わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

梅雨とネットとひとりの独り言

紫陽花が咲くくらいしかいいことないよね梅雨って。


気づけば梅雨真っ盛り。今週も水曜ということでなんとか更新。

 

空を見れば雨がいつ降ってもおかしくない曇天に、全ての毛穴が埋められてしまったようなジメジメ感。なんだか湿気だけで窒息しそうである。加えて、生来の偏頭痛持ちと来た。数か月は持つだろ、という見立てで買った90錠のバファリンがあり得ない早さで消える中、正気を保って仕事するだけで精一杯だ。

 

こんな中、明るいことを考えろという方が無理筋。日々ネットを見ていても、面白くもなく、何事にも興味関心が沸いてこない。むしろ、何かに怒り、吠えている人を見る度、少し羨ましさすら感じたりもする。

 

ということでコミケ原稿を少し脇に置いて、ネットにおける面白さについての暗い内省の話を今回はしてみたい。あまり爽やかな話題でもないので、ジメジメしてても嫌でない方はどうぞ。

 

 

 

昔からあまり仲良しグループみたいなものに属するのが苦手だった気がする。

 

同じメンバー、同じ話題、同じノリ。それらが1、2か月も続くと、大抵飽きてしまっていた。その集うメンバーが変わろうとも、大体5~6人くらい集まって、ワイワイしているとグループならではの組織的同一性が生じてくる。そして「あ、この流れ見たな」とぼんやり思ってしまうと、自然とそこからフェードアウトし始めるというのが、僕の小さい頃からの悪癖である。

 

なので、却って仲違いするような関係は、学生時代からなかったと言っていい。誰とでも比較的仲良くは出来る自信はある。だけれど卒業式など「やっぱり最後は仲良しグループだよねー」という空気が場に流れだすと、もう僕に居場所はない。どこのグループにでも顔を出す事は出来ても、どこにも落ち着きを感じる事が出来ず、結局一人で帰ってしまう。そういう類のぼっちだったという記憶がある。

 

何故こんな薄暗い青春時代を突然思い出してしまったのかと言えば、どことなくSNSというかTwitterを見ていて、そういった感情が沸いてきてしまったからだ。

 

バズるネタ、には人が集まる理由がある。そして人が集まる所、というのは、そりゃ面白いものが生じている事が多い。あるいはそこに多く人が集まったからこそ面白い事になることもある。過去から現在に至るまで、集客力は面白さのバロメーターだ。多くの人が「面白い」と思うモノを目指すというのは、理に適っている。経済的にも恩恵が生じやすい。

 

そして、多くの人が共感をするには、やはり同一のフォーマットが必要になる。違う話題でもどこかで似通ったりしている。人によって感情のポイントはズレているというのは確かだが、ただズレているだけで共通項の方が多い。だからこそ「多くの人が共感を寄せる」という現象が起こる。バズるネタがこれだけ日々流れ、目にしていると「まぁ、この話題はバズるよな」という事が薄っすらと感じられる。そうした共通項の在り処は、SNSによって、かなり可視化されてきている。

 

その末に僕が感じてしまったのは、やはり詰まらなさというか、完全なる飽和だ。あの頃に仲良しグループで感じた「また見た流れだ」という連続。やはり人が多くなればなるだけ、共通項に沿った発信が増える。最近ではAIにお株を奪われているが、ディープラーニングなど長年人間のお家芸だったはずだ。人々は少しでも流行ったネットミームを発言に組み入れ、最新の「バズ」を発言に載せていく。

 

現状生活や収入に対する不満を煽ってみたり、あるいは陰謀論やトンデモ論を振りかざす人を刺してみたり。今、ネットによって私たちは情報を得ているというよりも、集客を得やすい文脈を日々学んでいるといった方が的確かもしれない。人から注目を得やすいツイートの傾向を常に仕入れては、開示する。開示されたツイートから更に、集客を学ぶ。昨今のアルゴリズムは、注目を得ているツイートをTLに表示させるのだから、この傾向は更に加速する。

 

やはり僕は、こうしたグループ内というか、寄ってたかって語りだすような、同じ文脈ありきなネタみたいなものが、あまり好きでないのかもしれない。

 

人は集団化した時点から陳腐化が始まる。家族だろうが、友人関係だろうが、社会が生成された時点で身内ネタが生じる。身内ネタというのはある種、面白さの再生産だ。思考不要で、過去の経験則を踏まえるだけで楽しさを生成出来る。そして、身内の枠が広がれば広がる程に、面白さの共通項は薄っすら伸ばされながら、全体を覆い尽くす。それが今のネットに在る空気感だと、ふと感じたりする。

 

そうした日々に多少嫌気が差している状況で、少し冒頭の中学時代の話、その続きを思い出した。同じクラスに、ほぼほぼ年間を通して不登校だったAというヤツがいた。そんなんだから、大して仲良くもないし、印象にもあまり残っていなかった。それでもAは卒業式に学校へやってきた。

 

突然の登校に多少周囲がざわついたものの、Aは終始俯き加減で、ほとんど誰とも会話することなく1日を過ごした。そして偶然、というか冒頭に書いた通り、僕も卒業式の後は、ぼっちですることもなかったので、面白半分にAに話しかけてみた。「今日、来たんだ」「まぁ区切りだったし。」そんな回答だった気がする。

 

加えて聞いた。「実際、何してたの?」と。そうすると、Aは「バイトとラジオを聴いていた」と言う。その頃僕も深夜ラジオにハマり倒していた頃で、周囲に話せる友人がなかなかいなかった。気づけば、短い時間だったけれど彼とANNやらジャンクやら、そんな話題で盛り上がり、Aの話っぷりには少しセンスすら感じた。本来、Aが通学していればもっと話せたはずだったのに、正直惜しい気持ちがした。「なんでこれまで学校来なかったんだよ」と冗談めかして言うと「ラジオ聞いているより詰まらないし」と一蹴。

 

勿論、彼は彼なりにツライ事があって、不登校になってしまったという話も噂で聞いていた。それでも、こんな面白さを秘めていたなんて。

 

中学時代なんてバカやって、クラスの中で人気あるヤツこそが面白い、みたいな風潮の中、Aの在り方は僕にとって一つカルチャーショックだった。たった一人でも、スタンドアロンに面白いヤツっているんだ。その事実を、Aは教えてくれた気がする。

 

むしろ、今。周囲の評価やらネタに流されることなく、本当に面白い事が見れるのはやはり個人の衝動だと思う。大衆の目でなく、一人の意思を優先すること。色んな価値観が過渡期を迎えていて、様々なコンテンツが、様々な形式で発信される中。淡々と何かを為していく人というのを僕は応援したいし、そしてそう在りたいんだよな、という愚痴半分な独り言でした。

 

こんな感じの記事を書き終えてから、ダ・ダ・恐山氏がこんな記事ツイートでバズっていた。そうそう。俺もこういう事が言いたかったんだよ。

正直、このツイートを見てからこの記事を出すのはサブイので、ボツにでもしようと思ったけれど、勿体ないので掲載してしまった。周囲の尖った方々を見ては、ちゃんと自分の尺度を持ち続けなければと思う次第です。梅雨ですが、なんとか生きていきたいところです。