僕はときたま女装をする。
過去にもここで色々まくし立てたとおり色んな理由はある。最終的には、男である自分とはまた違った存在になれるという。ありきたりな変身願望が大元にあるのだろう。
そんな事をしていると、また様々な出会いや機会にも恵まれる。果たしてそれが恵まれているのかどうかは、別の議論に任すとして。なかなか個人参戦が厳しい土壌にあって、イベント等にお声かけ頂けるというのは、ありがたい限りだ。
今日、9/13(日)板橋で行われた「男の娘 19」というイベントに参加した。
年二回、そして19回目。凡そ、10年の間続けられている老舗イベントだ。僕も名前を聞いたことはあったものの、なかなか参加する機会もなかった。今回、お誘いを頂いて軽い気持ちで顔を出してみたというレベル。
女装参加もウェルカムということで、せっかくなので僕も女装コスをして参加した。写真なんかは、ツイッターの方に上げているのでそっちを確認して欲しい。
前々から評判は聞いていたが、小規模な開催を保っていて同人即売会を基調に、ステージイベントや更にそのまま二次会に突入するというなかなか内輪的というか、アットホームなイベントとなっている。
参加してみてもその評判どおり、ほぼおっさんや若者男性が女装をし、
ステージでは催しモノなんかが絶えず開催されていた。そのクオリティをとやかく言うつもりもないけど、なんだか本当に中学校の文化祭とか、そういう雰囲気が残っていて好感を持てた。
そして、なによりイベントの趣旨どおりの女装率の高さ。年齢層やジャンルも様々。コスだったり私服女装だったりと、かなり雑多。まぁ「マリア様がみてる」のリリアン女学園の制服で参戦した僕は多少浮いていたのは確かだけど、それすら気にならないほどの雑多さ。
それら光景を眺めていると、不思議な気分になってくる。男性らしく、あるいは女性らしく、というそういう概念ってなんなのだろうなと。
余りに普通に男性達が、女性の装いをしている。コミケでコスプレをするのともまた違う感じ。マジョリティは女装にある。
性別関係なく、普段からの装いの人もいれば、普段できないからこそ、そこでは
女性の衣装を身にまとう人もいる。当然僕も後者なのだけれど、それすら関係ない。その人にとっての自然な有り様でいられる。
なんていうか、それはとても素敵なことなんじゃないかなと。
種々嫌悪感を抱く人もいると思う。そりゃ女性の服というのは、女性の体型に合わせて作られているわけで。それを男性が着ればどこかで不自然さが出てくるのも確かだ。でも、なんていうか性別という垣根を越えて。そういう服を着たいとか、そういう在り方でいたいとか。
純粋な欲求を抱えてしまっている人は確実に存在する。そうした人が集まり、女装をしているとジェンダーというモノの希薄さを痛感する。
僕は別にLGBTの権利主張に対して積極的な方ではない。理解がある程度のもので、そこまで「権利を認めよ」という運動を起こす気もない。利己的だが、僕にそれが必要ないからだ。
でも、だ。
常識としての性別のかくあるべきという概念に対しては、疑問を呈したい。社会的に異常だとしても、生物としての在り方に反してると言われようと、そうした性質を持つこと自体を否定する事は決して誰にもできない。そして、女装というひとつの自己表現は、その人の根底に繋がるものだ。
人間なんてものは、所詮生殖の為だけにセックスを行わない数少ない生物である。
脳が発達してしまい、自分の生物としての機能にすら疑問を抱く。それはあくまで、人間らしい営みであるし、その発露である女装という行為は、ある意味でとても自然なことなのだと。
二次会である第2部で、缶チューハイ6本空けたときに思った。
純粋に酔っ払っているだけな気もする。
でも今日、このイベントに参加してみて、こんだけ変な人がいるんだと思って。ふと自分を省みても、化粧をしワンピース制服を着て、女装をしていた。
色んな意図があると思う。そもそも女性になりたい。注目を浴びられる。かわいいものが好き。男女という垣根は、生物である限り大きく深い。でも、それはあくまで物理的なものであり、精神的にはかなりファジーな境界で出来た区分なのかも。
何回かこういう記事を書いている気はするけれども、やはり、イベントというものは面白い。人と出会うことで、何かを発信せねばという気持ちにさせてくれる。
書を捨てよ、町にでよ。というあの指摘もあながち間違っていないのかもしれない。そんな事を考えながら、今週もまた明日に控えた月曜日という概念と闘っている。