わがはじ!

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無意味な人生を歩むこと~『断片的なものの社会学』を読んで~

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もう気づけば7月も中旬に差し掛かろうとしている。ようやく夏コミの原稿もひと段落。その宣伝なんかはまた次回でやることにして。ここ1か月近くはツイッターで脳みそに溜まる澱を吐き出していたものの、やはり140字にとらわれずブログに好き勝手書く時間が取れるというのは案外幸せなもんなんだと気づいたり。

 

そんな夏真っ盛りな気候の中、このアンニュイなタイトルなんとかならないのだろうか。と自分でも思う。ただ、今回はそんな夏コミ原稿中に見つけて読んだ岸政彦さんの『断片的なものの社会学』という本がとても良かったので、それに纏わったり、纏わらなかったりすることを気のまま書いていこうと思う。

 

・ヘンリーダーガーに見る人生の物語性

岸政彦さんは社会学者ということで、在日コリアンの方や同性愛者など、社会の様々なマリノリティと言われる方や、そうした人を取り巻く環境を研究。また随所で出会った一生活者に対してインタビューを行い、そのひとつの人生やそれに纏わる物語を文字に起こすというフィールドワークを行っている方のようである。(間違ってるかもしれない)

 

僕も氏の本を手に取ったのは初めて。恐らく今回の本はそうしたメインストリームの研究を取り扱った文章ではなく、本筋の研究の合間から漏れ出てきた「社会学とまではいかないけど、社会の中で生きる人を考えるには重要なエッセンス」を少しずつ集め、一冊の本に纏めたという企画のようである。なので、一貫して「こういう主張だ」というよりは、むしろ誰かの人生の断片、あるいは氏のエッセイ的文章から、読者に「あなたならどう思うか」という投げ掛けが為されているような印象を受けた。また大阪をメインに繰り広げられる話の数々は、時にユーモアがあり、人懐こく、着飾らない話が多い。それ故、随所に見られる人生を捉える目線はかなり鋭い。

 

個人的には幼少から障害を持ち、その死後多くの作品が発見され一躍伝説的なアウトサイダーアーティストとなったヘンリーダーガーを例に挙げた文章が印象的だった。彼は誰にも知られることなく、懇々と『非現実の王国で』を作り上げた。それらが彼がなくなった後から発見されたことにより、ある種のロマンチシズムが生じ、多くの人の心動かすに至ったというのは周知の事実である。恐らくその作品自体の質もさることながら「作品が死の間際に発見された」「他者との交わりもない中で作製された」という事がある種のロマンを想起させ、作品により強い訴求力を持たせたことは確かだろう。

 

しかし、ここで様々なイフを考える。仮にそれら作品が発見されたなかったとしたら、ダーガーの存在自体が全くもってほぼ無に近いものになってしまう。また、ダーガー本人は彼の死後つまり現在の彼の作品の評価を知りはしない。そして、その評価を得ているダーガーを我々も知りえない。つまり、人生における物語性の有無は、その観測者の認知によって初めて成り立つもので、もしかしたら我々の周囲のおっさんの中にも「ダーガー」はいるのかもしれない。その可能性とその無意味性は、この人生の物語性を示している。この章をそのように僕は読み、深く感銘を受けた。

 

・他人が主役の人生を垣間見るとき

その他、本書では氏が行っているインタビューやエピソードもいくつも掲載されており、この社会における幸せとは、また正しさとは。各章から多角的に「人生における物語」の性質を考えさせられることになる。そんな中、僕自身の話で恐縮だが、過去に出会ったこんな事をふと思い出した。

 

営業先の北関東の片田舎。取引先の社長と飲みに行くことになり、寂れたスナック街の一店に入った。中にはママが一人と、恐らく常連と思われるおっさんが一人。邪魔をしたかなと思いながらも、まぁ気にしないでと店内に入れられ酒を飲みつつカラオケを歌うことに。その常連のおっさんも『宇宙戦艦ヤマト』を歌い出した。なぜその選曲・・・と思いながら聞いていると、そこそこ上手い。音程も取れている。しかし圧巻だったのは、なんとカラオケの採点で100点を出したのである。僕らが驚いて「すごいですね!」と声をかけるも、大して大きなリアクションもないおっさん。

 

その後、更に『恋するフォーチュンクッキー』でも、そのおっさんは100点を出した。採点基準が緩いのかいえば、僕らは80点止まり。どうやら彼は採点の「コツ」を掴んだらしい。そのコツを掴んで歌えば100点は獲得できるとのこと。そう自慢気に話すもどこか儚く、聞けば他のカラオケなどにはまず行くことはなく、ここでしか歌わない。こと採点システムに関しては、他社の端末ではおろか、同じ製品でも機械の個体差などで得点は変わってしまう。つまり、そのおっさんはこの寂れたスナックの、この一つの端末に特化したカラオケで100点をとる術を得ているのである。

 

なんだしょうもない話じゃねえかと思われるだろうが、なんだかこの出来事を思い出した時にふと色々な思いが沸いた。そのスナックのママだけが聞き続ける、おっさんの100点の歌声。ある種、この10畳そこらのステージにこのおっさんの輝きどころがあり、それを本来部外者である僕が観測出来たという事がとても感慨深かった。正直、冷静に考えれば「固有のカラオケマシンで100点を取る技術」にまるで生産性はないのかもしれない。その特技に汎用性もなく、彼の雄姿を普段見られるのはママだけ。彼がそこの店だけでカラオケの天下を取ることに、確かに意味は見出しにくい。ただ、そこに彼の物語があり、その物語を紡いだおっさんがいる。それは確かなことである。自分の暮らしている周囲随所に、こうした「自分以外の主役の存在」を想像することはとても大切なことではないかと思った。

 

・人生を無意味と捉えることから

本書の後半。岸氏が人生そのものの無意味性を説く場面がある。本来自分が持っている意味などあるのだろうか。また、本当に私たちの命がかけがえのないものであるなら(そう思い込むなら)今の自分を捨てて何かに賭けるという行為ができなくなる。と。ただそれは、人は挑戦すべき、だとか夢は叶うというような啓発的意味合いではなく、ただただ「何者にもなれない人生」があるという客観的な事実があると自認すべきではないか、という感慨を述べている。

 

この部分を読んでいて、鬼頭莫宏氏の『なるたる』という漫画を思い出した。その内容についてここで触れることは避けるが、まぁざっくり言えば、いかんせん救いのない話セカイ系作品である。その最終巻12巻の表紙裏に書かれた下記の一説が未だに頭に残り、今回読んだ部分と重なった。

「かけがえのない命」。そんなモノに救いを求めていても先には進みません。 
 あなたがいなくてもたいして困りません。 
 自分がいなくてもまったく困らないでしょう。 
 だからこそ、無くてもよい存在だからこそ頑張るのだとおもうのです。

 

普段から僕自身も思っていることだが「かけがえのない命」という表現は欺瞞だと思っていた。実際、僕が小さい頃にこの「かけがえのない命を大切に」という道徳の授業の一環でアフリカの貧しい子供たちが餓死で亡くなっているという映像を見させられた記憶がある。その際、幼心に「じゃあ、代わりに僕が死ねばいいのだろうか」という感想を抱いた。世界の別の場所で、かけがえのない命が失われている事に対して、自分がのうのうと生きててもよいのか分からなくなった。

 

まぁ、それは鬱屈とした発想だと今になれば思うのだが「かげがえのない命」という前提は、倫理的に正しいように見えて、現実に起こっている事を歪めてしまうという副作用を持っている。鬼頭氏の上記の言葉も、岸氏の文章も、僕らはやはりそもそも無意味だからこそ、意味を作り出すために足掻けるのではないかという示唆だと思う。上記のカラオケおっさんも、社会一般からすれば生産性のない無価値な存在かもしれない。ただ、そこには広く公共的な「意味」でなく個別によって作られた「意味」がある。自分で人生における意味を作り出すことは、幸福という概念を生み出すことに他ならないのではないだろうか。今回、本書を読みながらそんなことを思いふけっていた。

 

 

実際、全然まとめきれていないし、かなり自分の偏見が混じっているため正直レビューにもなっていない。多分この本は読む人それぞれの読み方があるし、僕自身二回目に読んでみたら捉え方が変わるかもしれない。ただ、取り急ぎ、読み終わった熱量だけでこのような駄文を長々書いてしまった。久々におすすめしたい本だし、是非とも興味があるなら手に取ってみていただきたい。

 

僕自身もこれまで同人誌において色んな方との対談やインタビューという事をやらせて頂き。そうした事が多少なりとも、意味のある行為だったのかなと。少し励まされた気がしました。また次出す夏コミの本も下ネタばかりのくだらない中に、色んな人の感情や価値観が詰まっていておすすめです。またそれはおいおい書くことにします。