わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

ネットワークビジネスやらにハマる心理についての内省と同人活動の効能

先日、過去の同人誌既刊をまとめたアーカイブサイト「わがはじの!」を更新いたしました。ぜひ、覗いてみてくださいませ。同人活動終了から1年になったので、そちらの感慨についても記事にしたいものです。

 

と宣伝はそこらで。珍しく、ちょっと時事ネタに触れようと思ったのはこの件。

note.com

映画館でよく予告を見たもんだから、話として実際どうなんかな面白いんかな。と気になっていたところに、これ。この記事において既に大まかな概要やら、注意喚起についてよく纏まっているので、僕が改めて目新しく書くこともないのだけれど。

 

ただ、過去の自分の姿を振り返るに「こんなんに引っかかるとかバカじゃねえのwwww」「マルチじゃんwwww西野終わってるwww」とか下らないネットニュースとして流せなかったので、文字を打ち出している次第。

 

プペル云々は置いておいて、よくよく思うとこの「意識高い系に憧れる気持ち」あるいは「何者にかになりたい」という羨望や憧憬。引用の倉本さん同様、僕もなにひとつ他人を笑えなかった。

 

タイトルの通り、自分も環境やタイミングさえ合えば、こういう所に足を踏み入れたんじゃないのかという自戒がある。というか振り返ったら結構危なかったという過去の話。そして翻って、何故僕は踏み入れずに済んだのかという点について簡単に残してみたい、という記事です。

 

・何者にかにならなければならない焦燥感

やはり想像の通り。不景気という社会情勢は、若者をネットワークビジネスや怪しい商法、ひいては安易なカルトに向かわせる。自分自身の就職活動当時を振り返る。過去にも書いた通り2008年のリーマンショック後、内定率最低を記録した年だった。

 

僕自身も内定がなかなか貰えず苦戦をしていた。単位は取り終えていたので、企業の説明会参加だけを繰り返す日々。自分は前に進んでいるのか、停滞しているのか、はたまた後退しているのか。その座標感覚すら失うとやはり人間焦り狂い出すものである。年齢が若ければその焦りは一層加速する。そして当時の僕は、やはりというかネットに煽られ、採用試験の合間をみていくつかベンチャー企業のワークショップ、セミナーなるものに顔を出すようになっていた。

 

「企業から見放される自分を変えたい」「なんの肩書も持てずにいる自分から抜け出したい」この焦燥感は、今では痛々しいと笑えるものの、当事者になってしまうと切実なものである。そして、上記記事の元ネタ自虐noteでも頻出する言葉そのものだ。そして、そうした場所に参加しているのは、想像の通り「リク〇ート卒業生」とか「某代理店から独立志望」とか、あと加えてそれに群がるなんでもない人々だった。完全にまんまで笑えてくる。

 

幸いなことに、僕が参加したいくつかの会はただの企業PRを含んだ純然たるワークショップやセミナーだったので、金銭問題も何事もなく今に至っている。ただそこで、いかにもな商材でも売り出されていたら、僕はそれに手を出さずにいられただろうか。周囲が「挑戦」とか言い出していたら。リスクを取らねば自分は変えられないと煽られていたら。今回の件を単純に指さして笑っていられない感情は、そんなところを根源としている。

 

・何者にもならなくても、何かは作れる

その後、何とか就職を果たし、そうしたワークショップへの参加は落ち着いたものの、依然20代前半は「何者にかにならないといけない症候群」が延焼していた。就活~社会に出てすぐというのは意識高い単語が特にしみ込みやすい脳みそに仕上がっている。志望通りとは言えない企業へ入った僕は、会社に埋もれるなんてまっぴら、何か大きなことをしてやろうと息巻いていたわけだ。

(まぁ、恥を忍んで言えば今も燻ってはいる。もうこれは仕方のないことだと思う。)

 

当時留年して内定を得たわけだが、1年目の就活で僕は出版社ばかり受けた。編集者になりたいという安易な願望を抱えて仕事を探した。上記の通り苦戦、結局持たざる者だったのだなと自信を完全に失い、落胆した。

 

失意の中、始まった社会人生活。憂さ晴らしに仕事帰り日々秋葉原に通っていると、次第に行きつけの飲み屋ができた。そこで色んな人と出会う。その中には同人誌を作ってたり、自分でもの作りをしてるするおっさんらもいた。話を聞くうち、実際編集でも何でもないおっさんが、実に興味深い本やモノを作っている。素人のはずが、めちゃくちゃ面白い企画や技術、知識を持っていたりする。

 

それらおっさんらの話を聞き、作られたモノを見て、ようやく僕はそこで気づいたのだった。手を動かしさえすれば、何者でもなくとも何かしらは作れる。就活で挫折しようと、誰からも振り向かれなかろうと、結果はモノとして残る。本当に単純だし、言葉で書いてしまうと陳腐すぎる。

 

ただ、立場や地位に目がいっているとまるで気づけないことでもある。すでにコミケにも参加して同人誌という文化には嫌というほど触れていたことも幸いし、編集者にはなれなかったならば、自分で雑誌を作ればいい。そのDIYな発想に至れたことは「何者」の呪縛から少し解き放たれた原因になったと今では思う。

 

・市井の人にも偉大な略歴がある

どうしても若い頃というのは「社会的にすごい人」とか「地位や名誉がある人」に靡きたくなる気持ち、あるいは反発する気持ちが強い。まだ自分自身に対する自信あるいは諦観が定まっていない為、憧れる意味でも、また反発する意味でも「何者」にかならなければ、という傾向も同時に認められる。そして、ありがちな話として上を見続けるあまり、身近な存在を見下しがちになったりする。

 

そんな中で、僕にとって同人活動は「何者か」という問い以上に自分で手を動かすことを最優先する大切さを教えてくれた。更に、制作過程の中で学んだことがある。多くの尖った人と対談をさせて頂いたわけだが、どの対話で得られた言葉も、その人が人生を生きてきた跡そのものだったと思う。結局、誰であろうと、何もしてなさそうでも、必死で生きた人間は何者かになっている。

 

話をじっくり聞くことは、それを引き出す効能がある。あまり書くべきことでもないけれど、この同人誌を作る過程の中で拗れた父親との関係性も回復した。稼ぎも甲斐性もない人間だと蔑んでいたけれども、やはり彼も何者かだった。問題は、それを認識できるこちらの度量があるかどうかだった。

 

そして何より、自分自身に対してそう捉えることが一番難しい。自分が何者かになっているのかなんて分からないからこそ、人は周囲の評価を気にするし、占いに一喜一憂したり、そして「成長」を確約してくれるネットワークビジネスやプペルに手を出してしまう。周囲の目線なく自信を持つことは本当に難事業だ。SNSでいくついいね!を得られれば「何者」なのか保証してくれる人もいない。

 

だからこそ、身近な存在に「何者」かを見出すことが一番の近道なのかもしれないと僕は思う。ネットサロンの天井人に憧れるのも悪くはない。ただ、目の前の友人やら家族にまずリスペクトを抱くことが、一番安価で手軽で、的確な方法ではないかと感じた次第。

 

 

と、長々好き勝手書いてみたわけだが、どんどん文章が説教くさくなってきている気がする・・・ここで飲み始めた養命酒のせいかもしれない。ほんとあまり歳はとりたくないものです。ということで、根暗おじさんの日曜夜の独り言でした。

 

 

新年を『月姫』リメイク発売決定と共に迎えられる幸せをだらだら書くだけ

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Fate展で唯一買ったグッズです。


気づけば開けてしまいました2021年。令和も3年に突入。あけましておめでとうございます。

 

昨年を思い返せば、各所で暗いニュースに振り回された1年だった気がする。個人的にも人生の張りであるコミケは消え、生活の潤滑油である推しのライブは中止、友人と会うこともできず、悶々とした日々ばかりを過ごした感。SNS恒例、年末年始の1年振り返りツイート大会を覗いても「色々ありましたが」「大変な1年になりました」という枕詞から始まるものばかりが目についてしまう。

 

人によっては悔しい感情や厳しい状況を引きずったまま年末年始を迎え、今年もそんな情勢は続きそうな気配が漂う・・・ただそんな中、令和3年に向け一抹の光が我々に降り注いだ。

 

月姫』リメイク発売の確定情報。

www.famitsu.com

 

このブログやTwitterでもさんざん、血の涙を流しながら10年に渡りネタにし続けてきた「月姫リメイク」という呪詛。呪詛というのもあながち比喩でもなく、言ってしまえばリメイク発表から昨日の発売決定告知までの間は、我々オタクは生きて新『月姫』を拝むことができるのかという疑問、そして本当に待ち続けるべきなのかという葛藤の日々だったと言っても過言ではない。

 

サグラダファミリアより先に完成することはないだろう」「3代目奈須きのこの時代まで待たねばならない」などネット上で様々な憶測が流れていたものの、とうとうこの年末。我々のマーブル(幻想)が確実にファンタズム(具現化)されるという、そんな吉報が、この年末恒例となったFGO特番の最後で開示された。やったねたえちゃん。

 

特段、昔の思い出を語ったところで片腹痛いエピソードが羅列されるとは思ったものの、こんな歴史的年始にお気持ちくらい残しても罰は当たらないというもの。以前書いた記事とも繰り返しになるかもしれないが、ぼんやり回顧しながら、暇な正月、この『月姫』への高まりをネット上に書き散らしてみたという次第である。

 

・『月姫』という病理の本質

思えば『月姫』に触れたのは自分が高校生だった頃。確か2004~2005年頃で、すでに同人ゲームとして発売された『月姫』が熱狂的ファンを生み出し、商業メーカー転向後第一作の『Fate/Stay night』も爆発的な売れ行きで広まっていた時分だった。

 

当時、精一杯の学力と実家のガチな貧しさによって得た奨学金をすべてはたいて、ノートPCを購入した。もちろん親には「これからの時代はネットで知見を広めるべき」というプレゼンを建前に、本音はエロゲをやりたいという一途で真剣な理由だけで押し切った次第である。

 

そうなると、オタクから必然的に「Fateってゲームが面白い」という情報が届く。圧倒的な評判はすでに伝え聞いていたため、素直な気持ちで購入しプレイ。まぁ書く必要もないほどハマり倒し、すべてのルート、すべてのタイガー道場を早々にコンプ。そうすると、またまた必然的に「前作の月姫も面白い」という話が。当時は『月箱』バブルが最大風速の頃で、プレミア価格数万円を余裕で超えていたため、全人脈を尽くしてなんとかした。

 

プレイした実感として、スクリプトなどシステムは『Fate』の前作かつ同人作品ということもあって、多少チープさを感じた。ただ、そのチープさ故なのか、あるいは同人作品特有の情念故なのか。『Fate』で感じた以上の「どうしようもない厨二衝動」に襲われ、こちらも寝る間も惜しんで全ルートプレイ。

 

結果「詰襟に憧れる」「急に伊達メガネをかけ始める」「道端のガードレールにやけに座る」など個人的に忘れたい思念や行動は多くなるが、本編シナリオに含まれる多幸感、切なさ、儚さ、など全ての感情を包括したような全5ヒロインのルートは圧巻の一言。『Fate』が完璧に組み上げられた中二病という概念の結晶を死ぬ気で鑑賞する行為ならば、『月姫』プレイは中二病という原子核を直接ぶつけられたような暴力的アクティビティに近い。

 

だって「最強吸血鬼を殺してしまった万物の「死」が視える主人公と、その殺された吸血鬼との恋慕」だよ?いや、もうこの40文字で分かるでしょ?簡素なあらすじだけで、もうオタクにとって致死量である。中学時代にちゃんとした中二作品を摂取できなかった僕にとって、それは受けてはならない一撃だった。

 

また、同人ゲームという不完全性も凶器となった。「ルートが与えられそうで与えられなかったモブヒロイン」が発生したのだ。それこそ「弓塚さつき」という存在。彼女は吸血鬼や能力者といったメンバーがそろうヒロインの中で唯一の一般人枠で、シナリオ途中ハプニングに巻き込まれ、吸血鬼化してしまう。当初の予定ではルートが確保されたヒロイン候補だった。

 

当初何も知らない僕は「マジかーいや、俺こういう薄幸ヒロインにめっちゃ弱いんだよな・・・」勇んで弓塚さつきをクリアしようとゲームを進める。事前のネタバレを徹底的に避けるポリシーによって悲劇が生じていた・・・ルートに入れない?なんだこれ。と根負けしてネットを調べると「ルートがない」ということを知る。質が悪いのは「制作途中までルートが存在していた」つまり、途中で廃線になったのである。だから、レールは敷かれているし、あたかもその先の終点を想起させる仕様になっている。

 

過去、エロゲをいくつかプレイする中で「トラウマ」になる事は結構あったが、これもその一つだ。推しのルートがそもそもない・・・とんでもない名作とめぐりあえたという激情と、途中で分断されたレールを眺める虚無感こそ、この『月姫』という作品を病理と変貌させた元凶である、

 

・リメイクという与えられた呪詛

数年経って、そんな病理の治療が開始される。すなわち、弓塚さつきルートを含めた『月姫』のリメイクを作るというのだ。その第一報がなされたのは2008年だった。型月情報誌『TYPE-MOON エース』創刊に掲載されたブレイキングニュースとして、当時ネットは衝撃を持ってこの報せを受けた。2008年当時、暗い内省ばかりを書き記していた僕のアナログ日記にも「やったね!!さっちんルート!!!!」とそのニュースだけ明るいテンションで記されている。今見ても痛々しい。

 

ただその際の唯一の懸念は「発売未定」という文言・・・まぁ、我々は待つ。待つしかない。そして待たされるのには慣れている。『月姫』FDの『歌月十夜』でもネタにされた弓塚さつきのルートへの言及「さつきシナリオはどんな形にしろきちんと発表する、というのがスタッフさんの総意だそうです」その言葉は、一部熱狂的なファンの心をくすぐったまま、我々ファンとタイプムーンのリメイクの待機合戦に突入した。

 

ネットでも早速『月姫』リメイク発売に関する予測が飛び交った。「1年くらいだろうか」「1年後?ありえない。タイプムーンなら3年はかかる」「3年?楽観的だな。小学1年生が卒業するくらいは待つだろうーーーーーーー」

 

ふと僕は目を瞑る。

Fate/ExtraFate/anlimited code、Fateアニメ化、Fate/zeroアニメ化、Fateアニメ化、Fate/Grand Orderサービス開始・・・・・・・・・

 

時は流れ、2020年・・・え、13年?いや流れすぎだろ、小学生卒業?高校生になってるわ。てかむしろ大学生だった当時の俺、もう社会人になって結婚してるよ?いろいろ経験して、すでに弓塚さつきの着ぐるみとか発注しちゃって色々やってるよ?大丈夫?

 

まぁ、そんな過去のことをうだうだ言っても仕方ない。とうとう我々は、毎年毎年オタクへの年賀状に「月姫まだかなー」とか書きながら、この瞬間を迎えたのである。藤丸役ただのTMオタクであるノッブ氏ではないが、やはり叫ばざるを得ない。我々はようやく勝ち取ったのだ、月姫リメイクが発売される世界線をーーーーーーーー

 

・日本の夏、『月姫』の夏

コロナがいよいよ勢いを増し、外出制限も増え、なかなか希望を持つことすら難しいこの情勢下。年末年始も飲みにも行けず、静かな年越しを強いられたわけだが。僕は、ただ一つのニュースをもって、今年を迎えられたことを心から喜んでいる。

 

自分でもあほらしいと思う。たった一つの同人ゲーム作品。高校時代のトラウマ。そんなものを13年間も待ち続けてしまったこと。そしてその発売決定にここまで心躍らせてしまっている事実。

 

我々にとって『月姫』とはなんだったのだろう。これまで見てきた通り、それはまさしく「病理」であり「呪詛」だったと思う。好きという感情は反転して、当人を縛る。忘れればいいものを、忘れられずにいる。そんなものを神妙な面持ちで有難がる神経のほうがどうかしている。

 

ただ、そんなモノ、心を焦がし、13年間もの間、待っていられる対象が他にあるのだろうか。リメイクと言うからには原作と別物だ。期待は勝手に肥大化している可能性も高い。今この歳になって、実際のシナリオを見てみたら幻滅するかもしれない。様々な憶測はあれども、我々は結局神妙な面持ちでプレイすることだろう。ついついこの夏を楽しみにしてしまう、この感情はどうしようもないのだ。

 

アルク、シエル、秋葉、翡翠琥珀、そして弓塚さつき。高校時代に遠野の屋敷を巡って味わったあの高揚感や、やるせないほどの絶望から、どのように変化しているのか、そして物語はどのように拡張されているのか。それを想像するだけで、オタクとして幸せな1年が始まる。始まってしまう。

 

ちなみにトレーラーを見る限り、これまでのメインヒロイン5人と主人公である遠野志貴のCVは確定している。ルートもあるのであろう。ただ、上記つらつらと書いてきた弓塚さつきの情報が、開示されていない。大丈夫・・・だよね?信じていいんだよね・・・。一抹の不安は残るものの、きっと大丈夫。さすがにね。

 

 

と、いや、何の話だったか。長々とりとめもなく文章を書くのはよくない。気軽に収めようと思ったらすでに4000字。原稿用紙にして10枚を超えているではないか。まぁ、最初から行く当てもなく書き出したので、こうなるのは自明の理なのだけれども。

 

とかく、13年待ったのだからせっかくの今年を楽しみましょうって話です。こんなおっさんオタの内省で波及効果があるかはわからないけれど、今まで『月姫』やったことないです!え?あれ格ゲーじゃなかったの?とかいう御仁は、ぜひプレイしてみることをお勧めします。ということで、本年もなにとぞよろしく。

お気持ちは誰かの呪詛となる

 
ちょっと短い内省レベルのお話を残しておきたい。
 
 
「お気持ち」と称される記事やつぶやきが散見される今日この頃。元ネタ、と言ってもいいのか分からないが、生前退位を検討されていた現上皇さまの「お気持ち表明」以降、それがそのままネットミームになった印象がある。ニュアンスとしては「ちょっと改まって言っておきたいこと」くらいな感じだろうか。よく見るものでは、他者批判だったり多少トゲがある内容、とかくネガティブなことを表明するときによく使われるようである
 
 
そんな中で、本日こんな感じの記事が流れてきた。(元記事は消されていたので、あえてこの文を残そうと思った次第)
 
現在の二次創作を中心とする同人文化に対する一次創作者、つまるところとある漫画家からの匿名の「お気持ち」。現在この国において、ある作品のファンは二次創作を作り、消費する・されるのが当たり前という空気。彼らは「好き」という善意をもとにしているが故に無垢であり、自身の無謬性を信じ込んでいる。二次創作は本当にそんな良いものなのか。自分はそうした空気自体が嫌であり、作品を好きだから弄ってしかるべきという文化など一次創作者に対する冒とくではないのかー
 
 
これがかなり拡散された模様で、各所で議論の的となっていたようだ。やれ特定やら犯人捜しの様相となり、記事も削除となったところではないかと想像できる。
 
個人的な所感としては、偏っていはいるものの話の筋は通っており、極論ながら考えさせられるところは多いにある。主張内容からして、こうした騒ぎになるのは目に見えていたと言える。しかしながら、僕が最も感心した点は主張以外にある。さすがは創作を生業にしている漫画家先生といったところか。二次創作を否定したいという「お気持ち」を述べた上で、それを「呪い」と呼んだ点だ。
 
「二次創作に対して、私みたいな態度の人間もいるということを残しておきます」
 
この言い回し。現在のネットにおけるふんわりとした「お気持ち」という表現に対して、そのオブラートをバッサリ剥いだところにあるものは何なのか、明確に示しているように思う。現に僕自身もこの記事を開いてから心境の変化があった。
 
日々Twitterで流れてくる二次創作イラストを特段何も考えずポチっと覗くわけだが、この記事を読んでからというもの、タップするのになんとない後ろめたさを感じたりする。そのうしろめたさは非常に微かなものではあるが、気持ちに影を落とさせるという意味では、十分「呪い」という語に足るものだろう。
 
それにしても、この「呪い」という言葉。この情報が過剰に流れ、言葉の価値が相対的に薄まる時代の中、なかなかハッとさせられるようなクリティカルな表現だと思う。現代のネットでのやりとりを見ていると非常にしっくりとくる言葉ではないだろうか。
 
何もスピリチュアルに頼り切った感覚でなく、誰かが吐いたいわゆる「お気持ち」=呪詛によって、該当する対象に批判圧力が生じる。よくある例でいえばネットフェミ勢の広告表現への問題提起。そうしたクレームはある種の呪詛ではなかろうか。そのような問題提起がなされるとなんとない後ろめたさを発生させ、「性的搾取」と見られそうな表現は公共の場に掲げる事が難しくなる。
 
また今回は例の記事を参照して「呪い」と呼んでみたものの、それは反面、実は「祈り」でもある。「こういう社会に変えたい」「より良い社会に」といった前向きな主張も、先から見てきた通り、もちろん誰かにとっての「呪い」になりうる。日照権表現の自由を例に出すまでもなく利害衝突、権利闘争と呼べば、より実務的な話になる。SNSが様々なコミュニティの間をつなぎ、価値観も全く異なる普段出会うはずのない人までをつなぐ中で。ネットにおいて、こうした祈りと呪いが入り乱れるある種異様な空間が生み出されているのだと、ふと感じ入ってしまった。
 
古来より言霊、というような概念がある。言葉は人に伝播し、その人の発想を変え、思った以上に他者を縛ることが出来る。SNSという概念が普及した今、我々はもう少しこれら言葉の威力や重みについてやはり考えた方がいい。
 
先の筆者は自覚的に「呪い」という語を使った。果たして、今この拡散される「お気持ち」は一体誰を呪っているのだろう。そんな非日常的な単語を踏まえてみると、言葉が持つぼんやりとしたチカラも、ふとリアルなものとして実感できるのではないだろうか。
 
自分自身もSNSなど適当に言葉を吐いていながら、それが実は誰かへの呪詛だったりする昨今。言霊信仰などをいまさら掲げる気もないが、ちょっと考えさせられる匿名記事だった。

『鬼滅の刃 無限列車編』に覚える畏敬の念

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時間があるときは落書き描いときます。

今週の週末ブログ更新。


興行収入が10日間で100億円を突破というのは、どのくらい凄いのだろうか。1年で1億稼ぐプロスポーツ選手が凄いのだから、きっと間違いなく凄いのだろう。

 

ということで、もはや社会現象といってもいい『鬼滅の刃 無限列車編』を見にいった面倒オタクが何を思ったのかということについて、TMAとかの話題をなるべく排して、端的に書いていきたいと思うよ。

 

一応、私自身『鬼滅の刃』に対して、今どこまでコンテンツ摂取が進んでいるのかを明示しておく。無限列車の直前で終了したTVアニメはすべて視聴済み、そして映画が公開されることが分かっていたので、漫画読了も同様のところで止めていた。ストーリーを知らない状態で映画を楽しみたい、と思ったわけである。

 

まぁ、実際見てみるとよく出来ている。ufotable作画はいつもの通り圧巻だし、ストーリーも素晴らしい。いやー、ほんとちゃんとしている。こういう作品が世間で流行っているということに対して、どこか安心を覚えるような出来の高さであった。

 

※普通にネタバレするので、各自読むかどうかは判断してね。

 

・数々のパクリ疑惑を眺めて

 

それにしても『鬼滅の刃』は連載開始から今もなお、その人気の高まりに比例するようにして非難めいた声もネット上でチラチラ散見されてきた。その最たるものは「パクリ疑惑」だろう。今でも「鬼滅 パクリ」で検索すればわかる通り、絶望感溢れるYahoo!クソ袋的質問にたどりつけるので、それはそれで面白コンテンツと言える。

 

だが確かに、有象無象のネットご意見番たちが指摘する通り、本作において様々な作品のオマージュが散見される。ある程度の年数オタクやっていれば「あー、隙の糸が見えるかー」とか「呼吸法ねー」とかそういう感情を抱くのは自然なことだ。まぁ、それをすぐパクリとか言い出すやつは、絶対にオタクじゃないのでスルー安定である。

 

そもそも、物語や創作物は往々にしてパターンが決まっている。更に「少年ジャンプ」なんていうコンテンツ界におけるセンターポジション的掲載誌の性質上、許されるパターン幅は更に狭まる。敵がいれば、やっぱ倒さなければならないし、成し遂げるために主人公はどんどん強くなんなきゃいけない。これが王道バトル奇譚となれば、外れてはならない。

 

そして『鬼滅』はこの王道を突っ走っている。根暗サブカルオタクからすれば、炭治郎の過剰に純な性格に胃もたれしてしまうこともある。しかしそんな王道を走りながら、こうした数々のパクリ疑惑を呼び起こすほどのオマージュを用いているのも、おそらく原作者が王道を走りながら、多くの過去作に対してリスペクトを抱いているからであると確信する。だからこそ『鬼滅』は面白いのだと、そんな話を続けたい。

 

・物語はこうして連なっていく

今回の劇場版『無限列車編』、個人的に視聴していて強く感じたオマージュは『天元突破グレンラガン』だった。前半の魘夢(えんむ)が都合の良い夢を見せるパート。『グレンラガン』では主人公シモンを始めとした戦士たちが、物語最終盤の戦いにおいて、敵である知的生命体アンチスパイラルから精神攻撃を受ける。それこそ夢の世界に閉じ込めるというものだった。

 

この攻撃に対する内省と突破方法は、双方ともに大差はない。心地よい夢にとどまっていれば、苦痛も何も生まれないのに、何故あえて厳しい現実に立ち向かわねばならないのか。この問いにキャラそれぞれが答えを見出し、覚醒し戦いの地へはせ参じる。という流れである。

 

後半の煉獄杏寿郎の殉死についても、キタンの殉死を思い起させた。『グレンラガン』も物語の終盤に向かい、一気に仲間が殉死していく。その中でも、仲間の窮地を救い数多くの名言を残したキタンの死が、上弦の参 猗窩座(あかざ)を前に、死闘を見せた杏寿郎の熱さと重なった。 

 

だから所詮は『グレンラガン』の焼き直しっしょ?みたいな結論にはならない。

 

おそらく、僕らの世代のオタクは確かに『グレンラガン』によって、上記の感情を得た。心地よい白昼夢に留まらず、歯を食いしばってでも厳しい現実と戦わねばならない。戦っていれば自分を惜しむことなく費やすべき場面に出くわす。その時どう自分がふるまうべきなのか。その結果、どういう結末が待っているのか。

 

今『鬼滅』を見た若い世代が、僕らが10数年前に『グレンラガン』で身に着けた感情を得ているかもしれない。そのことに対して、ただただ感謝というか、物語が受け継がれていくことの深遠さを見た気がした。

 

当然のことながら『グレンラガン』よりはるか前に『ザンボット3』や『イデオン』で絶望を抱いたり、『トップをねらえ!』で活力を得た世代がいた。その線上に『グレンラガン』もいることは間違いない。

 

人間の精神性なんてものは案外有史以来大きく変わってはいないと思う。必要とされる宗教も物語も、気遣い対象が増えただけであり、大筋はそのままだったりする。数々の仏典が紀元前から形を変え、漢訳されながら今に伝えらえれた通り、生きる本質を突いたアニメや漫画といった物語も、やはり作品を変えながら受け継がれていくべきものなのだと思っている。数々のオマージュによって飾られた『鬼滅』は、やはり今の時代における伝道師であると、映画を見ながらそんな感想を抱いてしまった次第である。

 

また、注目・人気作ということもあって、映画開始前には数多くの予告編が流された。そこには、セラムンエヴァおジャ魔女ポケモンドラえもんといったリメイク作、周年記念作、大御所作が並ぶ。もちろんオタクだし、ほとんど見に行きたい。

 

しかし、当てるには過去作をもう一度作りなおすのが安定化しているという傾向のようにも見える。そんな中で、ジャンプの現行連載作品が、ここまでのヒットを飛ばしながら走っていること自体、賞賛に値すべきことだと思う。アニメ化2期も決まっているようなので、改めて楽しみに漫画も読み進めたい。

 

と、短いけれどとりあえずこんなところで。また来週も続けていきたいっす。

名作(偏見)エロゲに学んだ人生における大切なこと

今週の記事。一昨日、日々のごとくツイッターを眺めているとこんなニュースが目に入ってきた。

 

『同級生』リメイク・・・しかもちゃんと(?)エロゲとして発売するとのこと。本作は1992年の発売であり、実に約30年の時を経ての再登場ということになる。『ひぐらし』のアニメ実況をしながら『同級生』がトレンドになるタイムライン。一体、令和とは何時代なのだろうか。

 

ただそんな過去作につい盛り上がってしまう心境として、思えば90~00年代のオタクにとってエロゲは「オールアラウンドコンテンツ」であったのは確かだ。多ジャンルのクリエイターがそこに集い、良質なCG、高密度な文章、そして時に珠玉のBGMと出会える場所だったのだ。エロを目的に、邪な気持ちでゲームをスタートしたオタクどもが、人生における良質な発見、セレンディピティを得るということも珍しくなかったように思う。

 

今回は個人的にエロゲから教わった人生における重要な教訓3つを示してみたい。あらかじめ言っておくが、「Fateから人間の業の深さを知った」とか「クラナドに人生の美しさを見た」みたいな野暮ったいことは書かない。青年期の人生にとって実務的に響いた点のみを列挙したい。

 

<人生において性行為がゴールではないことを知る>

『ショコラ 〜maid cafe "curio"〜』(真名井里美ルート)

本作は、僕がかなり初期にプレイしたエロゲのひとつだ。人生の幸せにまで踏み込んだシナリオの奥深さから、未だに人気が高い戯画の喫茶店経営エロゲ2部作の1作目。メイドカフェブームにも重なり、八王子にコラボカフェがあったことも今となっては懐かしい。

 

とりあえず10代そこらの根暗オタクにとって、エロゲの大きな目的はもちろんエロシーンへの到達である。当初何作かプレイした結果、エロゲとは「物語を読む→選択肢を選ぶ→ヒロイン好感度UP→エロ」という構図であることを学ぶ。となれば「ゲームクリア(トゥルーED)=エロ回収」という認識を持つのも自然なことだ。

 

本作は真面目ながらも流されやすい主人公が、喫茶店経営を任される中、人間的にも成長しつつ各ヒロインとの関係性を構築する、というのが物語の基本格子となる。そして、最初にクリアすべきはメインヒロイン。バイトとしてやってくる天然お嬢様の真名井美里が攻略対象となる。

 

しかし、手を付けたこのルート。いわゆるバッドエンド(ノーマルエンド)がエロシーンになっているらしいと知る・・・まぁ、エロシーンがあるならいいか。一旦、トゥルークリアは置いておいて、適当に選択肢をチョイスし、ノーマルEDのクリアを目指す。そうすると喫茶店経営も半端になり、日々美里との関係にのみ埋没する。快楽におぼれ、二人の関係さえ続けば。というところで物語が終わる。

 

あれ・・・なんだこの感情。ゲームをスタートした時の昂った気持ちが落ち着き切っている。女性とのお付き合いさえ経験のない10代後半が、冷めた気持ちでエロスチルを眺めていた。「やっぱちゃんとトゥルーを目指すか。」と改めて再度やり直していくと、他のヒロインのルート含めて「あぁ、人生エロだけじゃねえんだな」と実感する羽目になる。毎日抜きネタしか探していない10代男子には貴重な説教である。

 

ていうか、多分『ショコラ』も次作の『パルフェ』もそうした「単なるエロは所詮一時の快楽」という示唆が強い。その示唆の最たる例を、最初のルートにぶち込んだという意味でも未だにノーマルEDの美里が脳裏によぎってしまう。

 

 <悪いことが起こりそうなフラグが実現すると、大体予想の3割増しでツライ>

グリーングリーン』(美南早苗ルート)

 GROOVERが世に送り出した良作エロゲシリーズ。全寮制男子校が共学になるので、試験的に60名の女子生徒がやってきた!!おバカ男子らが「彼女を作ろう」と奮闘する分かりやすいアッパーな学園ラブコメドタバタ群像。のはずが、本当によく出来ている。

 

先に書いた通りとりあえず、こういうゲームはメインヒロインから手を付けてゲームのテンションや基本線を探るべきだと覚えた当時の私。早速、まぁ学園ラブコメを楽しむつもりで、メインの千歳みどりから取り組んでみる・・・気づけば濃厚なSF展開に呆然・・・クリアと同時に燃え尽きた。

 

ベタではあるものの、決して安っぽくなく、筒井康隆を彷彿とさせる本流のタイムスリップ・ボーイミーツガールモノ。EDにボロ泣きしながら「面白かった・・・これは油断しないほうがいい作品だ」と学んだところで2人目のヒロイン南美早苗に移動。いわゆる今作のロリキャラ枠であり、属性は病弱ね。なるほどなるほど。とルートを進める。

 

結論から言えば「病弱=病の克服or死去のお涙頂戴ものっしょ」と身構えていた装甲をこうも簡単にはがせるもんなのかと思った。なんていうか、こっからは未だに思い出すとツライのでアニヲタwikiでも確認してほしいのだけれど、ED見て案の定嗚咽。1週間はPC開けなかった。え?うん、ツラくて。

美南早苗 - アニヲタWiki(仮) - アットウィキ

 

大体、世の中生きていると「あぁ、この先の結末ってこうなるよなー」って分かることがある。そして、古来よりほかの動物と比べ肉体的にも弱い人類は、大脳を進化させ本能的に良くないことに対しての察知能力が高いといわれている。嫌なことは先々分かっていた方が回避しやすいし、くらってもダメージは少ない。

 

しかしながら、そうした「分かっていたはず」の悲劇も実際起きてみると、想定を超えてくるもんなのだ。日常というバイアスによって、ツラくなるであろう予測は軽減されている。だって、それは杞憂かもしれないし。だからこそ、起こったことというのは、想像なんかよりはるかにツライもんなのだと、当時早苗ルートによって教えられたわけである。時限メールはやめよう。

 

<性癖に従うのもいいけれど社会性も身に着けよう>

『好き好き大好き!』(ルート指定特になし)

13cmというメーカーが発売したラバーマニアカルトエロゲ。戸川純の楽曲からタイトルを取っている時点で嫌な予感がする。1998年に発売されて以来、賛否が分かれながらも一部のマニアの間では支持を集めていたらしい。2014年にまさかメガストアの付録になる、という珍事も起こるほどには(偏った)世間には認知されていたようだ。

 

ということで、そんなマニアに漏れずラバーやらトータルエンクロージャーといった面白性癖を昔から保有していた身としては、何とか入手しプレイせずにはいられなかった本作。が、このゲーム。カルトと言われるだけあってEDの9割が鬱展開。全10本のEDを見た後にやっと申し訳程度に純愛展開のEDが解放されるのだけれど、その10本がまた酷い。その中で一番マシなルートの最後が「主人公の逮捕」である。主人公が逮捕されて、ホッとするゲームって何なんだマジで。

 

さらに言ってしまえば、メインヒロインも早々と監禁してしまうので、ほとんどゲーム内で彼女のキャラ作画を見ることはないという狂気っぷり。確かに、描写としては好みなので総じてプレイはしたけれども、性癖もここまでくるとげんなりするというか「お前は気をつけろよな」と言われている気分になった。

 

当時、個人的にもネットが開通した頃合い。いろんなサイトに足を運んでは、ゆがんだ性癖に則って様々情報収集をする中で本作に出会った。一方的にエスカレートしていく好奇心に対して、一種の冷静さを与えてくれたのが本作だと言える。今になって思うと、謎の恩義を本作に感じたりする。まぁ、勘違いだと思う。

 

 

ということで、簡単に終わろうと思ったものの長めの記事になってしまった。皆さんも、祖父で新作エロゲを物色したり、棚にしまい込んだエロゲを引っ張りだして、2020年の秋の夜長に新たなトラウマを作ってはいかがだろうか。気張らず続けます。

 

2020年にひぐらしの新作マジか。という話。

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展開知ってるとは言え、普通にビビるおっさん。

文章力と画力は放っておくと、落ちていく。それをカバーするなら、やっぱ書くしかない。ということで、軽めの文章と簡単なお絵かきエッセイ的な記事をしばらく続けていこうと思った次第。読んだ本やら見たアニメ、時事ネタなんか絡めて、今まで以上に好き勝手、短めに書いていきたい。週1回くらいのペースで更新したいもんである。

 

・『ひぐらし』新作だってよ、という2020年

ということで、今回はまさかの新作をテレビアニメシリーズで開始した『ひぐらしのなく頃に 業』について話す。いや、ほんとやりやがった。

 

原作『ひぐらしのなく頃に』は、ミステリ系同人PCゲーとして2002年、コミックマーケット62において彗星のごとく登場し、本編の完結編が頒布されてから14年という月日が経っている。今回のアニメ化も情報が出た当初は「再アニメ化?どうせリメイクっしょ」と皆がたかをくくっていた中で、今週第2話を迎えての新作展開にタイムラインが騒ついた。

 

かくいう僕も、高校時代にリアルタイムでプレイ。朝方5時まで毎日廃人のごとくPCの前に張り付いた結果、それが原因で親子喧嘩、性癖暴露にまで発展したという思い出深い作品である。ゲームという建前だが、選択肢を選ぶ要素はなくとにかく読み進めては「事件の真相を暴け」というコンセプトで「正解率1%」というコピーも話題になった。

 

2000年代中盤、オタクは毎週発売される数々のギャルゲ消化に忙殺され、結構序盤で「つまんね」と切り捨てることもよくあった。『ひぐらし』も開始早々、冒頭から90年代ハーレムギャルゲのベタな展開に辟易して「割につまらんが」と思い始める辺りでスイッチオン、一気に不穏な展開が始まる。そうなるともうどうしようもない。終わるまでノンストップ。

 

1話終えるのに10数時間かかっていたイメージなので、それが8話。端的に言って地獄である。今回の新アニメでは、ぽよよんろっく改め渡辺明夫氏の典型的萌えキャラデザの雰囲気から、一気に『ひぐらし』調に転調されるのも見どころだ。

 

・何がすごいの『ひぐらし

新作見てたら高まってしまい、この『ひぐらし』という作品。個人的にどこがすごいのかという事を少し語りたい。需要?知るかそんなもん犬に食わせとけ、である。

 

古来からギャルゲは往々にしてマルチEDである。なぜなら作品には複数ヒロインがいて、プレーヤー諸氏の性癖は様々。なるべく広範に需要を集めたいと思えば、幼馴染だったり先輩後輩だったり、突然のロリケモ人外だったりそれぞれの癖に合わせた攻略ルートを作るというのが筋である。

 

勿論、諸兄各位に推しが見つかればそれで万々歳なのだが、マルチEDという手法自体「物語の大団円」が薄まってしまうリスクもある。型月やら葉鍵、AgeやらなんでもいいのだけれどマルチEDギャルゲで名作といわれる作品は、そんな分散化リスクを乗り越えるだけの強い軸が物語に存在している。良作かどうかの境目はそこにあると言っていい。

 

しかしながら、こと『ひぐらし』においてはそのギャルゲ手法に乗っかりながら、マルチEDをタイムリープとしてはめ込んでハードなミステリを展開、ヒロインそっちのけで物語自体の大団円を目指したという点が凄い。

 

2002年の発売当時は、マルチEDギャルゲ全盛の時代だ。そこに紛れ込んできた異物、それこそが『ひぐらし』である。はっきり言ってしまえば、マルチED同人ゲーの皮を被って、ミステリなんて普段読まないギャルゲプレイヤーにゴツゴツの長編奇譚を読ませることに成功している。正直、エロゲの皮を被ったカルト作品は多数あるけれど、キッチリ別ジャンルの大作となると、本作くらいなものだろう。

 

物語の事件簿たる前編4話、解決編と位置付けられた後半4話、そしてアペンドの3話、すべてを通してプレイした諸兄であれば、理解できる通り「ギャルゲじゃねえ」のである。ヒロインがカラスに食われたり、拷問器具で爪をはがすギャルゲなんて、存在してはいけないのだ。ちなみに、冷蔵庫もいけない。

 

個人的にこうした「あれ?俺ギャルゲやってたのにな」系譜の完成形は2009年の『シュタインズ・ゲート』だと思う。内容も想定もゴリゴリの科学ADVミステリだが、メーカーが自称しているので比較的優しい。ということで、タラタラと語っていたら案の定、少し長くなってしまったのでこの辺りで。

 

 

 

以上、見たまんまちょっと盛り上がってしまったわけで。自粛ムードも薄れたとはいえ、なんだかオタク同士で飲み会なんかもやりづらい。ましてや、感染後、足取りたどられて「はい、あの頃のエロゲトークで盛り上がってました」とか言いづらいので、取り急ぎ発散してみました。飲みながら、ゆっくりオタクトークでもしたいすね。

初めてメイド服を買った時のこと

少し前に。Twitterに、初めてメイド服を買ったときのことを書いたら、その詳細について聞いてみたいというリアクションを頂いた。
 
 
そういってもらえるのはありがたいし、今回ふと思い立ったので、その時のことを書いてみる次第だ。ただ、レポートはあってもエッセイのような文章は書いたことがないと気づく。正直に言えば、そのリプライを頂いてから2か月ほど経っただろうか。既に何度か書きかけた。ただ自分のことながら、いざ女装願望だったり、そのころのことについて書いてみようとすると、思いのほか複雑な感情の集合体のようで、すんなりいかず、とん挫した。
 
 
多分余計なものを書きたくなったせいだと思う。極力、あまり肩ひじを張らずに、その時のことを純粋に思い返すことにした。以下、そんな話である。
 
 
 
確か、就職活動中。僕は22歳だったろうか。今も大変だが、当時もリーマンショックというなかなか大きな不景気事案が発生して数年。求人倍率も底に落ちていた時代だった。そんな中、特段優秀なわけでもなく、コミュニケーションも円滑でない僕が苦戦する事は必至。単位をあえて残し、1年留年をして、2回目の就職活動に乗り出した頃だったと思う。
 
 
そもそもの話。ブログでも同人誌でも、いたるところに書いてきたが、僕は物心ついた時から色んな種類の性的倒錯を抱いており、いわゆる普通の性交には結局興味を抱けないまま成人になった。男性という自我に惑いはないけれど「男」「女」という枠組みだったり区分にはなんだか違和感がある。これを論じようと何度取り組んでみても、結局しっくりこない。言葉にしにくい感情だ。
 
 
つまるところ、世間一般の男性とはどうやら微妙にズレている。もちろん、大人になりかけの陰キャ男性というものは、往々にしてそうした自覚を持ってしまうものだが、先の就職難も重なったことによって、より明確な形で「社会に適合出来ないのではないか」という不安が増幅した。
 
 
音楽をやっていたので「なんだ世間なんて」と日頃から尖ってみてはいたものの、いざその社会から拒絶されるとやはり不安になる。その後、さまざまな家庭の事情も重なって、神経症を患い、案の定メンタル的なクリニック通いとなった。色々精神的に追い詰められ、ぶっちゃけて言えば、あまり記憶がない頃だったりする。
 
 
 
そんな中でも、鮮明に覚えているのが今回書こうとしている話である。
 
 
シーソーが本当に安定するタイミングは、どちらかに傾ききった時だ。とかく不安定さを解消したい。それが引き金だったのだと思う。普通に考えれば、余計に社会から除外されそうな選択肢なのだけれど、まずは人間として男女という枠組みへの強迫観念に決着をつけたかったようである。思い悩んだ末に、手を出したのが女装という手段だった
 
 
一人の男として、働く場所も得られず、金もなく、交際する女性も、そもそもその目的も分からない。「男として」そんな言葉に追い詰められ、もはやパラノイアに近い妄執の中、一度、男性という枠組みから自ら外れてみることにした。
 
 
そうであれば、いっそ振り切った方がいい。当時、ほぼ毎日秋葉原のカフェでバイトをしていた。日々街で目にするメイドさんを眺めている中、なけなしの金を集め、メイド服でも買ってみるかと決心する。そして、そんな決心の末ということで、ドンキで安物を買うのは違うだろうとなぜか意味もなく意気込んでいたことは覚えている。
 
 
メイド喫茶というイコンが定着しながら、アキバでちゃんとしたメイド服を買えるお店は思った以上に限られている。その中のひとつがキャンディフルーツというメーカー直販店だ。1Fはメイドさんが眼鏡を売っているコンセプト眼鏡屋、メイド服売り場は3Fという小さな雑居ビルである。非常にこじんまりとしており、普通のテンションでは入りづらいことこの上ない。
 
 
そんな場所に暗い表情で入ってくる20代男性。状況を想像すれば完全に事件の匂いしかしない。1Fで働くメイドさんの視線を背に階段で3Fへ。「キモがられているのでは」という想定すら最早意味がないほどに不審者の様相だったと思う。3Fに着くと、赤いカーペットが敷かれ、狭小なスペースながら所せましと並ぶメイド服が目に入る。そして、売り場を担当しているメイドさんが1人。逃げ場もない。文字通り、意を決した。
 
 
「自分でも着られるようなメイド服を探しに来ました」そう言うと、嫌な顔一つせずにこやかに「どの様なタイプにしましょうか」とすんなり返してくれたのを未だに覚えている。キャンフル製メイド服は、純正であれば数万はくだらない。そんな高額布製品を買いに来る客に、当たり前と言えば当たり前の接客ではある。ただ、そんな返答ひとつに少なくとも僕は救われた。
 
 
いくつか品定めをするうち、少しスカート丈が短いタイプの茶色いメイド服に候補を絞った。値段は2万ほど。バイトで学費を払う身としては流石に躊躇する金額。すると「試着してみますか?」と言うメイドさん現在も試着が可能かは分からないが、当時は具体的に購入を検討していれば試着可能ということだった。
 
 
まさか、人前でそんな服を着ることになるとは思いもせず完全に動揺する。ただ、ここまで来て物怖じしても仕方がない。モノは試しである。しっかりとした布地に袖を通し、スカート上のくびれた部分を腰まで上げる。慣れない背中のファスナーに苦戦していると「後ろ、あげましょうか」と手伝ってくれた。狭い空間で、メイド服の試着を終えた自分。それを眺めるメイドさん
 
 
未だ思い起こしても、なんとも言えない実感、という以外の感想が浮かばない。長男なのに、男らしさ、みたいな概念が雲散霧消していくような感覚。あるいは倒錯的フェティシズムとしての喜び。そして、鏡を通して改めて感じる自分の醜さ。それが、果たして僕の人生にとって通るべき場所だったかは置いておいても、経験しがたいものであったことは確かだと思う。なんていうか、卑下もプライドも色々なことが少し馬鹿らしくなった。結果、2万を払ってその服を購入。確か、おまけにニーソをつけてくれた。
 
 
深夜にひっそり実家で身に着けたことも今では懐かしく思う。
 
 
 
 
その後就職も決まり、上記のイベントの結果、いろんなものが吹っ切れた。20代はあらかた自分のやりたいことはやり切れたと思う。各種オフ会に参加したり、性倒錯にまつわる同人誌も作成した。キャンフルにはその後もお世話になった。仕事でストレスが溜まる度、お高いメイド服を数着購入して、未だに着ている。メイド服を購入したことは、今の自分を形作るひとつのきっかけとなった出来事だったことは確かだろう。
 
 
僕自身の倒錯は、男性性への違和感というより「性別が固定されていることへの違和」くらいなものだ。なので、女性になりたいというより「ずっと男性であることが嫌」といった感じ。可愛いものを身につけたくなるのも、そうした感情が根底にあると思っている。逃避だと言われれば、まさにその通りだ。
 
 
ただ、強気に言ってしまえば逃避する場所は、どのような定義であれ持つに越したことはない。僕はメイド服を着る、というちょっとアレな方法で逃避場を見つけてしまっただけであり、他の人であれば酒を飲む、好きな音楽を聴く、映画を見る、ゲームをする、など何でもよい。
 
 
こうでなくてはならない、という現実は大概思い込みだったりする。その思い込みは壊しておいたほうが、案外楽しいものである。
 
 
これ以上書くと、余計な説教が混じってくるのでこの辺りで終わりたい。長々と過去語りをするのも慣れないものだなと思ったりする残暑の日でした。
 

オタクのための、今少しだけポジティブになる方法について

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最近、よく虹を見る。

ここ数か月、ブログに限らず何かしら文章を書きだすことが出来なくなっている
 
裏を返せば、特段何も考えずに生活できている、ということだ。それを悩み事のない「幸福」な状態と捉えるか、または思考停止甚だしい「ディストピア」と考える人もいる。正直、僕としては後者だろうか。普段から根暗な内省には事欠かなかったような人間が、考えることすら放棄するような状態。今回はそんなディストピアから、わずかながらポジティブな要素を取り出し、思考停止から這い出してみようという、ささやかな独り言である。
 
 
唐突だが、​人間、とは元は「じんかん」と読み、その意味合いは文字通り「人と人の間」を指す言葉だった。それが今では、人そのものを人間と呼ぶようになっていった。とは和辻哲郎の指摘らしいが、今になってその言葉の妙を思い知っている。人は社会を形成し、その知性や地位を形づくって来た珍しい生き物だ。逆に、人単体でどうこうしようとしたところで、たかが知れる。恐らく、人にとって集まることが許されない、集団が組成できない、という状態は生物的本能に根差すレベルでのピンチなのかもしれない、と最近よく思う。
 
ニューノーマルと呼ばれる今日。会社勤めである自分は、今の世において、いささか恵まれた環境にある。今のところの心配は、感染と賞与とぼんやりとした将来くらいなもの。それと比較したら、即日的かつ深刻なレベルでダメージを受けている人は多くいる。自分周辺の範囲で言えば、日頃お世話になっているような飲食店、周囲の自営業の友人、または推しのアーティストだったり、そのライブを運営してくれていた多くの関係者、などなど考え出すとキリがない。
 
では比較的ダメージの少ない我々に何か出来ることはないだろうか、と思っていても、事が大規模すぎて自分の無力感にばかり目が行く。春先から、クラウドファンディングなども話題になったが、やはり継続的な情勢となると投げ銭にも限界がある。身の丈を超えた他者の問題を、内心に抱えすぎることは病理に近い。日々、なんとか労働によって食いつないでいる身分としては、大きな考え事とは距離を置いた方が賢明だったりする。そんな諦観にぼんやりと身を任せているうち、何か考える事すら距離を置くようになってしまった。
 
 
​ということで、以上が昨今の脳内。何を考えだしてもネガティブかつ虚無に行き着いてしまう中少しずつこの新常態と呼ばれる環境を前向きにとらえることは出来ないか。以下、何かを解決できるわけではない。ただ、視点を少しだけ斜め上にするための試行である。
 
 
まず例えば、SNS。近年その拡充によって、これまでネットに触れてこなかった人までも、その枠組みの中に含まれてきた。結果、タイムラインでは多様な価値観が入り乱れ、スマートフォンを眺めれば日々混乱に近い事象を見ることが出来る。そうした混乱状況のTwitterなど、眺めているだけで気が滅入るというという意見はあれど、もしこのSNSひいてはオンライン環境がここまで普及する前にコロナ禍が起こっていたらと思うと、それはそれで恐ろしい。
 
日本のような保守的な土壌で感染症の騒ぎが起きれば、やはり様々な角度から誹謗中傷が問題となる。SNSでも毎日のように見かけるが、感染者あるいは、帰省者に対する攻撃が後を絶たないようだ。そのような事案をネットで見ては「この国終わってるな」とかネガティブな思考に思い至ってしまうわけだけれども、こうした誹謗中傷を告発できること。そうした事案が起こっていると不特定多数に開示できることは、大きな進歩だと思える。
 
ネット環境がなければ、こうした事案が共有されない。土地土地で、当事者のみで問題に対処するしかない。それは酷なことではないだろうか。ネットは個人が情報を集めるのみのツールではなく、個人の問題を外部に発露できるという大きな役割がある。勿論、えん罪やデマが通りやすかったりと問題は多々ある。見たくもないことを見させられることも多い。それでも、発露された残酷な何かは、誰かにとっての紛れもない現実だったりする。
 
Twitter上に流れてくる、数々のネガティブ事案は、発露されているだけでも価値がある。一周回ってそう思うと、まだ自分の平静を保つきっかけにもなる。
 
 
 
次に、先にも書いた「人は人の間でしか生きることができない」という話だ。
 
今回それを最も実感したのはスポーツだ。数々のイベントが中止に追い込まれる中、アスリートたちはその存在意義すら問われているように見える。どれほどシンプルに超人的なスキルや肉体を保有して居ようが、それ自体ではなく、種目ごとの試合に則った結果こそが選手の評価の対象となる。
 
試合やイベントが中止になり、スター選手ですら自らの存在意義さえ否定される中。NHKの朝のニュース内、このような取材を見た。
 
五輪まであと1年 岐路に立つアスリート
 
「いったいスポーツ選手ってなんなのだろう」ここでのフェンシングの三宅選手の内省はまさにこの状況下のスポーツの価値を問い直すものだった。最終目標である試合や大会が消えゆく中、スポーツ選手であること、という自己定義すら曖昧になる状況は容易に想像がつく。短い特集だったが、模索の中で、スポンサーや応援してくれる人の存在に行き着いた三宅選手の結論は、スポーツ云々でなく、昨今の状況における根本的な思考法のヒントになりうる。
 
公演ができない劇団、ライブのできないバンド、試合のないスポーツ選手。そして、それらを必死で応援してきたサポーターやファン。今、いろいろな場所でいろいろな人が、自らの存在価値を問われている。
 
この記事を書きだそうと思ったのも、ある友人からの相談だった。選手や歌手、俳優といったプレイヤーは勿論だが、それらを応援する人々にとっても、その応援自体が人生の張りだったりする。
 
次々と中止になるイベント。一時の損失は我慢できる。ただ、そうした我慢の限界に行き着くと、人は自分を守る為に意欲を消す。心としては、意欲さえ消せば、喪失感というダメージもない。しかしながら、意欲とは生きる活力そのものだったりする。気づいた時には、ダメージを避けながら、生きる意欲だけごっそり削られる免疫不全のような状態に陥る。現在こうしたパターンにハマっている人は、少なくないのではないだろうか。
 
こうなったときに先の三宅選手のような内省を思い出してほしいと感じた。ひとつ結論として、アスリートやアーティストの本懐は応援をされることである。こう言うと、反発するロックな人もいるだろうが、芸術すら作品そのものが価値を生むわけではない。社会があって意味が生じる。逆に言えば、人は社会を通してしか、意味を生み出せない。
 
ファンやサポーターの方が圧倒的多数、そしてどうせこれを読んでいるのもだいたいオタク諸氏だろうからこそ言うが、この状況下。推しの存在意義は我々が支えていると言っても過言でない。改めて言うほどのことではないかもしれないが、人と人の間で生きる人間という存在である限り「応援する」行為の価値は限りなく大きい。イベントや試合といったものがなかったとしても、好きなことがある人は、その好きを保つことで、確実にそこに意味は生まれる。各個人が、生きてこの社会を保つこと、そこには確かに意義がある。
 
すくなくとも、いちオタクとして、そう信じたいものである。
 
 
久々に文字を書いたら、とりとめもなく長くなり、無駄に時間もかかってしまった。書くにはやはり訓練がいるなぁ、とか思いつつ。継続できれば文章を書き続けていきたいものだ。何か意見を持つことも、発散することも難しい時代だけれど、何とか生きていきたいもんです。