わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

「普通」の事が難しい時代で。

〇〇の秋って、誰が言い出してんだろね。

冬コミに向けた同人誌の企画や作業に時間を割いたり、あるいはシンプルに日常生活の中でネタがなかったりと理由はあれど。週によって、普通にこなせている記事の更新が、急に次の週には無理難題に変わり果てるというのも、なんだか不思議だ。

 

折角の読書の秋、ということなので、最近読んだ本と自分の考え事がマッチしたので、そんな話でも書き残してみたい。



ここ1年ほどだろうか。臨床心理学者である東畑開人さんの書籍をよく読んでいる。以前『現代思想』というお堅めな雑誌で、精神科医で批評家の齋藤環さんとの対談から氏を知った。

 

東畑さんの著書が取り扱うのは「心理学」という難解かつふんわりとしたジャンルをベースにしながら、沖縄のデイケア施設で心理士として勤務した経験談や、研究と称してフィールドワークで怪しい施術を受けまくった話。実際、心理士として日頃クライアントと接するカウンセリングの現場から書かれるコラムなど、多岐にわたる。どれも比較的気を休めながら読める上に、現代における「こころ」の本質を突いているように思える。

 

そんな東畑氏の新刊が、この頃ちくま新書から刊行された。『聞く技術 聞いてもらう技術』と題されたその本では、メンタルヘルスを守る上で「話す」「聴く」ことよりも、ふと「聞いてもらう」、意識せずに「聞く」という事を、人とのつながりの中で会得する必要があるのではないか、という視点が提供されている。

 

傾聴、という語がある通り「聴く」というのは、意識して聴くこと。対して「聞く」というのは受動的に耳に入ってくるというニュアンスの差がある。カウンセリング等の場合、クライアントの話をしっかり「聴き留める」必要があるように思えてしまうが、氏は普通の生活の延長にある「聞く」ことがより大切だという。



人の話を聞き、自分の話を聞いてもらう。なんだ普通のことじゃねえか、と思うかもしれない。確かに普段は意識もせず日常の一部としてこなしている訳だが、ふと改めて考えてみると、人との会話というものは思いのほか、複雑で際どいバランスの上に成り立っている行為だと感じる。

 

なにしろ相手の頭の中は見えない。ある種、延々とポーカーやら麻雀をしている気分に近い。相手が作ろうとしている役は見えず、いつ何時こちらに攻撃を仕掛けてくるかも分かったもんじゃない。またゲームと違い、勝てばいいわけでもない。

 

そもそも、会話自体が「どこを目指せばいいのか」ということすら一度当事者間で決めなければならないわけで。今はオチを作るべきなのか。軽い相槌で流すべきなのか。それとも徹底的に相手の心中を引き出させるべきなのか。

 

上記、会話でのスキルを昨今では「コミュ力」と呼ぶが、複雑なやり取りをスムーズに行うには一定の知識が必要であることは確かなのかも知れない。

 

 

本書でも指摘のあったことだが、そこに加えて時代が変わったことで、コミュ力の要件も変容している。ネットによる個人的な意見の過剰な噴出で、道徳概念にも大きな波が押し寄せている。明記されない察し文化であり、更にその正解すら一様ではないのがまさに今だ。

 

そう思うと、コミュニケーションそのものが、実に複雑な時代を我々は生きているのだと改めて感じてしまう。答えやルールが常に変化し、そこから外れればコミュニティから放出されるリスクもある。

 

SNSではそれが日々数値化、見える化されている。フォロワーの増減や、リアクションの多寡によって、自分の発言や振る舞いの正しさを計られるようなメンタリティ。そんな中にいては社会に対して「怖い」という印象を持つほうが、むしろ自然なようにすら感じる。

 

 

 

そんな状況だからこそ、基本的な「普通の営みに」翻って注目が注がれているのだと思う。

 

紹介した本書では、メンタル上のヘルスケアを維持する上で、ふとした気持ちを聞いてもらうための「小手先の技術」を紹介していた。例えば、トイレに多く行ってみたり、人前であえて薬を飲んでみたり、締切をすっ飛ばしてみたり。「大丈夫?」と相手が思わず聞いてくるような仕草や行動である。

 

そうしたちょっとしたスキルは、思いのほか誰が教えてくれるわけではない。日常生活で少しずつ周囲の誰かに試しながら、時に怒られたり、成功体験を得ながら、トライアンドエラーで学んでいくものだろう。それでも、コミュニケーションが複雑化した今の状況では、それもスキル化することによって、誰もが「聞いてもらう」基礎力を作ることが重要なのかもしれない。

 

共感を積極的に催させる「話す」「聴く」ことでなく、些末でちょっとした「聞いてもらう」ことをあえて小手先のスキルとして示し、それらがただの日常であり、普通の事であると自覚する。現代のメンタルヘルスケアを維持するには、コミュニケーションを図ることに対して、妄想よりシンプルで怖くないものだと、改めてそのようにマインドセットを行う必要がある。

 

そして、聞いてもらうことと、聞く事をセットにしている。上記のようなスキルを「聞いてもらう」ための受動として使うだけでなく、そういうスキルを使っている人を見たら、こちらも聞いてみる。この循環こそが社会でメンタルケアの基礎を維持する営みの根源ではないかと。

 

本書を読んでみて。そして、改めてこの文を書いてみても思ったけれど、これらは本当に普通の事だ。周囲を見て、自分がしんどければそういう振舞いをしてみる。逆にそういう振舞いをしている人がいれば「あの人しんどいのでは」と心配してみる。これだけの話なのだ。

 

ただ、これまでもにも書いた通り「普通」は近年、難易度を上げている。テレビのような大きなメディアは細分化してしまい、人々の共通項は減っている。SNSと対面では言える事も異なる多重レイヤーの中で生活し、生まれた年代によって同じことでも大きく受け取り方は変わってしまう。

 

そんな中、東畑さんの著書には、本書に限らず、思った以上に普通の事が書かれている。「こころ」を巡る「そりゃそうだよね」という事柄が、丁寧かつユーモラスに記されている。それが僕を始め、読者には受け入れられているのだろう。

 

個々がひたすらに個性を伸ばせ、一人で生きろと叫ばれている今だからこそ。きっと、万人をただ万人たらしめるような普通の事が今、とても重要になっている時代なのだと思った。当たり前と思っていた事を具体的なスキル化として明記したり、見返す事で、自分自身をフラットな立場に落とし込んでいく。

 

人はより輝かしいもの、時間、場所をついつい望んでしまうが、日常や普通という確固たる地盤があるからこそ、次の場所にも進むことが出来る。色々な苦しみやツラさを抱えてしまった人々が、日常の再構築を行うには、やはり社会含めて「普通の営み」を明示する必要もあるのだろうと思った。



ふと自分の日常生活においても、ちょっとしたすれ違いや会話のズレによる苛立ちが増えてきている中で。本書から改めてそうした自然なやりとりの大切さを学べた次第。是非、おススメの本なので、読書の秋という事で読んでみてはいかがでしょうか。