冬のコミケの原稿に取りかかろうとしている今日この頃。天候も相まって気が重い。なにかしら思考を動かそうということで内省文でも書き出してみる。
ちょうど1年前ほどだろうか、國分功一郎氏の『中動態の世界 意志と責任の考古学』、落合陽一氏の『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』を続けて読んだ。それぞれ主題とすることは別個であるものの、その底流にあるものは比較的近似している印象を受けた。今回はこれら書籍を読んでふと思ったこと思い出しつつ、Twitterのアカウント運営もとうとう10年となってしまったので、そんなことを踏まえて書き留めていきたい。
まぁ、先に言ってしまえば、令和元年、普通に会社員やってる僕が「将来に対するただぼんやりとした不安」に対して、どうやって希望的に将来を見通すかウジウジ考えた文章だ。単純に考えれば「気の持ちよう」みたいな話である。梅雨空の中、案の定根暗ベースの考え事を滔々と書き始めている次第。
・言葉と未来の曖昧さ
まず國分氏の『中動態の世界』から見ていこう。今一般的に扱われている動詞の態は「能動態」と「受動態」であるが、かつて存在したその中間にある「中動態」という概念が哲学的な見地から見直されるべきではないかという本である。主眼として、人の責任論が起点になっており、そんな例示から本文は始まる。我々は何かしら物事を為す際、あるいは為してしまった際。「何をもって、その人の責任であると論じる事が出きるのだろう」という疑問だ。
例えば、学生が寝坊をして授業に間に合わなかったケース。方や夜中までゲームをしてしまい朝寝坊したというのであれば、大抵の場合当人が悪いとなる。しかし、両親が働けず、妹の学費を稼ぐ為に夜遅くまでアルバイトをしていたというストーリーが付与された途端、彼にかかる責任は「印象として」軽くなる。そこには、環境における能動性と受動性が関係している。自己選択による責任論だ。後者のケースではやむを得ず彼が家族の為に働かざるを得ない、という共通認識が生じる。そういう場合には、寝坊をした責任にはある程度免責事由が生じる。
これら例示が示すのは、どこまで人はその行為を能動的に行いうるのであろうという疑問だ。モノは言い様と捉えられるかもしれないが、寝坊ひとつをとっても、本人の体質が低血圧だったり、ゲーム依存という環境悪であったり、その他「免責事由」はいくらでもそこに横たわっている。うっすらと想像出きる通りこの話の延長にはアルコール依存症や薬物依存といった話に繋がる。本書自体、医学書院から発刊されており、國分氏も本書の着手のきっかけは「ダルク」での当事者との会話から始まっているという。何物にも縛られない本来の「能動」である「自由意思」というものは人間には、選び得ない選択肢ではないか。そうした着想から、動詞の「態」に着目し、過去に存在した「中動態」という存在に迫っていく。
また、落合氏の『デジタルネイチャー~』で語られるのは、計算機つまりPCから発展しAIが人間の感覚とマッチした時に、実際のリアルに位置付けされる「物質」とその当人が経験として知覚する「実質」の差異は限りなくゼロに近づいていき、それはもはや自然と見分けがつかないレベルにまで昇華された技術と感覚、そして社会に纏わる話だ。そうした環境やシステムが構築された社会を氏は「デジタルネイチャー」と呼ぶ。実際、氏の思想や試みは単なる思考実験にとどまらず具体的なイベントからプロダクツの域にまで及ぶ。
人と計算機が相克するものではなく、その対立をいずれは克服し、新たな関係性を構築するようなイメージを読む人に抱かせる。それは最早SFに近く、円城塔の『Self Reference Engine』が浮かぶ。それは人間と機械という二律の軸すら不要になるほど、機械が超自然的な存在となり、そして翻ってそれを元来設計した人間に回帰していく計算機の末路すらそこに見ることが出きるようである。
特に冒頭。暗がりの山中、ナビを頼りに車を走らせる描写は印象的だ。実際、外に街灯もなく周囲にあるのは闇ばかり、そして降っている雨の粒が窓に付着する。自らが移動しているという事実自体も、何に依拠しながらこの道を正しいと進んでいるのかも、全て発達した計算機による導きを信用しているからに他ならない。そうすると今車に乗って移動しているという体験がバーチャルなのか、リアルなのか。何が物質的な経験で、何が実質的な体験なのか。そうした境目にすらあまり意味を感じなくなる。落合氏は自律的な判断を得意とするAIの未来だけでなく、人間の身体性の拡張、あるいは気づけば自然と融和している計算機の可能性を、時に仏教の着想などと重ねながら、積極的に説明していく。
・意思とは関係なく進む時代で
触りだけだが、それぞれの本について書いてみた。冒頭掲げた相似点「曖昧さ」という言葉を挙げたが、よりそれを具体的に言えば「主体」という存在の曖昧さだという事が出きるだろう。あまりに多様になった現在という時代において。いまだに大きな力を誇ってはいるものの、人種や国家というくくりも古くさく、性差にすら疑問が呈されている状況である。それは意思の尊重というより、今までの主体を主体たらしめた「意思」への疑問であるように思える。自分の意思で多様な生き方を決められる、自己決定論が幅効かせると聞けば「意思」の存在の誇大化ととらえるのが自然かもしれないが、そうでないと思う。自己決定と自己責任、そして自分の主体。個の主張を叫べば叫ぶほど、その間で我々は徐々に右往左往している印象を受けている。
5月、オランダで安楽死を「人生に疲れた人にも適用する」法律が提出されたというニュースがネットで話題になった。当然、高齢者のみなど条件は多く存在するものの、日本のネットユーザーも多く反応をしていた。僕自身、なんとなく気になったのでアンケートツイートをはじめて使い、日本において安楽死合法化は認めるべきか、という投げ掛けを行った。
ふと気になってしまったので。日本で安楽死合法化ってどうよ。
— すくみづ (@suku_mizumi) May 14, 2019
結果としてはこの通り。質問にあえてバイアスをつけてはいたり、また回答者がそもそもこの問題に関心を抱いている時点で額面通り受け取れない、というご指摘はその通りなので甘んじて受けるが、それにしてもこの片寄りである。
宗教観の差はおおいにあるにしても、この死に関する自己決定を求める意思。僕は違和を感じた。理由をそれぞれに聞いて回れば、恐らくそこには様々な理由が存在することだろう。しかしながら、死に纏わる自己決定を望む時、表裏たる生にたいする「自己決定感」が希薄なのではないかと、そう思ったのである。生きているのが自分の意思だから、終わるときも。というより、生きている事が強いられているのだから、死ぬときくらい。そんなペシミスティックな心象がそこにはあるのではないか。
落合氏が指摘する計算機が自然化する状態、つまるところ実質と物質が融和し、本質的な部分にすら侵食する「デジタルネイチャー」という時代。その到来は自然なものに思えるし、決してSFとして消化すれば済むものでなく、今これからの眼前に現れるであろう世界観だ。そして、ぼんやりながら我々も、生きていてそれを意識的にしろ、無意識的にしろ「そうなるな」あるいはそう思わなくても、情報革命を経て、時代の大きな変革を意識せざるを得ないタイミングに差し掛かっている。
こうした過渡期のタイミングにおいて、僕を含めた人間が抱きやすい感情として、虚無主義というか「自分の意思とは関係なく世界が進む感覚」というものがあったりする。もちろん、それを主導する側に立とうとする殊勝なクリエイティブマインドをお持ちの方も多いだろうが、AIがここまで進歩した時代、職業によってはその存在価値すらあっさりと否定される可能性がある。誰が悪いと言うでもなく、ただただ時代の進歩が主体たる意思を否定する。そんな倦怠感、厭世をふと感じたりする。
・曖昧さという絶望の種
以上は僕自身が否定的な角度から今を見ている、という主観にすぎないが、共感に足らないともいいきれない。将来を見渡す際、ビジョンは明瞭であればあるほど、希望に繋がりやすい。それが例え明確な危機であってもだ。倒すべき敵や対処すべき事案ががはっきり決まっているということは、人の行動原理にとってこれ以上の原燃料はない。それに反して、人類の発展、技術の進歩であるにも関わらず、自らの価値が相対的に目減りしていくように感じるこの潮流に対して、我々には何ができるのだろうか。
勿論この先、自然や自らの身体の一部と化した計算機の存在を、無思考に受け入れることもできる。利便性など確実に向上するのであろうが、同時にディストピアの影を感じなくもない。この問いはこうも言い換えられる。我々は「生きている」のか「生かされている」のか。既に身の回りにもAIを使った技術が席巻している現在において、その主体としての自我を自ら問い直すことは、人として生きる上で思った以上に重要な位置を占めている発想であると感じる。
そして先に書いた通り、人の希望は将来の明瞭さに比例するという話。むしろこれは、逆の時の方がより真理をついているのかもしれない。要は「将来が不明瞭な時は、不安要素が増える」ということだ。時事でいえば、年金の問題やら老後貯蓄不安、災害リスクや国際社会の紛糾など。考えれば考えるだけ、不確かでありながら我々の生活を脅かすリスクは、全方位に偏在している。その上、身の回りを見ていてもAIのみならず情報セキュリティ技術も発展し、仮想通貨など自分の理解の範疇を超え作動する様々な仕組みが周辺にある。
ふと、考えると利便性は不安と隣り合わせであり、そして自分の「主体」も一体何に依拠している存在であるのか、より曖昧な時代に突入する。ここまであえて大きな主語を持ち出しつつ、全世界的な不安だという誇大妄想を広げてはきたが、正直な話で言えば僕自身の不安であり、また個人の小さな葛藤である。日常の愚痴と大して変わらず、そして以下はこれら「曖昧さ」に対する自分への処方として、冒頭掲げた2冊に戻りながら、また考えてみる。
・択の不自然さ、それを思考する強さと希望
諸々不安要素を列挙しながら、煽ってきたわけだが冒頭で書いた通り、僕がここで語るべきテーマはその状況をいかに希望的に考えるか、ただそれだけに帰着する。そうしてたどり着いたのは「曖昧さに絶望をしないこと」今日の主題はここにある。言葉にすれば陳腐なものだが。
國分氏の中動態にまつわる話に触れる。一様には言えないのだが、この中動態という思想は、その能動か受動か、その2択の間を取り持つ「状態としてある様」を考えるものだ。紹介の中でも書いた通り、「される」か「する」かの二者択一で考え詰めていくと、そこにはどうやっても無理が生じてくる。安楽死の話題に触れたのも、逆に生きることを考えるためだ。「生まれてきたこと」あるいは「生きる」ことは、どちらの態で説明しても、なんだか違和感がある。しっくりこない。文章にすれば「人は自分の意思で生きている」「人は大いなるものに生かされている」つまり「生きる」という動詞はこのように思想というゲタを履かせなければ「能動」「受動」には収まらなかったりする。
言葉は思考に直結する。こうした葛藤の中「中動」という状態を示す態の存在は、シンプルでありながら、的確な処方あるように思える。責任の所在をあえて求めない。そこにあること、そう存在すること。これを素直に捉え、見つめることは、今やこれからの「曖昧さ」に対して、重要な視座であると感じだ。「思考停止では」と感じるかもしれないが、半面結論がない分、絶えず思考し続ける意思がそこにはある。
また、落合氏の指摘する現在の社会あるいは未来図を想定することも、この「曖昧さ」に対抗する一助になる。恐らく落合氏の本を読んで感じるのは、未来における進んだ社会の希望的展望と同時に、自分不在で成り立っている社会、あるいは全く別次元で構成される社会に所属しているという不安だ。その乖離感覚は、今後より一層強まるように思う。「社会」は親族のような小さなコミュニティに端を発し「町」「市」「県」とフラクタル的にからが重なっていき「国」や「国際」まで最終的に大きな「社会」まで含む包括的なシステムだ。現在では個でありながら、手中にあるスマートフォンで簡単に大きな括りにまで思考が届いてしまう。
バーチャルでも体験できる「実質」と、本当に目の前に存在するという「物質」。その境界がファジーになればなるほど、それに対応できるだけの自我の強さが必要になる。大きな社会を思考しながら、自分の生を歩むことは、絶望による憤怒をかいくぐりつつ、脇では虚無を覗きながら縁石を歩くようなバランス感覚が必要になるだろう。今後、技術の発展によってなおのこと本質の所在が曖昧になっていく社会の中で、明確な自覚を持ってそこに挑むことは、現在という地点にいる僕らにとって必然の準備なのかもしれない。
ということで、長々と書いてみたわけだが、曖昧なものを語ると自分の主観の置き場すら曖昧になるので困る。あくまでも、自分個人の内省延長くらいの感覚で、あまり細かい精査を無視してしまったわけだが、そうでもしないと書き出せないくらいには、諸々が詰まっていたとご理解頂きたい。あまり人に読ませる話ではないけれども、たまには思考の除湿ということで。