わがはじ!

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Vtuberの実存について~星街すいせい2ndLive『Shout in Crisis』感想

有明ガーデンシアター、いい箱ですよね。

今回。人気Vtuber、星街すいせいのライブに行ったことで「Vtuber」という存在の捉え方が改めて少し変わった。そんな話をしてみたいと思った。

 

・顔を出さないという選択

直接ライブの話をする前に、僕はどのような感情をVtuber全般に向けているのか簡単に整理したいと思う。

 

ここにも何度か書き記したけれども、ホロライブやらにじさんじといった大手箱を中心に、Vtuberという文化に触れるようになってから気づけば1年強ほどになる。配信を観たり、音源に聞き入ったり、グッズを買ってみたり、推しの絵を描いたり。気づけば各所に散財をしながら、その世界にハマり続けている。

 

その中でも、圧倒的な歌唱力でその名を馳せているのが星街すいせいだろう。先日はYoutubeチャンネル「FIRST TAKE」にも登場し、初回配信時同接15万人を叩き出している。そんな彼女が、本日1/28(土)に有明ガーデンシアターで2ndアルバム『Specter』を引っ提げてライブを開催する、という事なので是非現地で見てみたいと思いチケットを確保した。

 

思えば「Vtuber」という存在に対して見る目が変わったのも、彼女がきっかけだった。最初は「Vtuberってゲーム配信者が2Dアバターを使って配信しているんでしょ」程度の認識だったけれど、彼女の1stアルバム『Still Still Stellar』の出来の良さに、正直衝撃を受けた。「え?なんでわざわざこれでVtuberなの?」多くのVtuberに触れていない人と同様、顔出しの方がシンガーとして有利なのではないか、という疑問を抱いたことを覚えている。

 

「中の人なんていない!」みたいなファンダメンタリストの反駁は聞こえるけれども一旦置いておいて。Vtuberらが「顔を出さない」「キャラクターとして存在する」というのは、外見が二次元化する事によってシンプルに「可愛い」存在になるメリットを生む反面、その実態に対して疑義が生じてしまうというデメリットがある。「一体アバターを使って、何を隠している(何が隠されている)んだ」と、ついつい気になってしまうのも人間の性だ。

 

ただ、沢山の切り抜きやらアーカイブを見て、Vtuberの世界にハマっていく中で。そんな疑義もVtuberの強みであると僕は理解するようになった。タレントの名前を検索にかければすぐに「中の人」とサジェストが出る通り、その二面性はある種の魅力だと言える。「設定上の一人称がブレる(つい「わたし」って言っちゃった)瞬間まとめ」など切り抜きが上がっている通り、本当の内面性がアバターというペルソナからあふれ出る瞬間、というのは見ている側の好奇心を煽る。ギャップ萌え、という言葉も死語になっているが、そうした「素」と「キャラ」の絶妙なバランスこそ、Vtuberの人気を構造的に支えているモノの一種だと思う。

 

加えて、僕は元々生身のアイドルが少々苦手だ。直接、目の前にいる人間を推す、というのは中々に生々しさを伴う行為だと感じる。恋愛感情とファンとしての心理の境界を、上手く想像することが出来なかった事が主たる原因だと思う。そこにおいてVtuberという存在は、対象を二次元化させることで恋愛感情要素を薄めた代わりに、キャラ萌え要素を加える事に成功している。それが幅広いオタク層にとって「推す」ことへのハードルを下げたのでは、と考えている。

 

詰まるところ、僕がハマったことにより、少しずつ周囲から「Vtuberって何がそんなに人気なの」と聞かれる機会が増えていた。そこに対する理屈の仮説として用意したものが上記の話だ。僕自身もVtuberというシステムが何故、多くの人に受け入れられたのかという点を考えることは興味深く、一旦の回答としてこのような理解をしていた、というのが今日までのお話である。

 

・星街すいせいに感じた「存在」

ライブ冒頭。代表曲『Stellar Stellar』を聴きながら、僕は少し混乱していた。今回運良く、アリーナのかなり前方で席を確保出来た事もあり、ステージを間近で眺められた。言ってしまえば、ステージには長方形のスクリーンが存在し、そこに映し出された星街すいせいが動いているのを観客は眺めるという仕組みだ。

 

上段でこれだけ語ってはいるものの、そもそもVtuberのライブ参加自体が初めてだったので、ハッキリ言ってしまえば「本人がそこに存在していない状況」を楽しめるのだろうか、というのは不安としてあった。歌声はそりゃ生なんだろうけれども、個人的に「実存しない存在に対して、ライブの臨場感は生じ得るのか」という意味で、実験的なライブ参加であった事は否めない。

 

そして、開演。その不安や疑いに対して、抱いたのが先の「混乱」だ。理性ではそこに存在しているものが「スクリーンだ」と認知しながら、僕の主観としては、間違いなく彼女はそこに居る、と感じてしまったのだ。

 

勿論、ステージやスクリーンそのものの技術的側面もさることながら、今回から新型コロナ対策も緩和され、観客の声出しが許された事もその「存在」を後押ししていた事は間違いない。星街すいせい自身の圧倒的なパフォーマンスと、それを後ろ支えする生バンド、そしてこれまで声を出すことを制されてきた星詠み(星街すいせいファン)達の爆発的歓声とコール。そして、それに応じる彼女。それら全てが折り重なったことで、確実に彼女がそこに存在しているものだと、僕は認識してしまった。

 

セットリストは新アルバムの曲を基調としながら、1作目のアルバムからも人気曲をチョイスし、我々観客も休む暇なく見惚れるしかなかった。ただ、その中でも個人的に象徴的だと感じたのは、自分で作詞を担当したミドルテンポバラード『デビュタントボール』だった。それまでは客を沸せるチョイスが一変、上方スクリーンに歌詞の断片を載せ、会場もアンニュイな雰囲気が占める。日々明るく努める中で感じる虚無と、さながら非日常を魔法と呼ぶその歌詞は独白にも近く、淡々と歌い上げる様には息をのんでしまった。

 

更に、ライブ終盤。彼女の曲にしてはとても内省的で暗い言葉が並ぶロックチューン『放送室』を歌い上げた後。MCで、この曲は直接自分の苦悩を語った歌詞だとストレートに語る彼女の言葉は、配信で聞けるような気ままで自我の強そうなペルソナとしての「星街すいせい」のそれではなく、明らかにただただ、急激に人気を得てしまった今と、自身のギャップに悩み、苦しみ、歌うことで何かを打開しようとする「星街すいせい」の姿だったように見えた。

 

僕は上段において、Vtuberのシステム的な魅力として「アバターと素の人格との二面性」という事を書いた。推測として正しい側面もあるとは思うし、理解のない人に説明する上では理屈上でも頷いてもらえるモノだと考えている。ただ、今回このライブに参加したことで感じた最たる事は、ただただそこには、ペルソナも、素もなく、シンガーとしての「星街すいせい」が「居た」という事実だった。

 

僕らはVtuberとか、最早そんな、枠組みやシステムの話など関係なく、星街すいせいのライブに行き、彼女の歌を聴き、声を上げ、喜び、楽しんだ。それだけだった。

 

多分、他の星詠みの方々に言わせれば「何をお前は今さら当たり前の事を理屈捏ねて言ってるんだ」と怒られるかもしれない。すいちゃんは、すいちゃんとしてそこに居る。僕は、そんな当たり前の事を、ようやく現場で理解した。理屈ばかりであった僕にとってのVtuber観がひとつアップデートされた、そんなライブだったのは間違いない。

 

様々な暗い側面もこの2ndアルバムには詰め込んだと語り、しんみりした空気を跳ね飛ばすように「自分の嫌な所を直すのでなく、受け入れて、今だけは笑って帰りましょう」と星詠みたちに告げた彼女は、他の誰でもなく彼女そのものだったと思う。アンコールの最後、全ての観客を巻き込んで『ソワレ』を歌い上げた彼女は、恐らく全てを出しきったのか、輝くように消えていった。

 

 

何か、Vtuberのライブ、ということで様々ギミックを気にする人がいる。いや、これまで見てきた通り僕自身もそうだった。「どういうこと?」「本人いなくてどうやんの?」という疑問は確かに真っ当だと思う。ただ、現場を見ることでしか理解できない事がある。理屈なんかでなく、そこに彼女は存在し、躍動しているのだ。冒頭に揶揄したファンダメンタリストと同じことを言ってるのだけれど、星街すいせいは、今日そんなシンプルな事を僕に教えてくれた気がする

 

 

という感じで、ライブ後に熱量が沸いてしまい、勢いで書いてしまいました。読みづらくてすみません。また3月にも4th Fes.と楽しみなイベントが続くので、こちらも粛々と追っかけたい所存です。