わがはじ!

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『この世界の片隅に』に感動する理由を考える

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画像元サイト 片渕須直監督による『この世界の片隅に』(原作:こうの史代)のアニメ映画化を応援 | クラウドファンディング - Makuake(マクアケ)

 

見終わった際、なんで自分が泣いているのか分からなかった。

 

ようやっと見に行けた。思い返せば「年内には行こう」という思いもむなしく気付けば2017年の2月頭。皆様のお陰でというか大ヒットロングランという事もあり、今もなお劇場で見る事が出来たわけで。もうこの時分、こういうブログとかで何を言おうが野暮なんじゃという思いも相当あるものの、折角こんな作品を見れたのだから感想のひとつ、書いたところで罰は当たらないだろう。

 

・決して感動作なんかではなかった

「感動作でなかった」と早速煽り気味の文句を見出しに載せてはみたものの、結局のところEDではコトリンゴの歌う『たんぽぽ』を聴きつつただ号泣していた。まぁ、どこの映画批評サイト覗いてみても同じような話なので恐縮だけど、お涙頂戴でないのに溢れる涙。それはまがいもなく正しい感想であった。しかしながら、では僕らはこの映画見ることによって、どんな感情を得て、そして泣いてしまったのだろうか。今回はそんなことについて滔々と考えてみたい。

 

まず、この映画が観た人に投げかけたのは「感動しろ」という強迫観念ではなく、そもそも人が感動するとはどういったことなのだろうという問いだと感じた。書き出しの通り、僕自身もただただ、EDクレジットを見ながら流れる涙に対して、当初はただ当惑していたといってよい。

 

はっきり僕の感想を言えば、本作のストーリー自体に起承転結といった明確なストーリーがあるようには思えなかった。主人公のすずが幼少を広島で過ごし、呉へ嫁に嫁ぎ、周作と愛を確かめ合い、新たな家族との絆を結んでいく。言ってしまえば広島の港町で育ったちょっと野暮ったいひとりの女性の生活と人生そのものである。当然、戦時下という悲惨な境遇はあれど、そこには明確に「乗り越える」とか「達成される」とか「離別の悲しさ」とか大きな感動ポイントなどはなく、そんな化学調味料みたいな味は全くしない。普通の人生がひとつ、描かれているに過ぎない。しかも、この作品は戦争映画ではあれど、単にそれは「戦時中を切り取った話」というだけである。

 

ただ、そのことによって自然なすずの生き方は、現代を生きる我々の生と違和感なくリンクしてしまう。この共感があるからこそ僕らは、感動させられてる、のではなく能動的に感動してしまうのだと感じる。果たして今回抱いたヒロインすずへの共感、何がそのトリガーだったのだろうか。

 

・自然な「感動」とは、想起し寄り添う心にある

先の話の続きになるが、この映画の特筆すべき点は、戦争を描いているのに、視点があまりにも「ただただ人生」ということだと思う。僕らは普段生活していて、日常でドラマティックな状況と向かい合う頻度は少ない。むしろ、それが後から振り返れば大きな出来事だったとしても、案外普段と同じような顔をして流れていく。逆にいざ、インパクトのある出来事と出会うと、その現実味の無さにその場にそぐわぬ事を考えたりもする。この映画はまさにこの「リアルな戦時下の日常」と「リアルな戦時下の非日常」の双方を、すずの視点から巧みな演出によって表している。

 

例えば、目の前で繰り広げられる空襲の様子を絵になぞらえたり、大事な人との死別を淡白なイラストで示すなど、すず目線で瞬間瞬間のリアルを抽象化し、すずが自分の中に事実をどう落とし込んでいくのかという過程を、観客は追体験させられる。本作がアニメーション映画である価値がここにあると思う。また、逆に。すずが実際に立ち会っていない過去や死別に関して本作はかなりサラッと流す。あからさまに見過ごせない数多くの出来事、要素が想像できるにも関わらず、しっかりとは触れず、ただ時間と共にそれらを流してしまう。

 

この作品では観ている人が、少しずつ話の中からそうしたすずが体験していない、あるいは体験していても画面上では見せない要素を拾い、今見ているストーリーにおける「あるはずの過去、過程」を察してしまう。それはまるで日常生活において我々が職場や家庭、近隣の人との会話の中から雰囲気をくみ取り、明確な事実として目で確認して認知するのではなく、伝聞として、また噂として何があったのかを知るプロセスそのものだと感じる。

 

目の前にあるものに対して感動するのは、五感に直接訴えかけるものだとわかる。美しい景色や美味しい食べ物、それらに対して畏敬の念を抱いたり、幸福感を得たりと比較的わかりやすい。しかし「ストーリー」において感情を揺り動かされるというのは、どういったタイミングなのだろう。それは、ふとした誰かの記憶、過去や過程、それらを自分の中に取り込み、もしそれが自分だったら、と想起した瞬間ではないだろうか。境遇が近ければ近いほど、その取り込み作業はスムーズに行える。描かれるすずの普通さと、その現実をいかに見ているかという視点のリアルな演出が、彼女の感情を容易に我々に共有させている。「時代さえ違ったら自分も」という想像が、過去の戦争映画にない形で体験出来たのだろう。

 

・自分がいる片隅を思う

このタイトル『この世界の片隅に』をふと映画を見終わった後にみると、単純に広島、呉という舞台だけの話でない気がしてくる。今僕が住んでいる東京下町にも大空襲があり、一面焼け野原になった過去がある。ふと数年前に亡くなった祖母の話を思い出したりもした。見せてもらったそのころの地元の写真なんかも頭を過った。あの時分、戦時下どこだって、すずがいた「片隅」だったのである。

 

戦争映画には、映画であるからして大抵主人公がいる。そして普通の映画であれば主人公は特別な存在である。それに対して、本作におけるすずは本当に一庶民だ。戦禍を生き延びた、むしろ「幸せな市民」だと思える。ただ、そんな彼女でさえ作中のような苦しみを受け、また描かれはしないが、貧困に喘ぐ戦後を生きていく。時代という大きな流れは、そこにいる人たちすべてを飲み込んでしまう。この映画が改めて示してくれたのは、戦争の教訓や命の大切さといった角張った主張なんかでは決してなく、片隅でも、そこに生きている人がいるということだ。その事実を想起するだけで、どんな反戦理論よりもシンプルかつ強い思いが沸く。

 

そして今僕がいるのも片隅だといえる。時間、土地含めすべての歴史は地続きである。そうした片隅が集まって今という時代は形成されている。そしてそこにはそれぞれの暮らしと、それぞれの幸福がある。そして今回、この作品を見て流した涙はそんな当たり前のことを、再度、共感によって認識させられた、そんな感情の表出だったのかもしれない。