わがはじ!

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フェイクニュースが暴く我々の中にいる「正義の味方」の本性

気候の変化に体の疲れも最高潮。寒かったり暑かったりと、五月病どころの騒ぎではない。普通に風邪ひいている始末である。そんな最中、一昨日ほどだろうか。ネット上で面白いニュースが話題になった。ほとぼりも冷めてきただろうし、この件について思ったことを書いてみたい。

 

 

出来事はこのツイートがすべて説明してくれているので割愛するが、要は昨今よくある「やらかし系ネット炎上」の応酬がすべてウソネタだったという事案である。案の定このネタに乗せられ架空の大学への非難、誹謗中傷が相次ぎ、結局は暖簾に腕押し、何もないところでSNSユーザーだけが騒いでいた、という一連の流れが話題になった。

 

この件を受けて、タイムラインでのリアクションは結構割れていて。「誰も傷ついていないし、古き良きネットのネタらしい」という見方から「人の心配や気遣いを煽るだけの悪質な行為」と批難が及んだり。あるいは有名なひろゆき氏の発言を引き合いに出し「フェイクニュースを見破れないネットユーザーってww」という嘲笑的な意見も見られた。

 

この件。これまでの単なるフェイクニュースと異なるのは、複数アカウントを使ってあたかもそこにコミュニケーションが生じているように見せかけたのが巧い。やらかしの当事者=「架空の大学」、やらかされた被害者=「架空の飲食店」、当事者の関係者=「架空の生徒」という具合に、ロール割がきっちりとされている。確かにこの会話を見てしまうと、そこだけからこの件が嘘だと見抜くのは難しいだろう。

 

SNSでのツイートひとつを見るにしても「本当のことなのか?」と検索をしたり、一度裏を取る姿勢が重要なのではないかという声が各所で上がっている。

 

・自分の中にいる「正義の味方」の存在

ただ、この件の本質は「嘘を見破るリテラシーをしっかり持ちましょうね」ということに留まらないと僕は思った。はっきり言えば、ネット上におけるウソをウソと見抜くリテラシーなど、この先人間が完璧に持ち合わせることなど不可能だと思う。

 

端的な例を挙げる。先日、オバマ大統領の表情をマッピングし、あたかも本人がしゃべっているかのような印象を与える「ディープフェイク」動画というのが話題となった。

www.itmedia.co.jp

 

動画で確認できる通り、これもう見抜くの無理じゃね。と感じてしまったほどである。まだ多少違和感を感じることはあれど、今後「実写の映像」すら本物かどうかが疑わしい時代が来てしまったというわけである。こんなものを目の前にして「フェイクニュースを見破るリテラシーを」と叫んだところで、無意味のように思える。フェイクニュースを考えるには、もう一段階深いところで思索をする必要がありそうだ。

 

冒頭の話に戻ろう。架空の「国際信州学院大学」を叩きに叩いた人たち。簡単に言えば嘘に踊らされた人たちなわけであるが、そうした人はどういった思いから「叩いた」のだろうか。これを考えてみたい。

 

このフェイクニュース批判の中に「人の心配や気遣いを馬鹿にした行為だ」という声が上がっていたのを思い出してほしい。確かに「やられた飲食店」側の立場に立てば、悪行をなした「国際信州大学」を懲らしめてやろうという感情は、世間的に見れば「善」なる感情であり、コメントを寄せた多くの人が抱いていたモノではないだろうか。こうした「悪を懲らしめる」という発想や、苦しんだ飲食店に同情する、という感情は道徳を重んじる人間の美徳の一つである。

 

我々はこの情報過多の時代。数々のネットニュースを見ながら、こうした案件を日々見つけだしている。政治与党のスキャンダル、連休ドライバーの交通マナーの悪さ、街中での老害的発言、職場でのパワハラ上司などなど。「是正すべき」事案がいたるところに転がっており、そうした内容を見ながら憤りを感じ、そして批難を繰り返す。まるで自分の「正しさ」を確認するかのように。

 

・「正しさ」は憎悪の言い訳となる

そして往々にして、その正しさは過剰防衛となる。「悪いことをしているから何をしてもよい」「懲らしめるならとことんやれ」こうしたネットの風潮が炎上に繋がる。勧善懲悪が、とうとう死体蹴りすら容認する空気感となり果ててしまう。

 

今回の件では「フェイク」と分かった後。その件が「嘘」だったことに憤りを見せるユーザーも一定数いた。ただ、よくよく考えれば、彼らが本来寄り添うべきは「キャンセルされた飲食店」だったはずだ。この悲劇が結局「なかった」のだから、本来傍観者であるネットユーザーは安堵すれば、それで済む話だろう。

 

しかしながら「自分の憤りを返せ」という論調の方も少なからずいる。「正義の味方には敵が必要だろう」とは『Fate』シリーズでおなじみ言峰神父の名言だが、その巨悪が幻となったときに「自分が正義」となれないことに対してフラストレーションを抱く人も一定数いるわけだ。そこには、是正すべき事案もなく、救うべき人間もいない。ただただ個の「正義」に溺れ、本来の目的を見失った感情が残るだけである。

 

正直、ここまで情報の真偽を見抜くことが難しい時代。先に挙げたディープフェイクを始め、人がテクノロジーに騙されるのはもう仕方のない時期に入っている。それよりも、そうした「騙されたとき」あるいは「騙されたと分かったとき」、自分がその情報によってどのように動いていたのか。あるいは動かされていたのか。つまり「自分がどのような正義を抱いているのかを知ること」は今後、情報が複雑化する中で非常に重要な視点だと感じた。

 

・正義の味方を飼いならす為に

はっきり言えば、人間悪の根源は「正しさ」という観念にある。「正しさ」があれば「不正」があり、自分が正しければ、不正をした人間は報いを受けるべきという発想が大なり小なり人全般に備わっている。ただ、その正しさというものは、ここで言うまでもなく多種多様な文化に基づいており、正しさの違いで争いが起き、また、その正しさによって人間はどこまでも残酷になれる。

 

こんなことは目新しい話ではなく国内外問わず、現実を始め数多くの小説でもこうしたテーマを扱っているわけで。しかしそれでも。電車で席を譲ったり、あるいは道に迷った人を案内したり、ふと募金なんかしてみたり。こうした慈善的行為もその人が持っている「正しさ」に起因するものであり、冒頭のフェイクニュースに憤る、その心も間違いなく「正しい」ものである。ただ、誰の為の正しさなのか。何のための正しさなのか。それを自覚することがより重要になっていると感じる。

 

ちゃんと自身の中にいる「正義の味方」を飼いならさなければ、人はいつでも正義の飼い犬となる危険性がある。自戒も含めて、今回感じたことがこれである。

 

こうしたフェイクニュースは今後より一層増えるだろう。そして、その質も今回と比べ物にならないほど緻密なものになることが想定される。僕らは前提としてそれら真偽を見抜く努力をしなくてはならない。そして、同時にどういう感情をもって、そうした情報に触れるのかも考えなくてはならない。有象無象の情報に対して、単に自分の正しさを保つ為に、非難や中傷を繰り返していると「自分」すら見失ってしまう。

 

単なるフェイクニュースの真偽以上に、まずあらゆる情報に対する自己のスタンスを考えたほうが建設的なんじゃないかなと思ったお話でした。