わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

名作(偏見)エロゲに学んだ人生における大切なこと

今週の記事。一昨日、日々のごとくツイッターを眺めているとこんなニュースが目に入ってきた。

 

『同級生』リメイク・・・しかもちゃんと(?)エロゲとして発売するとのこと。本作は1992年の発売であり、実に約30年の時を経ての再登場ということになる。『ひぐらし』のアニメ実況をしながら『同級生』がトレンドになるタイムライン。一体、令和とは何時代なのだろうか。

 

ただそんな過去作につい盛り上がってしまう心境として、思えば90~00年代のオタクにとってエロゲは「オールアラウンドコンテンツ」であったのは確かだ。多ジャンルのクリエイターがそこに集い、良質なCG、高密度な文章、そして時に珠玉のBGMと出会える場所だったのだ。エロを目的に、邪な気持ちでゲームをスタートしたオタクどもが、人生における良質な発見、セレンディピティを得るということも珍しくなかったように思う。

 

今回は個人的にエロゲから教わった人生における重要な教訓3つを示してみたい。あらかじめ言っておくが、「Fateから人間の業の深さを知った」とか「クラナドに人生の美しさを見た」みたいな野暮ったいことは書かない。青年期の人生にとって実務的に響いた点のみを列挙したい。

 

<人生において性行為がゴールではないことを知る>

『ショコラ 〜maid cafe "curio"〜』(真名井里美ルート)

本作は、僕がかなり初期にプレイしたエロゲのひとつだ。人生の幸せにまで踏み込んだシナリオの奥深さから、未だに人気が高い戯画の喫茶店経営エロゲ2部作の1作目。メイドカフェブームにも重なり、八王子にコラボカフェがあったことも今となっては懐かしい。

 

とりあえず10代そこらの根暗オタクにとって、エロゲの大きな目的はもちろんエロシーンへの到達である。当初何作かプレイした結果、エロゲとは「物語を読む→選択肢を選ぶ→ヒロイン好感度UP→エロ」という構図であることを学ぶ。となれば「ゲームクリア(トゥルーED)=エロ回収」という認識を持つのも自然なことだ。

 

本作は真面目ながらも流されやすい主人公が、喫茶店経営を任される中、人間的にも成長しつつ各ヒロインとの関係性を構築する、というのが物語の基本格子となる。そして、最初にクリアすべきはメインヒロイン。バイトとしてやってくる天然お嬢様の真名井美里が攻略対象となる。

 

しかし、手を付けたこのルート。いわゆるバッドエンド(ノーマルエンド)がエロシーンになっているらしいと知る・・・まぁ、エロシーンがあるならいいか。一旦、トゥルークリアは置いておいて、適当に選択肢をチョイスし、ノーマルEDのクリアを目指す。そうすると喫茶店経営も半端になり、日々美里との関係にのみ埋没する。快楽におぼれ、二人の関係さえ続けば。というところで物語が終わる。

 

あれ・・・なんだこの感情。ゲームをスタートした時の昂った気持ちが落ち着き切っている。女性とのお付き合いさえ経験のない10代後半が、冷めた気持ちでエロスチルを眺めていた。「やっぱちゃんとトゥルーを目指すか。」と改めて再度やり直していくと、他のヒロインのルート含めて「あぁ、人生エロだけじゃねえんだな」と実感する羽目になる。毎日抜きネタしか探していない10代男子には貴重な説教である。

 

ていうか、多分『ショコラ』も次作の『パルフェ』もそうした「単なるエロは所詮一時の快楽」という示唆が強い。その示唆の最たる例を、最初のルートにぶち込んだという意味でも未だにノーマルEDの美里が脳裏によぎってしまう。

 

 <悪いことが起こりそうなフラグが実現すると、大体予想の3割増しでツライ>

グリーングリーン』(美南早苗ルート)

 GROOVERが世に送り出した良作エロゲシリーズ。全寮制男子校が共学になるので、試験的に60名の女子生徒がやってきた!!おバカ男子らが「彼女を作ろう」と奮闘する分かりやすいアッパーな学園ラブコメドタバタ群像。のはずが、本当によく出来ている。

 

先に書いた通りとりあえず、こういうゲームはメインヒロインから手を付けてゲームのテンションや基本線を探るべきだと覚えた当時の私。早速、まぁ学園ラブコメを楽しむつもりで、メインの千歳みどりから取り組んでみる・・・気づけば濃厚なSF展開に呆然・・・クリアと同時に燃え尽きた。

 

ベタではあるものの、決して安っぽくなく、筒井康隆を彷彿とさせる本流のタイムスリップ・ボーイミーツガールモノ。EDにボロ泣きしながら「面白かった・・・これは油断しないほうがいい作品だ」と学んだところで2人目のヒロイン南美早苗に移動。いわゆる今作のロリキャラ枠であり、属性は病弱ね。なるほどなるほど。とルートを進める。

 

結論から言えば「病弱=病の克服or死去のお涙頂戴ものっしょ」と身構えていた装甲をこうも簡単にはがせるもんなのかと思った。なんていうか、こっからは未だに思い出すとツライのでアニヲタwikiでも確認してほしいのだけれど、ED見て案の定嗚咽。1週間はPC開けなかった。え?うん、ツラくて。

美南早苗 - アニヲタWiki(仮) - アットウィキ

 

大体、世の中生きていると「あぁ、この先の結末ってこうなるよなー」って分かることがある。そして、古来よりほかの動物と比べ肉体的にも弱い人類は、大脳を進化させ本能的に良くないことに対しての察知能力が高いといわれている。嫌なことは先々分かっていた方が回避しやすいし、くらってもダメージは少ない。

 

しかしながら、そうした「分かっていたはず」の悲劇も実際起きてみると、想定を超えてくるもんなのだ。日常というバイアスによって、ツラくなるであろう予測は軽減されている。だって、それは杞憂かもしれないし。だからこそ、起こったことというのは、想像なんかよりはるかにツライもんなのだと、当時早苗ルートによって教えられたわけである。時限メールはやめよう。

 

<性癖に従うのもいいけれど社会性も身に着けよう>

『好き好き大好き!』(ルート指定特になし)

13cmというメーカーが発売したラバーマニアカルトエロゲ。戸川純の楽曲からタイトルを取っている時点で嫌な予感がする。1998年に発売されて以来、賛否が分かれながらも一部のマニアの間では支持を集めていたらしい。2014年にまさかメガストアの付録になる、という珍事も起こるほどには(偏った)世間には認知されていたようだ。

 

ということで、そんなマニアに漏れずラバーやらトータルエンクロージャーといった面白性癖を昔から保有していた身としては、何とか入手しプレイせずにはいられなかった本作。が、このゲーム。カルトと言われるだけあってEDの9割が鬱展開。全10本のEDを見た後にやっと申し訳程度に純愛展開のEDが解放されるのだけれど、その10本がまた酷い。その中で一番マシなルートの最後が「主人公の逮捕」である。主人公が逮捕されて、ホッとするゲームって何なんだマジで。

 

さらに言ってしまえば、メインヒロインも早々と監禁してしまうので、ほとんどゲーム内で彼女のキャラ作画を見ることはないという狂気っぷり。確かに、描写としては好みなので総じてプレイはしたけれども、性癖もここまでくるとげんなりするというか「お前は気をつけろよな」と言われている気分になった。

 

当時、個人的にもネットが開通した頃合い。いろんなサイトに足を運んでは、ゆがんだ性癖に則って様々情報収集をする中で本作に出会った。一方的にエスカレートしていく好奇心に対して、一種の冷静さを与えてくれたのが本作だと言える。今になって思うと、謎の恩義を本作に感じたりする。まぁ、勘違いだと思う。

 

 

ということで、簡単に終わろうと思ったものの長めの記事になってしまった。皆さんも、祖父で新作エロゲを物色したり、棚にしまい込んだエロゲを引っ張りだして、2020年の秋の夜長に新たなトラウマを作ってはいかがだろうか。気張らず続けます。

 

2020年にひぐらしの新作マジか。という話。

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展開知ってるとは言え、普通にビビるおっさん。

文章力と画力は放っておくと、落ちていく。それをカバーするなら、やっぱ書くしかない。ということで、軽めの文章と簡単なお絵かきエッセイ的な記事をしばらく続けていこうと思った次第。読んだ本やら見たアニメ、時事ネタなんか絡めて、今まで以上に好き勝手、短めに書いていきたい。週1回くらいのペースで更新したいもんである。

 

・『ひぐらし』新作だってよ、という2020年

ということで、今回はまさかの新作をテレビアニメシリーズで開始した『ひぐらしのなく頃に 業』について話す。いや、ほんとやりやがった。

 

原作『ひぐらしのなく頃に』は、ミステリ系同人PCゲーとして2002年、コミックマーケット62において彗星のごとく登場し、本編の完結編が頒布されてから14年という月日が経っている。今回のアニメ化も情報が出た当初は「再アニメ化?どうせリメイクっしょ」と皆がたかをくくっていた中で、今週第2話を迎えての新作展開にタイムラインが騒ついた。

 

かくいう僕も、高校時代にリアルタイムでプレイ。朝方5時まで毎日廃人のごとくPCの前に張り付いた結果、それが原因で親子喧嘩、性癖暴露にまで発展したという思い出深い作品である。ゲームという建前だが、選択肢を選ぶ要素はなくとにかく読み進めては「事件の真相を暴け」というコンセプトで「正解率1%」というコピーも話題になった。

 

2000年代中盤、オタクは毎週発売される数々のギャルゲ消化に忙殺され、結構序盤で「つまんね」と切り捨てることもよくあった。『ひぐらし』も開始早々、冒頭から90年代ハーレムギャルゲのベタな展開に辟易して「割につまらんが」と思い始める辺りでスイッチオン、一気に不穏な展開が始まる。そうなるともうどうしようもない。終わるまでノンストップ。

 

1話終えるのに10数時間かかっていたイメージなので、それが8話。端的に言って地獄である。今回の新アニメでは、ぽよよんろっく改め渡辺明夫氏の典型的萌えキャラデザの雰囲気から、一気に『ひぐらし』調に転調されるのも見どころだ。

 

・何がすごいの『ひぐらし

新作見てたら高まってしまい、この『ひぐらし』という作品。個人的にどこがすごいのかという事を少し語りたい。需要?知るかそんなもん犬に食わせとけ、である。

 

古来からギャルゲは往々にしてマルチEDである。なぜなら作品には複数ヒロインがいて、プレーヤー諸氏の性癖は様々。なるべく広範に需要を集めたいと思えば、幼馴染だったり先輩後輩だったり、突然のロリケモ人外だったりそれぞれの癖に合わせた攻略ルートを作るというのが筋である。

 

勿論、諸兄各位に推しが見つかればそれで万々歳なのだが、マルチEDという手法自体「物語の大団円」が薄まってしまうリスクもある。型月やら葉鍵、AgeやらなんでもいいのだけれどマルチEDギャルゲで名作といわれる作品は、そんな分散化リスクを乗り越えるだけの強い軸が物語に存在している。良作かどうかの境目はそこにあると言っていい。

 

しかしながら、こと『ひぐらし』においてはそのギャルゲ手法に乗っかりながら、マルチEDをタイムリープとしてはめ込んでハードなミステリを展開、ヒロインそっちのけで物語自体の大団円を目指したという点が凄い。

 

2002年の発売当時は、マルチEDギャルゲ全盛の時代だ。そこに紛れ込んできた異物、それこそが『ひぐらし』である。はっきり言ってしまえば、マルチED同人ゲーの皮を被って、ミステリなんて普段読まないギャルゲプレイヤーにゴツゴツの長編奇譚を読ませることに成功している。正直、エロゲの皮を被ったカルト作品は多数あるけれど、キッチリ別ジャンルの大作となると、本作くらいなものだろう。

 

物語の事件簿たる前編4話、解決編と位置付けられた後半4話、そしてアペンドの3話、すべてを通してプレイした諸兄であれば、理解できる通り「ギャルゲじゃねえ」のである。ヒロインがカラスに食われたり、拷問器具で爪をはがすギャルゲなんて、存在してはいけないのだ。ちなみに、冷蔵庫もいけない。

 

個人的にこうした「あれ?俺ギャルゲやってたのにな」系譜の完成形は2009年の『シュタインズ・ゲート』だと思う。内容も想定もゴリゴリの科学ADVミステリだが、メーカーが自称しているので比較的優しい。ということで、タラタラと語っていたら案の定、少し長くなってしまったのでこの辺りで。

 

 

 

以上、見たまんまちょっと盛り上がってしまったわけで。自粛ムードも薄れたとはいえ、なんだかオタク同士で飲み会なんかもやりづらい。ましてや、感染後、足取りたどられて「はい、あの頃のエロゲトークで盛り上がってました」とか言いづらいので、取り急ぎ発散してみました。飲みながら、ゆっくりオタクトークでもしたいすね。

初めてメイド服を買った時のこと

少し前に。Twitterに、初めてメイド服を買ったときのことを書いたら、その詳細について聞いてみたいというリアクションを頂いた。
 
 
そういってもらえるのはありがたいし、今回ふと思い立ったので、その時のことを書いてみる次第だ。ただ、レポートはあってもエッセイのような文章は書いたことがないと気づく。正直に言えば、そのリプライを頂いてから2か月ほど経っただろうか。既に何度か書きかけた。ただ自分のことながら、いざ女装願望だったり、そのころのことについて書いてみようとすると、思いのほか複雑な感情の集合体のようで、すんなりいかず、とん挫した。
 
 
多分余計なものを書きたくなったせいだと思う。極力、あまり肩ひじを張らずに、その時のことを純粋に思い返すことにした。以下、そんな話である。
 
 
 
確か、就職活動中。僕は22歳だったろうか。今も大変だが、当時もリーマンショックというなかなか大きな不景気事案が発生して数年。求人倍率も底に落ちていた時代だった。そんな中、特段優秀なわけでもなく、コミュニケーションも円滑でない僕が苦戦する事は必至。単位をあえて残し、1年留年をして、2回目の就職活動に乗り出した頃だったと思う。
 
 
そもそもの話。ブログでも同人誌でも、いたるところに書いてきたが、僕は物心ついた時から色んな種類の性的倒錯を抱いており、いわゆる普通の性交には結局興味を抱けないまま成人になった。男性という自我に惑いはないけれど「男」「女」という枠組みだったり区分にはなんだか違和感がある。これを論じようと何度取り組んでみても、結局しっくりこない。言葉にしにくい感情だ。
 
 
つまるところ、世間一般の男性とはどうやら微妙にズレている。もちろん、大人になりかけの陰キャ男性というものは、往々にしてそうした自覚を持ってしまうものだが、先の就職難も重なったことによって、より明確な形で「社会に適合出来ないのではないか」という不安が増幅した。
 
 
音楽をやっていたので「なんだ世間なんて」と日頃から尖ってみてはいたものの、いざその社会から拒絶されるとやはり不安になる。その後、さまざまな家庭の事情も重なって、神経症を患い、案の定メンタル的なクリニック通いとなった。色々精神的に追い詰められ、ぶっちゃけて言えば、あまり記憶がない頃だったりする。
 
 
 
そんな中でも、鮮明に覚えているのが今回書こうとしている話である。
 
 
シーソーが本当に安定するタイミングは、どちらかに傾ききった時だ。とかく不安定さを解消したい。それが引き金だったのだと思う。普通に考えれば、余計に社会から除外されそうな選択肢なのだけれど、まずは人間として男女という枠組みへの強迫観念に決着をつけたかったようである。思い悩んだ末に、手を出したのが女装という手段だった
 
 
一人の男として、働く場所も得られず、金もなく、交際する女性も、そもそもその目的も分からない。「男として」そんな言葉に追い詰められ、もはやパラノイアに近い妄執の中、一度、男性という枠組みから自ら外れてみることにした。
 
 
そうであれば、いっそ振り切った方がいい。当時、ほぼ毎日秋葉原のカフェでバイトをしていた。日々街で目にするメイドさんを眺めている中、なけなしの金を集め、メイド服でも買ってみるかと決心する。そして、そんな決心の末ということで、ドンキで安物を買うのは違うだろうとなぜか意味もなく意気込んでいたことは覚えている。
 
 
メイド喫茶というイコンが定着しながら、アキバでちゃんとしたメイド服を買えるお店は思った以上に限られている。その中のひとつがキャンディフルーツというメーカー直販店だ。1Fはメイドさんが眼鏡を売っているコンセプト眼鏡屋、メイド服売り場は3Fという小さな雑居ビルである。非常にこじんまりとしており、普通のテンションでは入りづらいことこの上ない。
 
 
そんな場所に暗い表情で入ってくる20代男性。状況を想像すれば完全に事件の匂いしかしない。1Fで働くメイドさんの視線を背に階段で3Fへ。「キモがられているのでは」という想定すら最早意味がないほどに不審者の様相だったと思う。3Fに着くと、赤いカーペットが敷かれ、狭小なスペースながら所せましと並ぶメイド服が目に入る。そして、売り場を担当しているメイドさんが1人。逃げ場もない。文字通り、意を決した。
 
 
「自分でも着られるようなメイド服を探しに来ました」そう言うと、嫌な顔一つせずにこやかに「どの様なタイプにしましょうか」とすんなり返してくれたのを未だに覚えている。キャンフル製メイド服は、純正であれば数万はくだらない。そんな高額布製品を買いに来る客に、当たり前と言えば当たり前の接客ではある。ただ、そんな返答ひとつに少なくとも僕は救われた。
 
 
いくつか品定めをするうち、少しスカート丈が短いタイプの茶色いメイド服に候補を絞った。値段は2万ほど。バイトで学費を払う身としては流石に躊躇する金額。すると「試着してみますか?」と言うメイドさん現在も試着が可能かは分からないが、当時は具体的に購入を検討していれば試着可能ということだった。
 
 
まさか、人前でそんな服を着ることになるとは思いもせず完全に動揺する。ただ、ここまで来て物怖じしても仕方がない。モノは試しである。しっかりとした布地に袖を通し、スカート上のくびれた部分を腰まで上げる。慣れない背中のファスナーに苦戦していると「後ろ、あげましょうか」と手伝ってくれた。狭い空間で、メイド服の試着を終えた自分。それを眺めるメイドさん
 
 
未だ思い起こしても、なんとも言えない実感、という以外の感想が浮かばない。長男なのに、男らしさ、みたいな概念が雲散霧消していくような感覚。あるいは倒錯的フェティシズムとしての喜び。そして、鏡を通して改めて感じる自分の醜さ。それが、果たして僕の人生にとって通るべき場所だったかは置いておいても、経験しがたいものであったことは確かだと思う。なんていうか、卑下もプライドも色々なことが少し馬鹿らしくなった。結果、2万を払ってその服を購入。確か、おまけにニーソをつけてくれた。
 
 
深夜にひっそり実家で身に着けたことも今では懐かしく思う。
 
 
 
 
その後就職も決まり、上記のイベントの結果、いろんなものが吹っ切れた。20代はあらかた自分のやりたいことはやり切れたと思う。各種オフ会に参加したり、性倒錯にまつわる同人誌も作成した。キャンフルにはその後もお世話になった。仕事でストレスが溜まる度、お高いメイド服を数着購入して、未だに着ている。メイド服を購入したことは、今の自分を形作るひとつのきっかけとなった出来事だったことは確かだろう。
 
 
僕自身の倒錯は、男性性への違和感というより「性別が固定されていることへの違和」くらいなものだ。なので、女性になりたいというより「ずっと男性であることが嫌」といった感じ。可愛いものを身につけたくなるのも、そうした感情が根底にあると思っている。逃避だと言われれば、まさにその通りだ。
 
 
ただ、強気に言ってしまえば逃避する場所は、どのような定義であれ持つに越したことはない。僕はメイド服を着る、というちょっとアレな方法で逃避場を見つけてしまっただけであり、他の人であれば酒を飲む、好きな音楽を聴く、映画を見る、ゲームをする、など何でもよい。
 
 
こうでなくてはならない、という現実は大概思い込みだったりする。その思い込みは壊しておいたほうが、案外楽しいものである。
 
 
これ以上書くと、余計な説教が混じってくるのでこの辺りで終わりたい。長々と過去語りをするのも慣れないものだなと思ったりする残暑の日でした。
 

オタクのための、今少しだけポジティブになる方法について

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最近、よく虹を見る。

ここ数か月、ブログに限らず何かしら文章を書きだすことが出来なくなっている
 
裏を返せば、特段何も考えずに生活できている、ということだ。それを悩み事のない「幸福」な状態と捉えるか、または思考停止甚だしい「ディストピア」と考える人もいる。正直、僕としては後者だろうか。普段から根暗な内省には事欠かなかったような人間が、考えることすら放棄するような状態。今回はそんなディストピアから、わずかながらポジティブな要素を取り出し、思考停止から這い出してみようという、ささやかな独り言である。
 
 
唐突だが、​人間、とは元は「じんかん」と読み、その意味合いは文字通り「人と人の間」を指す言葉だった。それが今では、人そのものを人間と呼ぶようになっていった。とは和辻哲郎の指摘らしいが、今になってその言葉の妙を思い知っている。人は社会を形成し、その知性や地位を形づくって来た珍しい生き物だ。逆に、人単体でどうこうしようとしたところで、たかが知れる。恐らく、人にとって集まることが許されない、集団が組成できない、という状態は生物的本能に根差すレベルでのピンチなのかもしれない、と最近よく思う。
 
ニューノーマルと呼ばれる今日。会社勤めである自分は、今の世において、いささか恵まれた環境にある。今のところの心配は、感染と賞与とぼんやりとした将来くらいなもの。それと比較したら、即日的かつ深刻なレベルでダメージを受けている人は多くいる。自分周辺の範囲で言えば、日頃お世話になっているような飲食店、周囲の自営業の友人、または推しのアーティストだったり、そのライブを運営してくれていた多くの関係者、などなど考え出すとキリがない。
 
では比較的ダメージの少ない我々に何か出来ることはないだろうか、と思っていても、事が大規模すぎて自分の無力感にばかり目が行く。春先から、クラウドファンディングなども話題になったが、やはり継続的な情勢となると投げ銭にも限界がある。身の丈を超えた他者の問題を、内心に抱えすぎることは病理に近い。日々、なんとか労働によって食いつないでいる身分としては、大きな考え事とは距離を置いた方が賢明だったりする。そんな諦観にぼんやりと身を任せているうち、何か考える事すら距離を置くようになってしまった。
 
 
​ということで、以上が昨今の脳内。何を考えだしてもネガティブかつ虚無に行き着いてしまう中少しずつこの新常態と呼ばれる環境を前向きにとらえることは出来ないか。以下、何かを解決できるわけではない。ただ、視点を少しだけ斜め上にするための試行である。
 
 
まず例えば、SNS。近年その拡充によって、これまでネットに触れてこなかった人までも、その枠組みの中に含まれてきた。結果、タイムラインでは多様な価値観が入り乱れ、スマートフォンを眺めれば日々混乱に近い事象を見ることが出来る。そうした混乱状況のTwitterなど、眺めているだけで気が滅入るというという意見はあれど、もしこのSNSひいてはオンライン環境がここまで普及する前にコロナ禍が起こっていたらと思うと、それはそれで恐ろしい。
 
日本のような保守的な土壌で感染症の騒ぎが起きれば、やはり様々な角度から誹謗中傷が問題となる。SNSでも毎日のように見かけるが、感染者あるいは、帰省者に対する攻撃が後を絶たないようだ。そのような事案をネットで見ては「この国終わってるな」とかネガティブな思考に思い至ってしまうわけだけれども、こうした誹謗中傷を告発できること。そうした事案が起こっていると不特定多数に開示できることは、大きな進歩だと思える。
 
ネット環境がなければ、こうした事案が共有されない。土地土地で、当事者のみで問題に対処するしかない。それは酷なことではないだろうか。ネットは個人が情報を集めるのみのツールではなく、個人の問題を外部に発露できるという大きな役割がある。勿論、えん罪やデマが通りやすかったりと問題は多々ある。見たくもないことを見させられることも多い。それでも、発露された残酷な何かは、誰かにとっての紛れもない現実だったりする。
 
Twitter上に流れてくる、数々のネガティブ事案は、発露されているだけでも価値がある。一周回ってそう思うと、まだ自分の平静を保つきっかけにもなる。
 
 
 
次に、先にも書いた「人は人の間でしか生きることができない」という話だ。
 
今回それを最も実感したのはスポーツだ。数々のイベントが中止に追い込まれる中、アスリートたちはその存在意義すら問われているように見える。どれほどシンプルに超人的なスキルや肉体を保有して居ようが、それ自体ではなく、種目ごとの試合に則った結果こそが選手の評価の対象となる。
 
試合やイベントが中止になり、スター選手ですら自らの存在意義さえ否定される中。NHKの朝のニュース内、このような取材を見た。
 
五輪まであと1年 岐路に立つアスリート
 
「いったいスポーツ選手ってなんなのだろう」ここでのフェンシングの三宅選手の内省はまさにこの状況下のスポーツの価値を問い直すものだった。最終目標である試合や大会が消えゆく中、スポーツ選手であること、という自己定義すら曖昧になる状況は容易に想像がつく。短い特集だったが、模索の中で、スポンサーや応援してくれる人の存在に行き着いた三宅選手の結論は、スポーツ云々でなく、昨今の状況における根本的な思考法のヒントになりうる。
 
公演ができない劇団、ライブのできないバンド、試合のないスポーツ選手。そして、それらを必死で応援してきたサポーターやファン。今、いろいろな場所でいろいろな人が、自らの存在価値を問われている。
 
この記事を書きだそうと思ったのも、ある友人からの相談だった。選手や歌手、俳優といったプレイヤーは勿論だが、それらを応援する人々にとっても、その応援自体が人生の張りだったりする。
 
次々と中止になるイベント。一時の損失は我慢できる。ただ、そうした我慢の限界に行き着くと、人は自分を守る為に意欲を消す。心としては、意欲さえ消せば、喪失感というダメージもない。しかしながら、意欲とは生きる活力そのものだったりする。気づいた時には、ダメージを避けながら、生きる意欲だけごっそり削られる免疫不全のような状態に陥る。現在こうしたパターンにハマっている人は、少なくないのではないだろうか。
 
こうなったときに先の三宅選手のような内省を思い出してほしいと感じた。ひとつ結論として、アスリートやアーティストの本懐は応援をされることである。こう言うと、反発するロックな人もいるだろうが、芸術すら作品そのものが価値を生むわけではない。社会があって意味が生じる。逆に言えば、人は社会を通してしか、意味を生み出せない。
 
ファンやサポーターの方が圧倒的多数、そしてどうせこれを読んでいるのもだいたいオタク諸氏だろうからこそ言うが、この状況下。推しの存在意義は我々が支えていると言っても過言でない。改めて言うほどのことではないかもしれないが、人と人の間で生きる人間という存在である限り「応援する」行為の価値は限りなく大きい。イベントや試合といったものがなかったとしても、好きなことがある人は、その好きを保つことで、確実にそこに意味は生まれる。各個人が、生きてこの社会を保つこと、そこには確かに意義がある。
 
すくなくとも、いちオタクとして、そう信じたいものである。
 
 
久々に文字を書いたら、とりとめもなく長くなり、無駄に時間もかかってしまった。書くにはやはり訓練がいるなぁ、とか思いつつ。継続できれば文章を書き続けていきたいものだ。何か意見を持つことも、発散することも難しい時代だけれど、何とか生きていきたいもんです。
 

「ユーモア」についてのひとりごと

昨年冬に同人活動を休止し、EVO JAPANのレポートを書いてからというもの、プライベートが忙しかったこともあって、このブログからかなり距離を置いてしまっていた。

 

そんな中、先日ガジェットなどを中心に記事を掲載しているメディアuzurea.net(ウズレア)さんにおいて記事を書かせて頂きました。おっさんがコスメについて語っている偏屈な記事になりますので、どうかこちらもよろしくお願いします。

また何か書き物お仕事がありましたら、各所受けさせて頂きます所存でございますのでなにとぞよしなに。 

uzurea.net

 

と、そうこうしているうちに世の中もこのような情勢になり、日々ニュースを見てもコロナ関連の話題ばかり。せめてこのような場末ブログにおいては、関係のないくだらないエッセイを書いてみようと思った次第である。暇だし。

 

・ジョークの解説という自傷行為

先日、会社で書類回覧の際。回ってきた書類の文面を見ていると「時期早々」という四字熟語が目に入った。時期早々・・・しばらく間があいたものの「時期尚早」の書き間違いであることに気づく。その後も上長へ回覧が続くことを考えると、教えてあげた方が人思いというものだろう。

 

ただ言うにしても、先輩社員への指摘である。柔らかく言えないものかと、考慮した結果、冗談を混ぜることにした。「ここ「時期そうそう」になってますよ、夏川りみじゃないんですからw」ネタは伝わったらしく、ややウケ。先輩への指摘も済んで、その場は収めたのだけれど、ふとこんなことを聞かれる。

 

「別にどうでもいいことだけど、なぜ「涙(なだ)そうそう」と直接言わなかったの?」・・・え、ネタを解説させる気か・・・と一瞬たじろぐも、考えるほど、これはいい質問ではないかと思った。

 

今回の記事は、こんな何気ないやり取りがきっかけ。つまり、これから僕は「何で涙そうそうではなく、夏川りみと言ったのか」という、しょうもないネタの解説および反省を行う。そして最終的にユーモアについて語りだす壮大な一人言をおっぱじめる次第である。

 

かつてアンリ・ベルクソンというフランスの哲学者が『笑い』という本を残している。非常に興味深い内容ではあるのだが、笑いを解説するというのは、読む人だけでなく書く当人にとっても苦痛が伴う作業である。なぜなら、笑いを説明する作業自体、たいして笑えない。本記事を読んでいる方も、興味関心がなければここらでタブを閉じるのが正解だと思う。

 

 

先輩にはその場で適当な返しをしてこの問答を終わらせたわけだが、考えれば考えるほど鋭い質問に思えてきた。ベルクソン先生に倣って、自分自身が会話の中で、何をもってネタの基準を作っているのか少し考えてみようと思った。暇だし。

 

・ネタの距離感覚

先に言えば、先輩から指摘を受けた通り「時期早々(じきそうそう)」という書き間違いを見た僕は、音の感覚の近さから「涙(なだ)そうそう」を思い浮かべている。ダジャレを思いついたという話だ。しかし、そこで「涙そうそう」をあえてスルーして、その歌い手である夏川りみという人物の名前を引っ張ってきたというのが今回のネタ。

 

理論的に理由を探る前に実証してみよう。「じきそうそう。なだそうそうじゃあるまいし。」この字面を読んだときの印象は如何だろうか。多少、イラっとするというか、どことなくクソリプぽくないだろうか。主観だが、この苛立ち「俺、面白いこと言ってるだろ?」という押し付け感から生じているように思う。

 

「そうそう」という音の一致こそが今回のネタの根源だ。所謂、ダジャレだが直接自分が指摘と同時に「そうそう」という韻を踏んでしまうと、相手の共感を待たずに「面白いことを言った」という構成になる。もちろん、勿論これでもネタは成立する。韻の一致、つまりダジャレに対して、笑いが生じれば問題はない。

 

しかしながら、基本的なリスクがある。このダジャレがそんなに面白くないという事実だ。勝手にダジャレを言って、ウケもせず会話終了という最悪なシナリオは回避したい。そこで、登場したのが夏川りみだ。

 

要点としては、相手に脳内でダジャレを言わせたい。「じきそうそう」という音を残し、夏川りみというヒントを置く。ある意味、連想クイズを無理やりさせるわけだ。そして、相手が正解を得られた時には自分と相手の間で「あぁ、こいつ涙そうそうが言いたいんだな」という言葉なきダジャレが共感として成立しているという具合である。結果、ややウケくらいでちょうどいい塩梅と言えよう。

 

この連想ゲームに大事なのは距離感である。より遠い関係のものを置いてもうまくいかない。「じきそうそう。沖縄出身アーティストのヒットソングじゃあるまいし」意味深すぎて、時間がかかりすぎる上、ネタとして面倒だ。勿論、若すぎる世代を相手にする場合アウトである。そもそも「夏川りみ涙そうそう」が浮かばなければ、シャレ以前に共感が成立しない。

 

相手の世代を鑑み、「そうそう」というダジャレを瞬時に共感するために、一番インスタントかつ的確な存在こそ「夏川りみ」だという僕の判断だったわけである。

 

・ユーモアのありか

日常のダジャレひとつに対して、何を偉そうに語っているんだというご指摘は最もなので黙っておいてほしい。書き終えてから自分でもそう思えてきている。つらい。

 

何はともあれ、こうしたネタのギミックというのものは、そんなダジャレ論にとどまらず日常会話においても理解していて損はないものだろうと思う。直接的すぎるネタは相手への押し付けとなり、遠すぎるネタはそもそも相手に届かない。

 

そんなのコミュニケーションの基本だろ、と一言に言ってしまえばそれで終わりなのだけれども、やはりウケを狙うという行為は自分のみで完結する行為では決してない。相手の共感との距離感こそが、笑いに繋がる本質なのだろう。

 

こう外出も規制され日々暇が過ぎると、ツイッターやら配信動画など眺めては、そこで行われるやり取りが目に入ったりする。先日も某首相のコラボ動画が炎上に近い形で話題となっていた。ただ、全国津々浦々の不特定多数を最大限気遣った結果のユーモアこそが、あの「誰に届けたいのかよくわからない星野源演奏と共にある休日風景」だったのだろうと思う。やはり難しいものだと感じる。

 

在るべきユーモアは、正しいコミュニケーションを探るのと同様で、人やごとに変化する。こうした密を避ける状況下において、普段の人間関係が希薄になると、人との繋がりの重要さはいや増して重要になるのだろう。ちょっとした談笑に対するありがたみも、日ごろより敏感に感じる日々である。

 

そんな折に、しょうもない内省ではあったのだけれど、ふと人のつながり複雑さを感じたダジャレに関する考え事でした。お互いの暇つぶしのために、また書き出し何か考え付けば、書き続けてみようと思う。

 

 

 

堀江由衣ツアー「文学少女倶楽部」に行ってきて嗚咽し続けた話

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おっさんの自分語り多めなのとセトリバレもあるので注意してね。

これまで自分のオタク活動を振り返れば、きっかけは大抵、堀江由衣だったのだと思う。初めて買ったアニメ関連CDは『ほっ?』だったし、最初に定期リスナーになったアニラジは「堀江由衣の天使のたまご」、最初に行った声優ライブ、入ったファンクラブも黒ネコ同盟だった。オタクとしての経歴だけでない。このブログを「はてな」に移して最初バズり、文章を書こう!と気合が入ったのも「堀江由衣プリキュアを演じること」というエントリがきっかけだった。何かにつけて(オタクとして)前に進むときには「堀江由衣」という声優がそこにいたのは確かだった。

 

・7年ぶりの「現場」ゴルフコンペを断る

そんな過去からの思い出に浸ってばかりいてもしょうがないので、そろそろ現在の話を始める。12月15日(日)大宮ソニックシティホールにて行われた堀江由衣のライブツアー「文学少女倶楽部」に行ってきた。

堀江由衣 LIVE TOUR 2019 文学少女倶楽部

 

社内のゴルフコンペとモロに重なり参加も危ぶまれたが、幹事である上席に勇気を振り絞って「参加できません」と返答。案の定呼び出され「なんだ、結婚式か?二次会じゃねえだろうな」と問い詰められたものの、正直に「中学時代から推しているアイドル声優のライブツアーに、7年ぶりの参加なんです」と真っ向勝負。まぁすげえ微妙な顔してたけれど、自分が見せるべき漢気は見せた。先方の心象なんか知らん。こちとら7年ぶりなのだ。周期を考えれば五輪の騒ぎではないし、次がある保証もない。

 

この夏に新作アルバムである『文学少女の歌集』を発売し、そのタイミングにて発表されたこのライブツアー。その報を受けた瞬間の感情をよく覚えている。言ってしまえば、その知らせを聞くまで堀江由衣のライブはもうないと思っていた。思えば彼女が17歳になって20年強。何を言っているのかわからないかと思うが、自分でもよくわからないので穏便に流してほしい。

 

ほぼ同年代、空中に吊られながら腹からCD音源でおなじみ水樹奈々氏を見ればわかる通り、ひとつのライブを貫徹する為には鍛えあげられた肉体が要る。そう、ライブって大変なのだ(小並感)。引き合いとして出した水樹氏は極端な例にせよ、普通のアーティストでも歌いながら、踊り、それを2時間あるいは3時間継続する。普段カラオケで騒いで疲れてすぐ喉痛める我々一般人感覚からすれば、並外れたものだとわかるだろう。

 

堀江由衣に関しては、前々からそもそも体育会系でもないし、ライブにおける運動量もそこまで多いほうではない。そろそろ大々的なライブはもはやキツイのでは。と感じていた中での発表だった。「これは歴史の証人になるしかない」高確率にチケットを入手するため、ここからのFC加入も考えたが、今はコルホーズの玉ねぎ畑一本・・・堅気な性格が邪魔をし通常先行にて応募。(捻じ曲がった)思いが通じたか、何とか大宮ソニックシティ公演のチケットは入手することができた。

 

・人は嗚咽し続けると死にかける。

ライブ当日。既に14日の初日に行った友人と現地で落ち合う。話を聞けば「アニメ関連ライブで過去最高」「近年稀に見る偉大なライブ」「お前は絶対泣く」などと僕の顔を見るや否やあの頃のボージョレ並みの賛辞の嵐。

 

いや、確かに楽しみにしてきたわけだが、ここまで持ち上げられると逆に訝しむのが面倒なオタクの性である。「おいおい、そんな期待値上げられたら、泣けるものも泣けなくなるだろ。流石にもう我々大人だからな」と宣言して、延々薄ら笑いを浮かべる友人たちを横目にいざ会場へ。

 

まず衝撃だったのが、生バンドである。ファンならおなじみだが堀江由衣はバンド演出をまずしない。(1stツアー以来)過去何があったんだというほど、今までのツアーでもバンドによるライブは見ない。その時点で高まる期待。なるべく情報を遮断して来たため、前日セトリもまるで分らない。ただ基本アルバム発ツアーというわけなのだから、アルバム曲が主体だろう。そう準備した自分が完全なる間違いを犯していた。

 

早速ライブ開始。冒頭は新アルバム収録の清竜人楽曲『春夏秋冬』、真っ当かつ今回ツアーのコンセプト楽曲にひとまず安心しながらその姿に見惚れる。5月にも清竜人ハーレムフェスタ(イベントレポ参照)にて、この曲を聴きつつ正気を失いながら叫んでいたのが懐かしい。さて、少しずつエンジンもかかり始めた堀江御大。どの辺りでブーストがかかり始めるだろうか。とこちらが身構える間もなく、2006年リリース『ヒカリ』いやいやいや。冒頭2曲目、すぐ13年前のアンセムやっちゃうの。え?ウソでしょ。元来4つ打ちの気持ちよさが売りのこの曲、生バンドをバックにしたことで更に洗練されて聞こえる。実質アンコールかよ。と脳内でツッコミを入れるも、すでに目頭が熱い。ワンサイドゲーム確定な感も否めない。

 

一旦呼吸を落ち着かせて、次の曲に備えた刹那、すでに膝から崩れ落ちていた。2006年のライブツアー「堀江由衣をめぐる冒険」ではラスト楽曲として演奏された『笑顔の連鎖』だ。何を隠そう、僕が最も敬愛するアニメ作曲家、故・岡崎律子氏作曲の本作は最大のお気に入り曲で「これが聞けたら今回は死んでいいな」と思っていたところに、トドメが入った形。3曲目でもうトドメなのだ。殺す気か。泣くならまだしも、呼吸がままならない。ただ、こんなところで死んでしまっては、ライブに来た甲斐がない。まだだ、まだ終わらんぞ。

 

終わった。いや終わったね。端的に言えば、その4分後に終わった。そしてその5分後くらいにも、また終わった。4曲目は初期の名曲、12人の妹が突然できる系アニメの主題歌『Love Destiny』から、5曲目まさかの2000年の人気曲『桜』である。おっさん、完全に嗚咽。声が漏れそうでタオルを齧る。隣の人の心配そうな目線が刺さる。一体自分でもいつからこんな情緒不安定になってしまったのだろうと心配するも、全部堀江由衣が悪い。いや、キングレコードの三嶋さんが悪い。

 

ライブレポとしては、嗚咽し続けて酸欠で死にそうになり、以後少しずつ記憶が遠のいているためこのくらいにしたい。(最後はフラフラなまま会場を出て、会場に家の鍵を落とし、さっき大宮の交番まで取りに行ったほど)

 

堀江由衣御大が今回のツアーを称して、14日は「近年稀に見るライブ」と呼んでいたらしいが、15日になると「今世紀最大のライブ」に変わっていた。あぁ、納得だよ。確かに今世紀最大だわ。あんたが大将だよ。薄れゆく意識の中で僕は、彼女のパフォーマンスをひたすら泣き顔でスマイルを保ちながら眺め続けていたことだけははっきりと覚えている。

 

・アイドルとしてステージに立ち続けることの凄み

こっから少し内省。この年末のコミケで10年ほど続けた自身の同人誌発刊を最後にした。一応やりたいことの区切りがついたということもあるが、正直何か作り続けることに自信を失っていたのが正確なところだ。またこのブログも「果たしてこんな行為自体に意味があるものなのか」と自問しているうちに、何も書けなくなっていた。

 

今回、堀江由衣ツアーライブに参戦して。諸々の感情を背負いながら、2016年に少しだけバズった「堀江由衣プリキュアを演じること」という自分のエントリを久々に覗いた。完全に言ってることはバカみたいなことばかりだし、結局熱量だけで前後編にわたり長々と堀江由衣への愛やら妄執を語っているだけなのだ。でも、僕が本来書くべきことというのはそういうものだったのかもしれない。

堀江由衣がプリキュアを演じる事について(前編) - わがはじ!

 

中学時代。オタクになりたてだった僕は、麻疹みたいなもので、ほぼ1週間すべてのアニラジを聞き通していた。その中で透明感ある声と、ちょっと変なキャラクター性に惹かれ、堀江由衣という声優に対しておそらく恋をした。いや、もう完全に痛々しいキモオタの述懐なのだけれど、それは事実だから仕方がない。様々な出演作を見て、ラジオや音源を何度も聞いて、ライブ現場に足を運び、部活動や受験勉強で折れそうだった時、何度助けられたか分からない。

 

そして、昨日。7年ぶりに見たステージ上。堀江由衣はあの頃と変わらないクオリティを保ち続けていた。それどころか、ダンスも歌も凄みが増しているように見えた。完全にやられた。15年前、いろんなメディアを通して励ましてくれた人に、まさに目の前でその時と変わらぬパフォーマンスを見せつけられ、感動をしてしまっている。三十路を超え、社会の様々な事情のなかで、徐々に自分を引っ込めにかかっていた自分が恥ずかしく、情けなくなった。それと同時に本当に嬉しかった。

 

年月が経ち、堀江由衣を好きだ、という純然たる気持ちは変わらないものの、それ以上に「彼女に負けないよう頑張らねば」という感情に変わってきたように感じる。そう思うと、3時間弱。そのありがたみに涙が止まらなくなってしまった。

 

・生まれ変わることはできないけれど、変わってはいける

ライブ最後の定番『CHILDISH♡LOVE♡WORLD』を会場全体で歌い上げ一旦の終幕。アンコール枠で再登場した後、まさかの曲を歌った。「自分の曲ではないけれど」と前置きしてから暗転。観客が自然と席に座る。ステージ中央にスポットが当てられ、流れるイントロは岡崎律子作曲の『For フルーツバスケット』だった。

 

堀江由衣ボーカルver.は、2003年リリースのキャラクターソングベスト『ほっ?』に収録されており、当時の僕はこの曲に完全に魅入られた。これがきっかけで岡崎律子という作曲家も知ったし、そこから数珠繋ぎ式に様々な作品あるいはアーティストに触れた。ある種、僕のオタクとしての原点のひとつがこの曲なのだ。ソロライブにおいて生で聴けるとは思ってもいなかった為、案の定この日6度目くらいの嗚咽を何とか耐えつつ鑑賞。

 

約3時間。本当にいいライブであったのは間違いない。ただ、僕個人としては遥かにそれ以上の意味を持ってしまったライブだったと言える。冒頭掲げた通り、様々な「きっかけ」を与えてくれたのが、堀江由衣という声優だった。今回、何かにつけて色々なことから遠ざかろうとしていた精神状況の中で、この曲のサビの歌詞が改めて身に染みた。

 

「生まれ変わることはできないよ だけど変わってはいけるから」

 

自分の嫌なところも、案外悪くないと思うところも、リセットすることは出来ない。才能の有無を嘆き、周囲の環境によって流され、何かを諦めていく。過去何度もこうした葛藤の中、結局踏ん張れてきた。それは、恐らく自分にとって大切な歌や、推しがいたからなのかもしれない。今回、再び。様々なことに対して内心の芽が萎みかけていたところに光が当たった心地である。陰気なおっさん声豚が、長年の推しに対して、静かに、そして深く感謝を抱いてしまったという話でした。

 

 

長くなるとは思っていたけれど、少しだけ長くなってしまいました。そして、痛々しい内省をさらしたわけだが、幾分か気分はスッキリしているもんですね。まぁ、引き続きこんなことも書いていこうと思うので嫌いにならないでください。

冬コミC97新刊告知 シリーズ最終巻『ヒトとケモノとものがたりと』 

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いよいよ「'00/25」シリーズ最終巻になってしまいました。

本ブログもいつ以来の更新だろうという話。確実に格ゲーのやりすぎですね・・・ただ、そんな中でも、ちゃんと冬コミ新刊は作っていたのです。マジでえらい。早期入稿常連勢として、入稿はもちろん終わり、そろそろ印刷も済み、今回も無事新刊を用意することができそうです。ここで本対談雑誌シリーズも第10弾を迎え、いよいよ最終巻となります。ということで、表紙もアビーロードパロにしました。

 

毎度ながら、僕の身勝手なわがままに付き合っていただき、対談参加者も最後にふさわしい豪華ラインナップでございます。詳細は下記の通り。

 

・タイトル 「'00/25(にじゅうごぶんのぜろねんだい)Vol.10  final issue」

 特集:ヒトとケモノとものがたりと ~Where do we go from here?~

・ジャンル オタクとフェチ、ケモノとヒトと物語を考える対談雑誌

・サークル わがはじ!

・参加日/スペース 12月30日(月) 3日目 南ホール ム28-b

・予定価格 ¥1,000(総ページ数108P)

編者ツイッター:すくみづ https://twitter.com/suku_mizumi

 

2010年から続けてまいりました『'00/25』(にじゅうごぶんのぜろねんだい)というサブカル対談雑誌ですが「10号までは続けるかー」と以前から思っていた通り、本作その節目を迎えたため最終号としました。そして「せっかく最後なんだし、とことんこじらせてやる」と意気込んだ結果、サークルカット「ヒトってなんだ(仮」という仰々しい特集予定を書いてしまい、自分でも方向性を見失い、途中大変なことになりました。

 

ただ最終的には、協力いただいた皆様のおかげもあり、ケモノやオタク、そして創作という話題からきっちり「人とは何か」という疑問に近づけたのではないかと思っています。現状、なんとなく生きづらかったり、ふとヒトという存在に疑問や虚無を抱いたり。そんな人に読んでもらえれば、恐らく元気の出る1冊になったのではないかと思います。

 

ということで今回の対談ラインナップの紹介です。

 

佐藤東弥(ドラマ・映画監督) Twitter : @touyasato

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テレ土曜9時枠のドラマ制作に長年携わり続け、現実にはありえない「フィクション」を具現化させることに 執念を燃やし続ける佐藤東弥監督。年始に迫る『カイジ ファイナルゲーム』の公開を前に、今回はそんな「フィクション」を作ることの本質について、自身の過去を振り返りつつ赤裸々に語ってくださいました。『銀狼怪奇ファイル』の「首なしライダー」の裏話から、『ST 赤と白の捜査ファイル』の真意まで。また、着ぐるみ界隈やキャラクターショーといった話題にも触れつつ、他ではなかなか読むことのできない対談となっています。特にモノづくりに携わる人は必見です。

 

 

 ②岸本元(仏教専門紙記者・ケモナーTwitter@bowwowolf

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仏教専門紙で記者として働きながら、プログレッシブロックに精通、80~90年代漫画にもめっぽう詳しく、そして完全にケモナーである岸本元(きしもとげん)氏を招き「仏教とケモノ」という観点から対談を行いました。岸本氏が幼少に目撃したエゾシカのホモセックスを切り口にしつつ、動物が多く登場する仏教説話集「ジャータカ」を紐解きながら、当時のケモノ表現はどんな存在だったのかを考えます。更に、昨今のペット供養の話題にも踏み込み、結構強めの下ネタを交えながら、宗教と人と動物の関係性について改めて考える試みとなりました。耐性は要りますが、読み応えは確実にあります。

 

 

伊藤恵夫(美術解剖学生命科学等非常勤講師他) Twitter@itou_da

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女子美術大学を始めとし、多くの大学そして学会、時に大怪獣サロンで美術解剖学生命科学を教える伊藤恵夫氏。「波打ち際になぜカエルがいないのか」など、人間のみならず動物全般の進化に対する興味を軸に、様々な生き物やその生態について豊富な知識量を持ち、多方面から骨の専門家として知られています。そしていつしか付いた通り名は「骨の伊藤」。今回は、その「骨の伊藤」がどのように成り立っていったのか。ルーツにある好奇心と、それに紐づく「オタク心」を伺ってみました。その一言一言からは、徹底した好奇心から生じる「面白さ」と、日々疑問を抱く大切さを改めて教えられます。

 

 

④まんぐ(ケモノ文化、社会学研究者)Twitter@mangluca

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東大にてケモノ文化や社会学を中心に研究を行っているまんぐ氏。彼が2011年に発刊した『kemonochrome』というケモノ文化やフェティシズムに触れた同人誌を読んで、僕自身このシリーズの作成を開始しました。そういった意味で言えば、僕にとって原点回帰の対談となります。改めてケモナーや着ぐるみといったフェティシズムを通して、お互いの過去を覗きながら「人が別のものになる」という行為の意味を探ります。また、昨今のケモノコンテンツ群にも触れつつ、今のヒトと動物の距離感を改めて考えてみました。フェティシズムという観点からも興味深い内容になったと思います。

 

 

おたっきぃ佐々木(ラジオ・番組制作者)Twitter@otasasa

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個人対談パートのラストをお願いしたのは、伝説的なアニラジディレクター、パーソナリティとして知られるおたっきぃ佐々木氏。2015年に発刊した『Vol.4 今、オタクであること』において、対談を行ってから4年越しの再戦となりました。4年余りで時代も変わり、昨今、何をもってコンテンツが「面白い」といえるのかが不明瞭な中。改めてサブカルとは何ぞやということを正面切って対談させていただきました。SFすら警鐘にならない空気感において、もう一度、シンプルにオタクであることを考える、本誌らしい重厚感ある対談となりました。じっくりと読み解いてほしいと思います。

 

 

⑥金腐川宴游会(同人サークル) Twitter@kinyuukai

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本誌最後のエピローグとして金沢発の同人サークル「金腐川宴游会(かなくさりがわえんゆうかい)」さんとの座談会を掲載しました。2016年の文学フリマにてお隣に配置されたことがきっかけとなり、親交を持たせていただいている評論雑誌サークルで、そのメンバーの圧倒的なオタク知識量はもちろん、圧巻なのは高校時代のパソコン部がきっかけとなり、20年以上経った今もなお会報誌として本を作っているその在り方。まさしくそれこそ「同人文化」そのものではないか、と感じ締めとしてお話を伺いました。そこから見えるのは、やはり本を作る楽しさ。知識をぶつけ合ってひとつの完成物に至る喜び。同人誌作成という趣味の本懐を、この座談会から感じてもらえればと思います。

 

 

 

以上6つの対談・座談からなる雑誌となりました。最後ということで、これまでの本を振り返るちょっとしたペーパーやらコピ本なんかも作れないか、自分の時間と相談しておるところです。

 

また、既刊としてはC94にて頒布した「Vol.9 秋葉原特集」を持参する予定です。詳しくはこちら。かなりの重厚感ある同人誌となっております。まだ読んでおらず秋葉原に興味関心のある人は、こちらもおススメです。

www.wagahaji.com

 

委託についても、規模は小さいかと思いますが、別途ツイッターなどで紹介させていただく予定ですので、よろしくお願いいたします。

 

更に、最後ということもありますので、来週あたりツイキャスやらYoutubeを使って「わがはじ!Vol.1からVol.10までの9年間を振り返る、新刊告知配信!!」みたいなこともやってみようかなと。詳細についてはやっぱし追々ツイッターで。https://twitter.com/suku_mizumi

 

ということで12月30日。是非、コミケに参加される方は遊びに来てね!!

 
 

絶望とチープさを兼ねそろえた『三体』が問う「知」へのシビアな目線

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kindle版なら『三体』も軽くて済むね



昨今、売れている本と聞いて、真っ先に上がるタイトル。それは劉慈欣(りゅう・じきん)の著作『三体』であろう。現代中国SFの最高峰との呼び声高く、先月ようやく早川書房から満を持して発売された。

wired.jp

3部作ということで、今回その1部がようやく和訳化したわけである。すでにマニアがざわついていた前評判通り、発売と同時にベストセラーとなっている。僕としても「そんな売れてるっていったってSFでしょ?」と斜に構えつつも、会社の後輩から「え、まだ読んでないんすか」と煽られ即購入。正直、海外SFとか詳しくないし、モロ文系のため科学にも弱い。読みきれるのか不安だった。

 

そして本日読み終え。いやー。面白い。素直になってよかった。あらすじというか、序盤の物語の高まりは先に示したWiredの特集ページから覗いてみてほしい。(4章から一部本文が読める)もうね、古典作風でありながら、回想と展開が恐ろしく早く、考証についても高濃度で、かつ、いい意味でのチープさを兼ねそろえた、SF好きにとってはサービス満載な作品。おそらく、本作は今の中国だからこそ生み出せた内容だと感じる。すでに2部、3部の発刊が待たれて仕方ない。

 

読んでて脳内によぎった作品をここに列挙していくと、小説なら『神は沈黙せず』(山本弘)『バナナ剝きに最適な日々』(円城塔)、アニメなら『天元突破グレンラガン』『ザンボット3』、映画なら『コンタクト』『ゴーストシップ』というなんだか、もう中華料理の満漢全席コースみたいなSFでした。まだ1部なのに。

 

ということで、今日はこの『三体』について。ネタバレは極力避けつつ、エッセンスだけを拾って書いていきたい。と言いたかったけど、最後の方はネタバレ気味なので、注意して読んでね。とかく現代中国発のSFが我々に問いかける問題意識や、絶望と希望について素人発想ながら精いっぱい考えていきたい。

 

・「文革」という人類への不信感

冒頭。60年代の中国において起こった文化大革命が最初の舞台となっている。壮絶な内ゲバ。弾圧を受け、時代に翻弄される知識階級。そして秩序的でありながら、無秩序なエネルギーに満ちた中国の描写にしょっぱなから引き込まれる。その渦中、科学者の父を殺され、人間に絶望を抱きだすエリート女性科学者・葉文潔のモノローグから本作はスタートする。

 

この「知」への歪んだ時代の態度が、後々本作における本筋につながっていくわけだが、実際の時代についてはWikiでとりあえず捕捉しておいてほしい。

文化大革命 - Wikipedia

 

いわゆる「文革」と呼ばれるこの運動。多くの学者、科学者を葬り、中国の文化レベルに大きな後れをもたらした社会主義革命として語り継がれている。この件について、僕が何か語れるわけでは決してないが、個人的な「文革」にまつわるトラウマがひとつある。今回、本作を読みながらそれを思い出してしまった。

 

それは、もう10年ほど前の大学時代。英語のほかに第二外国語の単位を取れ、というベタな指導に乗っ取って、授業を受けてみたのが中国語である。今では「私は学生です」と「私は日本人です」という文しか覚えていない。ましてや、現在僕は学生ではないので、全知識の50%が無意味になっている。

 

当時は比較的、授業へのモチベーションもあったもので、前のめりに講義を聞いていたせいか、女性の中国人教諭とも普段から会話を交わすなど良好な関係だった。そして、授業最終日。多少の時間が余ったため、質問コーナーが用意され、各々中国文化や土地についての質問がいくつかなされた。そして僕が、今思えばあまりに不用意に。多少気の知れた関係という思い上がりもあった。「文革ってどういう時代だったのでしょう」という質問を投げてしまったわけである。

 

少しだけ教室の上の方を仰いだ彼女は、一息吸い込み話しを始めた。僕はそれを見て、嫌な予感がした。案の定、その女性教諭の父は学校の先生をしていたらしく、具体的な事案として文革の渦に巻き込まれた一人だった。そのころの話をしているうちに、教壇からは少しずつ上ずった声が聞こえ、しばらくするとそれは嗚咽に代わった。言葉にならなくなったのは、わずか3分ほどだったと思う。話の詳細は正直覚ええていない。ただその時間が永遠に感じるような罪悪感と、自分の無知による浅はかさを思い知ったことが、今でも脳裏によぎる。

 

多少モノローグが長くなったが、今回『三体』を読む中で、最も感じたコアはこのような、文革という時代が引き起こした歪みと人への基本的な不信だ。僕が学生時代に不用意に触れてしまったその「時代」という溝そのものを、再度認識させられるに至った。

 

冒頭でも触れた通り、SFミステリーとしても痛快で、山本弘を想起させるような大胆な展開、そしてミリタリ、コンタクトというSFにおけるチープが本作にはある。それでも文革、そして威圧的な政治が物語の「いかり」として存在し、常に地に足ついたストーリーテリングが維持されている印象を受ける。中国という地の文脈が必然的な重みをもたせているように思う。

 

 

・SFを読むことは絶望を考えること

また、この本の特徴としては非常に時代と舞台が前後左右に広いことが挙げられる。これぞSFミステリーといわんばかりに過去への回想、そして未来への思惟が、中国、世界、そして『三体』と名付けられたVRゲーム世界、またリアルな宇宙という具合に飛び回る。

 

そうすると、否応なしに描かれるのが、時代にただ翻弄される「人間の小ささ」と、結局は自分本位でしか物事を考えようとしない「人間の傲慢さ」である。先の文革という「知」を否定した時代の大きな嵐が収まり、科学や知識が重宝される時代が再度訪れる。しかし、そこでも結局資本主義をベースとした自然破壊が起こってしまう。結局は人間が自らのためにしか行動しない種である、ということが鮮明になった結果、冒頭触れた女性科学者の葉文潔は人間の知性に絶望する。

 

そこで問われるのは、果たして人間の 「知」とは何か。という問いである。時代によってその在り方を変え、結局は自己都合の便宜を図るための道具にしかならない。そのように客観視すればするほど、人間が知性を持つこと自体が絶望的なことではないか。平等的な善を叫ぶ社会主義と、自由的な良心を誓う資本主義の狭間で、結局人の存在自体に疑問を抱く。『三体』では、大きな勢力を含めて考察しているため、SF的な問答に収めているが、フレーム自体を見れば、過去から今の今まで、我々が問われ続けている問いそのものだ。

 

本作を読んでいて思ったことは、むしろ登場人物の絶望に対する共感だ。自分が知識エリートだといいたいわけでもなく、ただただ、この今の日本において純然たる人間として、生きていくことへの希望を持つ要素は、案外少なかったりする。結局「自由」の名のもとに己心が優先され、自分ひとりのエゴへと帰っていく。作中では、そのエゴに対する形で、大いなる主、そして地球外生命体への渇望へと繋がっていくわけだが、その思いが案外、笑えないのだ。

 

SFがSFとして価値を生むのは、そうした現代の疑似装置を使った思考実験だと言える。ふとした日常世界が宇宙につながっていたり、そして日々の落胆が本当の落日を予見していたり。フラクタル、と言うとまた笑われそうだけれども、結局そうした相似的な関係性を見出して、今ある絶望を見つめなおす作業。これがSFの真価ではないかと、久々に本作から感じさせられたという具合である。

 

 

(この後は完全にネタバレます。)

 

まぁ、1部ということもあって、何を言ったところで中国本土の既読勢からすれば片腹痛いのだろうけれども、なんだかしっかりとしたSFを読んでしまった結果、何かしら青臭くとも文章にしたくなった次第である。最後に本作1部のラストシーンに触れて終わりたい。こんな絶望だらけな序章に、ひとつの希望が灯される。

 

進んだ知性と科学力を持つ三体生命から虫けら扱いされた人類。主人公の科学者汪淼が落胆しているところに、同じ組織で警官の史強から、イナゴの大量発生を見せつけられた上で「あいつらは俺ら人間より知性がない。ただ、それでも人間に負けたことはない」と言い放ち、史強は人間の強さを示そうとする。結果、汪淼が再度熱を取り戻す、というこの思わぬ少年漫画張りの「アツさ」に僕もヤラれた。

 

先の知性に対する絶望に対し、生きる強さを示すこと。これは人間として生きることの大きなヒントだろう。絶望はいつだって出来る。すぐそこにある。誰の前にも転がっている。そんなとき、絶望の対義語はもしかしたら希望ではないのかもしれない。むしろただ、強くあること。人間くさい史強こそが、絶望に対する一つの答えなのかも。

 

そんな事をふと考えさせられた『三体』序章。早く続きが読みたくて仕方ないけど、おとなしく待ちます。

 

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先の中国語の授業が終わってから、僕は教諭に謝りにいった。そうすると「もう大丈夫です」と微笑みながら「勉強できるこの時間を大切にしてください」と返されたのを覚えている。歴史とSFは、目の前の人の事を考えるために摂取するものなんだなと、ふと10年越しに思い返すに至っている。