!」と騒ぎ立てる必要はない。別にそれでも構わないし、むしろ宗教を持たない人にとって上で挙げた人生の問いに対する一つの答えでもある。

 

労働は自らの時間や技術を差し出し、献身・奉仕を行う。その対価に賃金を受け取る行為だ。その「献身・奉仕」に自分の存在意義を見出すと、それは賃金以上の対価となり自分の価値証明に繋がる。

 

仕事によって社会から認められること、成果を出すことが「人生の苦労を乗り越えて生きる理由」に昇華する。そして、日本人男性の大方の発想って結構これに近い気がする。

 

そうした思考によって、自分に人生の意味を納得させることは間違いでもないし悪いことでもない。しかしながら、代替宗教にも「カルト」という存在は発生することを忘れてはいけない。あえて言うならブラック企業というものは、この労働という代替宗教をカルト化した姿に他ならない。

 

自分らの教義を独善的に信じ込み、そうした組織体系を作り上げる。価値観の多様性は認めず、目標の達成が社員として、人としての価値となる。「献身と奉仕」の重要性パラ値が異常なほど大きく振れ、それに対して「対価」への価値は軽視される。

 

だって、献身と奉仕が人生の意味だから。人生の意味を与えているのだから、金と休暇は少しでいいでしょ?本気でそう思ってる人間って、たまにいるのだ。

 

 

・一番ヤバいのは「労働」という宗教への無自覚な依存

ここまでで言いたかったのは、宗教って思ってる以上に生活に根差しているもので。労働って思ってる以上に宗教的な要素を持ちうるってこと。

 

だから「宗教なんて必要ない」って言う人も「長く苦しい人生を乗り越える意味」は考える必要があって。それは限りなく宗教的な営みに近いことを自覚すべきだと思う。そして「仕事に生きる」ことは一種の代替宗教を抱えていると、自分で把握する必要があるだろう。

 

なぜ、そんな事を考えなきゃいけないかと言えば、仕事による成果でない「ただ人間としての」自分の本来的な価値を見失うからだ。

 

よくある団塊世代の話で、モーレツに働き続け、その結果得られる周囲からの承認、そして栄光。それが自分の人生の意味だと勝ち誇る。ただ、定年が訪れ仕事を辞め、悠々自適が逆に苦しい。そんなありきたりな話は見事にこの話にもマッチする。城山三郎でないが「毎日が日曜日」に怯える構図そのものだ。

 

つまり本質的な人生の意義を仕事に置き換えると、仕事をしてない自分自身の意味が分からなくなる。恐らくそれから逃れようとしても、刹那的な享楽で誤魔化すだけになる。

 

現代社会において、宗教から逃げないこと。それは「なんで生きていくのか」を自らに問い、自分の人生を正面から見つめ、自分本来の価値を認めてあげることに他ならない。答えはそれぞれでよいと思う。飲み屋で揉めるのが嫌なら、一人で考えるのもアリだと思う。

 

それを避けていると、自分を守るタイミングを逃してしまう。気づいたときには、他人からの評価で自分を無価値にまで貶めてしまう。

 

ましてや、好況期はもうあまり期待できない経済状況。そんな中、仕事で成果を出すことのハードルは上がり続けている。知らない間に仕事だけに自らの存在意義を見出していると、数字だけを追い求める「カルト」にハマっていたということもあり得る。

 

このなんとなく生きづらい世で。まっとうな人として働いて生きていく為に。そして、自分自身を大切にするためにも、この「宗教」と「労働」の関係をゆっくりと見つめなおす事も必要なのかもしれない。そんな事を、今回の過労死の一件から考えさせられた。