わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

正しさの限界と未完成な自分~Twitter10年を考える①~

今年でTwitterを使い始めて10年になってしまう。便所の落書きも、10年続けば立派な病気である。そんなわけで、その10年を振り返りつつ、ちょっといくつかの論点から数回に分けて連続的に思いついたことを書いていくつもりだ。ネットやらそこらへんと自我の話だったりいつも通り、基本根暗ベースなのであまり面白い話ではない気がするけど、自分が今書けるネット総論として、残してみたい。

 

・ネットとデモクラシーという関係性から

大学時代、政策やら政治をかじっていた僕が卒論に選んだテーマは「eデモクラシー」というものだった。2008~10年当時、オバマ氏がFBを使って不利と言われた米大統領選に勝利したり、アラブ諸国ではSNSを使った民主化運動が過熱、日本でも民主党がいよいよ政権を奪取。長きにわたった自民政権が終わりを迎えるなど変化の時期にあって「ネットって民意反映にとって面白いツールなのでは」と選んだテーマだったように思う。

 

電子投票の議論も相まって、当時はそこそこ熱のある話題だった。それから約10年。広くスマホが普及し、SNSのアカウントは一部のネットユーザーから老若男女一般層にまで拡大。その結果、マスコミを中心とした情報流通の仕組みが変わり、アメリカ大統領さえも日々Twitterを駆使、それによって世界情勢が大きく振り回されるようになった。

 

こう見ると、ネットによる民主政治は加速しているように見える。ただ、どちらかと言えば、チャーチルが言った「民主制は最悪な政治形態」という言葉がより鮮明になっただけかもしれない。日々流れてくるクソリプの応酬を見れば、民主政治の主体たる市民さま方の発言にゲンナリする毎日だし、そうした衆愚に加担したくない頭良き方々の主張合戦も、結果自分の肯定のために吐かれている言葉がほとんどのように見受けられる。

 

と、斜に構えてそう言ってる自分も、結局はTwitterで10年を過ごし、ここで好き勝手物を言いながら、自分の足場を確かめるだけという作業を延々行ってきたにすぎない。そんな時間を過ごしているうちに、ネット社会において「正しさ」という概念自体が、ある種限界を迎えているように思えてきた。

 

・この時代が提示できる正しさの姿

数年前に「正義」について語り、ベストセラーになった本があったけれども、結局それを読んだところで、モヤっとした気持ちは消えずにいる。むしろSEKAI NO OWARIだって歌っている通り、人にはそれぞれ正義があるんだから、定義するのもおこがましいというのが最近の定説くさい。

 

そもそも普く人に与えられた「正しさ」は本当にあるのだろうか。一見、確実そうな定義として「正しいこと」=「嘘でないこと」という定義を考えたい。最近のはやりで言えば「デマ」でなければ「正しい」ということだ。こう見てみると、白か黒かという認知はしやすそうである。ただ、これも正直「であること」と「とすること」の境は、案外類推に任せることが多かったりする。

 

例えばツイッターにおいて。ある情報がデマでないかどうかの判断をいかに行うだろうか。その発言についてくるリアクションを確認し、別の識者がデマと断定していたり、あるいは発言者の普段の言動が怪しさなどで判別をつけたりする。つまるところ、その話題に対して自分が明白な答えを持ち合わせていなければ、白か黒かの判断も、結局自分のバイアスによって変化してしまうわけだ。

 

昨今。いわゆる道徳的、歴史的にみて「正しい」とされる観念はSNSの個別意見によって分解され、むしろ個人個人が何を「正しいとするのか」という判断に委ねられる存在にまで降りてきたといえるのかもしれない。

 

例えば校則。いわゆる「ルールがあるから守られるべき」正しさの典型だろう。ただ、最近では、髪の色議論なども記憶に新しく、時代にそぐわない校則に関する対応などもネット議論の対象になっている。現代において「正しさ」というものは天賦的に与えられるものでなく、僕らが作り出すもの。むしろ共有されて生じる合意のようなフラットな「正しさ」のイメージは、このネット社会における議論の本質を感じさせるものだと思う。

 

・「自己肯定」から生じる歪み

そう考えると、今の時代。「正しさ」を生成するうえで、非常に重要な存在が浮かび上がってくる。それが「自己肯定感」だといえる。正しさを作るのが個々であるならば、逆説的に「自分は間違えていない」と考えなければ、そこに正義は生じない。あの対応は今の時代に反している。そんな批判は、自分が正しい陸地に立っているという自己肯定からスタートしている。

 

正しくあるためには、自分が間違ってはいけない。僕が勝手に一人で感じているだけかもしれないが、昨今のネット社会に感じる窮屈さ、なんとなく流れている強迫観念。そうしたものの根底には、この思想があるのではないかと思う。

 

今のネット社会における自己肯定の姿は、承認欲とも密接に結びついている。多く賛同があったから自分は正しい。社会を動かす影響力が数字として見える分だけ、自分は正しい。反対意見は、当然のことながらそれを受け入れれば、自己否定にも繋がってしまう。人としての価値を賭け、それら反駁に対して、同意見者の連帯をもって烈火のごとく反発をする。SNSで日々見受けられる日常的な攻防である。

 

見てわかる通り、ネット上における正しさにはキリがない。どうしたって、自分と意見が合わない人間は星の数ほどいて、逆に自分に賛同する人も数多くいる。それぞれがコミュニティを形成しながら、自己肯定を相互に承認し、自陣の掲げる「正しさ」を生成し続ける。はっきり言えば、この構図を見ていていい気分ではないし、結局のところこうした対立軸、あるいは自己肯定の沼とも言える状況に、僕は冒頭掲げた「正しさ」の限界を見てしまったという具合だ。

 

・未完を受け入れること

 「正しさ」という概念を見出すことに無理がある。それは確かにそうかもしれない。ただ、今回の最後は、ちょっと飛躍するが大乗仏教にまつわるこんな話を引っ張って終わりたい。

 

大乗仏教は成立した年代から考えても、釈尊の教えを直接的に伝えたものではない。それでは、仏教として後付けで作られた「偽の劣った教え」なのだろうか。そんな古典的な問いがある。

 

この問いに対しては多くの回答が用意されているが、その中でも大竹晋氏『大乗非仏説をこえて』(国書刊行会)という本において、数ある「大乗仏教は非仏説(釈尊の教えではない)」に対する反駁として、非常にクリティカルな回答が用意されていた。

 

簡単に記すため語弊覚悟で書くが、大乗経典をもとに、その僧が修行をし、徳を積んだところに得られる「大乗仏教は正しい」という確信、あるいは体験が多く残されているからこそ、大乗仏教は仏説である。という回答だ。これだけ読むと「はぁ?」という感もあるだろうし、強引さもわかる。なんなら先に挙げた昨今の「正しさは我々が作り出す」という現代の思想に近いような気さえする。

 

では何が違うというのか。その差こそ、修行によって仏説だと確信しながら、まだ決して完成には至らない、自らが未完だという自覚、境地にあると思った。我々がネット上の議論で見かけるのは「正しい」か「正しくないか」という今存在する自分自身の肯定に纏わる衝突である。今の自らの知識が、そこで完成されている前提で殴り合っている。

 

対して、そうした修行僧らが得た境地はといえば、未完ながらも正しい道を歩む、という過程的な自己肯定感と言える。先の言い方になぞるならば「正しくあろうとするか」という、生き方の話である。その生き方自体が周囲の人に感化を与え「正しい在り方」を伝播させることで、結果大乗仏教の本質たる衆生の救済という大願へつながっていく。

 

徳を積む、という言い方は過度に仏教的かもしれないが、瞬間的に正しいか否かということでなしに、先々を見て「正しさに至ろうとしているか」という事を、各人が自らに問うべきなのだろう。今、ネットを見ていると、あまりに即時的な「正しさ」またはそれに基づく「自己肯定」に依存しすぎているような気がした。今、自分自身が正しくなかったとしても、そこに至ろうという未完成を受け入れる姿勢こそが、より健全な知恵と、より大きなものを包括する議論につながるんじゃないかなと。

 

ツイッター10年を振り返る第一夜、こんな説教、というか説法くさい話で終わろうと思う。また思いついたらぼちぼち書いてみたい。

 

『カメ止め』がつまらない、のは何故か考えてみた話。

春眠マジで暁を覚えなくなってきたこの頃。花粉も飛んで、仕事に身が入るわけもなく、月曜から生産性のない考え事をしていた。今回はめずらしくサブカル論評みたいな話題になりそうなので、各位は優しい心で受け止めてほしい所存です。

 

・『カメ止め』好き?

先に言っとく。僕は好きです。昨年秋口から口コミで大ヒットとなり、社会現象にまでなった『カメラを止めるな!』。最近ネットやCMで見る企業や自治体との安易なコラボ広告にはちょっと閉口モノだけれども、個人的には面白かったと思う。ていうか、それが乗じてこんなめんどいレビュー記事まで書いたほどだ。

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この作品。もちろん大ヒットになったということで、絶賛する人がいる反面で叩く人も案外多い。実際、僕も上映当時一度見た後、友人から感想を聞かれ「面白かったので見に行こう」と誘ったところ、見事に彼にはダダすべり。最終的には「いや、なんか誘ってごめん・・・」「いやいや、面白く感じない俺が悪いから・・・」と2時間ほど非常に気まずい感想合戦となった。

 

それ以降、タイトルにある通り「あの惨劇は避けられなかったのか」「『カメ止め』が面白くない人ってどういう目線で物語を見ているのか」と考えるきっかけになったのだった。そして先日、テレビ放映を終えたら案の定「カメ止め つまらない」という組み合わせがトレンド上位にもなっていた。おお、やはりいるもんですな。

 

今日はそんな「叩く人」の目線から『カメ止め』の物語の仕組みを確認、そして、話を広げてそもそも人によって感じる面白さの違い、つまり人にとっての「物語の向き不向き」についてそのエッセンスだけ、考えてみたいというお話でございます。

 

・好き嫌いが分かれる珍味「メタ作品」

アニメや映画のレビューを読む際「メタ」という言葉が濫用されているのを見たことはないだろうか。僕もゼロ年代サブカルクソオタとして、大して意味もないのにこの言葉を安易に使いたがる。しかし、この「メタ」。実際、何ぞやと聞かれると、ちゃんと説明するのが難しい。

 

よし、これを枕にブログ書き出せばある程度の取れ高が、と思ってたらこちらのサイトでよくまとまっていたので貼っておく。そうそう、こういうこと。うん、分かってたし。
storymaker.click

 

つまるところ、物語の世界観から「超越」する表現方法、それが「メタ」と呼ばれる手法である。『カメ止め』では、冒頭の『ONE CUT OF THE DEAD』という「ホラー映画」の世界観を後半で自ら壊し、舞台裏を物語の本筋に置く。その作中劇スタイルは、上記ページに説明がある典型的な「メタフィクション」の要素であり『カメ止め』がメタ的だ。と言われる所以がここにある。

 

ただ、ぶっちゃけて言えばメタ的作品は、物語としては王道ではない。ふと逆の王道作品を思い出せば話が早い。例としてジャンプ漫画など『DB』から『ONE PIECE』『スラダン』などなど。主人公がストーリーの中で成長し、苦難を乗り越える。読者はその苦闘に共感し、キャラのセリフに自らを重ねる。このマンガに感動した!勇気をもらった!と語る人は、大抵この「王道」作品を列挙する場合が多い。

 

それを考えるとメタ作品がいかに亜流な存在であることが分かるだろう。物語を自分で壊しにかかり、その壊した先で「衝撃」を与える。同じジャンプの鳥山明作品でも『Dr.スランプ』は、かなりメタ的だ。キャラが突如、読者に話しかけてきたりする。そういう「想定外」の混乱を物語に招き、読者に笑いや驚きを与えたりする。つまり「メタ的な作品が好き」などと自分で言っちゃう人は、正直ちょっとひねくれてるのが常だ。

 

・向き不向きは「メタ」との距離感

少しずつ冒頭の問いに答えていこう。つまるところこの「メタ表現」への許容性があるかどうか。これが『カメ止め』の評価に繋がっているのではないか、ということである。恐らく、上世代のオタクからは「何をわかりきったことを」という反応が予想される。

 

その要因として1984年公開の『うる星やつらビューティフルドリーマー』の存在が挙げられる。高橋留美子すら「別作品です」とコメントしたほど、原作世界をある意味壊しにかっかった劇場版2作目。「虚構」を「虚構」として自覚するという手法は、当時のリアルタイムオタクたちに衝撃を与え、傑作あるいは問題作として名を馳せた押井監督初期の名作である。

 

そして当然のことながら、当時もこれが許せないファンがいた。つまるところ「メタ」は純粋に「物語」本筋を楽しむ人に対する挑戦、あるいは挑発にも受け止められる。

 

『カメ止め』で考えれば『ONE CUT OF THE DEAD』という作品をまず楽しみにしてしまった結果、後半の「はい、あれはウソでしたー」というネタバらしを見た途端、映画としてシラケちゃったという帰結は容易に想像がつく。いやいや、あそこまで「ネタバレ禁止」って言ってて、これ?という落胆は、レビューでも結構見受けられた。

 

ただ『カメ止め』がミニシアターにとどまらず、社会的ブームになったのは、単にメタ作品による驚きや笑いがあっただけではないだろう。本筋は亜流であるメタの形をとりながらも、後半で家族の絆を扱った「王道ホームコメディ」としての体裁を取り返しに来たのが大きい。つまり、一作品の中にも様々な要素がある。メタな部分と王道な部分、普通それぞれが共存しながら物語は紡がれていく。

 

そして、もちろんそこから何を受け取るかは人それぞれである。序盤のゾンビ映画を「くせえぞ」と怪しみながら見たメタ作品ファンもいれば、ホラーに期待をした結果30分後の転換にシラケた人、あるいはそこからの父と娘の王道ホームコメディに胸を熱くした人、自分が『カメ止め』のどこに何を感じたのか。

 

クソだと思った人も、面白いと感じた人も、本作を見た上でこれを考えてみると、一体自分が「何に面白みを感じるのか」という自己理解への一助になるだろう。

 

・流血沙汰の「作品論」をなくすために

そして、最後の結論はここに繋がる。冒頭僕自身が友人とやらかした感想戦。どちらも得をせず、なんならちょっと険悪にもなった。そして『カメラを止めるな!』だけにとどまらず、ネット上における「あれはツマラナイ」「いや面白さを理解でいないお前がクソ」という悲しい言い合いは、インターネット史以来の風物詩となっている。

 

正直、根絶はできないまでも減らすことはできないもんかと常々思っていて。今回の『カメ止め』を巡る考察が多少なりとも和平工作へ寄与できるのではないか、というのが本記事の主たる目的だ。

 

古来、オタクたちはこのような「メタが与える衝撃派」か「純粋に物語を楽しむ派」か自覚的に把握しながら殴り合いをしてきた、クソめんどくさい人種である。(ぶっちゃけ綺麗には不可分なので、結果泥沼なのだけど)だからこそ、対立はあくまでもディベートのそれであった。お前の言い分もわかる、だが、俺の理屈でねじ伏せる!的な。

 

昨今、そうした「メタ」という作風が広く一般化した結果「メタ」か「アンチメタ」かという作品へのスタンス論でなく、単純に「人生観」「感受性」での殴り合いとなってしまっているケースが結構見受けられる。いやぁ、それで殴ったらアンタ心から血がでるよ・・・と思わずにはいられなかったりする。

 

人によって、それぞれの得手不得手なストーリーがあり、そして配信サービスが群雄割拠し、過去にないほど多くの作品群に我々は囲まれている。あの人の批評は、恐らくこういう視点からでは。僕はこの目線から面白くないと思う。こうした自分の感情の言語化をもっと丁寧にすれば、もう少し心穏やかにインターネットの海を泳げるんじゃないかなと。

 

そんなことを思いながら、適当に働いてた暖かな1日でした。

「上坂すみれのノーフューチャーダイアリー2019」で再確認した異常性と安心感

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2.10 革命的ブロードウェイ主義者来襲に怪しく光る神奈川県民ホール


そろそろ僕も大人なので、ちゃんとページのHTMLとか弄ってヘッダから既刊紹介ページに飛べるようにしてみた。さすが、超エライ、サイバーエクスペリメンツ(適当)。

 

ていうかこれまで数年間、当ブログこそ同人活動の旗艦宣伝ページのはずなのに、どこにも委託先のリンクや既刊紹介ページのURLすら貼ってなかったのね・・・「え?同人誌なんて作ってたの?オタクじゃないと思ってたのに!気持ち悪い!!」という人はこれを機会に覗いてみてください。

 

ということでそろそろ本題。時間けっこう経過しちゃったのだけど、いよいよ今週ツアーファイナルを迎える「上坂すみれのノーフューチャーダイアリー2019」その初日、神奈川公演行ってきたよ、っていうレポートである。

 

上坂すみれファン宣言から2年

以前、このブログで高らかに「僕は上坂すみれのファンになる」そう宣言したのも最早懐かしい。思い返せば2016年12月にまで遡る。

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声優アイドルとしてカテゴライズしにくいその独創性と、プロレタリアート階級労働者を労いながら搾取するというダブスタ余裕な芸風に惹かれ、このような記事を書いた次第である。しかしながら、人間、その熱量はそこまで続かないものだ。毎日忙しいしね。

 

音源などは手に入るだけ入手してみた。しかしながら、確実に僕自身イベントに足を運ぶかと言えばそこまででもなく、この今日に至るまでの間実際に彼女のパフォーマンスを見られたのは、その年明けにあった「KING SUPER LIVE 2017 TRINITY」と2年間の「アニサマ」のみ。彼女が本音ベースで暴れる現場を見ていないという意味では、現場参加は実質ゼロと言っていいだろう。

 

え、フェス行っといて参加なしとか・・・そこまで厳しい基準を敷かなくても・・・ファンの基準を一様に縛るんじゃない・・・昨今ツイッターで横行する「好きっていう気持ちに形ってないやん?」みたいな反応が既に脳内に響いている気がするが、上坂すみれの現場というものは、やはりそんなものではない。既に2月10日に神奈川県民大ホールにて行われたツアー初日を見て確信した。

 

・「いや、だって話す人いないし」

冒頭、久々の単独イベントということで、ここ数年の大きいイベントの話題になり早速出てきたのがこの言葉だ。一般人が聞いても「確実にこの発言、業界において絶対得にならないだろうな」と直感するようなことを平気で吐き出す。上段で「参加現場は実質ゼロ」と書いた心因はここにあるし、それこそが上坂すみれのMCが一級品である証左と言える。

 

まだまだ続く。神奈川県民大ホールの形状を把握次第「これは関係者席がない会場ですね・・・最高じゃないか」とか確実に発言のタガを自ら外しに行ったり、グッズ紹介の場面で「このグッズあげます、じゃあこの中で職質された回数が多かった人」とか「あの、あそこ髪染めてる、バカっぽい人」と観客を指さす始末。

 

また、でんぱ組.incの話題の際は「自分がアイドルユニットを組むなら」という話に。「私ならガンダムとATと組んだりするんですかね。でも、声グラ表紙とか載るとサイズ比がおかしくなっちゃいますね」いや、そもそも、ロボとアイドルユニット組むって前提をナチュラルに持ち出しすぎて、観客もその超展開にスグにはついていけてない。なんならAT(アーマードトルーパー)を解説なしで話にぶち込むなど、さっきまで新規ファンを歓迎していた割には、ボトムズ履修前提のエグイ対応である。

 

更に、公演中すでに飲酒願望丸出しで、水を飲む際には客と「乾杯!」と叫ぶ。今回の筆頭アンセム『よっぱらっぴ☆』では客の「S・A・K・E」コールと共に歌う。掟ポルシェ作曲の『チチキトクスグカエレ』では、掟氏のパフォーマンスをオマージュ、包丁を振り回しステージ上でキャベツの千切りをしながらの熱唱。本当なんなんだこのアイドルは。

 

久々の現場ながら、やはり他では見られないモノが見られた気がする。

 

・友達にはなりたくない、けど応援はしたい

そして、何より特筆すべきは生バンド演奏である。今回ツアーのメインアルバム『ノーフューチャーバカンス』について、個人的な感想を言えばこれまで以上の雑多さを感じていた。当然、曲の提供者や参加アーティストが異なっていたりと、上坂すみれらしいバラエティに富んだアルバムなのだが、逆にとっちらかった印象も拭えなかった。

 

しかし、ライブでは生バンドが一貫して演奏をするため、アルバムの各曲も驚くほどまとまりのある「楽曲群」として聴くことが出来た。なんなら、このライブを経てアルバムの完成形を見た思いである。

 

そんな大満足の演奏と同時に、上記の通り上坂すみれが破天荒なことをしゃべり続ける。¥9,999で壺をファンに売りつけたりする。正直、わけがわからない。ただ、楽しくないはずもないのだ。2016年年末以来のこの高まり、少し冷めていた自分に再度熱が入ってしまい、気づけば、とうとうファンクラブ(コルホーズの玉ねぎ畑)にも加入してしまった・・・。

 

そして、上坂すみれのファンになった、とオタク友人らに言えば「え、すみぺ?本気?(笑)」という反応が8割である。いや、確実にその反応で正しい。これまでの文章を見れば分かってもらえるだろう。ただ、やはりツアーレポをここに書こうと思ったのも、好みの差は(激しく)あれど、僕以外や古参の革ブロ以外でも「上坂すみれの現場、面白いかも」と感じる人がいると確信したからだ。

 

上記の異常な発言を見ていると、なんていうか。友達にはなりたくない。でも、なんか応援はしたい。個人的にはそんな感じ。ただ案外、僕にとっては声優アイドルとの距離感として、大正解なのだと感じる。

 

この週末。3/9(土)には埼玉の大宮ソニックシティ大ホールにてツアーファイナルが行われる。コル玉の一員となった僕も勇んで参加したかったものの、会社ゴルフコンペ幹事という不可避かつ無慈悲なバッティング。ぜひ、参加される同志は楽しんでほしい。

 

僕自身、2016年の年末に両国で感じた「これは・・・何かがヤバい・・・」その感情を少しずつでもまた拡散出来たらとの思いでこのような文章を書いてしまった次第である。末席が何を言ったところで片腹痛いかもしれないが、それ以上に上坂すみれの現場は面白い。この事実だけはやはり当ブログでも残しておくべきだろう。

 

2.10神奈川大会において「団結、生産、反抑圧」のスローガン斉唱すら一瞬忘れかけた上坂すみれ代表。この4月には、あの清竜人作曲の新タイトル10thシングル『ボン♡キュッ♡ボンは彼のモノ♡』を引っ提げてくる。今年度もますます楽しみである。

 

若者の同人離れと「自惚れ」についての考察

「若い人が同人製作に新規参入しにくい。」

 

この手の話は頷くところが多い。最近、この類のツイートやら発言をよくネットで見るようになった気がする。昨日もこんなツイートが流れてきた。

コミケも毎年多くの参加者を抱え、せっかくイベントとしての規模も大きくなっている中、そこを担う若手の作り手が減る傾向にあるとのこと。中堅30代不足にあえぐ弊社か。とツッコミを入れたくなるが、その要因、あるいはその先を考えるため、回想がてら自分が同人に足を踏み入れたころを思い出してみたくなった。

 

・覇権は『月姫Fate』『ひぐらし』『東方』

なんとなく言いたいこと、バレてる気がする。2000年代初頭から中盤にかけて、同人コンテンツでも筆頭を誇っていたこの御三家。同人界にこれら作品が登場した瞬間を知っている人なら、その熱量は理解いただけるだろう。そう、圧倒的な世界観、音楽、そしてテキスト量。いずれもモンスター級の作品だ。

 

ただ。敢えて誤解を恐れず言えば、それぞれ絵を見てると「あれ?俺も描けるんじゃ」当時そう思った御仁は少なくないはずである・・・はずである。先生、怒らないから正直に手を挙げなさい。

 

・・・はい。僕はそう思いました。ということで、なんだお前が性格悪いだけじゃんみたいな話になりそうだけど、続けてみよう。当時『月姫読本』やら『東方求聞史紀』(まだ目の前にあるけど)など資料を買い漁って延々模写を繰り返し、何とか本家並みに可愛い、そして評価を得られるキレイな絵を描きたいとの熱意に燃えた。マール社教則本もなけなしの金で何冊買ったことだろう・・・

 

そんなある日、スケッチブックに気合をいれてコピックで色まで付けて、一枚を描き上げる。そして思うのだ「あれ?俺、めっちゃ上手く描けてるのでは」そう思ってしまった、すくみづ少年は翌日学校でクラスのオタク数人に型月ヒロイン大集合みたいな絵を見せて回り、お互いに描いた絵を講評し合う。それによって悦に入ったり、ひいては「俺もいつか同人誌出すんだ」などと興奮気味に、すみません、もうこれ以上思い出すのやめていいですか。ちょっと吐きそう。

 

漆黒史なので以降は割愛するけども、如何せんすんごい己惚れてたって話。いやぁ、10代って恐ろしいよね。(今見るとほんとひどい)

 

ただ、その時に感じる「俺、すごくない?」「自分もしかして天才では?」みたいな、アレ。正直言えば、未だに評論同人などの企画考えているときに沸いてきたりする。そして、案外そんな思い違いがモチベーションになってくれたりする。(当然、しっぺ返しもあるんだけど)要は「自分ってすげえかも。」この勘違いを抱くことが、いま難しいのでは。という話だ。

 

・客観視スキルという「脆弱性

昨今の若者の同人製作離れ。僕個人としては、上で引用したツイートの「印刷代等の高騰」は一理あれども、直接的な要因ではないように思う。確かに値上げは各所で認められるものの「参入」という部分を考えれば、昔より少部数印刷は安価に済む。

 

直接的な要因はやはり「レベルの向上」だろう。ここ10年ほど、同人ショップに並ぶ同人誌の表紙も明らかにその質が上がっている。ネットでもCG定点観測の小さいアイコンカチカチしてた時期と比べると、今のタイムラインに流れてくるイラストの質は恐ろしい。

 

それでは、この「レベルの向上」これは一体何なのだろうか。

 

よく言われることだが、インターネットにおける資料の大量散布、そしてハイレベルなイラスト、アイデアの共有によるものと思われる。ネット上のアーカイブも一気に充実、情報も具体的な素材も手に入る。これがインフラ化した結果、今のような「ハイレベル」な絵師の増産に繋がったのでは。

 

ただ、今回の主題は書き手の話でない。同人の参入ハードルの問題、つまり受け手の話だ。新しく絵を描きだそうと思っても「TLの絵師のレベルの高さに萎縮するんじゃ」というのはよく見る意見だが、より本質的なことを言えば、むしろ読み手、受け手の「目が良くなっている」のではないだろうか。

 

日常生活においてスマホを持ったことにより、常に「完成された画像」を眺めている時間が増えた。これは二次元絵に限らない。例えばインスタでセンスのいい構図の写真を延々と1日何時間も眺めているだけでも写真レイアウトに対する感受性は異なるだろう。

 

つまり昨今において「自分の絵」を見て「俺すげーかも」と勘違いできないだけの目の良さを、絵を描きだす前からスキルとして得てしまっているのではないか。そう感じたのだ。

 

・本当の承認欲求を満たす為の「寂しさ」

上記で書いてきた客観視スキル。これは、インターネット時代の副産物として大きなものだ。創作に限った話ではなく、考えれば、SNSとは常に他者から見られる前提で振る舞い、そして共有をするツールだ。

 

インターネットの拡充した現代は、自分の行為を客観することに非常に長けた時代と言える。逆に、客観性を失った投稿や発言は、程度の差にもよるが炎上を招くケースすらある。

 

話を創作に戻す。つまるところ「こんな絵で、誰からも評価を得られない」などこの手の発想に行きつきやすいのが、このソーシャルネットな時代の特徴であり、ひいては同人参入や創作への意欲低減を招いている根源なのでは、と妄想気味に分析してみた。はっきり言えば僕もこうした被害妄想を抱えている。それでも、ここに。また同人誌に、文章を書き続けていたりする。

 

 

最後に僕なりの考えで終わろう。自分を客観視するというのは、他者からの承認を求めたいという願望の一端でもある。簡単に言えば、人からバカと思われたくない、とか、すげーと思われたいって話。では手軽にその願望を叶えるにはどうすればいいか。

 

例えば、動画でもスクショでも撮って、ツイッターでバカを叩けばいい。自分を客観視出来ないようなバカを断罪することで、自分の地位を守ればいいのだ。そうすれば客観的に見て「自分は正しく在れる」それは保証される。ただ、恐らくそこで満たされる感情は、きっと僅かなものだろう。

 

承認欲求には質がある。本当の意味の承認には、孤独が伴う。実際、自分のやっていることに本当に価値があるのか。という問いを自分にしなければならない。その段階で自分を客観する必要はまるでない。やるか否かは、自分の判断だ。その葛藤の末に完成したもの、成し遂げた事に、初めて承認欲求の重みが伴う。

 

当然、その行為や創作が本当に凄いのか、面白いかどうか、というのは客観スキルが必要となるけれども。ただ、今回はその根にある「衝動」のお話。今、何かをする前から、客観する癖が本当につきやすい時代だと思う。ただただ、独りの自分として。バカな事のように思えても、客観を敢えて遮断して、独りになる。己惚れる。

 

自らの意思を見直す時間や隙間を作ってもいいのではないか、という説教臭いお話でした。

一旦、コミケ参加をお休みしようと思いました。

画像クリックで既刊アーカイブページ「わがはじの!」にとびます

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もう3月。「え、早い。うそでしょ」とSiriに何回聞いてみても「今日は3月」と言い張るし、「歳をとりたくない」と言ってみれば冷淡に「そうですか」と帰ってくる。ダメだ、現代のAIには情緒ってもんがない。もっとこう、冷却水漏らしながら「はわわ~」とか言える愛のあるAI(cv.堀江由衣)を、シリコンバレーでも深圳でも、太平洋ベルトのどこでもいいので、早いところ作ってほしい。

 

ということで、世間はすっかり冬物クリアランスも終わりに近づき、花粉で苦しむ人がチラホラ。または、場所によっては桜の開花予報まで聞こえてきた。春、卒業の季節である。僕自身、先月末に仕事関連の資格試験があって、久方ぶりに真面目ぶって勉強などしていたら、完全にこちらの更新も止まっていた。そろそろ、行儀よく真面目なんてクソくらえとなんとなく思ったり、俺たちの怒りどこへ向かうべきなのかとふと疑問に感じたので、こちらの更新も再開である。

 

・夏コミお休みします

当方、こちらのブログでもたまに宣伝している通り、雑誌やらエロ漫画など自費出版をして、その本を人に売りつける同人活動なる怪しいアクティビティを趣味にしている。今回、メロンブックスさんにおいて電子書籍化なども進めた関係で、これまでの既刊アーカイブのページを久々に更新したので、ぜひ見てみていただきたい。そして気になったらぜひポチってみてね。エロ漫画もまだDL販売してるよ。

わがはじの! http://sukumizumi.tumblr.com/

 

こういうアーカイブの整理みたいな作業をしていると、どの本をいつ頃出したのか、ということを改めて思い知らされる。するとどうだろう。2013年末に創作エロ着ぐるみ漫画『めたこい!』を発刊して以降、夏と冬のコミケには2018年末発刊のコピー本まで、毎度新刊を出し続けていたらしい。その期間、丸5年。

 

考えれば、弊サークルの本って案外準備期間に時間がかかっている。漫画ならキャラ創作からネーム、そして下書き、線入れ。雑誌なら企画立案からアポイント、対談、文字起しからデザインなどなど。何が言いたいかっていうと、実質、20代の後半5年間、お前仕事と同人活動しかしてねえんじゃねえか?ということだ。ちょっと自分で引いた。

 

まだ、企画としてはやりたい事もあるし、雑誌シリーズ「'00/25」シリーズの第10弾も、既に構想はある。ただ、そろそろ僕も一旦時間をとって、インテリジェンスな人脈をレバレッジしてみたり、アンビバレントな環境に自身をアジャストしてみたり、上坂すみれの現場に行ったり、ゆっくりスト5AEしたい。

 

ていうか、久々コミケ一般参加でプリキュアのレズエッチ本とか評論本、メカミリ本とか自分で見て回って、たくさん買いたい。三十路の夏、そう固く決意したのである。

 

同人活動をやっててよかったこと

いや、同人活動終えるわけではないんだけど、この5年間いろんな方法で本を作り続けてたら、案外いいことがあったりした。是非「作りたいけど・・・」とか悩んでる人いたら、やっちゃえニッサンって感じで手を付けてみてほしいという話を簡単にしてみたい。

 

まず、スキル的によかったなと思ったのはAdobe系ソフトがなんとなく使えるようになってたこと。文系生まれ文系育ちなので、どこで習ったわけでもないのだが、やはり人間なんて必要に駆られたらやるようになるもので。

 

「こんなものが作りたい!」と最初にイメージを固めてから、方法論を考えると「ページものは写真屋じゃ無理だな・・・イラレかー」「100P超えるとさすがにイラレ諦めてインデザだよね・・・」と絶望と共に新ツールへ手を出さざるを得なくなる。

 

当然、本職ではないので、それぞれ簡単な作業にとどまるものの、やはり明確な目的があってから、手段としてツールに手を出すと把握も早い。そして締め切りがあると、案の定、尚早い。

 

また、雑誌を作る中でメインが対談企画だったので、本来話をするはずのない人と交流を持てたのは一番面白かったと感じる。事前にとっかかりがなければ、突然のDMやメール、あるいは飲みの席で紹介してもらって、なんてことも。根暗かつ人見知りな性格ながらも、こういう類の思い切りだけはよくなった気がする。

 

対談自体もいろいろあった。大阪なんばでAM2:00待ち合わせアポイント、ゲイバーで録音しながら飲み明かして、そのまま始発の新幹線で帰宅とか。某氏との対談録音の際には、お互い飲みすぎて完全に記憶をなくし、気づけば朝4時の自由が丘。タクシーでなんとか這いずり帰るも、やはり音源ではお互い何言ってるのか分からなくなっていて後日再戦とか。あるいは1週間ぶっ続けで大怪獣サロンに通い倒し、飼育されてる亀(ブリュレちゃん)の動向を学んだり、Youtubeでうじ虫動画見させられてトラウマになったり。

 

楽しかったのは確かだけど、あまり同人活動のおススメにはなっていない気がする。

 

・一度、止まって物事を想うこと

なんだか脈絡がなくなってきたが、話を戻そう。どこでも言われることだが、やはりアウトプットというのはインプットがないと成り立たない。燃料もなく、何かを延々吐き出し続けるというのはよほどの天啓でもない限り無理がある。

 

僕なんか本職でもないので、今回のように「とりあえず同人一旦お休みしよう」などと堰き止められるけれども、そのアウトプットできっちり銭を稼いでいる人はそうもいかない。日々ツイッターなどに流れてくる様々なクリエイターを見ては尊敬を禁じ得ない思いである。

 

そして、僕ら趣味者は年齢を重ねてくると、色んなものや事が目に入るようになる。仕事に私事、やりたかった思いも分散化、行動への圧が減少していくのも、目に見えてわかるようになる。

 

今回、夏のコミケも申し込みを続ければ、恐らくきっと何かしらは作れた事だろう。実際、本作るの楽しいし。ただ、子曰く「三十にして立つ」という一節があるが、個人的には「立つ」と同音で「絶つ」という文字をそこに据えてみようと思った。年号すら移り変わる時期に、今の流れを止めて、物事を考える時間を取る。四十になってもどうせ惑うのはほぼ間違いないのだけども、先々を思えば仕入に重点を置く時期を作るのも悪くはないだろう。

 

再三言っている通り、今回は同人活動をやめるという話ではなく、仕入れる期間を敢えて作ってみようと考えた具合である。このブログの更新自体は継続しようと思うし、色々読みたい本も溜まっている。昨今、世の中のスピードが速い時代だからこそ、少し留まるにも勇気がいる気がする。ただ、すべて所詮は言い訳でしかない気がするものの、それは次回に発刊する自分の同人誌を見て、改めて判断することにしようと思う。

 

春直前、氷雨の日の内省日記でした。

 

 

間桐慎二くんから見たFateが案の定ツラすぎる件

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キャプションに使うわかめ画像探したら「カットわかめ」っていうあからさまな商品名だったので、ちょっと自重しました。


今年に入りひとつ楽しみがあった。それは劇場版『Fate/stay night Heaven's Feel Ⅱ.lost butterfly』の公開である。時間は少々経ってしまったが、見れば本当に圧倒的。感想やらを書こうとしている手前、あまり言いたくないけど、語彙が要らない。あえて言うなら、バーサーカー~十二の試練とガイナックスエクスカリバーを添えて~、桜ちゃんのひとりエッチ&指ちゅぱがマジで快楽天表紙、慎二君ツラい!かわいい!でも斬首!!の3本でお送りして、以上終了である。

 

そして、そんな映画公開にも関連させて、先日『Fate /stay night』原作のPCゲームが発売されて先日で15周年を迎えたということらしい。僕もわざわざ仕事終わりに秋葉原まで出向き、UDXビジョンに浮かんだ奈須きのこ氏の15周年記念メッセージを群衆の中眺めた。なんともカルトくさい。そもそも僕とFateとの15年という期間自体、マイブルースプリングを全力でパススルーするため、正直目も向けたくない闇歴史なのは確かだが、覆水何があっても盆には決して返らねえのである。

 

ただふとそこで。今回の劇場版を見た僕の感情と当時とを比較してみると。やたら相違点があったので、ふとここに文章を置いてみたくなった。

 

・歳をとったら間桐慎二くんが鮮明になってきた

タイトルにもある通り。『HF』2作目鑑賞後、ワカメ王こと間桐慎二くんについて考える事がとても増えたのだ。思えば、登場人物と同い年くらいだったときにFate本作をプレイしていたわけだけど、慎二くんが登場するたび「はいはい胸糞悪演出乙」みたいな感じだった気がする。圧倒的強者願望、魔術ワナビー、女子勢への露骨なセクハラ等々、マルチEDも相まって数々の余罪で脳内再逮捕祭りだったと言える。

 

ただ、何度もここで宣っている通り僕も気づけば三十路。慎二が抱いたコンプレックスや過去の生い立ちなどが想像できるようになり、その15年の間には『Fate/zero』なんていう絶望コンテンツが登場。より間桐家の過去がはっきり描かれ、慎二のおかれていた周辺環境を見ることが出来るようになってきたわけだ。

 

すると、まぁツラいのなんの。間桐家についての具体的知識については沢山関連資料があるし、TYPE-MOON Wikiでも眺めてもらった方が早い。ともあれ、魔術師一家に生まれたけれども、素質もなく(すでに何代か前より没落していたと見られるので慎二が原因ではない)ジジイが実権握りすぎてて家族関係は冷え込み、本来家族から満たされるべき承認もなく、そしてトドメに感情を失った魔術師名家の妹養子が間桐の当主へ、桜へ過酷な調教を強いた親父はアル中に・・・・老舗企業で老害が延々トップにいるとロクなことになんねえな、という分かりやすい証左のような血筋である。

 

さらに親父兄弟含めて「魔術」が彼らの人生をメチャクチャにしているが故に、魔術師、あるいは魔術そのものに対する強いコンプレックスがあったのは確かだろう。今回の劇場版『HF』では、そこがより緻密に描かれている。強化魔術を使った士郎に我を忘れるシーンや、魔術回路試験キット(光る小瓶)を何度も試すくだり。そして何より最後、桜をレイプするシーンで自分が泣いちゃう慎二くん「自負を保つことができる関係性」と「間桐家における自分の存在価値」双方を守る方法が、桜への(疑似)魔力補給であるセックスしかなかった、というあまりにも切ない事実を描いている。ほんとエグイ・・・

 

・普通の悪意、異常な正義

今回の映画パンフレットでもそうだったが、間桐慎二を演じることについて聞かれた際、声優の神谷浩史氏が冒頭に言うことがある。それは「士郎よりも慎二のほうがスタンダードな人間」ということだ。これは慎二を演じるにあたって、ディーン版『stay night』の音響監督、辻谷耕史氏から言われた指導だという。

 

上記の通り、慎二が置かれていた家庭環境というのは残酷だ。『stay night』の第五次聖杯戦争において、ようやく間桐家の嫡男として、コンプレックスだった魔術師として、自分に日の目が当たろうとしている事を待ち焦がれていた慎二くん。そりゃあ、テンションも上がるってものである。いよいよ自分が主人公のストーリーが始まる。そして、本作を見て久々に『HF』の成り行きを眺めると。あまりにも数々の慎二の悪態が「自然」なことに気が付くのである。ある意味で言えば、人間らしい悪意の発散である。

 

では、それに対する主人公、衛宮士郎の歪さはどこにあるのだろうか。作中でも、様々な角度から論じられるわけだが、詰まるところその根底には「過去のなさ」がある。これもTYPE-MOON Wikiを見るのが理解に早いが本作に「衛宮」以前の描写はない。第四次聖杯戦争以前の士郎は、どこにも存在しないのだ。つまるところ、慎二がさんざんこじれた原因である、幼少からの承認というステ値がそもそも壊れている。

 

自分が家族をはじめとする社会から認められるか、否かというのは人として生きていく上で重要な行動指針となる。士郎の場合、本来の両親や生家というバックボーンが皆無になった結果、自己定義に繋がるモノを失い、借り物的かつ最大公約数的に「正義の味方」という指針を補ったと言える。

 

少し話がそれるが、慎二と士郎のあり方の差異は『ゾンビランドサガ』の主人公源さくらを見ていると分かりやすい。ストーリー開始時、源さくらは自分が死ぬ前の記憶を失いながらも、巽幸太郎の強制的な指導の下アイドルを目指す。そして、終盤過去の自分を思い出してしまい、虚無に堕ちる。最終話ではその虚無すら乗り越えるのだが、あえて言えば、前者が士郎的、後者が慎二的と言える。キャラにおける「過去」は、ストーリーやその行動を鎖で止める役割を持つ。慎二が「何にもなれなかった」ことは、自分が「何者であるかを知っていたから」という事が非常に大きな要因と思える。そして、それは普通に、人生においてよくあることである。

 

・『FGO』で描かれる「持ってない」モノの抵抗(カウンター)

慎二くんがこの作品において、かくも悲しき存在であり、そして何なら、視聴者たる僕らに近い存在は士郎なんかよりも慎二くんだよなぁと今再認識してしまったのが、今回言いたかった型月おじさんメランコリー話である。いやぁ、これまで無碍にあしらってきてごめん。でも悪いのは、菌糸類と一部虚淵さんだから。

 

しかし、この「持っていない」ことへの述懐は、今回の『HF』回顧だけで終われそうにない。そう、『プリヤ』復刻イベなのに美游もイリヤも全く出ず、関係ないはずの茨木童子を3体も引いて僕が絶望したことであまりに有名なソシャゲ『Fate/Grand Order』でも同様の話が言える。いや、茨木好きだよ、好きだけどさ。あ、金色じゃん?え?これ来た?茨木かーい、っての3回よ。

 

1部が終了し、現在進行中の『Cosmos in the Lostbelt』に入って久しいが、ストーリーを想起すればこちらは「人理修復」という偉業を成し遂げるはずだった「持ってない」主人公たちの反抗録でもある。

 

当然、その奥底にはより深い思想がチラついているものの、基本的な格子は「持ってた藤丸vs持ってなかったクリプター」のそれだろう。言ってしまえば主人公、藤丸立香も士郎と同様、カルデア以前があまりにも空白に近い。勿論、感情移入という意味で、過去を省いた方がいいのはゲームの性質上仕方ない。しかし、そうであるからこそその異聞帯における対立軸は「士郎vs魔術使えてた慎二」という『EXTRA』的構図と被る。

 

実際に、『永久凍土帝国アナスタシア』でのカドック、『無間氷焔世紀ゲッテルデメルング』でのオフェリアなどを見ていると、主人公と対峙する中、名門魔術家系故の過去のツラさが本人の自我を蝕んでいることが垣間見える。(芥さんはちょっと別次元)そしてこの2部異聞帯編では、人理修復後、主人公すら自分らの正当性を疑問視しながらの旅路だ。異聞帯編は、案外この主人公たる所以である「過去なく、持ってる」のスタイルに対して、慎二くんやら古くはシキさん辺りからの怨念を受けて、一矢報いる弔い合戦となるのかもしれない。個人的には生き残った「カドックくんがんばれ!」と思ってしまったりする。

 

 

型月作品は、往々にしてこうした「表裏」を複雑に絡ませて描くことが多い。姉と妹、親と子、過去と未来、そして、大抵その関係性は「持ってる/持っていない」に判別可能であるが、同時に補完関係でもあるのがなんとも憎い。劇場版『HF Ⅱ.lost butterfly』において妹にスパッとやられ天寿を全うされた、そんな相関関係の筆頭被害者である間桐慎二くんを今回を偲ぶ意味でも記事を書いてはみたものの、なんだか無駄に長くなってきた気がする。うーん。やらたむやみに文章に吐き出すとあまりロクなことにならないなぁ、紫式部まだかなぁ、とぼんやり過ごす氷雨の有給消化日でした。

 

 

大人になった平成に思うこと

昔、何かで読んだ覚えがある。「人は弱気になると、過去を振り返りたくなる」そんなこと言われたら、日々過去の自分のツイートを眺めてみて「案外俺、面白いこと言ってるじゃん」など自分に対するフォローを続けてしまうのも、やはり弱気な性が原因か。まぁ、多分それはまた違う病理な気もする。

 

テレビやらネットやら、既にいたるところでも「平成」「平成」と振り返られているのは、周知のとおり。ということで、せっかくなので当ブログでも「平成」が終わるなぁって話を一つしてみたかった。また今年2019年は平成が終わるだけでなく、先日活動休止を宣言した嵐の結成20周年、またこの僕がツイッターアカウントを作成して10周年など、ある種記念碑的なイベントが並ぶ1年と言える。

 

国民的アイドルと根暗性癖おじさんのツイッター歴など並べたところで、何があるわけでもないのだけれども、そういうものは心の持ちよう。平成が終わるということが重大事なのであって、アラシックの皆様方におかれましては、僕も案外嵐ファンなのでそこは一つ暖かく見守ってやってくださいという意も込めつつ、先に進めることにする。

 

ということで本筋。おそらくここでも過去に個人情報を何度か書いているが、僕は昭和63年生まれである。つまり年齢が平成と同い年になる世代なのだ。年号と自分の年齢が一緒というのは、案外便利なもので、自分の歳を忘れたりすると年号を思い出せばよい。逆もまた然り。どちらも忘れてたら、その時にはもっと大切なものを失ってるだろうから気にならない。

 

そんな同い年である「平成」という時代に対して、僕はこれまで何となく「同年代の友達」感を抱いていた。こんなことを言ってはアホと思われる、というかすでに思われているだろうからいいんだけど、自分の年齢とともに年号も推移し、時代の様相も変わりながら、自分の立場も幼児から学生、社会人へと変化する。ある意味、時代と共に同じスピード感で年齢を重ねる感覚に近い。時代と共にって、当たり前なんだけどね。

 

そしていよいよ人生の節目ともいえる30歳を迎えた時、その旧知の友人からふと別れを告げられたような。突如一緒に進んできた時代が終わる。それは何とも言えない感じであった。実態は、ただ年号が変わるだけであって、確かにその通りなのだけれども。そこに意味がないとも言い切れないではないか。そう、当方、人よりちょっとだけセンチメンタルなおっさんなのである。

 

昨年、平成も僕も30歳の節目を迎えた。なってみて思うけど、三十路ってのはなんだかんだ結構大人だ。今現在、こんな根暗一徹な僕も社会に出て働き始め、驚くことに少しずつ会社の中で「中堅社員」みたいな事になってきた。そうなると将来のためと、色んな人から「シサンウンヨウ」とかいう南蛮由来の啓蒙思想を聞かされたり、もやしが沢山乗ってるタイプのラーメンが急に食べられなくなったり、いざというときに息子が全然活躍しなくて本当に凹んだりと、公私共に忙しくなってくる。

 

そして思えば片方の平成さんも30歳を迎え「大人」になってきたように思える。社会を見れば、サラリーマンたちは24時間戦えないと宣言をし、タバコなんか御法度、健康によくないのでその存在意義すら否定され、経済成長も程よく、将来も持続可能なラインで大人しく、グローバルな利害を見ながら丁寧にやっていきましょうという具合で、まさに平成、「平に成る」という名の通り。

 

 正直そんな社会というか時代を僕はあまり好んではいなかった。生まれた頃から、バブル崩壊、失われたなんちゃら、「ゆとり」やら「悟り」やらと好き勝手呼ばれ、将来は時代としても社会としても、より大人しく一辺倒な時代になるのではという実感があった。そんな中で、僕も必死に尖ってみようということで、オールドでマッシブなロックを聴いてみたり、徹夜でエロゲ三昧の日々を通して俺はオタクだなどと、わめいてみたりと色々やってみたものの、最近、この平成っていう時代と一緒に、僕自身も角が丸くなってきたような気がするわけだ。

 

自分はさておき、時代が徐々に「大人」になってきているのは間違いないことだろう。えらい学者さんによれば滅亡まで2分らしいけど、ネットによってだれもが発言権と炎上による抑止力を持ち、ポリコレなんかも声高々に叫ばれてはいる中で、誰かと誰かの利害衡量が続く。大人ってのは、安定や公平を得るため、難しい判断にさらされるもんである。

 

思えば、学生時代だったろうか。バンド活動なんかをしながら「俺は70年代に生まれたかった」などと考えていたことを思い出す。あの時代のエネルギーを享受できれば、何か大きなことが出来たんじゃないかとかほざいていたような気がする。まぁ、時代の差は確かにあれど、そんな「たられば」や世迷い事を言ったところで仕方のない話なのは、全世界時代共通であり、今思えばこっぱずかしい。

 

しかもよくよく考えれば、僕らの青春はインターネット黎明期だった。何か面白い事をするエネルギーなんてものはそこら中に溢れていたのだろうし、多分きっと今もそうなのだろう。時代を停滞ととらえるのはあくまでも自分の主観だし、そしてそれを打破できるのも自分の主観でしかない。楽しいおもちゃは案外、時代時代に、そして思ったより身近に色々あるものだ。

 

今年で平成が終わる。同い年同士、社会人生活の中で徐々に角が取れてきた自分と「何かでっかいこと」ではなく「持続可能な成長」に舵を切り替えた平成という時代。おそらくその潮流というのは、今後も続くんだろうけれども。年号という時代の変わり目において、やはりまた新しい面白さを再度探さねばなるまいと。結局、これもまた主観であり、ひとり息巻いている次第である。

 

あまり意味がある内容の文章ではなかったが、平成という時代から次へステップする今の期間。短いながらも時代を冷静に見つつ、また身勝手に面白い事なんかないかなと彷徨っている冬の一人言でした。

COMIC ZIN振込の件から現在の「サブカル書店」の在り方について考える

新しい年となり半月ほど。すっかり2019年の空気に身体も慣れてきた頃かと思ったら、突然38度の熱を出し、お腹から色んなものが射出された先週。朦朧とする意識の中「このまま死んだら、ゾンビになってアイドルになる」などと譫言を一人言っていたものの、なんとか生還。佐賀に行くのはまたの機会にしようと思いました。

 

そんな折、自分が呟いた案件から多少議論となった件について、ここでちょっと考えをまとめたくなった。それはCOMIC ZINの振込問題である。詳細は、こちらtogetterにて纏めてくださっている。それにしても真面目な話題なのに「すくみづさん」という呼称、自分でもどうかと思う。

togetter.com

ニッチなジャンルの同人誌取り扱いで知られるサブカル書店であるCOMIC ZINさんに、当方も数年前より委託販売をお願いしている。しかし、昨年度夏以来、同社システム障害の影響から、売上金額の振込がなされないという事態となっていた。諸々、周囲の同人作家あたりに話を持ち掛ければ、対応に差はあるものの、どうも自分だけではないようで。先方からの事情説明もなく、しばらく猶予期間として待っていたものの、さすがに新年にもなったということでツイートや先方への問い合わせなどアクションを起こしてみた、という具合であった。

 

早々に先方からは、謝罪や今後の対応、全面的なシステムの復旧の連絡、そして懸案だった振込もされた。おそらく今後については状態が回復したものと見られ、本件としては落ち着きつつある。

 

ただ、個人的にこのツイートを行ったのには、債権回収以外にも目的がある。なんなら諸々のツイートでは「債権」と仰々しい言い方をしたが、それほどの金額でもなかったため逆に罪悪感すら沸いていたり。まぁ、実際未払いだったから仕方ないんだけど。そんなわけで、この一連のツイート目的とそれに纏わる考え事を今日は、好き勝手漏らしていきたい。

 

・みんな「COMIC ZIN」をどう見ているか

今回のツイートが拡散される事で、期待したものは2点ある。まず1点はそのまま文章にも書いた通り、COMIC ZINに委託している同人作家で「振込がなされないのは自分だけ?」と戸惑っている人の炙り出しだ。問題の大枠を把握し、状況について当事者間で共有できればという考えである。

 

そしてもう1点。それはCOMIC ZINという書店について各位どう思っているのか、今回の件を引き金にそれを確かめてみたかったという思いがある。togetterでも見られる通り、未払いやそれに対する説明がないため信用をなくした、取引を中止したという人もいた。勿論、金銭を扱う当事者間としてそれは正しいアクションだ。ただ反面、これだけ一方的と思われる炎上事案にも関わらず「COMIC ZINを応援する人」というのが一定数現れた。お分かり頂けるだろうが、僕もその一人である。

 

今回、未払いという状況もあり、COMIC ZINの経営状況を心配する声が多く挙がった。その際、一緒に聞かれるのは「あそこでしか買えないものがあるから、なんとか頑張ってほしい」「かつて消えていった同人書店の二の舞にはなってほしくない」「ZINの平積みのラインナップが好き」など。やはり、書店そのものに付いたファンの声というものは確かに存在していた。

 

つまるところ、現在のオタク関連小売店において、同人誌に限らずサブカルをきっちりサブカルとして扱える店舗というのは非常に貴重なのだ。秋葉原の街並み一つ見ればわかる通り、今同人誌を扱っているお店と言えば最早大所の「とらのあな」か「メロンブックス」「まんだらけ」あたりが主たる小売店と言える。それ以外で何とかサブカル的な意地を保っているのがCOMIC ZINだろう。今回の件によってその価値は、ユーザーも認知するところであると逆説的に確認することができた。

 

・市場原理を意識すること

昨夏、秋葉原を題材にした同人誌を作った。僕はその中で「市場原理が支配するこの街だからこそ、文化の推移も激しく、それがこの街の面白さに繋がっている」と書いた。ただ、その通りに考えながらも、心のどこかで多少のニヒリズムを抱いていたのが正直なところだ。

 

同人誌に限った話で言えば、秋葉原には10年前ほどまで多くの同人ショップがあった。現在に至る中で淘汰が進み、ここまで集約されたと言っていいだろう。当然のことながら、店舗や企業経営というのは資本主義のルールの中で行われていることであり、上手くいけば継続・拡大となり、下手をすれば撤退となる。自分をはじめとする消費者は、そうした世の中の流れを作りながらも、同時に翻弄され続けている感を受ける。

 

そして、そろそろ思ったりするのだ。その神の見えざる手による剪定に、抗っても良いのではないかと。僕ら消費者が残したいものを残す、そんな選択をとれないものかと徐々に考え出していたという具合だ。

 

COMIC ZINから振込がなされない間、同人仲間でも未払いの件は話題に挙がったが、案外「いやぁ、大変そうだからね。待ってみるよ。」という声には何度か出会った。世代差はあるだろうが、どうしてもオタクという存在は、何かを購入するという行為に普通以上の重みを見出したりする。その購入を支える実店舗という価値は、ネット通販やデータ扱いが主流になっている現代だからこそ、反対に輝くところがあるのかもしれない。

 

・オタクならではの共助という発想

何を一介の書店にそこまで熱くなってるんだ。という反応も想像できるものの、僕がその先にみているものは、なにも一つの書店の処遇だけでない。先日、コミケスタッフに長年参加する友人と、コミケの在り方について幾つかリプライを交わす中、彼からこんな言葉が出てきた。

場を維持するってことは存外に難しく そして大事なことっす。

あまりにシンプルで、短い一言。ただ、そこに詰まった思いというものは、簡単に流せるものでは決してない。よくよく考えれば、例年開催が当たり前になっているコミックマーケットも、オタク趣味という緩い繋がりがベースにあるものの、たくさんのボランティアの存在や、参加者の意識の上に成り立っているイベントである。

 

昨今、一面的に経済効果やら参加者数など、そうした数字が持て囃されるのは当たり前かもしれないが、その根底には数字だけではない、その場を必死に残そうとするオタクらの意思が存在するのではないだろうか。

 

そして話を書店に戻そう。今回の問題や、それにまつわるリアクションを見る中で、市場原理と突き放すのは簡単だけれども、いかにそうした店や場を維持するのか、という難しさに向かい合った思いである。

 

それにあたり、まさにCOMIC ZINの同人担当、金田氏のインタビューが興味深い。

originalnews.nico

音楽についても、配信がもはや当たり前となり、CDやメディアの保有という文化からライブへ足を運ぶこと、フェスで盛り上がることが重要視されて久しい。オタク文化についても、電子書籍がより一般化したことなど同様の事が言える状況である。では、その中で書店が果たすべき役割とは何かという事になる。先から「残したい場を残す」と宣っているが、何も保護主義的になれというわけでは決してない。

 

ここからは運営のコアコーポレーションさんとまるで関係なく、身勝手かつ個人の思い付きということで付き合ってほしい。例えば言われる通り、人手不足であるならば。棚卸といった業務について、委託している同人作家に対して、コミケ同様ボランティアを募ったりするのはどうだろうか。社会人なのでバイトをするわけにはいかない人が多いだろう。案外、別途書籍購入の値引きといったインセンティブを設ければ手を挙げる人もいるかもしれない。またその際に打ち上げでも機会を設ければ同人作家同士の出会いの場にもなったり。

 

多分だが、先のライブ感という話も含め、いかにコミケを始めとする「イベントに近い空気感」を店舗として提供できるのかという事が、ネットと対峙する小売としても今後の課題になるのではないか。そういう意味において、とらのあなが趣味を媒介にした婚活事業に手を出したというのは斬新と言える。

 

また、先のとおりCOMIC ZINという立ち位置の書店だからこそ出来ることは案外あるように思える。情報系・評論系を強く扱うその姿勢は、他店と違い「そこだけでしか買えない」まさにイベントらしさを体現するコンセプトである。同時に我々も、周囲から単純に「あの企業は」と揶揄するのではなく、自ら手足を動かす面倒さをもって、店舗や大切な場を維持していく時代に入ってきているように、今回の件から切に感じてしまった次第である。

 

 

本音を言えば、昨年度からこの手のニヒリズムとどう対峙すべきか、という話は考えていて。具体的な案など出せるような頭ではないものの、飲食店や書店など「自分の好きな場所」とどのように共存していくべきなのか。そんなことを引き続き、考えていきたいと思います。長々と失礼しました。