わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

Vtuberと「中の人」の距離感について

先日Vtuberアイドルプロダクションのホロライブにハマった、というエントリを書いた。日々エンタメとして享受するだけでなく、仕事だったり作業をする際のBGMにもなる辺り、単に「沼」という表現より、生活の一部になったと言って過言ではない。

 

かつてキズナアイやらミライアカリなんか一部配信を見ていた気でいたものの、いつの間にか世の中は進んでいたようで。お前が世間から遅れているだけでは、と言われればその通りなのだけれども、諸々配信や切抜き動画を通して、ホロライブに限らず、にじさんじ、そして個人で展開しているVtuberも多い事を改めて実感として知った。

 

僕に限らず、誰もがYoutubeをチラッとでも覗けばわかる通り、それらVtuberに関連した動画は既に巨大コンテンツ群となっていることは間違いない。また配信者はプロに限らず、ちょっとした知識と設備さえあれば、誰もがアバターを持つことが可能だったりして、参入ハードルも高くない。Vtuberという枠組みが活用されながら様々なジャンルの動画が展開しているというのが、昨今の情勢であるようだ。

 

確かに「配信してみたいけれど、顔出しでのYoutuber参戦は流石に」という心理的な抵抗感をなくすのには、アバターを使って、キャラクターとして配信を行うというのは、今の時代において自然な選択のように思える。例えば仕事をしながら片やアイドルとして活動したいという場合、この仕組みは機能的に作用する。個人がメディアを使って個人にアプローチすることが容易になった現代。VRアバターというのは、ちょうどいい空間を作り出す的確な手段となっているのだろう。

 

ただ、日々動画を視聴したりする中で。ふとした疑問というか、違和感のようなものも感じたりする。以上書いてきた通り、VRアバターというものは、自己開示をしたいという欲と、自らの顔を晒したくはないというリスクヘッジの、微妙な隙間を埋められる概念ともいえる。それだけに、プロアマ問わずそこには思った以上に様々な心理的要素が絡むのではないかと考えたりする。

 

詰まるところ、自分であって自分でないものとの距離感の話だ。以下、ペルソナ的な話題になっていくけれども、インターネットやSNSが普及していく中で、これに限らずネットとリアルのバランス感覚は多くの場所で求められるスキルになってきている。例えば、SNSで普段から表明している考えや意見は、学生生活や社会人生活などリアルな場で表出させていい感情ではなかったりする。半面、飲み会などリアルな友人関係だから言えることであっても、ネット上において書き残すと炎上のリスクを孕む言葉も存在する。

 

TPOと言えばそれまでなのだけれども、過去の時代よりも遥かに高度な領域で、自分の存在している場に沿った、自分を適当に作り出すことが求められるわけだ。Twitterが生まれて10数年経ち、iPhoneを片手にネットと繋がる生活はもはや日常化しているものの、このネットとリアルが絡みあう状態というのは、やはり複雑な「自我の調整」を強いられている時代であるとも言える。

 

ではそんな中で。VR、仮想現実におけるアバターとしての自分ってどこにいるんだろう。Vtuberの活躍を日々見続ける中で、ふとそんな疑問が過るようになっていた。いわゆる「中の人」という存在は、人間の精神性になじむものなのか、という違和感である。勿論、この「中の人」という概念は演劇の世界などにおいても、往々にして過去から存在しているものだ。声優や着ぐるみショーといった世界でもよく聞く話で、表出されているものを裏から演じる役割や概念は、何も新しいものではない。

 

しかしながら、昨今のVR文化と異なる点は「中の人」が完全に演じているか否か、という点だろう。Vtuber文化はかなりその本質が「中の人」当人に近い。完璧に演じる事が求められるというよりも、本人のパーソナルな面がキャラクターの後押しとなり、見る人が完成されたアバターとして認知する仕組みになっている。冒頭から書いている通り、僕自身が一瞬でこの沼に落ちたため、未だにこの「キャラを見ているのか、中の人を見ているのか」という文脈に慣れきっておらず、たまに軸がブレたタイヤを見るような感覚に陥る。

 

恐らく、こうした「中の人」+「キャラ」という認知方法も慣れるか否かという話だとは思う。消費者サイドとしては、そうした違和感もコンテンツを接種していくうちになくなっていくことだろう。しかしながら、その認知を受ける側というのは、整合性がつくものなのだろうか。勿論、当人であることを明かして、VRアバターをあくまでも自分の分身と位置付けていれば話は別である。僕がウダウダ気にしているのは、ほぼ自分のパーソナリティを持った外郭=キャラだけが認知され、人気を得ていくという乖離性についてだ。

 

合理的な欲求に対する行動として、称賛や人気を得たければ、それに見合った成果を残す必要がある。その成果の為には、当然のことながら努力や忍耐が要る。自分が誰かからの承認を望み、その過程をしっかりと踏まえ、残した結果。その結果である称賛を得るのが、自分に近いが、明確に自分ではない何かだとしたら。身体性を持ったリアルな自分には一体、何が残るのだろうか。ふと、そんな想像をすると、うすら寒い気持ちにならないでもない。

 

外部から見た存在が、余りに「中の人」のパーソナリティによって出来上がっているとき。自分と外部の認知のズレに、人は耐えられるのだろうか。心理学上でも、余りに完成されたペルソナは潜在意識との折衝において、様々な問題を引き起こすという話を聞く。VRというペルソナと「中の人」の自我の間において。その衝突がより分かりやすい形で、表出されはしないだろうか。こうした自己認知の歪み、僕のぼんやりとした心配はそういう所にある。

 

Facebookが社名を改めメタバースというVR空間を提供する会社へ舵を切った、というのもネットでは最早手垢がついた話題だ。一般的な市民が匿名性あるVRアバターを使い、社会で生活する物語は既に数多く存在している。SF的な想像の世界で言えば、今はありふれた設定の延長として、エンタメが想像力に追いついてきていると言えるだろう。そして、恐らく我々一般市民もこの想像力の延長に立っているのは確かだと思う。

 

今、活躍するVtuberたちは、我々が今後経験するかもしれない「中の人」と「アバター」の歪みを、先んじて体感しているのではないか。リアルな身体に返ってこない反響を、心はどう処理しているのだろう。好奇心と不安半分、そんな事を考えたりしてしまう。

 

日々、配信として当たり前にみている光景も、かつて人類が歩いたことのない場所だったりする。果たして、そこは人にとって安穏な土地なのだろうか、と妄想をこじらせるのは、やはりSF好きの悪癖なんだろうか。純粋にいちファンとして、種々の配信やコンテンツを楽しみながら、ふと思い浮かんでしまった独り言でした。