わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

ブリジット議論から「多様」という在り方に再び思った事

こういう話題が出るってのも時代なんでしょうね。

 

 

なんかすげー、一気に涼しくなった。

 

どうせまた残暑がぶり返すだろう」などと言ってるうち、普通に寝冷えして風邪を引きそうである。涼しいというか、これを書いている9月21日の朝は普通に寒い。

 

ここ数日、台風による低気圧にも見舞われ、気候弱者にとっては、実に厳しい日々を過ごしているわけだが、一週間は淡々と回ってくるので、今日もまた淡々と更新である。

 

 

ちょっと前にネットで話題になった話でも簡単にしてみたい。個人的に格ゲー好きなので、それに近い話が盛り上がってくれるのは個人的に嬉しいことなのだけれど、ここ数週間での盛り上がりはゲームそのもののとは多少性質を異にしたものだった。

 

それは『ギルティギア』の最新作シリーズ『STRIVE』にプレイアブルキャラとして00年代男の娘ブームの先駆(諸説あり)として知られるあのブリジットが数作ぶりに登場した事を端に発する。EVOでこの件が発表されて以降、国内外からの反響は大きく、解禁後にはプレイ人口が一気に増えたとのこと。そのキャラ人気は今も尚健在である事を世に知らしめた。

 

と、そんなことに関連してどうやらそのブリジットの性自認について一部国外のネットで話題になったようである。そもそも主語は「he」なのか「she」なのか。そんな素朴なやりとりから、無視できる規模の討論を超え、ついには公式アークシステムワークスから「性自認は女性」という見解が提出されたという顛末。

 

多様性を謳う社会であるはずの欧米から始まったとされるこの応酬を眺め、頭が痛くなった我が国古来からの男の娘ファンの諸兄は多かったのではないだろうか。

 

やはり主語を始め、何なら人名の前にも「男性」「女性」をいちいち文法上定めないといけない言語を使っていると、何が侮蔑的で、何が名誉なのかという感覚も日本語のそれとは異なってくるものだろう。

 

他方、別の国の言語では名詞にすら「男性名詞」や「女性名詞」というカテゴライズがある通り、男女に対する機微というものは、思いの外同じ人類であっても、文化圏によって共通項にしづらいデリケートな話題だったりする。

 

と、そんなブリジットちゃんの性自認炎上問題を眺める中、果たして「多様である」事とは一体どのような事かを問いかけられたようにも思えた次第。とまぁ、そんな事があったもんだから、この前も少し書いたのだけれど、改めて多様性という言葉について再び書き残しておきたくなったわけである。

 

その記事でも触れたけれど、多様性というものは主体的な発想ではない。自らの権利主張を行うにはあまり親和性がない思想である。というのは前回行った主張。一応リンク貼っておくね。

wagahaji.hatenablog.com

 

そもそも、昨今でよく言われる性的マイノリティ、いわゆるLGBTQ諸々についても、本来ならば「カテゴライズおよび団結すら不要」というのが目指すべき状態ではないだろうか。

 

そうしたカテゴライズや組織化が為されることによって、昨今は「時代が進んでいる」「仲間がいる」と前向きに捉えられる節が強い。勿論中世だったり、宗教的な教義一辺倒な時代よりは先に進んでいるのだろうけれど、実際にはそれも次のステップに進むための準備段階である事をより意識すべきではないかと思うことも多々ある。

 

実際、マイノリティが単独でいることのデメリットは、マジョリティにどうしたって多数決で勝てないからである。多数決による決め事では負けてしまう。ていうか、マイノリティという言葉の定義上、少数派が多数決で勝つこと自体不可能なわけだけれども、そうした方々が何か社会的に不便な事があって、それを覆すのであれば、一定数でも同様の人間がいるということの証明を行う必要がある。

 

つまり連帯と団結はあくまでも手段である。そこが目指すべきものでは決してなく、その先にある自然体として、個が個として受け入れられる状態こそが実態として目指されるべきゴールだろう。

 

ただ、どうしたって人間は変にドラマ化したがるところがある。目的よりもそのスタイルに重きを置く。その類のドキュメンタリーを見てもマイノリティの生き方が受け入れられるか否かという葛藤や、古い考え方との衝突、そして和合を経て大団円に至るという「和解」の姿を描きがちだったりする。

 

多様性という綺麗なお題目を強調しようとすると、そこに「異文化間対話」や「相互理解」を欲しがってしまう心理がある。マイノリティの苦悩の共感だったり、仲間の存在というエモさや美しさをストーリーとして、無意識下で欲しがってしまう傾向がある。

 

ここから透けて見えるのは、人は何かフレームワークを踏まえなければ物事を考えられないという悪癖だ。組織や属性、男女に国籍や宗教。自分自身が属する立場から相手を許容するのか、あるいは拒絶するのか。そうした二律的な物事の捉え方が、多様性をただの権利的お気持ち闘争に下げてしまう要因にも思う。

 

改めて、多様性という言葉が、究極的に指し示すものは、社会性を排除し、目の前の一人や出来事をどう見て、どう考えるのかというひたすらにシンプルな態度のことだ。

 

冒頭に挙げた話で言えば、純粋に目の前のブリジットちゃんを愛せるか否かという話である。彼が男だから、女だから、男の娘だから、という事でもなく、各種設定などから垣間見える生き方やセリフのひとつひとつを踏まえ、個として好きかどうか。愛せるかどうか。このナチュラルな姿勢こそが多様性本来のスタンスであろう。

 

加えて、身も蓋もない話をすれば、真に多様な社会というのは特段大きなカミングアウトも要らず、マイノリティであることの心的ハードルも低いという状態。もし何か当人に纏わる属性を知ったところで「へーそうなんだ」で終わらせられるそのような在り方ではないだろうか。

 

一見、エモさもなく、冷淡に見える「無関心」な場所こそが多様性の行きつく先だ。そこには軽蔑や卑下は勿論のこと、反対に優しさも気遣いも必要ない。マイノリティがいない世界というのは、同時にマジョリティも存在しない世界である。帰属意識が曖昧で、どうでもいい、という在り方。これが良くも悪くも多様性の極地と思う。

 

それは最早境界が存在しない『イマジン』の世界観であることは承知しているけれども、観念としては意識すべき場所ではないだろうか。どうしたって今、「多様」という言葉が権利闘争や、共感の奪い合いに使われやすい言葉であり、現にブリジットというキャラクターの性自認を通じて、主義主張がぶつかり合い、このようにネットは燃えてしまったわけである。

 

誰も気にかけない、それこそ真空のような場所こそが、多様性が最も根付く場所である。この基本的な発想こそ、改めて認識すべきものだと思うし、実現可能かどうかは別としても、エモさ優先、共感優先の価値観によって「多様性」の妙な濫用を防ぎ、不要な分断を防ぐ、という意味では持っていていいアイデアではないだろうか、と感じた次第。

 

 

なんか前回とあまり変わり映えのない話になってしまったけれど、やはり個人的には気にかかるキーワードのようでつらつらと今週も書いてしまいました。某国ではないけれど、本当、不要な争いというものは出来るだけ排していきたいものですね。多様性って概念は、そのヒントになる言葉だと思っています。

 

何はともあれ、こう一気に涼しくなる時には、体調崩しやすいのでご自愛くださいませ。