わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

コミックマーケットは誰がためにある

・あけましておめでとうございます。

ということで始まっちゃいましたね、令和5年。年末しばらくブログ更新もしなかったので、久々の更新が新年のご挨拶となってしまった。なんだかんだで忙しかったし、仕方ないよね。

 

まぁ、それにしても。

 

仕事納めの翌日、新型コロナウイルスに感染し陽性判定。そのままコミケ参加出来ず・・・。いやあ、このタイミングで感染するかー。この歳になっても、こんなに凹むことあるもんなんだ、と学びを得た次第。

 

この十数年、同人誌を作っては売るという自虐行為を繰り返しては、承認欲求と自己肯定感を得てワナビー自我を誤魔化し続けてきた身として、直前になって参加出来ないという事態は思った以上にツラい。

 

当方大手サークルでないにせよ、まず金銭面のダメージは大きい。コミケ参加費や、制作の為の資料代、安くはない印刷代を払って新刊を仕上げてしまった訳で、それをペイ出来る場所というのはやはりコミケ当日の販売くらいなものである。在庫は手元に残ったのだから資産計上と言えるが、機会損失であることには変わりない。

 

具体的に言えば『ぼっち・ざ・ろっく!』の影響をモロに受けて、つい買ってしまった十数万のギターも、もちろんコミケの売上を見越してのもの。捕らぬ狸の皮算用・・・この国にはバカを表すいい言葉があるものだ。

 

同情するなら買ってくれ、ということで以下通販をなにとぞ。

sukumidu.booth.pm

 

そんな浅はかな収支管理もあって、年末年始は天井をただひたすら見つめながら「何がいけなかったのか」と恨み節をぶつぶつ唱えたまま過ごした。その他楽しみにしていた飲み会やら、正月のごちそうも全て泡となり、その癖、仕事初めには療養期間解除がキッチリ間に合うというこの社畜ぷり。今年一年の始まりとしてはこれ以上ないスタートを切ったと言える。

 

コミケの転換期

それにしても、コミケを巡るネット学級会というか、種々イベントそのものの性質・変遷を憂う声は、コロナ禍を機に増えている気がする。数年間イベント自体が中止になり、復活のC99(昨年の冬コミ)以降は感染対策として参加者数を管理、チケット入場制がとられるようになった。その甲斐もあって参加者は抑えられたが、それによる弊害を唱える声もチラホラ見かける。

 

先日は「もうコミケでも大手サークルしか利益だせねえのでは」という匿名記事がプチバズしてたり、同人誌の頒布部数実績が露骨に減少したという声もよく聞く。

 

その他、コミケ参加者やボランティアスタッフの高齢化問題、あるいは「紙媒体の同人誌に意味なんてあるの?」「BOOTHなど通販やDL頒布があるのに直接頒布にこだわるのは何故?」という具合に、コミケに留まらず同人即売会というイベント自体の本質を問う意見も、コロナ禍以降増えたように思う。

 

コロナ以前のコミックマーケットを振り返れば、拡大基調こそ正義と言わんばかりに、圧倒的な参加者数を誇り、開催日数も4日間に至るなど、日本のオタクはもとより国際的に見ても最大規模を誇る「オタク文化の祭典」としての位置づけに近づいていたのは間違いないだろう。

 

確かに多少規模の小さいサークルでも、キッチリプロモーションすれば一定の売上は見込めた気がするし、高度経済成長期のような、ある意味「良くなる未来」に依拠したサイクルが回っていたとも言える。

 

ただ、昨今では人が集まること自体に制約を強い、その意味を問い直したコロナ禍によって、そうした性質も転換期を迎えている。それが様々な疑問や問題提起に繋がり、同時に「そもそもコミケコミケって騒ぐけれどさ」という冷ややかな目線が、イベントとしての在り方を再考させるタイミングに差し掛かっているのかもしれない。

 

・個人的にコミケにブレないでいてほしいこと

「いかがでしょうか」で締めれば適当なまとめサイト感ぽく終わる事も出来たのだけれど、流石に新年からチープ過ぎるのでもう一歩だけ踏み込んで終わりたい。

 

そうは言っても、やはりコミケという場所は特別だ。今回参加出来なかった事で余計に実感するに至った。参加してしまうと「なんだかんだ今年も楽しかった」という感じで、疲れと達成感で語彙がナーフされ、都度うやむやになってしまう。今回その体験が出来なかった分、不足している栄養分が明確になった感じ。

 

当然冒頭に掲げた金銭の問題もツライのは確かだけれど、それ以上に「同人誌を作る、買うようなバカな人らと場を共有できた」という実感が足りていない。それなのだ。

 

フォロワーさんのツイートに乗っかる形で、呟いたのでちょっと烏滸がましいのだけれど先ほどこんな事をツイートした。

 

オタク文化に限らずだけれど、この頃世の中はどんどん真面目になっていく。そもそもネットが広まったことで、様々な空間もオープン化し、いつどこでも社会的倫理に沿うような振舞いを求められる事が普通になった気がする。

 

不要なモノを選別し、コロナ禍においては「不要不急」「本当に必要な機会を除いて」など、様々なイベントや文化が社会的価値の基準で計られる機会が爆発的に増えた。詰まるところ「極力、無駄な事はするな」という価値観が、圧倒的に優勢となった3年間だったと思う。

 

更に先にも掲げた通り、コミケは転換期を迎えている。同人活動も多様になり、より効率的な運営を求め、頒布数や利益面でバックがなければ参加する意義もない、と考える人もいるとは思う。これまで旧態依然としたやり方や、存在価値が見つめ直されるというのは、今後イベントが継続される上でも必要な過程だ。

 

だけれども、その本質をよくよく冷静に考えて欲しい。そもそも、コミケに生存的、生産的「意味」はない。不要不急オブ不要不急。本来、帰省して親に顔出すべきであろう年末という時勢に、有明なんていう海っぺりの埋立地において、十数万人の社会不適合趣味を持った人間が集い、承認欲求や物欲、金銭欲を煩悩のままに満たそうとしているヤベー場所である。

 

それなのに、そんな場所にそれだけの人が集まってしまう、あの場を求めている。その事実にこそ本質がある。生存になんの意味もないはずの非日常が、誰かの生を豊かにさせている具体的事象ではないだろうか。

 

また他の即売会と比べてもコミケ特有なのは、ノンジャンルだからこそギリギリのラインまでふざけても比較的受け入れてくれる文化だと思う。普段の社会ならバカにされるようなネタ、恰好、頒布物であっても、笑いながら見て、買っていく人がいる。だから、あの場に固執してしまう。

 

世の中がキッチリとした理屈で回れば回るほど、コミケのような非日常が担う役割は今まで以上に大きくなると思う。バカバカしいモノを作り、わざわざ足を運んで買いに行く。こうしたサイクルは、思いのほか我々を深い部分で支えてくれているし、そういう祭りに救いを感じている人はきっと自分だけではないのかもな、と布団の中で悶々と考えていた次第。

 

なので、どういう批判に晒されても、このコミケが持つ「無意味こそが有価値」という本質だけは見失うことなく、今後もブレないことを祈りつつ。

 

 

 

と、コロナで遊べなかったおっさんのボヤキ記事でした。酒が足りていない。何はともあれ、冬コミの新刊のリアクション見ずに、夏コミの新刊(多分続編)を作るのは怖いので、是非通販で購入された方は感想下さいませ・・・本年も宜しくお願い致します。