わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

「推す」という語の本質を考え出してしまった話

アクスタ初めて買ったわ。

 

クソみたいな暑さが続く。

 

先週「梅雨真っ盛り」と書いたはずなのに、もうその梅雨が明けたらしい。通常、入梅して多少の晴れ間があって、また曇天を繰り返し、7月上旬~中旬にかけて「やっと明けたか」と言っている記憶が強い。

 

最早、何が異常で何が正常なのかも分からない中、週一更新ということで今週も今週で面倒なオタクの内省を晒していくこととする。

 

 

オタクの世界において「推す」という単語は、もはや広く一般化したと言っていいだろう。最近「かつてオタクは好きなキャラを「嫁」と呼んでいたが、昨今ではオタクが嫁を貰う甲斐性もなくなった挙句、一定距離を保って見続けたいという願望から「推す」という所に留まるようになった」なんていうネタをどこかで読んだが、辛辣で笑った。

 

実際「推し」って言葉は、ドルオタ界隈の発祥単語だと思っている。(特段ソースを調べていないけれど)リアルアイドルを前にする現場でいちファンが「嫁」なんて呼称を使った日には、そりゃ同志の間では空気が悪くもなる。「推し」という言葉の距離感こそ、同担を現場内で共存させるには程よい温度感ではないか。

 

そうしているうちに『アイマス』『ラブライブ!』『WUG』『プリパラ』やら、アイドルアニメブームが一気に押し寄せた結果、先のドルオタ文化と重なって、オタク全般好きなキャラに対する呼称として「推し」という語が一般化したのでは、というのが簡単な推測。

 

ただ、僕個人。世代の問題なのか、どうもこの「推し」という言葉に二の足を踏みがちだった。むしろファナティックの略である「ファン」の方がすんなり理解が及ぶ。一方で「現在は好きなキャラやアイドルを「推し」と呼ぶんだから従えばいいじゃない」っていう話もその通り。その通りなんだけれども、なんか「推し」って違うんだよなぁ。と前々から思っていて。

 

ということで今日は、この言葉の意味についてうだうだ書いてみる。

 

 

 

もとより、僕にとって「推し」と呼べる存在は既に居た。ここでも以前散々まくし立てた通り、声優の堀江由衣氏と上坂すみれ氏。それぞれラジオを長時間聞いたり、現場にも行ったし、元よりファンであって、今風に言えば間違いなく「推している」訳だ。

 

ただ、僕は元々アイドル文化がなんとなく苦手であった。元来の人間不信も相まって、昔からテレビで見るようなアイドルには裏があるとぼんやり思いこんでいた。外見がとかく優先される風土もどこか馴染めなかったり、実態がどうだったに限らず、とかくあの商売の形態が苦手だったのだ。

 

だからきっとアイドル的な印象がある「推し」という語に対しても素直になれない気持ちがあったのだろう。それにも関わらず、何故上記声優を「推す」事が出来たのか。その答えは、やはり新たに「推し」が生じる過程を通過する中で気づくことになる。

 

その対象は、ホロライブ所属のVtuberの尾丸ポルカだ。ポルカおるよ、でおなじみホロライブ5期、サーカス団の座長を目指すフェネックこと尾丸ポルカだ。

www.youtube.com

 

そもそもVtuberにハマったのが、昨年の11月。知人に勧められたのが最初であり、早々にVtuber自体飽きると思っていたのだけれど、今もってその熱量は続いていたりする。

 

よく、Vtuberに対しても「ガワを被っただけのアイドル」という批判がなされるけれど、逆に僕には好都合だった。アイドル文化に対して感じていた生々しいルッキズムが、Vtuberとなることでオブラートがかけられたように映る。詰まるところ、3Dアバター化したことにより、僕個人が抱いていたアイドル文化への苦手な点が薄まったのも、この世界にハマった一因だろう。

 

その上で、明確に尾丸ポルカに対して「推し」を意識したのは今年の1月。彼女の生誕祭ライブイベントだった。普通、生誕祭なのだから主役は彼女だ。にも拘わらずそこでポルカは、自らソロで歌う場面を作らず、前面に出る事を敢えてしなかった。むしろ周囲のメンバーを呼んで、ライブをプロデュースをするという立場を取った。ホロライブという枠の中で自分が見たいものを演出し、我々に提供したのである。

 

勿論Vtuberとはいってもアイドルなのだから、自分が見られてなんぼの世界なのは前提のはずだ。それでも「本当に好きなモノを作りたい、むしろお前らにそれを見せたい」という彼女の思いを喰らった時に「あぁ、この人。オタクとして信頼出来る」と悟った。その後、チャンネルをサブスクし、彼女の雑談配信やらゲーム配信やらを眺める中、生誕祭に抱いた信頼感は一貫して尾丸ポルカというタレントの気質に通ずるものだと確信した。

 

要するに、この「信頼」こそが、僕にとって誰か、何かを「推す」為に一番重要な事であると気づいたのだった。

 

これまで書いてきた通り、僕がアイドル文化に対して苦手意識を抱いていたのは僕個人の身勝手な不信感が原因である。アイドルの二面性(を勝手に邪推したり)や、ファン側からも外見を優先する(と勝手に邪推する気持ち)ことに対し、「そこに双方への愛はあるんか?」と懐疑の目を向けてしまっていた。

 

そんな苦手意識が、Vtuberという枠組みにより、配信で長時間そのパーソナリティに触れ、パフォーマンスの裏側が知れたりした結果、自然と懐柔されてしまったわけだ。声優に対してアレルギーが働かないのも、多分基本的にラジオ文化が浸透しているからだと思う。トークを何時間も聴いた上で、僕は人格として信じられるか否か、つまり推せるか推せないかを判断しているように思う。

 

尾丸ポルカという存在に、アイドルに対する先入観を浄化され「推す」事の本質を、改めて知った気分である。多分そんな事が言いたかったのだろうけれど、余り纏まっていないのでこの辺で終わりたい。

 

自分で言っておきながら本当に面倒くさい性分である。何なら、Twitterのアカウントに「推しマーク」(キャラ毎に推している事を表す絵文字)を付けるかどうかで、当初1か月くらい悩んだ気がする。現在では、しれっとマークを付けているものの、それほどに「推し…とは」みたいな事で悩んだのだ。とことん、どうしようもない。

 

加えて書きながら思い出したのだが、5年前にも『Wake Up Girls』を鑑賞した際、今日と同じような記事を書いていた。まるで成長していない....…

wagahaji.hatenablog.com

絶望しながらも、とりあえず今週も更新出来たので、少しは自分を褒める事にしたい。そろそろ、次週辺りコミケの話題でも出したいところです。