わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

異常、ということについて。

f:id:daizumi6315:20170815102454j:image

今年も例年の如く夏コミが終わり。弊サークルの新刊も想定以上に捌け、もうちょっと作っても良かったかななんて。毎度数量は読めないもので、せっかく遊びに頂いたのにお渡しできなかった方がいて反省材料も残ったり。また冬コミに再販も考えてますのでそういう話はまた改めて。ひとまず今回も、新刊作成及び頒布に協力頂いた方、そしてわざわざ足を運んで頂いた全ての皆さまに感謝を表しつつ、また迫り来る冬コミへの企画を練り始めている次第です。本当にありがとうございました。

 

・初めて手紙を頂いて

ということで御礼もそこそこに本題へ。今回のコミケで僕自身、初参加から丸12年。サークル出店に関しては7年となった。頭の中は初参加当時となんら変わりないように思えても、やはり身体は衰えており、1日ちゃんと参加するとゲンナリしてしまう。アフターなんて言われても、半分寝てる。楽しい時間をより多く享受するには、そもそも体力が必要と思い知る。そんなアラサーにいつの間にか成り果てている自分に絶望しつつも、やはり楽しい3日間であることには間違いなかった。

 

今回、そんな年数参加してきた中でもなかなかないというか、初めての体験を得る事が出来た。ある方がサークルへ遊びに来てくれた際に過去既刊の感想を書いた手紙をくださったのである。そんな事もあるんだなぁと思いつつ、丁寧に閉じられた封を開け中をチラ見したら、その場でちょっと泣いてしまった。情けないけど、これまでやって来た事がここまで伝わっている人がいたのだと切に感じて、嬉しくて。

 

いや、当然ながらその文章を僕がエゴ全開で解釈しているという可能性も十分ある。その可能性を差し引いても、そこにあった文章というのは久々に自分自身がなんでこんな同人活動みたいなマゾヒズム的な事を延々続けているのか、思い起こさせてくれるのに十分な内容だった。

 

かいつまんで言うと、そこに書かれていたのは異常と正常についての話だった。軽く引用すると、果たして自分は社会の中で異常な存在なのではないだろうかという自問、そしてその解として得た「異常である自分」を認められなかった自責。そうした葛藤の中で弊サークルの既刊を読んで頂き、少しながら自分の異常というあり方に対して目を向けることが出来たというニュアンスが綴られていた。色々なネタが届いたことは純粋にうれしいし、そして恐らく。僕が同人誌を作る中で意識し続けていた事が、多分その方には伝わっている気がした。

 

・自分の異常さを知る瞬間

これまで僕が7冊続けてきたこの「’00/25」という雑誌シリーズの企画は正直言えば自分の中で感じていた世間との隔たりを少しずつ見直す作業だったように思える。キャッチコピーに「フェチとオタクを考える雑誌」と銘打っている通り、通常の性の趣向とは異なる「フェティシズム」と、趣味や愛好対象が世間とズレている「オタク」その双方が自分の中には小さな頃から根付いていると自覚していたし、手紙を頂いた方のように次第に社会の中で成長するにつれて「自分はおかしいのではないか」という感覚がハッキリと覆いかぶさってきていた。

 

別の文章でもたまに書くことだが、僕が中学生だった2000年頃。一部を除く世間はまだインターネットそのものを「オタクの為のツール」と捉えていたし、僕らもそう思っていた。しかもオタクという言葉ひとつとっても今より遥かに侮蔑の意味合いが残っていたように思える。美少女アニメなんか見ているヤツはヤバイ、そういう風潮の中でオタクは必死に深夜地方局に噛り付き、世間から隠れながらギャルゲー原作のアニメを貪るように見ていたのである。さながら隠れキリシタンの悲壮さが過ったりする。

 

また性癖も当時既にズレていた。今となっては各所で言いふらしているので笑い話なのだけど、ただひたすらに着ぐるみや全身タイツが着たいという謎の衝動に駆られていた。冗談みたいだが、当時セックスという概念も知らず、オナニーにも行き着かず結局精通もかなり遅かった自分にとってはただただ謎の感情との戦いに精神をすり減らしていたのだった。こんな感情がバレたら確実に人としてマズい。この衝動に恐怖感しかなかった僕は、上記のオタク趣味すら隠しつつ、このような歪んだ欲求を常に抱えている自分の異常性と向き合わざるを得なかった。

 

2017年現在では多少雲行きが変わってはきているが、基本的にオタクであることや、あるいは特殊性癖持ちであること。これを誰かにカムアウトするには大きなエネルギーが要る。学校職場など社会の中では、出来れば「普通の人」として過ごして行きたい。それは誰もが抱く基本的な願望である。後ろ指刺されながら生活する事を考えると、メンタリティをその中で安定的に保つことはなかなか厳しいものが伺える。

 

よく自分は異常かもしれない、なんて事を言えば「厨二病乙」と返ってくるしまぁ大抵その通りなのだけど。ただ、その異常は正常に対して間違いなくそこに存在している。そして、異常を自覚すると周囲の人間が怖くなる。自分が周囲からの攻撃対象なのではないかという妄想に終始陥ったりする。まぁ、なかなかに暮らしづらいわけである。

 

・徐々に見えてきた異常という日常

流石に僕もこの年齢となり、社会には色んな人がいて、そうした異常性を各々が持ちながらも暮らしているということが徐々に分かってきた。しかし、それが分かってきたからこそ感じる正常と異常の壁も存在した。例えば社会の中で次第に結婚、仕事といった社会システムの中で顕在化する壁もあれば、勿論小中学性の頃みたいな「異常即人でなし」というあからさまに残酷な壁をお持ちの方もたまに見る。

 

僕らは自分の正常な生活を守る為、異常を作り、なんとなくそれを排除する。それは生きる上での防衛本能であり、人間の営みの一部として自然な事である。ただ、おかげさまで僕はオタクであり特殊性癖という壁に挟まれた立場だったからこそ、色々な人と話す事が出来た。そして見えてきたのは異常であることもまた、その人にとっての日常なのだという結論である。

 

 

体感するとその異常と正常の壁は思ったよりも薄い。全く別の世界の人と思っていたとしても、自分が一歩踏み入れてしまうとその瞬間、自分の正常は変化する。異常だと思っていたモノが日常になる、その瞬間は想像よりも容易く、そして身構える必要すらなかったのではと思わせる。オタク趣味、特殊性癖全般。当然社会的に認められなさそうなモノも存在する。むしろ社会的に認める必要がないものもある。そうしたグレーゾーンにある沢山の異常が、誰かにとっての日常であること。そしてその真意の一端を、自分の同人誌において、ネタと笑い話を交えながら示す事が出来ればと思っている。

 

そんなもの表に出さなくても、基本的にはオタクや特殊な世界の人は世から離れてひっそりと楽しめばいい、あるいはそうすべきという主張もたまに見かける。言いたいこともわかるのだが、このご時世においてその姿勢を保つことは難しい。ちょっとしたことがSNSで流れれば周知の事実となり、隠していたと思いっていたことがいつ世に出て行ってしまうのか分からない。ならばむしろオープンにしたほうがダメージは少なかったり。

 

ネットの拡充によって、いろんなアングラ・サブカルチャーが地下にいられなくなっているのが現在の情勢であり、そうするとその対流は今どこででも起きてしまうものだと思う。お互いが共存「しなければならない」というなかなか暮らしづらい現状があるからこそ、昨今のLTGBの権利主張などといった運動の機運は高まりを見せているのではないだろうか。

 

・相互理解なんてできなくても 

というようなことを言いながら、僕個人「相互理解」という言葉があまり好きでない。勿論、相互理解出来ればこの上ないのだけど、往々にして異常と正常という認識の隙間を理解にまでこぎつけるのは難しい。なので僕がこういう同人誌やブログにおいて提示したいと思うのは「相互認識」あるいは「相互想像」という発想である。こういう人もいるとまず認識すること。そして、こういう人もいるんじゃないかと想像することである。

 

人間、何かを拒絶する際。「知らない」という立場から排除に繋がるように思える。それは国籍や宗教、年齢差、性別、障害者、社会的立場と他のカテゴリにも言える事だ。異常と正常という壁はどれだけ足掻こうと消えるものではない。それに対して「あぁこんな人もいるのか」とか「もし身近にそういう人がいたら」その認識と想像力からしか、こうした異常性と排除の問題をクリアできるスタート地点はないと思う。

 

だからこそ異常を異常として少しずつ開示する。そこにどのような理屈があり、物語があり、そしてこの先があるのか。なんだマイノリティの代表気取りやがってみたいな風にも読めて多少傲慢に見えるかもしれない。実際傲慢なのかもしれない。だとしても、そういう事を知りそして覗き込み、また踏み入れる事は本当に面白い。自分は異常かも、と周囲を疑っていたクソ厨二病的な自分さえ、色んな話を聞く中で「あぁ、全然自分普通じゃねえか」と思う事も多々ある。

 

なんていうかここまで小難しく書いてきてしまったけど最終的には、より違った異常を持った人と出会い、話すのがただただ楽しいのかもしれない。自分にはなかった感受性がそこにはあると思うと、異常である事、人と違うことは人と触れ合う上で大きな魅力のひとつなのだ。今回手紙を頂いた方には、多少なりともそうした色んな人たちの言葉から、異常性のポジティブな面を見ていただければそれ以上のことはないし、自分の世界が広がる瞬間を感じもらえればとても嬉しいなと。一人勝手に思っております。

 

 

結局、長々と自分語りみたいになってしまい、なんとも言えない感がある。纏まっているかも、イマイチしっくりきておらず、まぁ内省としてこんな文章もたまにはいいのかなと。冬コミもまた申し込んでしまったため、少しずつ企画を具体化していかなければ。1年って本当に短いなと、毎年早くなる時間の流れを感じつつ、とりあえずやるべきことを淡々とやらなくてはと思うお盆休み終わりでした。