わがはじ!

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合理性の先に待つ『ポプテピピック』という罠

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©大川ぶくぶ/竹書房キングレコード TVアニメ「ポプテピピック」公式サイト

正月気分からなかなか抜け出せない。何をするにも虚脱感がのしかかり、結局ツイッターを眺めてはぼんやりと内省を繰り返す日々。そしてとうとう始まった問題作『ポプテピピック』の放映。種々の社会問題に対するネットユーザーの意識からクソアニメ考察につなげていくというアクロバティックな駄文を、暇つぶしにぽつぽつ書いていこうと思う。

 

・「鉄拳制裁」という教育

先日1月4日。野球界の重鎮、星野仙一氏が亡くなった。いち野球ファンとしては、思い入れのある人物だ。2013年には田中将大擁する楽天ゴールデンイーグルスを球団創設以来初の日本一に導いたのも記憶に新しい。それでも僕らの世代としては、中日ドラゴンズの監督というイメージがやはり強く、そしてその時代の代名詞は「鉄拳制裁」だろう。「ユニフォームは戦闘服」という言葉の通り、熱く、そして時に暴力的なスタイルというのは当時は指導者として案外「そういうものなのだ」として受け入れられていた気がする。

 

今回の訃報を聞き。それに纏わるツイートを見ていると。当然、星野氏を偲ぶ内容も多くあるのだが、それに関連してこの国における体育会系発想の「鉄拳制裁」への批判的な話もちらほら見かけた。偉大な故人を振り返り、鉄拳制裁が単に「あの頃の美談」となるのは、今のネット層とは馴染まない文化のように思える。

 

そもそも現在は、教育現場においても体罰なんてものは完全にご法度になっている。しかしながら、世代の違いによってやはりこの話題は食い違う。60代に話を聞けば「ふざけた子には鉄拳制裁が飛んでいた」「それが躾であり、教育だった」と。

 

今の時代、上記の発想は明らかに「合理性に欠けている」と言える。教育は個別の子供の発育事情を勘案して対応すべきというのが、現代における一般的な解答だろう。またそうした体育会系価値観の震源であったはずのスポーツ強豪校においても、ラグビーの東福岡などその方針の重点を徐々に合理性にシフトしているニュースもよく聞く。

 

そして最近ネットではこの「鉄拳制裁」の話にとどまらず、他にも旧態依然とした価値観への批判が噴出するようになっている。

 

・ポストの先にある「やおい

例示を行ってきたが「20世紀的価値観の分解」の動きはこれに留まらない。こうした瓦解は数年前から続いているのは自明だ。日頃からこのブログでも書いている通り、企業の経営不振・不正問題、労働時間問題、オールドメディアの劣化などなど。そして、その「瓦解」とネット文化の親和性は高い。これまで示した話題は、ツイッターなどで非常に反応がいい。働き方改革やネットにおける告発の増加、組織ありきの実社会に対して違和感を持っていた層が気概を上げているというのが、今の時代の構図のように思える。

 

ネット上を主導に様々な事柄において合理性が重視され「そもそもこんな事に意味ってあるの?」「人として生きていく上でこの我慢いる?」というようにこれまでの前提条件が崩されてきている。今という時代はこうした「そもそも論」がまかり通る時期に来ており、過渡期としては非常に面白い時期に入っていると感じる。

 

ここから話が一気に飛ぶからなんとか付いてきてほしいのだけど、こうした時代だからこそ、そういった層に求められたのが『ポプテピピック』という作品のように思える。はい無理やりねじ込んだ。

 

ジャンルは「4コマ漫画」としか言えず、日常系でもなければ、セカイ系でもない。2014年に連載が開始されて以降、本作は作品そのものというよりも、じわじわと広がってきたムーブメントのように思えてくる。KADOKAWA一極時代に放たれた竹書房の刺客。そのホームグラウンドすら爆破するという破天荒なスタイルで、もう読めばわかる通りだが、まさに文字通り「やまなし・オチなし・意味なし」。21世紀の新しい「やおい」の形がまさに『ポプテピピック』だろう。

 

では「何もない」そこにあるのは何かという話になる。

 

・将来に対するただぼんやりとしたヘイト

この作品について云々語っても正直しょうがないのだけれども、平たく言うなら『ポプテピピック』は「やっちゃいけないけど、やりたいこと。言っちゃいけないけど、言いたいこと。」で構成されているように思える。通常の漫画やアニメ作品であれば、こうした作家性そのものともいえる「反抗心」だったり「世の中への疑問」をストーリー展開に載せて、ねじ込む。しかし、大川ぶくぶ氏のスタイルは、こうした反抗心をありのままに4コマを使って図式化するため、話としては「ナニコレ」というリアクションが各所から上がる通り、分かりづらくなる。

 

しかしながら、そこに現代のネットコア層から「謎の共感」が生じているという事も確かだろう。表情が死んでいるポプ子とピピ美から放たれる「明らかに言っちゃいけないよね」という言葉の数々は世の中に対するぼんやりとした反感と共振する。今まであった価値観とか、別にもうどうでもいいんじゃない?という破天荒さが、ネットにおける意識とかみ合っているように思える。

 

つまるところ「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ ポイズン」の「ポイズン」こそが『ポプテピピック』なのだ。毒そのもの。意味にもならないヘイトや煽り、茶化しをポップに二次元化したものがポプ子とピピ美であり、作中で随所におっ立てられた中指なのだろう。実際、日々インターネットを眺めていると、古い価値観に対して中指立てるような空気感というのも感じられる。今はそんな時代じゃねえ、と。

 

特段そこから「だから本作は優れている」とかそんなことを言いたいわけでもなく「この作品が今の世の中にマッチする原因があった」と思えるのだ。はい、社会問題話題に戻るよ。付いてきてね。

 

冒頭から挙げていた「20世紀的価値観」は、特に問題意識を持たなくても労働や部活動、つまり日々の生活するだけでぶち当たる障壁である。会社、上司、先生、先輩、ルール・・・この国が戦後というキツイ上り山を上るのに必要だった結束を、僕らは今少しずつ解く作業を行っているように思える。「合理的に考えれば」この国は70年ほどその思想に至らなかったからこそ、どん底から一度は這い上がってこれたのだと思う。しかし、ある程度の高度に達すれば、当然次なるスキルが求められ、異なる環境に晒される。

 

その異なる環境に適合する為の不和こそ、今の時代の種々意識改革なのだろう。そして、働き方改革は進めてしかるべきだし、旧態依然とした意味のない慣習はなくなるべきだと強く思う。しかしながら、その結束を解いた後に待つ虚無感も同時に感じてしまう。

 

個人的に『ポプテピピック』が面白いなと思うのは、先ほど言った「とりあえず中指立てとく」「なんとなく抗う」という姿勢を前提としながら「壊した後、どうしよっか」みたいな代案のないナンセンスさが、どこか結論を見つけづらい人生とリンクしているからなのかもしれない。

 

僕らはネット上でより良い社会環境を求め、古いしきたりを壊していく。しかし、その先は本当に「快適な生活」「より良い生」なのだろうか。毒をもって毒を制した後、何が残るのだろうか。ふと不安になったりする。

 

著者自身『POP TEAM EPIC』という英語タイトルに意味はなく、音で合わせたというコメントを既に発表している。それでも「ポップな二人による大作(叙事詩)」とはなんとも皮肉が効いているように思えてしまう。

 

ある意味、過激な鉄拳制裁や爆破を腹に抱えつつも、笑顔でポップに合理的に生きねばならない現代人だからこそ、こんなふざけた作品に振り回されているのかもしれない。とりあえずしばらく、すみぺファンとしては『ヤバい〇〇』のアニメ版として見ています。今後も楽しみです。