わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

LGBT議論が解いていく「自分」という存在

いくつかの考え事が重なると、文章を吐き出すという傾向が自分でも分かってきた。一つの観点だとなかなか文章にならない。いくつかの関連する発想が重なったときに「これって一連の話じゃないか」と懇々と書き出す。今日もそんな引っ掛かりから、考え事を漏らしていく。

 

・女装して女湯に「忍び込む」という行為の考え方

先日、こんなニュースを見た。

news.livedoor.com

 

数年に一度はお見受けする感じのこういったニュース。側溝覗きやらサドル泥棒、ちょっと社会一般とは違った行動力と性癖持ちおっさんの「あぁ、やってもうたかー。」みたいな事件。今回もいつも通り何とも言えない悲哀を持って眺めていた。

 

ただこの事件を見ていて、ちょっとこれと関連させていいのかは微妙なのだけど、NHKバリアフリー・バラエティ番組『バリバラ』にて昨年末放映された特集が頭から離れなかった。それがこの企画である。

NHK バリバラ | LGBT温泉旅

LGBT温泉旅」非常に分かり易いタイトル。つまりは、ゲイセクシャルやレズビアンバイセクシャルトランスジェンダーといういわゆるセクシャルマイノリティの人たちで温泉に行ったら、女湯・男湯どっちはいったほうがいい?みたいな実験企画だった。

 

非常に攻めた特集で、温泉宿の女将さんをも巻き込んで「温泉とか性別を真っ二つにせざるを得ないとき、セクマイってどうしたら一番自然なんだろうね」と考える内容はなかなかに刺激的だった。特にFtMの万次郎さんを画面に映す際、胸部はたしかに女性、でも全くモザイクなしという選択、これには「さすが」と思った。

 

通常TVのモザイクには二種類あると想定できる。本人プライバシー保護のような「被写体個人が映されたくない」ケースと、エロシーンみたいな「社会一般的に放映するのが不適切」なケース。今回の判断は「男って裸の画面で乳首消さないでしょ?あと万次郎さんも望んでないし。」という正論真っ直ぐな放映を行った。既存の「性別」だけが放映の基準じゃない。そうした宣言にも見受けられた。

 

そんな特集を見た後だから切に思ってしまうのだ。「おっさんは本当にただ「忍び込んだ」のか?」と。ニュースだけを見れば、後から「女性の裸体が見たかった」と供述を変更しており「なんだただのスケベおっさんが女装を道具にした事例じゃん」と断罪出来るのだが。

 

もし、本当は「おっさんの性自認に揺れがある」パターンだとしたら。むしろ社会的に見ておっさんが「性自認の不一致よかスケベの方がまだマシ、と思っていたから供述を変えたんじゃ」とか。警察の陰謀論まで持ち出せば「立件する上で性自認の問題に持ち込まれると、法的にも話がややこしくなるから供述を覆させた」・・・とか。あくまでたらればの話、思考実験として捉えてほしい。

 

真相自体を知る術はないし、おっさんの行為はあくまでも犯罪なので断罪されて然るべきなのだけど。その本意を探ろうとすると、思った以上に難しい自我の話につながっていく。

 

(余談だが、女装して女湯凸は罪状として恐らく建造物侵入が適用される模様。公然わいせつでは・・・?と思うんだけど、入浴場は「公然」ではなく適用されないみたい。各自治体で条例が定められていれば違反にはなるかもしれないけれど。また戸籍上の性別変更の条件に「性器の外観の近似」が掲げられた要因として「公衆浴場での混乱を防ぐ」とある通り、そこらへんの法整備はなんだか逆に微妙なところ。小学生が性別関係なく銭湯入れる年齢なんかもネットを眺める限りまちまちらしい。)

 

 

・自分が抱くアイデンティティの範囲の無限性

もう一つ、この話に関連して引っかかった話題を挙げる。

 

昨年末、冬のコミックマーケットで発刊した弊サークルの新刊『’00/25 Vol.8』/「大怪獣サロン大特集」の中で、お話を伺った怪獣芸術家ピコピコ氏の示唆的な一言が脳裏に過った。

 

「本当は男だけど、女という自認が認められるのだとすれば。例えば日本人とドイツ人だって、国籍の違いが自認によって認められたりしてもいいのになと思うよ。「私はドイツ人だと思ってる!」とかね。基本的に男と女っていうのも「自分がどう思うか」っていう問題だから。最終的には「宇宙人だ」っていうのも認められてもいい気はするよね。こういうこと言うと怒られるから、あまり言わないんだけど。」

 

この短い文章には、茶化しているようでありながら、かなり多くの問題提起が詰まっている。そして、最後には「こういう事言うと怒られるから」と〆ている通り、こういう話題に敏感な人もいる。

 

「自認がズレているならしっかりと手続きを踏んで変更すればいいじゃないか、それで解決だろう。」という反駁も浮かぶ。現在、性別や国籍について、生まれ持った属性から変更することが法律上で認められている。それぞれの条件はあれど、何らかの理由で変更する相当の理由があれば、公的な立場からそのお墨付きを受け取ることも出来る。

 

しかし、ここでピコピコ氏の発言が問いただすのは「そもそも自分の自認で決まるものなら、国籍とか性別ってなんなんだろうね」という自己決定の本質の部分だ。極論「自分が宇宙人だという自覚を認めてくれるのは一体誰なんだろう」という話である。

 

例えばある日僕が突如天啓を受けて「ドイツ人女性」だという自認を持ったとして。それに対するあらゆる条件をクリアして、国家からそういうお墨付きを貰ったとしよう。もともとの「日本人男性」という存在。これは、一体何だったんだろう。という具合だ。

 

何が言いたいのかといえば、逆説的に。今多くの人が抱いている自分にとって、厳然たる「事実」に基づいた日本人そして男性および女性「であること」は、往々にして自認によって追従された「とされたこと」ではないかという事だ。確かにこれは詭弁だし、男女という生物学的な事実は存在するし、国籍は基本的に揺るぎもしない。ただ、自認ベースで権利取得を目指す昨今のLTGB議論に耳を傾ける中「じゃあ僕は何者なんだろう。」という自分への問いが足元まで及んでいるように感じたのだ。

 

・無思考による追認からの離脱

また少し。しょうもない話をここで挟みたい。

 

僕の父親は誕生日が2つある。戸籍上は11/27で、正確には11/28だという。祖父が書類を出し間違えたとかいう話らしい。そういうこともありうるものなの?と胡散臭いのだが、戦後間もない時代の混乱期、そして4人兄弟の末っ子。まぁ、なくもない話なんだろうなと思う。

 

結局、家族で訂正などを検討したものの僕の親父が「手続き上面倒だ」という事もあり戸籍上の27日を自分の誕生日にした。という。自分の誕生日を自分で選択するというのもよく分からない話だが、これもまた小さいながら「本来あるはずのない決定権を得た」行為と言えるだろう。

 

本来あるはずのない選択権。昨今のLGBT議論はそこを掘り下げにかかっている。過去から社会的に「事実」とされ、疑いようのない、疑問をさしはさむ余地のないものとされた性別・恋愛対象。そこに対して巻き起こっている現代の反駁を、単に「セクマイの社会運動」としてではなく、その議論の本質をもう少し広い視野で眺めても面白いと思う。

 

例えばこの日本という国の中で左翼右翼と全く違う「国籍観」を保有している人たちがいる。(大東亜共栄圏発想と戦争犯罪国家的な対立)よくこれを「歴史観」と言うが、歴史はどの時代でも改ざん可能だ、という事実くらいはそれぞれ分かっていることだろう。それでも頑なに自身の主張をぶつけ合う姿を見ていると、自分の在り方そのものをぶつけ合っているように見える。自我そのもの「国籍観」の衝突に見えて仕方ない。しかし。それらはお互いに「固有」と信じ切っているものの、恐らくどこかで彼らは「選択」をした。だからこそ、国籍という観点から大きなズレが生じている。

 

僕らは揺るぎのない自我として「国籍」「性別」「性嗜好」など様々な付属品を身に着けている。それらは本当に生まれ持ったものなのか、あるいはどこかで選び取ったものなのか。もう一度問いただす場面に来ているように思える。

 

最後に。冒頭に掲げた『バリバラ』で。そのエンディングに重要な議論があった。自らの性自認を、外観や心中、恋愛対象など5つの項目に分けて、それぞれをバロメータとして表すフリップを使ってディスカッションが行われていた。

 

どの部分が男性的、ただここは女性的、あるいは中性的など。結論から言えば、その趣向や意見は同じトランスジェンダー同士でもバラバラだ。主にセクシャルマイノリティはタイトルにもある「LGBT」という4種で見られているが、本質的にはこの4種の区分はあくまでも大きな枠組みである。

 

恐らく、本来僕らが持っている「固有な自我」とは、カテゴライズ出来るほど明確なものでなく、そして自分でも理解が及ばないほど複雑な状態のように思える。そこへの単純な仮回答として「国籍」や「性別」という枠組みが与えられているに過ぎない。単純化した自我がないと生活がままならないというのも仕方のない話だが。

 

セクシャルマイノリティと呼ばれる彼ら彼女らが、その運動にレインボーフラッグを掲げるのは「7色もバリエーションがあるから」ではなく「カラフルな色が不可分に存在するから」だろう。男女、国籍、そうした可分な現実から、不可分な内面を想像すること。まるで仏教のような結論に至っているけれど、恐らく今の時代。幸福感やら社会的達成が個別化されてきた中で、大切な視点、思考方法のように思える。

 

まとまりのない雑感を日曜の昼に捲し立てた感がある。風邪気味の暇つぶしにはちょうど良かったかもしれない。