わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

若者の同人離れと「自惚れ」についての考察

「若い人が同人製作に新規参入しにくい。」

 

この手の話は頷くところが多い。最近、この類のツイートやら発言をよくネットで見るようになった気がする。昨日もこんなツイートが流れてきた。

コミケも毎年多くの参加者を抱え、せっかくイベントとしての規模も大きくなっている中、そこを担う若手の作り手が減る傾向にあるとのこと。中堅30代不足にあえぐ弊社か。とツッコミを入れたくなるが、その要因、あるいはその先を考えるため、回想がてら自分が同人に足を踏み入れたころを思い出してみたくなった。

 

・覇権は『月姫Fate』『ひぐらし』『東方』

なんとなく言いたいこと、バレてる気がする。2000年代初頭から中盤にかけて、同人コンテンツでも筆頭を誇っていたこの御三家。同人界にこれら作品が登場した瞬間を知っている人なら、その熱量は理解いただけるだろう。そう、圧倒的な世界観、音楽、そしてテキスト量。いずれもモンスター級の作品だ。

 

ただ。敢えて誤解を恐れず言えば、それぞれ絵を見てると「あれ?俺も描けるんじゃ」当時そう思った御仁は少なくないはずである・・・はずである。先生、怒らないから正直に手を挙げなさい。

 

・・・はい。僕はそう思いました。ということで、なんだお前が性格悪いだけじゃんみたいな話になりそうだけど、続けてみよう。当時『月姫読本』やら『東方求聞史紀』(まだ目の前にあるけど)など資料を買い漁って延々模写を繰り返し、何とか本家並みに可愛い、そして評価を得られるキレイな絵を描きたいとの熱意に燃えた。マール社教則本もなけなしの金で何冊買ったことだろう・・・

 

そんなある日、スケッチブックに気合をいれてコピックで色まで付けて、一枚を描き上げる。そして思うのだ「あれ?俺、めっちゃ上手く描けてるのでは」そう思ってしまった、すくみづ少年は翌日学校でクラスのオタク数人に型月ヒロイン大集合みたいな絵を見せて回り、お互いに描いた絵を講評し合う。それによって悦に入ったり、ひいては「俺もいつか同人誌出すんだ」などと興奮気味に、すみません、もうこれ以上思い出すのやめていいですか。ちょっと吐きそう。

 

漆黒史なので以降は割愛するけども、如何せんすんごい己惚れてたって話。いやぁ、10代って恐ろしいよね。(今見るとほんとひどい)

 

ただ、その時に感じる「俺、すごくない?」「自分もしかして天才では?」みたいな、アレ。正直言えば、未だに評論同人などの企画考えているときに沸いてきたりする。そして、案外そんな思い違いがモチベーションになってくれたりする。(当然、しっぺ返しもあるんだけど)要は「自分ってすげえかも。」この勘違いを抱くことが、いま難しいのでは。という話だ。

 

・客観視スキルという「脆弱性

昨今の若者の同人製作離れ。僕個人としては、上で引用したツイートの「印刷代等の高騰」は一理あれども、直接的な要因ではないように思う。確かに値上げは各所で認められるものの「参入」という部分を考えれば、昔より少部数印刷は安価に済む。

 

直接的な要因はやはり「レベルの向上」だろう。ここ10年ほど、同人ショップに並ぶ同人誌の表紙も明らかにその質が上がっている。ネットでもCG定点観測の小さいアイコンカチカチしてた時期と比べると、今のタイムラインに流れてくるイラストの質は恐ろしい。

 

それでは、この「レベルの向上」これは一体何なのだろうか。

 

よく言われることだが、インターネットにおける資料の大量散布、そしてハイレベルなイラスト、アイデアの共有によるものと思われる。ネット上のアーカイブも一気に充実、情報も具体的な素材も手に入る。これがインフラ化した結果、今のような「ハイレベル」な絵師の増産に繋がったのでは。

 

ただ、今回の主題は書き手の話でない。同人の参入ハードルの問題、つまり受け手の話だ。新しく絵を描きだそうと思っても「TLの絵師のレベルの高さに萎縮するんじゃ」というのはよく見る意見だが、より本質的なことを言えば、むしろ読み手、受け手の「目が良くなっている」のではないだろうか。

 

日常生活においてスマホを持ったことにより、常に「完成された画像」を眺めている時間が増えた。これは二次元絵に限らない。例えばインスタでセンスのいい構図の写真を延々と1日何時間も眺めているだけでも写真レイアウトに対する感受性は異なるだろう。

 

つまり昨今において「自分の絵」を見て「俺すげーかも」と勘違いできないだけの目の良さを、絵を描きだす前からスキルとして得てしまっているのではないか。そう感じたのだ。

 

・本当の承認欲求を満たす為の「寂しさ」

上記で書いてきた客観視スキル。これは、インターネット時代の副産物として大きなものだ。創作に限った話ではなく、考えれば、SNSとは常に他者から見られる前提で振る舞い、そして共有をするツールだ。

 

インターネットの拡充した現代は、自分の行為を客観することに非常に長けた時代と言える。逆に、客観性を失った投稿や発言は、程度の差にもよるが炎上を招くケースすらある。

 

話を創作に戻す。つまるところ「こんな絵で、誰からも評価を得られない」などこの手の発想に行きつきやすいのが、このソーシャルネットな時代の特徴であり、ひいては同人参入や創作への意欲低減を招いている根源なのでは、と妄想気味に分析してみた。はっきり言えば僕もこうした被害妄想を抱えている。それでも、ここに。また同人誌に、文章を書き続けていたりする。

 

 

最後に僕なりの考えで終わろう。自分を客観視するというのは、他者からの承認を求めたいという願望の一端でもある。簡単に言えば、人からバカと思われたくない、とか、すげーと思われたいって話。では手軽にその願望を叶えるにはどうすればいいか。

 

例えば、動画でもスクショでも撮って、ツイッターでバカを叩けばいい。自分を客観視出来ないようなバカを断罪することで、自分の地位を守ればいいのだ。そうすれば客観的に見て「自分は正しく在れる」それは保証される。ただ、恐らくそこで満たされる感情は、きっと僅かなものだろう。

 

承認欲求には質がある。本当の意味の承認には、孤独が伴う。実際、自分のやっていることに本当に価値があるのか。という問いを自分にしなければならない。その段階で自分を客観する必要はまるでない。やるか否かは、自分の判断だ。その葛藤の末に完成したもの、成し遂げた事に、初めて承認欲求の重みが伴う。

 

当然、その行為や創作が本当に凄いのか、面白いかどうか、というのは客観スキルが必要となるけれども。ただ、今回はその根にある「衝動」のお話。今、何かをする前から、客観する癖が本当につきやすい時代だと思う。ただただ、独りの自分として。バカな事のように思えても、客観を敢えて遮断して、独りになる。己惚れる。

 

自らの意思を見直す時間や隙間を作ってもいいのではないか、という説教臭いお話でした。