わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

言葉がどんどん難しくなってきていることについて

多分、することがなくなってきたのだ。ハマりかけた競馬も春のG1全てが終わり、そんなテンションからかウマ娘からも少し離れ。FGOは未開放の後半パートの存在に気づいて、一旦休止。格ゲーもほどほどプレイに切り替えたので、ボコられ放題。そもそも梅雨時期で酒すら飲みに行きづらい世相に、うじうじ悩むか寝るかくらいしか楽しみがない。

 

そんな毎日死に体だけれども、今日はまだ少し眠くない(最近は22時就寝が平均)ので、また日々思うところを書いてみたい。意識高そうで高くない話になると思う。

 

毎日ぼーっとした頭でニュースを見ていると、言葉がどんどん難しくなっている気がする。VUCAだとか、SDGsだとか、アジャイル、Z世代、カーボンニュートラル、終盤にはビックフライオータニサンアゲイン・・・多分、スポーツコーナーになったんだなということくらいは理解出来ている。

 

そうした略語、横文字言葉が増えてるということも勿論そうなのだけれど、それ以上に「良さげ」な単語が多いわりに、本当に「良い」ものなのか分からないことが多くなってきた気がする。そもそも冒頭の「VUCA」って要するに「不確実性」みたいな言葉の寄せ集めにも関わらず、同じ口で「SDGs」=「地球にやさしく」みたいなこと言ったりする。

 

そもそも論なのだけれど、SDGsみたいなフワッとした(と言ったら怒られそうだけれど)「地球に優しい15か条」を「VUCA」の時代に掲げるってどうなの。今は「先々わかんない時代ですよ」と言い張っておいて「これは地球に優しいから」みたいな指標掲げること自体、どうなんってずっと思ってた。極論だけれど、二酸化炭素出すな!って、本当にこの先50年後も常識なんすかね、と意地汚いことを思ったりもする。

 

(15色の輪っかバッヂを強制的に身に着けているサラリーマンが言っていいことでもないとは思う。あれメルカリでも売ってるよね。)

 

つまるところ今日言いたい「言葉の難しさ」って、いい感じのこと言ってるのは分かるんだけれど、その「いい感じ」で包括される中に相反するもの沢山あるんじゃない?ってこと。簡単な例を挙げると「再生可能エネルギー」って地球に絶対優しいっしょ、と思ってたけれど、災害や老朽化みたいなソーラーパネル設置リスクが再生エネのメリットを上回ってたみたいな話。

それはVUCAの話じゃなくて、事前の検証が足りてないだけだろ。というのは真っ当なツッコミのようにも思えるのだけれど、今「絶対これは地球にやさしい」と思って行っていることが10年、20年後「検証不足乙」って非難されてることも絶対あると思う。悲しいけれど。

 

少し話題は逸れるのだけれど、投資商品にサスティナビリティボンドってものがある。企業が地球にやさしいことに使う使途資金として(節電設備のビルを作ったり、再生エネ事業に使ったり)募る社債で、投資家も「いいことに投資してる」とアピール出来るので、個人から大規模まで低利率でもめっちゃ人気がある。

 

そんなある日、取引先の証券マンが嬉々としてサスティナビリティリンクボンドなるものを勧めてきた。お題目は二酸化炭素排出の削減が使途、そこに何が「リンク」されているのかといえば、排出量の削減目標値を決め、一年後に達成できていなければ、投資家へ払う利回りがプラスされるという商品だという。

 

これってつまり投資家の人らは、企業の目標未達成を願うんです?と聞いてみたら「まぁ、どうなっても得ですよってことで」とのこと。しかも、さっきも言った通り往々にしてSDGsに絡む社債は利回りが低い。発行企業からすれば安いコストで調達できて、投資家はいいことしたアピールになる。善なるものにお金を使う、という観念は経済性で説明がつくもんだろうかとふと疑問が過ったりする。

 

また最近よく見る例を挙げれば、バフェットさんみたいな富豪が節税対策で納税を十分にしていない、と批判されるけれども、本人からしたら否定もせず「納税するより、得られた資産で効率的な慈善団体に寄付する方が多くを救える」という主張を展開したりしているわけで。格差是正ってなんだったっけとも思う。

 

まぁちょっとした例を見てきた通り、今、使われる言葉だけは延々といいほうに向かっている。冒頭からイジッているSDGsだけでなくWellbeingなんかもそう。各国の企業を中心に、スローガンとして「善」なる方向にひたすら進みたいのは分かるのだけれど、その中身について、本当にそうなの?と検証を始めると足が止まるんじゃなかろうか。

 

足が止まるだけならいいものの、恐らく一斉に「SDGsを進めよう」とすると、それぞれに利害が相反することも出てくる。貧困をなくすことと不平等を是正すること、全員の都市生活の享受と気候変動リスクへの対策など、いくつか点と点を眺めてみても相性が悪そうな項目同士の存在が浮かんでくる。Wellbeingも同様に、誰かの幸せが皆の幸福だとは限らない。

 

これまで「より良き地球」だったり「個々人の幸福」は宗教が受け持ってきた分野だ。本来教義をベースにしないと具体的な話に進めないような事を今、個人ベース、言葉ベースで進めようとしているように見える。だからこそ、観念の対象たる「言葉」が極めて複雑化、多義化するのも無理はない。神やダルマなしで「善」を説こうとするのは、やはり人間には難しい所作なんだと思う。

 

そもそも宗教を示す「reilsion」語源はラテン語の「religio」とのことだが、その語自体が非常に多義的だとかどっかで読んだ気がする。そうした標語群の頻出は、ある意味で「善」とは何か、その根源を考え出す原点回帰を今、無意識下に人類規模で行おうとしている証左のかもしれないとか。大雨でやることもないと、誇大妄想を捗らせるよりほかにすることもなく。

 

 

最後の方はあまり何を言いたいのか分からなくなっていたところも否めないけれど、言葉に背負わせる概念がだんだん重くなってきて、そうした標語を会話で使ってみても「一体俺は何について言及しているんだっけ」ということが、仕事でも増えてきたので書いてみた次第。

 

何を言っても、意味が言葉に吸い込まれていく感じ。前回書いたようなネット上で言葉を吐く陳腐さに繋がってるのかもしれないなと。ふと、その違和感を残してみたかったのでこんな文章になりました。また、気が向いたら更新します。