わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

創作をする人へ。

創作というのは、楽しい。でも怖い。

 

 

こんな記事を創作している人間が書いていいんだろうかという思いも正直ある。要するに創作と評価に関する話だ。ツイッターに書いてたら、ある程度長くなりそうだったのでこちらに移した。

 

これまでも色んな場で開示してきた通り僕自身、絵を描いたり、音楽を作ったり、雑誌編集をしてみたり、コスプレしてみたりと。色んなオタ趣味はあれど、同人活動を中心に種々創作というものに携わってきた。そう言うのは偉そうなので、趣味が色々あった。ってことだ。

 

現代は、インターネットの時代ってことで、発表の場が様々ある。絵であれば今ではpixivがあり、音楽ならSoundclowdから各種動画サイト。更にそれのトラフィックを活性化させるSNSがまたいくつも。それぞれに数字で分かる評価基準が設けられ、瞬時に自分の作ったものの評価が分かる時代となった。

 

これまでは、出版や音楽流通、アマチュアなら即売会など、作ったものの評価が表に出てくるまでに比較的時間がかかった。何故なら、音楽も漫画も絵も、すべてが何かしらの「メディア」として媒体にならないと楽しめなかったからだ。

 

それが今では、それらすべてデータというモノに置き換わり、PCやスマートフォン1台で様々なエンタメが手中に収まる。その流通時間もウェブ上にアップロードをすれば、世界中に配信されるということで、評価を共有し、一瞬で皆が自分の好き嫌いを世の中に発信できるようになった。

 

それは、一面的に見れば恐らく良いことだと思う。

 

何故なら、過去自らの評価を知らず死んでいった芸術家は多くいた。有名どころなら画家のゴッホだって評価されたのは死後だし、小説家ならディックも数々の作品が映画にまでなったのは彼の死後だ。要は、世界中の人にそれが届けられれば評価される可能性は高くなる。捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったものだが、アーティストがその拾う神と出会う確率というのは格段に高くなった。よく言われるソーシャルメディアがアーティストを生み出す構図である。

 

ただ、ゴッホにしてもディックにしても、観点として「時代の要請」という観点は外してはならないとも思う。例えば、セガが自社ゲームの台詞から引っ張られ、よく皮肉として言われる「10年早い」というヤツだ。いくら世界中に広げたところで、それが時代より先んじていた場合「拾う神」が現れていないという可能性も当然にある。

 

彼ら不遇の創作者は自分の良いと思ったものを、世間の評価に関わらず作った。その時代では決して評価されなかったが、後々の後世になってようやくタイムラグを経て輝きだした。

 

「評価に関係なく、自分の作りたいものを作る。」

 

よく創作に関わる人なら、こういう思いを抱いたり、創作をしない人でも、それが創作者としてあるべき姿だと思っている人は多いだろう。

 

しかしながら、この姿勢にはどれほどの恐怖を伴うのだろうか。創作活動には大なり小なり時間がかかる。そして人生は時間の累積によって成り立っている。その時間を使って一つの創作物を完成させるというのは、人生を削って、何かを創っていることに他ならない。

 

なんだか堅苦しく考えすぎている気もするが、極論家としてはそういわざるを得ない。

 

しかも、現代社会は先ほども挙げたとおりに瞬時に自分の評価が分かる。得点やfavoriteによって、自分の作品がどれだけのフォローを得たのかが見える。自分の作品をアップロードするという行為は、評価対象として社会に晒す行為に他ならない。現代の創作は、常に即時的な評価との闘いに晒されていると言っても過言でない。

 

逆に「趣味なんだから自己満足でいいじゃん」と言う人もいるかもしれないが、それを言えるのは、創作した事ない人か、ヘンリーダーガーのような一生表に作品を発表せず、死後その長編作品が見つかるといった稀有なパターンだ。誰しも承認欲求は抱いているし、創作は自分の為であると同時に、誰かの為である場合もある。

 

このネットによる「瞬時評価の時代」というのは、その自分が作りたいものへ没頭することへの恐怖感というかそうした抵抗感を抱かせる気がしている。

 

そうすると何が起こるかと言えば、瞬間的な評価への依存というのが無意識に常態化することで、先の時代に残るかもしれない作品が産み出されなくなる可能性もある。あまりにも様々な作品が評価され得ることで「この世の中じゃ評価されない」と創作活動自体を諦める人も出てくるかもしれない。

 

その人がいつ花を咲かせるかも分からないのに。

 

僕自身がこの事を書くのに強い抵抗感があるのは、この文章自体が僻みになるからだ。評価されない事への肯定を書く事は、評価を受けていない自分へのフォローになる。言ってしまえば今成功を収めている人への、正直妬みみたいな感情がゼロかと言えば嘘になる。これまでも色んな場所で作品を提示し、良かったと思ったり悔しいと感じることも多々あった。

 

多分、悔しい方が多かったと、思う。

 

どうすれば評価を得られるのか。そんな思いに左右される事だって少なくない。評価を得られないなら、創作する必要はどこにある。貴重な人生の時間を一体何に捧げている。もっと有意義な、すべき事があるんじゃないか。こう結論付けたくなるときもある。

 

でも、だ。自分の創作物だけは、きっと自分を裏切らない。

 

どんな評価を受けようと、どんな扱いをされようと。自分で作りたくなったもの、作ったものは、きっと、自分だけは裏切らない。そう思うしかないじゃないかと。

 

このSNSを中心としたネット社会では、わけのわからないくらい高速で色んな評価が飛び交う。それらを見続けていると、正直心が追いつかない。参ってくる。色んな創作というのは弱肉強食で、需要あるところに人は集まるし、それを集められなければ負ける。

 

でも、その評価に関わらず良いモノはある。これは確かなのだ。僕がコミックマーケットに10年間通い続けた理由もきっとそこにある。評価とかに関係なく、自分の思った良いモノを作ろうとしている気概がある。確かに評価を受けなければ負けかもしれない。ただ、その他社からの目線を過剰に気にすることで、自分の軸をブラすことは、勝負すらしないことではないだろうか。

 

こんな事考えているから病むんだろうなとも自分でほとほと呆れつつ。創作と闘う人を、応援したくなってしまったのでこんな駄文を書いてしまった。ほとんど自分への言い聞かせじゃねえかと、ツッコミを入れながら。そんな事を思う日曜の昼前でした。