たまには同人関係ないお話なんかも。
独り身らしく今日が祝日だということを、この週になるまで忘れ、予定を入れるでもなく、完全に持て余していました。こういうときは大抵、「まぁ、アキバでも行くか」という惰性的発想が沸くのですが一度その流れをここで断ち切ろうと、久々、江東区木場にある東京現代美術館に行って来ました。
学生の頃は、よく常設を見たり図書館を利用したりしていたのですが、働き出してからはめっきりそんな機会も減り、企画展を見たのは、5年ぶり。自転車で行ける距離なので、気楽に覗いてきました。
見てきたのは「未見の星座-つながり/発見のプラクティス」と「ガブリエル・オロスコ展」という二つの企画展と常設展。まぁ、それぞれの細かいレビューなんかここで言ったところでしょうがないですし、常設含めたセットで¥1,600で見れちゃうので、気になったら見てきたほうがいいと思います。実際、見に行ってよかったなと感じました。
ということで、主題の「現代アートってなんだろう」っていうまたこれも今更感溢れることをぼんやり考えてたわけですが。当然、現代美術館なので、どちらかと言えば一般人の感性には分かりづらい作品も沢山あります。
キャンバスに鉛筆で引っかいた穴が空いてるだけとか、一面真っ黒とか、ペンキぶっかけただけとか、エロ漫画書くときのネーム前のラフ画みたいなのとか。どうしてもツッコミ気質が疼きますが、目の前で頷きつつ見て回ってるブロンドの外国人美女を見て
「なるほど、アートだな」
と、高尚な芸術に理解を示しておきました。そもそも英語だと、Contemporary Artということで、Modern Artじゃないんですね。どうも調べると「現代・近代的な」という意味に定義の混濁があるってことで、「今を生きているアート」的な意味づけがされているそうです。
「今を生きている」真っ黒な壁とぶちまけられたペンキ。なるほど、そういうことだったのか。
自分自身が今を生きられてるのか不安になりつつも、それぞれ常設展等見る中で、1960年代日本の現代芸術を振り返るコーナーがありました。アートイベントと称して、ビル上からモノが投げ、その落下の美しさを写真に収める。とか変な格好をして街を歩き、すれ違う人の怪訝な表情から、「管理され表情を失った街の欺瞞」を暴く。とか。
東京五輪や新幹線開通といった目覚しい発展を遂げる東京の中で、やはり芸術家達もかなり前衛的な活動をしていたようです。
最早、ここまでくると「とりあえず面白そうだからやってみて、理由は後から考える。」という文系的詭弁論法の極値なような気もしてきます。でも、きっとその「やってみたいこと」って直感的に先に出てくるんだろうなと。芸術が理由や目的から出来ちゃうものなら、多分凡人にも芸術って作れちゃいますよね。
目的からロジックを引っ張って、その実現ために何をすべきか。こういうPDCAみたいなサイクルは、芸術じゃなく工業なのかなと。現代アートと呼ばれる作品を作るアーティスト達は、目的と手段のプロセスが逆転、それか、ほぼ同時進行的に行える人なんだろうなと思います。
さっき「詭弁」といいましたが、それも
「現象から意味を取り出すことに長けている」人であるとも言えます。例えば、パッと街の景観を見たとして。そのビルの羅列や人の配置、更には車の往来、被写体の全てが記号になって、意味を持つ。あるいは持たせる。その価値変換こそ、現代芸術のあり方なのかなとか。
まぁ、それでも僕ら凡夫にとって真っ黒な壁は、真っ黒な壁だし。よく分からんでかいオブジェの手前でアラビア語が書かれたスピーカーからお経みたいのが流れてるのを聴いて、感動するほうがちょっとアレです。
逆に鑑賞する立場としては、無理に全てを理解しようとすると、もし展示の中で本当に自分の感受性に引っかかったものすら薄っぺらくなってしまうかも知れません。
「あ、これ、なんか分からんけど好きかも。」
その一瞬の心の揺らぎというか、そうした感動を大切にしたいなと改めて、こうした現代アート群を眺める中で感じました。意味の転換はそれからでいいんじゃないかなと思います。直感的創作と作品への目的の付与。そうした過程を考えながら見てみると、結構分けわかんない作品も、興味が湧いてくるのかも知れません。
サブカルカップルのいちゃつきと、独り寂しく作品を、淡々と眺めてるおっさんというこの対比すら、気付かない間に、現代アートにされていそうで、戦々恐々としながら、鑑賞していました。
また企画展が変わったら覗きにいければと思います。