わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

『君たちはどう生きるか』を『エヴァ』と対比して見てみるという提案

色んな意見あるけれど、僕は好きでした。

①冒頭

(こっからネタバレあり)

②これ『エヴァ』のアンサーソングでは?

「母」のモチーフについて

④「暴力的な世界で関係性を諦めないこと」

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かなりブログ記事を書くこと自体が久々となってしまった。

 

いよいよTwitterも消えてなくなってしまうかも、という状態が続いていたし、今さら僕が何か文章を書いたところで、という無力感が強かったのも確か。それでもつい昨日映画を見て、気持ちが動いたので、こういう瞬間は大切にしておこうとキーボードを叩いている次第。

 

その映画とは、スタジオジブリ最新作『君たちはどう生きるか』だ。大した宣伝もせず、SNS上での口コミと大喜利効果により、スタートダッシュは好調な興行成績を残しているという。かく言う僕も、ネットの波に煽られて鑑賞してきた。どうもネット上の評判を見ると賛否両論、寧ろ近しい所では批判のが少し多い感じ。

 

なので「実際、面白いのだろうか」と多少身構えて鑑賞したのだが、個人的にはかなり良かったと思う。確かに幾分か難解な話の作りにはなっているものの、まぎれもなくジブリ作品だし、一つ一つの描写は繊細で美しく、あからさまな娯楽エンタメというより、ある種ファンタジー世界観そのものを様々な隠喩含めて思い切り楽しむ作品といったところだろうか。

 

そんな中で、ふと沸いてきたタイトルのような思いつきについて滔々と述べていくことにする。極力、直接的な描写は避けようとはするものの、やはりネタバレもふんだんに含んでしまっているので、作品を見た方にのみ、あと暇な方にのみ読むことをおススメしたい。

 

 

 

 

・これ『シンエヴァ』のアンサーソングではないの?

最初からぶっちゃければ総括として抱いた感想は見出しのそれである。『君たちはどう生きるか』では、場面の転換が素早く、台詞まわしがいちいち暗喩的だったり、それぞれ登場するキャラクターも置かれている状況に対する理解が早い。見ている側が置いてけぼりを喰らうシーンが多い。うーん、この感じどこかで、と思い至ったのが『エヴァ』を見ていた時の気持ちである。

 

実際、ネット上の各所ご意見を見ていて、本作に対する批判の大部分は物語の整合性や伏線に対する回収を得ることの難しさにあると思う。ただ、これが例えば庵野作品ならそんなに文句は出なかった気もする。

 

「なんかそれぞれ難しいこと言ってるけれど、結果ハッピーエンドだしスッキリ出来たから高評価でいいんじゃね」とか、あるいは「あのシーンはどの伏線だったのか」「このオブジェクトが意味するところは」「こことあそこの時間軸は一体」など解釈論議に咲かせる、という具合のオタク特有の楽しみ方を提供してくれたという評価軸になったのではないかとも思ってしまう。(現に嫁とは、後者の感じで楽しく論議出来ている)

 

本作における賛否両論というこの事態は、作品性というより最初から鑑賞者の期待したモノと作品の間に齟齬が生じてしまったが故に起こった現象ではないだろうか。どこかでスタジオジブリ作品は「子供向けの大衆娯楽」という思い込みがあり、こうした暗喩がふんだんに盛り込まれた展開に対して「理解が追いつかない」という事自体に拒否反応が出ているのではないかとも勘ぐってしまっている。

 

寧ろ、肩肘張らず、本作は宮崎氏なりの『エヴァ』を終えた庵野秀明に対するアンサーソングのように本作を見れば、この難解さも含めて楽しめるのではないかと感じたのでその話をしたい。

 

実に乱暴なのだけれど『エヴァ』を10文字以内で表せ、と言われれば「子供が大人になる話」だと僕は思っている。『エヴァ』はシリーズ通して、シンジ君だけでなく、アスカ、ミサト、ゲンドウ、その他様々な登場人物が難解な世界観や生死と向き合いながら、ぶつかったり鬱になったり、いい感じに繋がりかけては、結局世界が滅んだりする。

 

『シン』での最終章では、シンジによってゲンドウ始めそれぞれキャラの精神分析がなされ、病理が解きほぐされる事によって創世を成したお話だと僕は理解している。詳細については、その感想文リンクを貼っておく。

 

wagahaji.hatenablog.com

 

そして『君たちはどう生きるか』に話を戻せば、これもやはり主人公・牧眞人が「大人になる」話だと僕は思う。そのようにシンプルに捉え直すと、この2作品を繋げる補助線が(個人的には)見えてくると思っている。以下『君たちは~』と『エヴァ』にどのような類似性を見ているか、という点について2つ程書いている。面倒なオタクがなんか駄弁ってらとでも思って、軽く読んでいただければ幸いだ。

 

「母」という存在のリンク

先んじて書けば、僕は「大人になる」ことの定義のひとつとして「家族を他人と理解し、他人を家族として受け入れること」ではないかと考える。

 

本作がインスピレーションを得たとされる岩波文庫版では、主人公・コペルの父が亡くなっているという設定だが、本作では主人公・眞人の母が火災(恐らく空襲)によって亡くなり、事業家である父と母方の田舎に疎開する所からこの物語はスタートする。しかし、眞人の精神世界、あるいは大叔父が構築している「下の世界」においてその死は今一つ判然としないまま話が進む。

 

また、現実世界においては、眞人の母ヒサコと瓜二つである妹ナツコと、父が再婚する流れとなる。既に子供をその身に宿し、眞人は他人としての「母」と出会う。見知らぬ母に似た他人と、血の繋がりを感じられないまだ見ぬ弟、あるいは妹を前に眞人は自分の素直な気持ちをさらけ出すことなく、悶々とした日を過ごすというのが序盤のストーリーだ。

 

どことなく、このヒサコの存在は『エヴァ』におけるユイの存在と重なるように思える。彼女も実験中にエヴァに取り込まれ実体としては亡くなったものの、その魂はエヴァ初号機に搭載され、搭乗者であるシンジを救ったりもする。そして彼女のクローンであるレイもまた、ここに書くまでもなく、物語の中でシンジとの関係性を構築する。

 

『君たちは~』において。現実世界でのヒサコは眞人に小説版の『君たちはどう生きるか』を遺し、思想の面から彼を後押しする。「下の世界」においては、母の幼少期の姿で火を操るヒミと出会うことにより、ナツコを探す冒険は前に進むことが出来た。加えてヒミ自身も、眞人の事を将来産むであろう自らの子どもであると理解し、ラストはそれぞれの時間軸に飛び出していく。

 

このように、死んだ「母」を感じさせながら、幼少の姿として再生させ、家族というくびきから離れた関係性を構築していくという構図に、両作品とも近しいモノを感じる。特に男子にとって、母と離れることは大人になる為の重要な条件ではないかと考える。

 

また、逆も然りである。それまでナツコに対して抱いていた、他人としての「母」という感情。それを乗り越え、最終的には彼女やその身に宿した子をも自らの家族として受け入れた眞人。これはマリという他人をパートナーとして選び取り、自らの人生を築こうと一歩踏み出したシンジのラストシーンとも重なる。

 

以上のようにして「家族を他者と理解し、逆に他者を自らの家族と選ぶ事」が大人になる禊として描かれており、この点について両作品はリンクしているのではないかと僕は思った次第である。「少年が大人になる」事を描くため、母をひとつの軸としながら展開しているという相似形ではないかと感じた根拠である。




・暴力的な世界で他者との関係を構築してくこと

もう一つ双方ともに描かれた「大人になる」ことの条件は「他者との違いを受け入れ、それでも関係を諦めない」という点ではないか。

 

こちらについて『エヴァ』で考えれば、ゲンドウが目指した人類保管計画が分かりやすい。結局、ゲンドウは大人になれなかった父だ。先にリンクを貼った感想文にも書いたことだが、最終盤で赤裸々に語られるゲンドウの半生は、まるで他者を受け入れられず、また唯一愛せた妻を諦めることも出来ず、人類が全て魂の次元でひとつになる事を目指したものだった。

 

最終的にこの計画はシンジに諭される形で破綻する。個体としての差異をそれぞれ受容すべく創世された世界で、シンジたちは生きていくことを選んだ。

 

以下は解釈違いかもしれないが、同様に『君たちは~』において語られる「下の世界」はある種、生と死が閉じた完成されたユートピアだったのではないかと推察している。大叔父が維持していたのも、そのユートピアにおけるバランスであり、その世界にも大叔父の老いに伴って限界が来ていたものと考える。

 

そこで血の繋がっている眞人がその後継者として選ばれた。だが、彼は自ら傷つけた頭の傷跡を指して「悪意の証拠」としてこの打診を断った。自ら美しい世界を蹴って、嫌な学友のいるアウェイの学校があり、母は既におらず、新しい家庭の待つ現実世界へ帰る選択をした。自らが悪意ある人間と自覚し、母や新しい家族、侍女らに守られている事を自覚し、その責任を引き受けたのではないだろうか。

 

※こっから、一人解釈語り。インコを始めとした鳥のオマージュは、僕個人の中での解釈として「人間の意思に反するもの」=「自然」の暗喩ではないかと考えている。宮崎氏の飛行機好きからしても、人の意思で飛ぶものに対して、ある意味でアンチテーゼ的に鳥が配置されているのではないか。だから必然として人間と対立する。大王が激昂したのも、人間が意思に対して重きを置く傲慢さへの怒りではないかと邪推している。なんなら、大叔父の積み「石」は「意思」をかけたダジャレではないかとも薄っすら思っている。

 

エヴァ』と『君たちは~』における、主人公の選択はそれぞれ別個ではあるものの、明確に「大人になる」事への答えを指し示していると感じられる。

 

そして、この部分というのは元ネタ小説版『君たちは~』でも通じる部分がある。どれだけ文明や文化が発達しようと、貧乏やいじめはなくならず、人間として生きるツラさはどこにでも存在している。それでも自分を中心に考えず、誰かと繋がっている事でまた意思を持つことが出来ると信じる事。そして最後に「君たちはどう生きるか」と問いかけた流れを踏まえると、しっかりと映画本作がタイトルだけでなく『君たちはどう生きるか』という小説を源流に据えている事が分かる。

 

「大人になる」というシンプルかつ矮小とも取れるテーマ性ではあるものの、既に御年80歳を超える巨匠が、若い世代に対して決して説教くさくなく、直感的なイメージ性をベースに懇々と「生きること」を伝えてくれたように僕は感じた。そして、その淵源には庵野監督が描ききった『エヴァ』という作品が、少なからず影響をしているのではないかと邪推しているのでは、というそんなお話。

 

 

 

以上、好き勝手書いていたらなんだか長くなってしまった。久々に文章を書くと、文章下手になるし、辞め時を失ってよくないね。たまにはストレス発散にいいもんだなと思いつつ、次回の更新あたりでは、ちゃんと夏コミの宣伝もしようと思いますので、よろしくお願いします~

 

本当に日々クソ熱いので健康には気を付けて。