わがはじ!

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『少女終末旅行』を見て。今この国で生きる絶望と想像力について。

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 少女終末旅行』©つくみず/新潮社

「少女終末旅行」第6話の先行カットが到着。ケッテンクラートの故障、そしてユーリの視界に飛び込んできたのは…(画像1/6) | WebNewtype  より

 

正直そこまで期待をしていなかった作品に完全にいろいろ持ってかれたという経験も、そう多くあるものではない。

 

昨晩深夜1時半。原作・アニメ含めた全話を鑑賞し終えたおっさんがひとり、Kindle fireを抱きしめながら布団の上でさめざめと涙を流していた。いやぁ・・・本当に良かった。

 

タイトルと冒頭にもある通り昨年の秋冬クールにおいてアニメ化された『少女終末旅行』を見終えた。人間が全くいなくなってしまった近未来の荒廃した世界で、2人だけ残された少女、チトとユーリが淡々と旅を続けるという物語である。原作連載も新年に入り結末を迎え、現在ではアニメの内容からもう少し先に進んだ「本当のラストシーン」を読むことができる。

(最終話含めたいくつかの話は下記「くらげバンチ」の公式サイトで読むことが出来る。2018/1/21現在)

www.kurage-bunch.com

今回はその『少女終末旅行』を見て感じたことや、その物語が提示してくれている今の時代の想像力について、相変わらず身勝手に話をしていこうと思う。ネタバレなんかも含むとは思うので、そこは自己責任ってことで。

 

芳文社的キャラが問い掛けてくる「現実」

本作の単行本が書店に並んだ頃からその存在は知っていた。だって、書店で著者の名前を自分のHNと見間違える経験などまずない。つくみず氏、実際何度か空目した。wikipediaを覗けば、名前の由来はどうも同人時代の「月水憂」という名前から転じたようである。その名前を書店で見た当初は「同志か」などと変な期待をしたものの、安心しろ、そんな変態がそこら中いてたまるか。である。

 

今回、ツイッター上でのタイムラインでもにわかに「面白い」という声が上がっており、折角Amazon primeで観られるのならと視聴を開始したわけだが、序盤早々からその世界観にやられた。

 

まず特筆すべきはそのキャラデザである。恐れなく言えば主人公のチトとユーリは一見して芳文社系というか。蒼樹うめばらスィー系譜と言えるだろう。いわゆる「日常系」の代名詞らしさを外見上に持った、そんな二人が近未来の荒れ果てた土地をただ旅をして回り、食料を得て、また旅を続ける。

 

本作の設定として、人の住む都市は縦軸に発展したようだ。何らかの理由で住めなくなった都市の上空に都市が新たに作られ、過去の都市は下層に打ち捨てられたままになっている。戦禍によって無くなったと思われる二人の故郷も下層にあり、二人をその町から逃がした「おじいさん」の「上を目指せ」という言葉に従って「最上階」を目指し旅を続けるというのが、話の軸である。

 

序盤、その旅は特段代わり映えもなく、二人のほのぼのとした掛け合いからはさながら『ひだまりスケッチ』や『苺ましまろ』といった作品を眺めている気分になる。ただ、冷静になって思い出せば、その旅路には家も故郷も授業も暮らしもなく。どこもかしこも廃墟として、そこに人がいたという残滓だけが残っている。その中で食料と燃料を求めながら、ただただ前に進むだけの二人は時折「生きてるって何だろう」とか「生命って何だろう」という哲学的な疑問にも対峙する。

 

二人は未就学らしく、ユーリは字すら読めない。対してチトは「おじいさん」の影響から本が好きで、多少の教養が備わっている。コンビのバランスは、ユーリの子供のような発言や問いにいつも呆れてツッコむチトという構図だ。しかし、そのユーリの子供っぽい言葉の中には生きる上での本質が顔を覗かせ、そしてそれに返さなければならないチトの葛藤は、徐々に我々視聴者とリンクを始める。毎日、寝て、食べて、進んでの繰り返し。生きているってなんだろうね。そんな二人の掛け合いを眺めているうちに、それら問い掛けが画面を乗り越え僕らの心にものしかかっていることに気づく。

 

この作品を手に取るまで、見かけだけで「あぁ、芳文社系亜種かな」と思って特段興味を示さなかった。しかし、いざフタを開けてみればその現実味のない芳文社系キャラが、延々と廃墟と空腹という現実に対して淡々とサバイブする。こうした「現実感」のシャッフルによって、少しずつ単なる観測者であるはずの僕らの「現実」という地盤すら揺さぶりにかけてくるような巧みさがそこにはあった。

 

・「絶望と仲良くなる」という思想

こっから多少考察も入ってくるので、がっつりネタバレしてます。最後まで読む予定の人は避けてね。

 

また、本作では象徴的なセリフがいくつか耳に残る。その中でもやはり「絶望と仲良くなろうよ」というセリフは特筆すべきものだろう。最初に使われたのは自作飛行機を飛ばし「都市」からの脱出を図った「イシイ」と出会った回だ。二人の愛車ケッテンクラートが故障し、修復の困難さに延々悩むチトに対してユーリが放った言葉である。本作終盤までユーリがこの言葉を使い、本作テーマの中軸を成していたように思える。

 

先ほど書いた通り、この作品の中で都市は上部へ向かって発展していく。発展というよりは、避難と言った方が適切かもしれない。二人が軍服を着ている事からも、本作の世界観の裏に大きな戦禍があることは容易に想像がつく。アニメも終盤に差し掛かる中で、その戦争の規模やどのように荒廃が広まったのかも徐々に判明する。そして近未来の強力な自律機械兵器、そして核弾頭といった存在も確認できる。

 

それらを踏まえれば、核が実際に使用された後の世界と考えるのが自然だ。武器使用によって人口が減り、そしてあらゆる場所を埋め尽くした放射能物質から逃れる為には、標高が高いところへ逃れるしかない。現に作中で都市のレベルは標高に比例しており、そしてそこにはまだ人の暮らしがあるかもしれない、という一縷の望みこそが「おじいさん」の「上層部へ向かえ」という指示だったと考えられる。

 

しかし、先に示した飛行機を作り都市からの脱出を図ろうとしたイシイは、決して上層には行こうとしなかった。海の向こう、対岸に見える陸地へ向かおうとしていた。そこに目的があるわけではなく、イシイ自身も対岸の陸には何があるのか全く分かっていない。

 

恐らくながら、イシイは少なくとも自分や二人のいる都市のバックグラウンドや上層の状況について知見があったと想像出来る。物語の最終盤では過去の人間が作った月へ向かうロケットの存在も明らかになる。人はもはや「都市」の最上部すら見捨てている。この折り重なった都市の上下に最早意味はないと、彼女は既に理解していたのだろう。

 

結果を言ってしまえば、飛行機計画は頓挫する。イシイを載せて飛び立った飛行機は、翼が折れ、墜落する。パラシュートを使い脱出し下層へ降りていったイシイは、何か安心をしたように笑っていた。それを遠くから見たユーリが「イシイは絶望と仲良くなったのかも」と呟く。

 

イシイの描写や「絶望と仲良くなる」というセリフは、この先には何もないとうっすら分かっていながら旅を続ける、二人のその後の暗示のようにも思えた。アニメの最後では、観測者たる謎の生命体(ヌコ/神etc)が登場し、この都市において人間の存在は二人以外確認していないと告げる。それは「二人にとって安住の地はない」という、はっきり言ってしまえば本作におけるひとつのバッドエンドの明示となってしまっている。(この生命体の意味合いについてはまた別途の場所で文字にしたい)

 

ただ、二人にとって逃がしてくれた「おじいさん」の意図がどのようなものであれ。幼くして二人で旅を続けることを強いられた彼女たちにとって「安住」という結果に、あまり価値を置いていない印象を受ける。勿論、食事や入浴、安眠といった生活的行為のシーンでは、多幸感あふれる描写がなされており、見ているこちらまで幸せになるようである。

 

しかしながら、二人はそこに留まり「生活」を考えることはせず、視聴者が想像するよりあっさりと次の場所を目指す。その理由に食料事情という事も当然あるのだが、むしろさながら「安住」自体が続かないものだという事を知っているかのような淡白さである。彼女たちはこの旅が希望のない、つまり「絶望的」な旅路だともう分かっている。逆に、この先の希望や絶望という要素だけで語ることが出来ないモノ、今自分が触れたもの、触れてきたものを信じて、自我を保つこと。そうした価値観を彼女たちは提示してくれている。

 

そして漫画版のラストシーン。愛車のケッテンクラートすら失った彼女たちは、最上階へ足を踏み入れる。もうその前に月を向かうロケットの存在を目にし、読者も彼女たちも人間が不在である事実をうっすらと分かっている。そして、結局何もなかった最上階で、星空を見上げる。「もっと下層の段階で、安住することへの希望があったのでは」と後悔を持ち掛けるチトに対して、ユーリはただ「そんなことは分からない」「でも生きてて最高だったよね」と投げかける。

 

・生きるという事を、自分で再定義出来る強さ

本作に触れて、とかく僕が秀逸だなと感じたのはこの「二周目のSF」という設定が、この国の現代社会における温度感と見事にマッチしているという点だ。

 

少女終末旅行』は人間がすでにいなくなった世界を描いた作品である。つまり、彼女たちの旅よりはるか昔に壮大な一大SF叙事詩が繰り広げられていたということだ。近未来兵器を駆使した世界戦争と都市の再興という大きな物語が終わり、人類は宇宙へと脱出した(と思われる)。そして抜け殻となった地球には、メインテーゼとなるような大きい物語など残されているはずがない。

 

本作の「メインストーリー終了後の二周目としてのSF」という作風は、最初から大きな希望を持ちえない物語という意味で、作品にするには難しい試みであるように思える。しかしながら、僕らがこの作品に共感してしまうのは、むしろその希望のなさに対してだ。

 

二人の旅路に感情を揺さぶられるのは、高度経済成長など遥か過去の遺物となり、人口は減り続け、昭和期の遺物だけでなんとかやり過ごしている、もう成長や成熟という物語を失くしたこの国における将来性とどこか重なってしまうからではないだろうか。

 

物語なんてすでにない。「絶望」だということもうっすら分かっている。それでも生きている事が最高だと言い切れる。最終話、ユーリの姿に僕は今の時代における強さのあり方を見た気がした。それは、一見逃避に見えるかもしれない。大きな希望を想像することを捨て、二人という矮小な世界に引き籠った、と観ることも出来る。

 

ただ、本作の二人からはその卑屈さを感じない。むしろ日々の野放図な旅路から先行きが見えなかったとしても、自分を取り巻く世界を一つ一つ構築しているのは自分だという自負が見える。明日に希望がなかったとしても、明日を迎えて1日をまた想像し、創造する。

 

では、その強さはどこから生まれるのだろうか。 序盤に触れた通り、本作では随所に「生きること」「記憶とは」「時間とは」「音楽とは」「生命体の定義」など、人間としての哲学に直接結びつくようなテーマがちりばめられている。そして彼女たちはそれらと向かい合うことを恐れない。ユーリは奔放にそれらに疑問を抱くし、チトは懸命に回答を用意しようとする。その一つ一つ問答の営み自体が「生きること」そのものであり、単なる「幸せに暮らしました、めでたしめでたし」で終わらせない自覚がそこにある。「生きる」ことを自ら定義する強さこそ、このぼんやりとした絶望に対峙する方法なのだと、教えられた気がする。

 

 

本作から受け取れるメッセージは非常に多い。僕が本作をラストまで享受して、取り急ぎ抱いた感想は以上だ。久々に語るべき作品を見ることが出来たと思うし、単行本でもじっくりと改めて読み深めたい。ここまでネタバレしといてなんだけど、見ていない人は見て損はないと思います。いやホント。