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秋葉原という地名~この町で人々は何を願ったか~【2018年夏コミ既刊より抜粋】

そろそろ夏コミも近いので新刊の宣伝、とも思ったのだけれど、その前にふとやってみたい事があった。それは5年前の2018年、夏コミC94に刊行した同人誌「'00/25 Vol.9 「アキバ」の「コトバ」」の中で書いたコラムの抜粋だ。

 

様々、秋葉原にゆかりのある人を招いて対談を行った1冊で、その合間に、自分自身も秋葉原の歴史を踏まえたコラムを3篇書いた。これについて一度ネットで公開してみようと前々から思っていたのだけれど、なんだか5年も経つと忘れていたというのが実情である。

 

参考文献は一番下部に掲載している通りではあるものの、どうも独りよがりに書いたため、寧ろネットに公開してコミュニティノート的にツッコミどころがあれば指摘頂きたい、と思った次第。その第一弾としてお試しに公開してみようと思う。また自分自身、このシリーズを書くために国立国会図書館に行ったり、結構苦労したのでこういう記事はオープンにした方がいいっしょ、という思いもあった。

 

まぁ結構長いのでお暇な方で、アキバに興味がある方は覗いてみて欲しい。ということで以下本文。※2018年8月時点での情報です、ご了承ください。

 

 

◇火除けの地から交通の要所へ


神田佐久間町の秋葉の原といえば、神田っ子には思い出の多い遊び場所、元は火除地で火防の秋葉原神社が祀ってあった。方二三町の空き地で最初の貸自転車屋があり、借馬屋があり、花相撲や軽業もときどき興行、チャリネの曲馬も第一回はここで大当り」(中公文庫『明治世相百話』山本笑月

 

 明治~大正期における世相を書いた『明治世相百話』の一端、秋葉原に該当する箇所を抜粋した。地元民にとっての遊び場であり、色んな新しいビジネスが勃興、イベントなども盛んにおこなわれる。なんだか今、イメージされる秋葉原の像に似通ってはいないだろうか。

 

 まずはそんな印象を頭の片隅におきつつ、秋葉原という地名の淵源について簡単に触れてみよう。江戸といえば、数々の「大火」の名が歴史の教科書にも残っている通り、時代としてもエリアとしても、火災が非常に多かったという。その原因は、消火技術の未発達さと過度な人口密集にあった。よく耳にする「喧嘩と火事は江戸の華」という言葉が後世まで伝わるのも、そうした事情によるものなのだろう。特に秋葉原がある神田地区に関してはそうした大火の火元となることが多く、秋葉原の地名のきっかけもそこにある。江戸時代が過ぎ、迎えた明治2年神田相生町(現在の昌平橋付近)を火元にした「相生の大火」と呼ばれる火災が起こった。相生町に住む職人宅から出火した火は周辺の1100戸を焼失させたという。東京府はこの事態を受け、焼け跡を延焼防止のための「火除け地」とし神田花岡町(現在はヨドバシカメラakibaマルチメディア一帯)に火災の際の延焼防止区域として、広場を設ける運びとなった。

 

 翌明治3年。江戸時代からの大火の多さを憂慮していた明治天皇が、この広場に鎮火三神である火の神火産霊大神(ほむすびのかみ)、水の神水波能売神(みづはめのかみ)、土の神埴山毘売神(はにやすひめのかみ)の三柱を皇居内の紅葉山から遷座勧請した。当初「鎮火社」として祀られたそうであるが、当時庶民にとって火除けの神様と言えば「秋葉さん」と相場が決まっていたようで。本家の「秋葉大権現」あるいは「火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)」を奉斎したわけではなかったが、当時では地元民から次第に周囲は「秋葉神社が祀ってある広場」だから「秋葉原」と認知するようになった。ただ呼び方は「秋葉ノ原(あきばのはら)」や「秋葉っ原(あきばっぱら)」、さらには「秋葉ヶ原(あきばがはら)」や「秋葉原(あきばはら)」など様々な呼称で呼ばれたようである。そのように誰かが確定的に決めたわけでもなく、当時は通称で呼ばれていたものだから、現在の「秋葉原」(アキハバラ)という呼び名に定着するまではまだ多少時間がかかる。

 

 人口密集地域に作られた小さな町二つに及ぶ空地、そしてそこには「秋葉詣」に人が集まるときた。そんなおいしい遊び地を神田周辺の生粋の商人たちが放っておくはずがない。冒頭引用した『明治世相百話』でもわかるとおり、様々な催しやら商いが生じ、神田を地元にする江戸っ子たちからは重宝された様子が伺える。特に盛り上がったのが文中にもある貸し自転車屋だという。戦前、このエリアには既に山際、広瀬、石丸といった電気問屋も存在しており、その後の時代の黎明も僅かにあったが、それ以上に自転車屋が非常に多かったという。思い出せば2000年前後まで、中央通り沿いに小さな個人の自転車屋が残っていた事も懐かしい。その名残だったことも考えられる。

 

 明治も時代が進み、区画整備や消防に対する意識が高まりを見せる中、この広場も次第に火除地としての役割を終えていく。そこに目をつけたのが、鉄道国有化の前夜、各地に群雄割拠をしていた鉄道事業者である。明治23年鉄道事業者の一つであった日本鉄道は、その火除地の存在と、神田川を目の前に据えた水運の便に目をつけ、土地を東京府から買い下げ上野から貨物目的の路線を引いた。当時で言う「秋葉原線」であり、それが現在の秋葉原駅の母体となる。その際、神田川から水を引き、駅区画内に堀が作られ、貨物駅の船着き場として活用された。その名残としてJR昭和通り口改札脇にある「秋葉原公園」も数年前まで石堀に囲まれており、80年代まではそこに水が流れていた。今でも公園の道路側に「佐久間橋」と書かれた橋名板が見受けられる。つまり、その下には水が通っていて、現在の書泉ブックタワー脇から神田川まで川の流れがあったことを示している。

 

 少し視野を広げ、時代も進めてみたい。その後、明治39年頃から、国がいよいよ鉄道を国有化事業とし旅客扱いの路線整備を進める。それまで、北は上野、南は新橋、西は御茶ノ水、東は両国まで、という具合に鉄道は現在の東京駅を中心とした銀座・神田・秋葉原エリアにまで届いていなかった。この頃から帝都中央駅構想が練られるようになり、分散している路線を取りまとめ都心に交通網の集約点を作る流れが起こった。結果、現在では東京駅がいわゆる「中央駅」としての役割を担っているが、当初は「万世橋北」つまり秋葉原駅もその候補に挙がっていたようである。

 

 しかし、「神田川の外」要するに、今の地名である「外神田」という立地が「東京の中央駅としてふさわしくない」とネックになったようで、東京の鉄道網における中心地とは至らなかった。それでも明治も末を近くした明治45年。甲武鉄道(現在の中央線)がそれまで御茶ノ水止まりだったところから延線し、万世橋駅が仮の終着駅として設定。まもなく大正4年には東京駅が完成、追って旅客扱いも開始された為、万世橋駅の役割は短かったものの、その跡地には過去に交通博物館ができ、多くの人が訪れた。また今では「March」という商業施設が作られている。当時の万世橋駅の趣を残しながら運営されており、近くに本店を構える「肉の万世」とともに秋葉原一帯における一つのランドマークともなっている。

 

 大正14年にようやく東北本線、上野―東京間が開通。それに伴い秋葉原においても旅客取り扱いが開始された。諸説はあるもののここで初めて明確な形で「アキハバラ」という呼称が定着したとされる。(貨物駅時代には当然「秋葉原」の名はあったものの、呼称はマチマチであったようだ。旅客扱いとなってさすがに呼び方がバラバラでは不味いという話から現在の読み方が定着したとみられる)それから7年後の昭和7年に、それまで両国・御茶ノ水止まりであった総武線もいよいよ開通。今も街のシンボルとして残る立体交差の高架がかかり、秋葉原が庶民の交通の要所となったわけである。

 

 とかく神田川の水運から始まり、貨物駅のターミナル時代、戦後都電が都民の足だった頃、そして地下鉄含めた鉄道が縦横無尽に駆け回るようになった現在。東京の主要部における交通の要所として、秋葉原駅はその役割を果たし続けている。現在では、日比谷線つくばエクスプレスはもちろん、少し足を延ばせば都営線岩本町駅、銀座線末広町駅、また千代田線新御茶ノ水駅湯島駅という具合に各路線の駅にも隣接しており、多くの人がこの街を利用する前提が出来上がっている。こうしたアクセスの良さも、街の多様性を産む土壌となっていることは間違いないだろう。


秋葉原における神社と信仰

 ここまで秋葉原という場所の淵源を覗いてきたわけだが、そもそも「秋葉原」という地名からしても、「電気の街」や「オタクの街」というイメージの反面、下町文化が根付き神社や信仰とも関連が深い土地であると分かる。ここでは一旦、秋葉原に縁する神社に目線を向けてみよう。そこからこの街がどういった土壌の上に成り立っているのかを考えてみたい。

 

 「秋葉原」の地名の直接的な由来となったのは冒頭でも触れた通り「秋葉神社」と言われている。ただ、現在「秋葉神社」として社屋を構えている神社は秋葉原から少し離れた場所にあり、最寄りの駅はといえば秋葉原ではなく御徒町となる。明治二三年の貨物駅開業の段階で、そこにあった神社を移すという話になり台東区松が谷という土地が都によって払い下げられた。足を運んでみれば、社地は整えられ、静かながら荘厳な雰囲気を湛えている。しかし、今や世界的にしられる「アキバ」の地名の由来にもなったことを考えるとこの立地は多少寂しい気もする。ただ、今もなお「秋葉神社」は秋葉原エリアでもひっそりと神棚にて祀られていたりする。

 

 まず、もともと「秋葉の原」と呼ばれるきっかけとなった場所、JR秋葉原駅である。本文での対談でも話題になっているが(H氏との対談参照)現在ではご当地ショップ「のもの」の奥、会議室にある神棚に秋葉神社は祀られている。その発端は思いのほか切々たる事情があった。上記の通り、神社が秋葉原駅開業に伴い松が谷遷座されてしばらく。戦後、秋葉原では火災が数件起きており「秋葉さんを遷座したから」なんていう声も上がった。さらに決定的だったのが昭和37年、当時秋葉原駅長だった内藤剛二氏が回送の特急とき号に触れてしまい、亡くなるという事故も起きた。その件を受け、その年の秋口、秋葉原駅秋葉神社の分社を祀ることとなった。そして、未だに駅構内でも定例的に安全祈願の秋祭りが開かれたりしているという。こうした事情を鑑みるに駅に祀られた「秋葉さん」は火伏だけでなく、未だにこの駅の安全を見守っているのかもしれない。

 

 たださすがに、JR駅内の会議室とあっては一般客がおいそれと覗くことはできない。そこでもうひとつ、我々も未だに確認できる場所にある小さな「秋葉神社」がある。それが秋葉原におけるパーツ専門街の一つラジオセンターだ。狭い路地から二階に上がると、そこには小さな祠が丁寧に手入れされており、よくよく読めば「秋葉神社」と銘打たれている。戦後よりここラジオセンターを取り仕切った山本長蔵という人物は信仰が厚く、土地の安穏を祈って祀ったという。またこの秋葉神社だけでなく商売繁盛の神「伏見稲荷」も一緒に祀られている。なんだかごった煮な感も受けないではないが、戦後の混乱期を生き抜いたパーツ露店店主たちの切なる願いが込められているのだろう。そして、このラジオセンターで買い物をした人なら知っているかもしれない。「山長通商」とはこの山本長蔵氏の愛称からつけられた店名である。そうした埋もれがちな歴史が案外、表立って残っている事もこの街では珍しくない。

 

 また、秋葉原以前に神田の神社といえば真っ先に「神田明神(社号・神田神社)」が挙がることだろう。この土地の興隆を担った神社であり、大手町にある「首塚」とならんで平将門信仰のメッカとしても知られる。さらに江戸総鎮守である神田明神江戸城からの表鬼門の位置にあたり、裏鬼門にある日枝神社とともに家康の時代から江戸の安穏が託された場所としても有名である。

 

 実はこの神田明神がこの表鬼門になる以前、室町の時代に江戸城を築城した太田道灌という武将がいる。この時代に江戸城を守ることを目的とし、数多くの神社が江戸城周辺に勧請、造営された。その中でも江戸城における元来表鬼門の役割を担った神社が、今神田川沿いに佇む柳森神社である。

 

名は太田道灌佐久間町に植樹した柳の木から名前がとられ、今なお通り沿いには柳の木を見ることが出来る。秋葉原の裏手、ほとんどオフィスが隣接する中で一種異様な雰囲気ではあるが、小さいながらも非常に落ち着きのある空間となっている。京都の伏見稲荷から勧請したということで商売繁盛などの神社として認知され、境内にある「おタヌキ様」は「他を抜きんでる」という事から出世や商売に縁起がいいとか。神社にて飼われている猫さまとも触れ合えることもあり、平日お昼時には近隣のサラリーマンや住民の憩いの場にもなっている。

 

 そして、秋葉原の中心街の中にもこれまた小さな神社、あるいはその影を見る事が出来る。まず比較的アキバに通う人間なら目にしていると思われるのが講武稲荷神社である。場所は秋葉原から昌平橋に抜けるガード沿い、旧石丸電気本店のそばと言えば伝わるだろうか。こじんまりして可愛らしいスペースながらも、本堂までの階段が設置され、脇を飾るお稲荷さんの乗った「キツネ岩」もなんとも見ていて癒される。元は大貫伝兵衛という者が講武所(武術の稽古場)の用地払下げを浅草橋長昌寺にある稲荷神社に記念していたところ、見事許可。その感謝の意を込めて、明治九年に稲荷社を遷座し建立。現在では地元町会の倉庫も併設され、うまい具合に土地活用がされている。ふと自分の地元にある神社にも「備品倉庫があったなぁ」などと思い出してしまった。成り立ちから今の姿に至るまで、色んな意味で生活感が覗けるお稲荷さんである。

 

 また電気街のメインストリート沿い、田代町(外神田四丁目)に知る人ぞ知る神社がある。10年前ほどより、一部ネットメディアで取り上げられ、そのニッチさから一時期注目の的となった「花房神社」である。江戸時代からここにあるという事は分かっているものの細かい創建年代は不明。本文中、お散歩対談企画でお世話になったごん助氏の旧実家の真裏である。人一人がやっとあるけるほどの細い路地を入ると、そこに突如現れる。ごん助氏旧宅を始めとして、周辺の民家は再開発によって激しく建て替わりを繰り返している。それら変化をゆっくり見守るようにして鎮座する花房神社は、やはり激しく商業化していく土地にあっても「人の暮らし」が確かにそこに根付いていた事を後世に知らせてくれるスポットである。

 

 そして、最後。ここはすでに神社として残っていない。今回、先のごん助氏と散歩する中で気になった場所がある。それは旧松富町、末広町よりの駐車場の一角。特段気にすることもないコインパーキングなのだが、壁の作りが異様に重厚である。聞けばここも一九六五年まで存在した「三社稲荷神社」の跡地とのこと。穀物・食物・農業の神として知られる倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が祀られていたとのことで、立地を考えれば青果小売店が林立していた場所だと想像がつく。こうした半世紀以上過去のモノとなってしまった神社跡地もふと目を向けることによって、その土地が持っていた特徴、そしてそこに住んでいた人の生活が浮かぶ。今ではすっかり趣すらなくなってはいるものの、そうした壁一枚からも、このような名残を見つけることが出来る。

 

◇そもそも「秋葉神社」は秋葉原にあったのか

 以上の通り、それぞれの神社を見てきた。ただ、再三書いている秋葉原の地名の由来「秋葉神社」の存在には疑問が挙がる。よく言われる経緯としては「明治2年・相生の火災⇒火除け地が残る⇒明治天皇秋葉山or皇居内紅葉山から秋葉神社を勧請⇒市民に親しまれる⇒明治23年に貨物駅として日本鉄道が用地払い下げ⇒「秋葉神社」は台東区松が谷遷座昭和5年松が谷に社屋が造営」という流れである。10年前ほどだろうか。「野菊のハッカー」というブログにおいて、「秋葉原」という地名の由来については種々検証、こうした史観に鋭いツッコミがいくつも挙がっている。確かに調べれば調べるほどに種々の疑問が沸く。

 

 元来、秋葉信仰自体、悟りに至った修行僧と山岳信仰が合わさった神仏習合の手本のような神様である。秋葉原の「火除け地」に遷座勧請された神社は冒頭書いた通り「鎮火社」である。明治新政府によって「神仏分離」「廃仏毀釈」が叫ばれていた時代にそんな「秋葉三尺坊大権現」が祀られるはずがない。証左に本家本元の静岡県秋葉山秋葉神社でもその流れは避けられず「明治5年に教部省秋葉権現を三尺坊とは異なる鎮守と判断し、更に修験の家伝に基づき祭神名を火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)であるとした。」(ウィキペディア秋葉山本宮秋葉神社より)とある。つまるところ、その当時において公式に勧請すべき「秋葉さん」は「火之迦具土大神」を祀った秋葉神社であるが、それでは時系列が合わない。

 

 また現在松が谷にある「秋葉神社」の由緒書きを見ていても、明治23年の貨物駅操業開始による土地払い下げによって遷座勧請されたのはやはり「火の神火産霊大神、水の神水波能売神、土の神埴山毘売神」の三柱を祀った「鎮火社」であったのは間違いない。そして、その後昭和5年になって祀っている神様はそのまま、社号だけが「通称」に寄り添う形で「秋葉神社」へ変更になったという。つまるところ「秋葉神社」自体は、松が谷以降の名称であり現在の秋葉原に「秋葉神社」が存在したことはない、ということになる。

 

 これ以上掘り下げるとキリがないので、別の機会を設けることにしたい。ここで注視したかったのは国家や神社庁が正式な形で「~神社」と社号を改めたところで、そこに住む人々の思いというのはそれを乗り越えてしまうという結果だ。「秋葉原に正式な秋葉神社は存在していなかった」という歴史は、逆説的にこれほど当時の秋葉信仰というものが根強かったということの証明になりえる。秋葉講(参拝しようにも旅費がないため地元で金を出し合って、代表者数人が静岡県本社をお参りする)が数多く起こり、そこに行けない人のことを考えた結果各地に分散する形で秋葉神社が勧請されたわけである。特定の宗教という形ではないにせよ、当時の火伏に対する考えや、土地の安穏を守る「秋葉さん」に対する願いは今の時代では想像できないほどだろう。特定の神社やトップダウンの意思ではなく、ただ人々の願いや思いがそこにあったから、秋葉原は生まれた。そうは言えないだろうか。

 

 遠大な回り道をしてしまったが、本筋に話を戻して「秋葉原」という土地を見てみると、その地名の成り立ちすら「秋葉原らしい」といえるかもしれない。今回、それぞれの対談を覗いていただければ、こうした文章を書いた私の意図を多少なりとも分かっていただけるのではないかと思う。

   
◇◇ 参考文献 ◇◇
・『明治世相百話』山本笑月著 中公文庫 1983年6月
・『秋葉原は今』三宅理一著 芸術新聞社 2010年6月
・『江戸→TOKYO なりたちの教科書 一冊でつかむ東京の都市形成史』
 岡本哲志著 淡交社 2017年2月
・『江戸東京の神田川』坂田正次著 論創社 1998年11月
・『文学・芸術・文化 一九巻二号』近畿大学文芸学部論集より 
 「秋葉原 地名の由来」猪口教行著 2008年3月
秋葉原電機振興会HP「秋葉原アーカイブス」
 http://akiba.or.jp/archives/history00/
秋葉山本宮秋葉神社HP
 http://www.akihasanhongu.jp/
・神社と御朱印秋葉神社
 https://jinja.tokyolovers.jp/tokyo/taito/akibajinja
・野菊のハッカー「「秋葉権現勧請説」を天下の千代田区に質問してみる。」
 https://signal9.exblog.jp/8329246/
秋葉原史記事(mouseunit's Blog)「秋葉原 地名の由来」
 http://blog.livedoor.jp/mouseunit/archives/44484918.html
千代田区HP「町名由来板・松富町」
 https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/bunka/bunka/chome/yurai/matsutomi.html

 

 

ということで、以上が1本目。あと2本あるので、気が向いたら継続的に載せていきたい。ちなみにこの文章が掲載されている既刊はメロンブックスで電子版頒布中なので、是非とも何卒。以下、そのURLでございます。

https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=407240