わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

内を省みると書いて、内省という話。

やっと今年に入って最初の記事を書いている。年が明けてから既に20日が経つ。日々社会でせっせと働いている身としてはもはや新年という気分も抜けて急ピッチでやってくる年度末に向けて身構えるべき……ところなんだけれども。

 

今回は、非常に内省的な事を書いていこうと思う。最近のモチベーションの状況と、維持方法についてだ。こんなことを書き出すということは、そう。完全に不調だったりする。仕事にも気力がない。趣味もいまいち熱が沸かない。ブログにも書くこともない。20万したゲーミングPCを買ってみても、ケツに火がつかない。コロナも相まって、人と話す機会は減っているから、冷静に自分を顧みることも難しい。並べて書いたら陰気な吉幾三みたいになってしまった。

 

そんなこんなで、30そこそこの中途半端な時期に差し掛かったおっさんが、何をしてもピンとこず、あの時期の欲や熱はどこいった。というような日々を過ごす中で、少し真面目にこの状況を考えてみようと思った次第。適当に考えた自分向けっぽい文章になってしまったので、お暇な方はどうぞ。



 

さて、これまで30年ほど生きてきて。「何かをしよう」という気持ちをどう起こしてきたか、という点についてちゃんと考えねばならなくなってしまった。思考の癖というか、自分のやる気スイッチの押し方そのものだから、毎度「何かをしよう」と考えるたびに、そのルーティンを繰り返してきたわけである。

 

例えば長いことやってきた同人誌制作。もちろん、何か企画を立ち上げようとする際には、話を聴きたい人を思い浮かべたり、あるいは今この枠組みで雑誌を作ったら面白いのではと脳内で盛り上がったりする。それがモチベーションにはつながるのだけれど、今回はそれ以前の話。そもそも「何か作ろう」なんてどうして思うんだっけってこと。

 

それら衝動みたいなものをどう呼び起こしていたのかと言えば、個人的な発想として、まず現状の否定がある。逆に「何もしない」ということは、自分の人生における時間を否定するものだという考えが、いつの頃からかぼんやり頭にあった。そもそも、人生には何か目的があって、人生に付随する時間は手段である、ドヤアみたいな。文字面を見れば、どんだけ生き急ぐのと思うのだけれども、何か行動を起こす淵源になっていた発想ではあるので、安直に否定は出来なかったりする。

 

まあ目的なんて大げさに書いたけれど、それはその都度、何をするかという事を決めれば良いだけである。試験だったり、創作物だったり、何でもいい。自分の人生を使うに値すると、自分で決めればそれで納得する。何かをする整合性がそこで生じる。そうすればあとはTODOと期日を纏めれば、成果物は自然と出来上がっていく。そんな流れを20代の間は繰り返しながらやってきた気がする。

 

一見して、悪くないサイクルなんだけれども、最近この手法自体に戸惑いや綻びが生じるようになってしまった。エラーが起きていたのは恐らく「目的に対する納得」の箇所。何か行動をそこにセットしてみても、自分からの承認が降りてこない。承認者の機嫌が悪いのか。日を改めてみてもそれが覆ることがなかった。

 

それがここしばらく、1年ほど続いている。これは明らかにおかしい。こう書かないとルーティンが壊れていることにも気づかないのもある種の恐怖だ。そして、何をすべきか承認されないままでいると、最初に書いたモチベーションの淵源である「現状の否定」が機能不全を起こす。免疫みたいなもので、ウイルスを除去するという目的から外れ、自分自身の攻撃だけに勤しみ出す。延々と続く自己否定。何をしようにも承認は降りることなく、意欲は湧かず、正直かなりしんどい。



ところでネットで「クォーターライフクライシス」という概念を見たことがある。20代後半から30代前半にかけて、人生100年と考えるとクォーターあたりのタイミングで抱える抑うつとした感情のことだという。てか、これじゃん。完全にこの状態にハマっている気がする。世間一般あるあるなのかよ、と少し恥ずかしくなったが、今も抜け出せたとは言い難い。

 

恐らくながら、この10代からのルーティンの故障時期というか、ある種ソニータイマーのような時限設定が存在していて、それが現在自分が抱えているクライシスの原因ではないかと思う。ではこのタイマーの本質は何かと考える。

 

それを見出すには、これまでのモチベーションの正体を捉える必要がある。先ほど、それは現状の否定だと書いた。つまるところ、悪く言えば逃避欲求である。今は自分の収まるべき状態でない、場所でない。ワナビーの根源みたいな感情だ。だからこそ何かを作ったり、手を動かすことで生じる僅かな可能性に縋ってきたとも言える。

 

反面、これをよく言えば投資とも言える。不鮮明な将来に対して、今何か行動を起こすことで影響を及ぼすことが出来るのだから。

 

言い方はそれぞれあるのだろうけれど、仮に投資だとしよう。それはある種若さに依拠した金融商材のように思える。人生が長く、先がまだまだ不鮮明だからこそ出来る手法。「満期」までの猶予という不確実性が投機的な要素になる。つまるところ、先々がうっすらと見えてきてしまうと、投資に対するリターンがなくなる。投機は先々不明だからこそ、リスクに対応する形で損得が生じるものだ。

 

硬直的なデリバティブに利息がつかないのと同様、年齢を重ねるだけ相対的に、何か行動を起こすことに対するリターンは減る(ように思えて来る)。一方で、そうした金融商品と人生は異なり、何か行動を起こした際のリスクやコストは据え置きだったりする。そうなれば、新たな投資に手を出すまでもない。リスクリターンに見合わない行動をすべきか、という理性が自分を止めにかかるのは、自然な摂理だろう。

 

不確実要素の低下。自分の居場所の拘束感。そんなものは言ってしまえば、気の持ちようであることには違いないのだけれど、それら無意識化の発想は思った以上に自分の感情や行動を、知らず知らずのうちに縛りつけたりする。そして反発をしてみるものの、それら「ぼんやりとした圧迫感」が巷で言われるような「減退」「老化」という言葉と化合し、納得や諦観として自分に返ってきて凹む、という次第だと思う。



こう書いてみて、なるほど。と思う。このように考えれば打開策は至ってシンプルじゃないか。これまで持っていた行動原理を書き換えればいい、それだけだ。現状の否定をテコにしながら何か行動を起こすという方法をやめること。つまるところ、現状を肯定すること。今の状態を素直に受け入れてから、何をすべきか考える。楽しいことを探す。趣味が広がる。なるほど。そんなことでいいのか。一瞬で解決ではないか。

 

とここまで考えて、本当に人間というものは、PCよりも劣っている存在だと実感する。バージョンアップが為されれば、一瞬のうちに自動更新してくれる各種アプリケーションと違い、自分の至らぬところが分かっているにもかかわらず「これまで長いこと持っていた思考をどのように切り替えればいいか」なんていう、事務的なところに多くの苦労を費やすわけだ。

 

自分を否定することで動力化する。という過去から沁みついた発想を剥がすだけでも、きっと大手術がいる。自分のことながらほとほと嫌になってしまう。多分、完全な切り替えには早くても数年かかるのではないだろうか。マトリックスみたいな、何でも即インスコ時代が到来しない限り、人生とはどこまでいってもポンコツな自分というソフトウェアとの闘いなのだろう。SFよ早く来い。

 

と、そう嘆いていても仕方ないので、上記を今年1年くらいの目標としたい。というのがようやく辿り着いた今回の主旨。

 

自己肯定と行動。毎日Vtuberの配信見ていても本当にメンタル管理は大切だと感じる今日この頃。何をするにも、良き精神がなければ行動は起こせないものだなと思いつつ、寒い毎日を養命酒でも飲みながら、乗り越えたい所存。

 

もう少し新年ぽい内容にしようと思ったけれど、無理でした。今年もまったり頑張ります。