わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

「or」と「and」の思考

さわやかな秋晴れの1日となった。それでも、今日も今日とて、根暗ぽい思考が過ってしまったため、滔々と書き始める。本来なら同人原稿も修羅場と化しており、こんなことに興じている場合じゃないのだけれど。もう書き始めてしまったものは仕方ないので、多少なりとも吐き出してしまう。

 

・「or」と「and」

中学時代。英語の勉強というのはなぜ、ああも決まりきった文法や言い回しばかりを覚えさせられたのだろうか。「as soon as possible」とか、今思えば完全に日本人サラリーマンの「はい、最短納期でやらせていただきます。」じゃねえかとか胸糞悪くなる。まぁその他にも、色んな固定英文法を習った。当然、どこかで使うことは使うんだろうけど、正直テストなどで単語の穴埋め問題などを書かされても、まったくもって会話に使うっていうイメージが湧かない。2017年の現在ではもしかしたら、小学校教育でも英語を学んでいるみたいだし、当時よりもっとマシな授業が行われているのかもしれない。

 

それはさておいて。受験勉強のため、僕自身も数々のイディオムを覚えさせれた訳だけれども。個人的に最も頭に残っている英文法表記がある。それがタイトルにもした「命令形+or」と「命令形+and」というヤツだ。前者はネガティブな意味合い「~しなさい、さもなければ」という具合で、後者はポジティブな意味合い「~しなさい、そうすれば」という感じに意味が変わる。

 

僕は当時、この英文法を習いながら英語自体の用法なんかよりも、物事の言い方や、行為の目的観について、改めて考えさせられたのを今でも覚えている。そうか。人が何かをするというのは「嫌な状態を回避するため」なのか「良い状況を作り出すため」の2つに分かれるのだなと。昔、親や先生から言われたような「~しなさい」という言葉を思い返すと、大抵前者の「さもなければ」というニュアンスがしっくりくる。「勉強しなさい、さもないとテストで悪い点とるわよ」とか「真面目に走れ!さもないとグラウンド周回増やすぞ」とか。そりゃ、人を動かすにはリスクを提示した方が行動をとるのにはわかりやすいのかもしれない。

 

そして、僕自身も大人になり。このようなことを振り返ってみると、日々の生活の中で、自分自身を動かす為の自分への説得も「さもなければ」という行動原理が強い気がしている。

 

「社会で真面目に働かないと生活が成り立たない」「早く寝ないと明日辛い朝を迎えることになる」「テンションを維持しないと人から嫌われる」とか。なんていうか、自分の人生で「命令形+and」が出てくる機会ってなかなかないような気がしてきた。

 

・「and」の先が不明瞭だから「or」に逃避する

そりゃあ、ただお前がメンヘラなだけであって、根暗ネガティブだからだろうというツッコミは至極真っ当なものである。確かに、何かを前向きに考えることは苦手な質なのは認めよう。しかしながら、先に例示で挙げた通り。過去に親や出会った先生方も大抵「~しなさい、さもなければ」という文脈を多用していたように思う。詰まるところ、教育だったり指導をする上では「and」よりも「or」のほうが、喫緊の危機を煽るため、直接的に人に伝わりやすいという事だ。

 

逆に「and」を使うと。その先には何かしらのメリットや良い価値観を設定する必要がある。それをいちいち考える事は、はっきり言ってしまうと面倒なのかもしれない。本当に相手が望んでいることや、その当人の性質がわからなければ「and」の先の答えは出てこない。よく知らない相手に対して「~しなさい。」とそれに続くメリットを提示したところで、そのメリットに相手が共感を示さなければ、命令や提案の意味すら失ってしまう。

 

どちらかといえば、それを行わなかったときのリスクの提示の方が、共有しやすい価値観なのだろう。「and」を使わず「or」つまり「さもなければ」という思考伝達方法は、人に何か行動を促す際に、考えるべき相手方のメリットやその先の言葉を考える事を、ある意味でサボタージュした結果とも言えるのではないだろうか。

 

内省になってしまい恐縮なのだけど。自分の生活において「or」ばかりで、そういった「and」という考え方を活用できていないというのは、結局のところ自分が何を求めているのか、自分でもよく分かっていないという結論に行き着く。

 

もっと発想は単純でいいのかもしれない「働けばおいしいものが食える」とか「朝早起きすれば、通勤の電車がちょっと空いている」とか。少しずつ自分にメリットを提示していく。面倒だからとネガティブに自分を動かしていた脳みそに、多少なりとも餌で釣ってみる。それは恐らく思考の癖となるし、自分の行動原理も変わってくるのではないかとふと思った次第だ。

 

・小さく希望を持つ癖をつけること

なんだか自己啓発セミナーの内容みたいな話になってきて、自分でも吐き気がするのだけど、そういう時期なので放っておいてほしい。自分の「and」の先を知ることは、すなわち自分の希望を明確化させることに他ならない。先に挙げた通り、小さなことでもいい。何かをするときにも「これをすれば得られること」を大なり小なり考えていく。そうすると、常々頭の周りを飛び回っていた「さもなければ」という脅しにも似た行動原理を多少なりとも黙らせることが出来る。

 

そして、やはり昨今のネット上などでの発言を見ていると、格差社会もよろしく「自己責任」「自助努力」という言葉が一辺倒な風潮が目に飛び込んでくる。労働環境やら生活苦など。様々な面から特集をする番組や記事を見ては「結局自分の選択次第」とか「普通に仕事すれば真っ当に暮らせるはず」とか。それもまた一理あるのだろうけど、そんなこと言ってると、世の中の行動原理がほぼ「or」で埋め尽くされてしまう気がして窮屈になるような感じがした。

 

真面目に生活をすることが悪いとは言っていない。ただ、その発想が「そうしなければ、社会の底辺に落ちる」とか「自己責任を果たせない人間に落ちぶれる」とかある種の脅迫じみたところからスタートしていると、まぁ社会も暗くなる。個人なら精神衛生上とても宜しくない状況に陥ったりする。簡単に言えば、人生減点方式みたいな。何かをなさなければ、どんどん負け組になる。僕は単純にそうした図式が嫌いで仕方ないし、ついついそういう発想になってきている自分がふと露わになった気がして、こんな文章を書いてしまっている。

 

周囲でツライひととか見たときに。「ほれ見ろ」じゃなしに、そこから「and」を提示できるようなそんな大人でありたいなと。自分に対してもそんなことを思った夜でした。

 

英文法の話からだいぶ飛躍はしたけれど、もうすぐいよいよアラサーも佳境の29歳を迎える身として。そろそろ、大人としてちゃんとしなければ、と思うと同時に。自分が何を得たいのか。その得られるもののために、ちょっとずつでも行動することが出来ればなと一人反省をしながら、今日はこの辺で。