わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

着ぐるみ趣味とは。

ツイッターのタイムラインを追うのもめんどうだし、明日通院で朝がゆっくりなので寝てしまうのももったいない。そんな中どうも涼しくなると、考え事が増えるようで。

 

 何度内省したかは分かりませんが、この「着ぐるみ趣味ってなんだよ。」っていうセルフツッコミが、久々に脳の隅っこに今更引っかかってしまい、渋々ブログに向かって、文章を吐き出している次第であります。

 

今僕は冬のコミケに向けて、着ぐるみ女装の男の子と、百合趣味のある女の子の微エロ漫画をせっせと書いておりますが。恐らく、需要層は限りなく限定されており、何も知らず手に取ったかたの苦い顔が今から浮かぶようで楽しみです。

 

 普段は、イラストを描いてはピクシブなどに「僕が考えた最強のフェチ」みたいなテンションで着ぐるみ絵を投下するという黒歴史を作ることを趣味にしている僕ですが。たまに、そういった絵を、そういった趣味のない知人に見せたとき。

 

「着ぐるみフェチってそもそもなんだよ。エロ要素どこ。」

 

というリアクションがよく返ってきます。そういわれる度に「あぁ、こいつ何もわかってねえな想像力ってモノが存在してんのかクソが」という自分の潜在意識をねじ伏せつつ、「あぁ、僕の感受性はどうやら特殊みたいだぞ」と自らの性癖と社会通念の乖離を実感するのが常です。

 

確かに彼らが言うとおり、着ぐるみというものに対する僕らの感情は、単なる「エロ」でないことは確かです。そもそも「着ぐるみ」とは、演劇やイベントにおいて、何か別のロールを演じるための衣装です。そこに本来即物的エロティシズムのかけらもないことは、社蓄でも理解できます。

 

 ただ、フェチズムとは本来エロのないところにエロを見出す事。そうした着ぐるみのうちに興奮を禁じえない変態的要素をどこから取り出だすのか。様々な角度からのフェチ考察が既にありますが、今回はその本質は何なのかという部分のみ、考えてみたいと思います。

 

やはり特筆すべき要素は「演じる」ということ。自分以外の何かになりきるというロールプレイ。自分というものを捨てて、何かになるという状態に一種のカタルシスを感じてしまう。着ぐるみフェチの本質はそこにあるのではないかと思われます。

 

極論として分かりやすい例を挙げるならば、SMプレイもそのひとつです。責めたい、責められたいという役割の極値化を行うSMプレイは、限りなく、本来の人間性から人を乖離させてくれる遊びと言えるでしょう。

 

更に着ぐるみというのは、コスプレよりも更に本来の人格を否定します。装着することによって容易に「全くの別のモノに成り果てる」という成果をもたらす着ぐるみは、そうしたカタルシスを感じてしまう人間にとって、限りなく、好都合かつハイパフォーマンスです。

 

小さい頃にキャラクターショーでの着ぐるみを見て、何かこう滾るものを感じてしまった人は、恐らくその「キャラクターになってしまった人」という存在に引っかかりを持ってしまう人だったと言えます。マセガキが言う「中にどうせ人がいんだろ?」とは決定的に違うのは、「なってしまった人」という部分です。

 

 人が中にいることなんて百も承知の上で、その「なってしまった人」はどんな感情なのだろうか。普段の人格を捨てて、そのキャラクターに「されてしまった」「なることを選んだ」人の思考がどうしても愛おしいというか、悩ましいものに思えてしまうという状況です。

 

ここまで来ると、かなり各個人のカルマに根ざした話になるので、僕の感情ベースでしか語れませんが、確実に自分が幼い頃に抱いていた感情がこれです。実際僕の場合、着ぐるみに限らず通常の演劇などを見てもその主演を演じている女性に説明しがたい憧憬の念を抱いたりと、今思ってもアレなガキです。

 

そんな「いかに自分から離れたものになるのか」という部分で、怪獣であるとか特殊メイクであるとか、そうしたモノに対しても沸くカタルシス的感情が全ての共通点として繋がってくるのかなとふと思うわけです。

 

ただ、ここで難しいのはフェチ=エロではないということです。憧憬の念は抱くが、それが性に直結しているのかと言うと一概には言えないわけです。着ぐるみでエロというのは、まぁ、一部においては一般的というか、まぁ、そこは察して欲しいというか、想像に任せるというか、嫌いじゃないというかオフしたいというか(

 

そこまで不思議ではない組み合わせではあるのですが、最初の着ぐるみに抱いていた僕の感情は、エロというよりは狂おしいまでの嫉妬というか、その体験を自分もしたいという憧れが強いように思えます。大人になり、それが性欲にもリンクするという事を知ったという具合に、チンコは後から付いてきたというのが個人的な実感です。

 

 チンコは後から付いてきた。

語呂がいいですね。

 

そんなところで、話がズレてきた気もしますが、僕の着ぐるみフェチの根源はそうしたところにあるのかなと。当然、ラバーゼンタイといった質感フェチ、トータルエンクローズドといった圧迫感フェチ、女装というトラニー的フェチと間口を広げようと思えばかなりのフェチを包括してしまうこの「着ぐるみ」というものですが、性欲を差し引いた、もっと奥底での嗜好と思考。

 

それは、自我というものから離れたいという願望、仏教で言えば、輪廻からの解脱を願うかのような根源的欲求が、ひとつのフェチズムとして現れたのが着ぐるみフェチではないかなと。

 

 まあ、うだうだと書いてまいりましたが、今こうして、自分も着ぐるみという趣味を通して、様々な人との交流や交流( )の機会を与えて頂いている中で、こうした話を肴に、誰かと杯を交わすのも楽しいかなと、一人月を見ながら思っていた次第です。

 

綺麗にまとめようとして迷子になってる感がどうしようもないですが、ひとまず眠くなってきたので、今日はこんなところにしたいなと。こんなテンションで、今度は「ケモナー」あたりについても、考えをめぐらせられればとか思ったり、思わなかったり。

 

とりあえずは、冬の原稿さっさとやれという正論に叩きのめされながら、日々ちまちまと社会と闘いつつ筆を進めてまいります。