わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

言葉がどんどん難しくなってきていることについて

多分、することがなくなってきたのだ。ハマりかけた競馬も春のG1全てが終わり、そんなテンションからかウマ娘からも少し離れ。FGOは未開放の後半パートの存在に気づいて、一旦休止。格ゲーもほどほどプレイに切り替えたので、ボコられ放題。そもそも梅雨時期で酒すら飲みに行きづらい世相に、うじうじ悩むか寝るかくらいしか楽しみがない。

 

そんな毎日死に体だけれども、今日はまだ少し眠くない(最近は22時就寝が平均)ので、また日々思うところを書いてみたい。意識高そうで高くない話になると思う。

 

毎日ぼーっとした頭でニュースを見ていると、言葉がどんどん難しくなっている気がする。VUCAだとか、SDGsだとか、アジャイル、Z世代、カーボンニュートラル、終盤にはビックフライオータニサンアゲイン・・・多分、スポーツコーナーになったんだなということくらいは理解出来ている。

 

そうした略語、横文字言葉が増えてるということも勿論そうなのだけれど、それ以上に「良さげ」な単語が多いわりに、本当に「良い」ものなのか分からないことが多くなってきた気がする。そもそも冒頭の「VUCA」って要するに「不確実性」みたいな言葉の寄せ集めにも関わらず、同じ口で「SDGs」=「地球にやさしく」みたいなこと言ったりする。

 

そもそも論なのだけれど、SDGsみたいなフワッとした(と言ったら怒られそうだけれど)「地球に優しい15か条」を「VUCA」の時代に掲げるってどうなの。今は「先々わかんない時代ですよ」と言い張っておいて「これは地球に優しいから」みたいな指標掲げること自体、どうなんってずっと思ってた。極論だけれど、二酸化炭素出すな!って、本当にこの先50年後も常識なんすかね、と意地汚いことを思ったりもする。

 

(15色の輪っかバッヂを強制的に身に着けているサラリーマンが言っていいことでもないとは思う。あれメルカリでも売ってるよね。)

 

つまるところ今日言いたい「言葉の難しさ」って、いい感じのこと言ってるのは分かるんだけれど、その「いい感じ」で包括される中に相反するもの沢山あるんじゃない?ってこと。簡単な例を挙げると「再生可能エネルギー」って地球に絶対優しいっしょ、と思ってたけれど、災害や老朽化みたいなソーラーパネル設置リスクが再生エネのメリットを上回ってたみたいな話。

それはVUCAの話じゃなくて、事前の検証が足りてないだけだろ。というのは真っ当なツッコミのようにも思えるのだけれど、今「絶対これは地球にやさしい」と思って行っていることが10年、20年後「検証不足乙」って非難されてることも絶対あると思う。悲しいけれど。

 

少し話題は逸れるのだけれど、投資商品にサスティナビリティボンドってものがある。企業が地球にやさしいことに使う使途資金として(節電設備のビルを作ったり、再生エネ事業に使ったり)募る社債で、投資家も「いいことに投資してる」とアピール出来るので、個人から大規模まで低利率でもめっちゃ人気がある。

 

そんなある日、取引先の証券マンが嬉々としてサスティナビリティリンクボンドなるものを勧めてきた。お題目は二酸化炭素排出の削減が使途、そこに何が「リンク」されているのかといえば、排出量の削減目標値を決め、一年後に達成できていなければ、投資家へ払う利回りがプラスされるという商品だという。

 

これってつまり投資家の人らは、企業の目標未達成を願うんです?と聞いてみたら「まぁ、どうなっても得ですよってことで」とのこと。しかも、さっきも言った通り往々にしてSDGsに絡む社債は利回りが低い。発行企業からすれば安いコストで調達できて、投資家はいいことしたアピールになる。善なるものにお金を使う、という観念は経済性で説明がつくもんだろうかとふと疑問が過ったりする。

 

また最近よく見る例を挙げれば、バフェットさんみたいな富豪が節税対策で納税を十分にしていない、と批判されるけれども、本人からしたら否定もせず「納税するより、得られた資産で効率的な慈善団体に寄付する方が多くを救える」という主張を展開したりしているわけで。格差是正ってなんだったっけとも思う。

 

まぁちょっとした例を見てきた通り、今、使われる言葉だけは延々といいほうに向かっている。冒頭からイジッているSDGsだけでなくWellbeingなんかもそう。各国の企業を中心に、スローガンとして「善」なる方向にひたすら進みたいのは分かるのだけれど、その中身について、本当にそうなの?と検証を始めると足が止まるんじゃなかろうか。

 

足が止まるだけならいいものの、恐らく一斉に「SDGsを進めよう」とすると、それぞれに利害が相反することも出てくる。貧困をなくすことと不平等を是正すること、全員の都市生活の享受と気候変動リスクへの対策など、いくつか点と点を眺めてみても相性が悪そうな項目同士の存在が浮かんでくる。Wellbeingも同様に、誰かの幸せが皆の幸福だとは限らない。

 

これまで「より良き地球」だったり「個々人の幸福」は宗教が受け持ってきた分野だ。本来教義をベースにしないと具体的な話に進めないような事を今、個人ベース、言葉ベースで進めようとしているように見える。だからこそ、観念の対象たる「言葉」が極めて複雑化、多義化するのも無理はない。神やダルマなしで「善」を説こうとするのは、やはり人間には難しい所作なんだと思う。

 

そもそも宗教を示す「reilsion」語源はラテン語の「religio」とのことだが、その語自体が非常に多義的だとかどっかで読んだ気がする。そうした標語群の頻出は、ある意味で「善」とは何か、その根源を考え出す原点回帰を今、無意識下に人類規模で行おうとしている証左のかもしれないとか。大雨でやることもないと、誇大妄想を捗らせるよりほかにすることもなく。

 

 

最後の方はあまり何を言いたいのか分からなくなっていたところも否めないけれど、言葉に背負わせる概念がだんだん重くなってきて、そうした標語を会話で使ってみても「一体俺は何について言及しているんだっけ」ということが、仕事でも増えてきたので書いてみた次第。

 

何を言っても、意味が言葉に吸い込まれていく感じ。前回書いたようなネット上で言葉を吐く陳腐さに繋がってるのかもしれないなと。ふと、その違和感を残してみたかったのでこんな文章になりました。また、気が向いたら更新します。

 

 

 

いまネットに文字を書くこととは

小島アジコ先生が「はてなから人がいなくなってる、というかネットで「はてな」って見なくなったよね」というタイトルの記事を上げられていた。

orangestar.hatenadiary.jp

その通りだと思う。今日は特段何があったわけでもないけれど、ふと2021年というこの時代においてネットで文章を残すことについて、考えてみようと思った。

 

 

ブログって一度、更新が止まると見事に書き出せなくなるもので。前回3月はエヴァの完結という大きなお題目があって、感想などをダラダラと書けたのだけれど、こう日常で続けてみるかというのがまた難しい。それにしても、いよいよ個人で淡々とブログをやる理由ってのも本当に薄くなってきたなと思う。

 

何故かって、ネットで流れる情報で140字以上の文章なんてわざわざ読まんしょ。という話だ。ゲーム配信にとどまらず、個人の意思発信自体、こんな長ったらしい文字よりも、瞬時に伝わる音声だったり映像というのが主流の時代になってしまった。まぁ、いずれはそうなるだろうなと感じていた以上にその推移は早かったように思う。

 

そうなると、うんうん言いながら文字を生み出し続けるよりも、ハローYouTubeなんて視聴者に語り掛けつつ、自分のやりたいことで生きていった方が見る人にも伝わるし、諸々コスパもいい気がする。(動画編集とか大変なのも理解しているので僕には難しいと思う)こんな事を言っているうちに、いよいよTwitterの140字を吐き出すことすら面倒になってきていたりしている。

 

このブログも数年前までは時事ネタ社会ネタ、ライブやイベントレポまで好き勝手書き綴りまくった結果、その頻度が月に5本ペースを保っていた時期もあるというのだから自分ながらに驚く。絶対に今は無理だ。このモチベーションの変化は一体なんなのか。これが歳に伴う意欲低下では、とか安易に言うと上の世代からめちゃくちゃお叱りを受けるので、また違う理由を考えねばならない。

 

以下、僕が勝手に考えているぼんやりとした意見なので、適当に残してみたいのだけれど。今「ネット」で文章として意見や意思を残すことは、何を書いてもとても陳腐な感じがする。この陳腐な感じこそ、ブログという文化自体が不要になってきた根本的な原因だと思う。陳腐化の理由は二つあると思うので好き勝手書いてみる。

 

まず一つ、露出と情報強度の比例関係だ。ネットはいわゆるメディアの一つだ。誰かに何か情報を届けるための枠組みである。さっきも書いた通り、扱えるデータの容量も格段に増えたことで音声や動画といった配信手段が拡充して、ミニブログと呼ばれたTwitterですら今では画像付き、動画付きの方が主流だろう。

 

つまり人の表情や声という直接的な個人情報を晒しながら情報発信をすることが主流になったわけだ。先日も著名YouTuberらの自粛無視パーティが週刊誌ですっぱ抜かれるなど(誰一人知らず凹んだけど)配信者には社会的リスクが伴う。しかしながら、そうしたリスクを背負いながらでも情報を発信することは、情報の信頼度や影響度、つまり強度を増すのに役立つ。

 

最近、中年世代がふとYoutubeを見て突然陰謀論を信じ込んだり、極右化するというのが社会問題になっているらしいけれど、その要因の一つがこれなんじゃないかと思っている。今まで書籍や新聞でしか得られないと思っていた尖った情報が顔出しメディアで垂れ流されている。情報提供者の顔が見えると、案外信じてしまったりする。これが情報強度の差だ。

 

ネット上に文章のみで強い主張をしたところで、ここまで露出がスタンダードになった今、文字には自然と匿名性が付随する。そうすると文字で表す、ということ自体が陳腐になってしまうというのが今の現状なんじゃないか。逆に増田の投稿などがたまに盛り上るけれど、あれは自白や独白に近い。情報発信とも違うジャンルなので、匿名性とは異なるベクトルで情報を補強するんじゃないかと思う。

 

そして、もう一つの理由。ネットにおけるというより社会全般における「バーリトゥード」な風潮だ。リベラルという言葉が機能しているのかもわからないのだけれど、今はどんな主張であろうと「多様性」が守ってくれる建前が存在している。どんな人でも「取り残されることは」許されないのだ。

 

例えば、ここ数年でLGBTを掲げることの意味合いは変化しているし、その議論を行う角度も「多様性は確保されるべき」というのがスタンダードになる。また引き合いに出すべきではないかもしれないけれど、NHKをぶっ壊すなんて名前を掲げた団体も政治活動を積極的に行い、ネット世論から賛否を同時に引き起こしている。昭和には多分あり得ない出来事だろう。

 

様々なものがネット世論に晒され、批判も肯定も「みんな違って、みんないい。」存在にまで昇華される。そして、ここ数年では新型コロナが旧態依然とした考え方すべてに疑問を投げつける。「今の常識を疑え」「昭和を完全に終わらせろ」という風潮が完全に支配的だ。つまるところ「なんでもあり」なのだ。

 

そして、こんなところ、はてななんかで延々文章を書きなぐるような人間は、社会に対して何らかの恨みつらみを抱えたような捻くれた人間か、人間には無限の可能性があると信じている意識高めな方が多い。だって、仕事場でふと同僚に10年近くブログを続けていますなんて言ったら、確実に何か過激な思想でもお持ちで?という目が向けられるだろう。そしてそれはあながち間違いでなかったりする。

 

時代はスマートになって、正義と悪の二軸なんてものはないという論調が一般論になっている。世の中がなんでもありとなってしまえば、いくら尖った発想を持とうとしても、すべては陳腐の海に飲み込まれる。90年代遺恨しか残さなかったエヴァだって、監督含めたキャラ全員の精神分析の末、大団円を迎えたのだ。こうしたある意味で優しい世界も、ネットにおいて個人が文章を残す意味を死滅させる一因になっているように思ったりするわけで。

 

 

と、文章を書かなくなった理由を文章にしてみたのだけれど。

 

多分、こんな場末のブログで、これまでのように肩肘に力入れて「社会の問題」チックな文章を書こうとすると、空振りして余計に虚無に放り投げられる気がする。そんな意思自体、成立しないのだと思う。

 

だからこそ、簡単に。ふと、思ったことでも、こんな感じでぼやいていければと思うのだけれど。何とか、続けられるタイミングでは続けてみたいものです。

 

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想

思い付きでしばらくTwitterから離れることにしてみた。12年間ほぼ毎日つぶやいていた中毒患者がそう簡単に離れられるわけないと半ば諦め半分だったのだけれど、気づけばまぁ1カ月以上が経っていた。近況としては、ウマ娘、マジで面白い。ゴルシかわいい。

 

離れた理由はいくつかあれど、その一つに、そろそろエヴァの最終章が公開するから。というものもあった。やはりここまで風呂敷を広げてきた作品なのだから、何一つ情報を事前に入れることなく対峙してみたかった。

 

95年のテレビ放映当時から見ていたのかといえば、そうではなく新劇場版が公開になるあたり、友人から「お前は絶対ハマるはず」と説き伏せられ、TV版と旧劇場版を一気に見た結果、案の定ハマった。テレ東が映らないからと山の山頂まで上って、アンテナ立てて最終回を見たという逸話を残す強者からすれば、にわかもにわかである。

 

それにしても、この四半世紀の間。登場人物が何を言っているのかわからないままストーリーが進み、分かるような、分からんような理由によって、登場人物が死に、シンジ君が病んだりしながら、人類は滅ぶということを繰り返したエヴァンゲリオンの世界観がようやくここで決着を見たわけだ。

 

大枠の感情から言えば面白かった。見て損はない。というか、エヴァ好きなら見ないのはどうかと思う。その上でなんていうか、感じられたのは壮大な治療行為という印象。そして物語への納得感、ちょっとしたガッカリ感、また旧劇以上に辛辣なラスト、というイメージを抱くに至る。そんなことについて飲み屋でも語れない時勢であり、フラストレーションがたまりすぎたので、身勝手に滔々と書いていきたい。いわばガス抜きだ。

 

以下、ネタバレ余裕のため、読むかはお任せする。特段、楽しい話でもない。





ということで以下、雑感。やはり今回、特色として挙げるべきなのは、アスカがシンジに言い放つ「メンタル強度が低すぎる」という罵倒や、北上ミドリ(ピンク髪のひと)がゲンドウの立てた人類補完計画に対して吐き捨てる「ただのエゴじゃん」という言葉だったり、エヴァにおいてこれまでタブーだったような「メンタルヘルス」に言及するような単語がチラホラ出てきたことにある。

 

作中ではミサトさんがシンジ君をそそのかしたことで発生したニアサードインパクトから14年が過ぎている設定なわけだけれど、現実世界も思えば『破』が公開された2009年から12年が過ぎている。震災もあり、コロナもあって、世の中はようやく本格的に昭和的価値観からの脱出を試みている。

 

そんな中、今回公開された最終章『コーダ』では、これまで「なんか病んでる人たち」というレベルだったやりとりから、やっと各登場人物の精神分析を行う段階にまでやってきたように映った。例えば、これまではハリネズミのジレンマよろしく「環境と内省」の対峙を延々繰り返すだけだったシンジに対して、周囲が同情する姿勢を示したり、同時にミサトの苦しみをシンジが理解しだすというような相互性が生じている。

 

更には本作の大きなテーマであるエディプスコンプレックスに真正面から対峙する王道展開に及び、むしろ父であるゲンドウの弱さを息子が開示させている。その過程は「なんか病んでる人たち」というだけだった群像に、一つ一つ病名が与えられ、治療が試みられる様子そのものだったように感じる。

 

またセカンドインパクトやニアサードインパクト双方に対してトラウマとしての「人災」ではなく、あくまで「災害」としての側面を認め「誰かのせいではなく、むしろ生き残れたことの僥倖」を噛みしめるようなストーリーが各所に散りばめられているわけだ。

 

これまで、主人公たちを悲惨な状況下に置き、散々嬲るだけなぶっておいて、今回にきて「共感」というテーマが前面に押し出されているので「急にお前どうした」と困惑する場面は多かったものの、それぞれがそれぞれの傷をさらけ出し、不足を自覚、そして納得のうちに次へと進む明確な前進が描かれている。

 

もちろん、ひとりのファンとしてそうした病理が解決される「トゥルーエンド」的結末を歓迎しているわけだが、同時になんだかエヴァの二次創作を見ている気持にもなった。特に饒舌に、つまびらかに自らの過去を語るゲンドウのシーンは「答え合わせなど必要ない」と総監督自ら無駄な議論に終止符を打つ姿勢にも感じられる。ちょっとサービス過剰な感もあり、正直言えば、これに抱いた感情が冒頭に書いた「納得感と少しばかりのガッカリ感」、要するに、エヴァがここにきて、ちゃんとしたロボアニメと化したような喪失感だ。

 

今回の『コーダ』のストーリーを踏まえると、これまでのエヴァというストーリー性質がより明らかになってくる。ゲンドウ始め、冬月、ミサト、カヲル、アスカ、レイ、など、結局皆、大人になりきれない大人たちだったのだ。そして、そんな土壌で形而上生物学という謎学問の延長で科学と神話が融合、人類補完という壮大な逃避計画を行うに至ったという物語こそ26話で完結するエヴァの本筋だろう。

 

そんな計画を生み出したゲンドウが自らの動機を鮮明に語れば語るほどに、この壮大な神話は、実は小さなエゴの生み出した矮小な物語だったという結論に落ち着いてしまう。ストーリーの整合性や腑に落ちる感情や、物語としての面白さとは別に、なんだか抱いてしまう少しばかりのガッカリ感はそういう所にある。

 

そもそも『Q』の「ネルフvsヴィレ」という構図によって、ようやく我々はゲンドウの人類補完計画が「悪」であると認知したわけだが、エヴァが本来描きたかったものは、ゲンドウの無垢さだったような気もする。シンジ以上に純粋な感情で、人との関わりを拒絶し、すべて魂が同化した世界を求めたゲンドウ。そこでは、精神的に満たされる環境が全てであり、皆が同一に幸福であることが保障される。

 

対して、ミサトを始めとしたヴィレは生きる者の知恵を信じるという王道の対抗軸。勿論、世の中で生きる上で、ヴィレが示すように「生きて知恵を重ね、原罪を乗り越えていく」という姿勢はそれ以上ない結論だ。我々人類が身体を持って生き続けるのであれば、ブレることなき基本方針であると言える。

 

テレビ版と旧劇場版は基本的に観点の差であると思っている。テレビ版の最終2話はシンジの精神世界からの補完計画後を描き、そして旧劇場版では外からみた補完計画の様相を見ることが出来る。旧劇場版ではなんとか、シンジとアスカが一命を取りとめるラストにはなるものの、その先は恐らくない。

 

新劇場版では、そのループでありトゥルーエンド版と言えるだろう。ニアサードインパクトでシンジが綾波を救うという選択肢をとったことにより、ネルフおよび住民の一部壊滅は避けられたというルートだ。つまり生き残った人間がいる時点で、人類補完は悪の所業になり果てる。

 

ゲンドウは結局のところ、典型的社会不適合なサイコパスであり、妻への愛がすべてとなり果てたマッドサイエンティストだったわけだ。息子は、そんな父との関係性に悩むひとりの少年であり、悲しくも血縁から父の罪を背負ってしまったに過ぎない。

 

以前ならシンジは大人になることなく、周囲の凄惨な環境に狂いながら精神世界で救われるか、えげつない現実を晒されるかの二択に至ることになっていた。こうしたテレビ版および旧劇場版での「救われなさ」は、ある意味においてゲンドウが救済に至ったという裏返しだ。そうした意味でエヴァの「救われなさ」に、救われていた視聴者もいたのではないかと邪推する。

 

そう考えると、今回『コーダ』のラストが個人的には旧劇場版以上に辛辣なものになっているのではないかとも思えてくる。旧劇場版の終わりでは、劇場の観客を思わせる実写映像を映し出し、声優をそのままコスプレ姿で画面に投影し、現実と虚構を曖昧にさせるような演出をした後、シンジにアスカが言い放つ「気持ち悪い」という拒絶をもって幕をおろす。

 

エヴァ視聴者のようなめんどくさいオタクに対する、明確な挑発行為だと僕は思った。エヴァで描かれる大人になりきれない子供のままの精神性。それはそのまま、エヴァを愛好しているようなオタクどもの精神性とマッチする。そんな奴らは気持ち悪いだけ。

 

しかしながら、そこにあるのは恐らく同族嫌悪だ。そんな挑発すら自らの一部に対する嫌悪に端を発しているような、非常に子供っぽい手段に感じられた。悪口であっても同じ土俵であれば、残酷さはそこまで生じない。

 

対して今回のラスト。シンジはゲンドウを打ち破り、子供の姿から大人になる。するとまさかCVも緒方恵美から神木隆之介にかわり、同一人物とは思えない成長を果たす。つまるところ、あのように承認を求め、逃避を続けていたシンジですらとうとう大人になってしまった。そこからは「おいおい、もう承認とか自己愛とか、そんなこと言ってんなよ」というように、我々へエヴァからの卒業を促す姿勢にも感じる。

 

最後、シンジの相手に選ばれた相手がマリなのも象徴的である。ユイの後輩学者だったマリの残したクローンという解釈を個人的に採用しているが、つまるところ「近親相姦」的関係からも完全に離脱をした恋愛対象をも見つけている。親の承認から離れた自分で生きる自覚、という意味での大人と同時に、母の愛からも自立を果たし、自らの家庭を築く覚悟を得たようにも見える。

 

四半世紀続いた大人になれない大人と、大人になれない子供の話は、エディプスコンプレックスの打破により完全に終結したと言える。しかも、拗らせた解釈をすれば神木隆之介を起用するという点に恣意を感じたりもする。壮大なタイムリープを描き、世間的にも大ヒットしたボーイミーツガール大作『君の名は。』を想起させることで、完全にシンジが我々ウジウジしたオタクのもとから旅立ち、完全に別人となってしまったという寂寥感すら催す。もう、承認ひとつで悩み続ける中学生はどこにもいないのだ。

 

辛辣さとは書いたが、あくまでも大人になるという過程を示したに過ぎない。ただ、この期間続いたエヴァという根暗作品に、ここまで明確に突きつけられるとやはりショックが大きい。どこかでエヴァが終わらないという事実が、子供っぽさを脱出できない我々の精神を支えていた部分もあったのでは、と完結後にふと感じる。

 

そして、エヴァが終わり、シンジが大人になったその背景には震災から10年、そして、コロナを迎え2年という災難が続くこの国の日々が過る。「あの」シンジ君すら見事に大人になり、縁する人々の精神分析までこなし、創世を成し遂げたのである。

 

先に書いた昭和からの脱出という意味においても、今この時代のこの国こそがエディプスコンプレックスを抱えているように思える。戦後成長という父たる成功体験を殺さねばならぬ。日々のニュースを見れば、過去の栄光を叩くような記事がいくらでも目につく。まさに今社会そのものが葛藤をしている最中、昭和を引きずる90年代の象徴が幕を閉じたことは大きな転換点なのかもしれない。

 

とまぁ、好き勝手書き散らしたわけだが、エヴァが終わったのだ。こんな面倒な文章が生み出されないような展開だったにもかかわらず、無視してしまいなんだか申し訳ない気持ちにもなっている。

 

もちろん、最終章『コーダ』も映画としての出来は素晴らしく、見るべき映画であり面白い。ただ、やはりエヴァである限り、我々としては要らぬことを言いたくなるし、終わってしまうという儚さを受け入れることには、少し時間がかかるような気もしている。

 

なんていうか、社会と絡めたりするのも確実にウザいのだろうけれど、何年待ったのかもわからないのだから、好きなこと言わせてほしいという感じだ。早く、飲みの席で同じく本作を見た人と感想をぶちまけたい所存である。無駄に長くてすみません。

 

混迷する世の中だからこそ忘れたくない竜騎士07氏の言葉とひぐらしの思想

先日の記事がじんわり伸びてくれたようです。記事冒頭に過去の同人誌既刊アーカイブ更新の件なんかものせたおかげで、少し電子版の通販も伸びた模様。いやはや、ほんとありがたいもんです。これがその前回の記事でござます。

 

wagahaji.hatenablog.com

 

と、前段はそこそこにして。今回は最近の新聞ニュースの話題と、一部で話題をかっさらっている新作『ひぐらし』を視聴が重なってしまい。忘れていた点と点が繋がってしまったので淡々と書いてみたい。ちょっと話が飛んだりするけど、ちゃんと(自分の中では)繋がっているので、悪天候で暇な人は読んでみて欲しい。

 

・「民主主義の危機」

日々オタク活動に邁進し、ここに適当なことを書き続けていても、気づけば30歳を超えて数年が経った。学生時代の自分が聞いたら「まさか」と言うだろうが、社会の圧力に負け、こんなオタク野郎でも日経新聞を毎朝読んで仕事に備えたりしている。世も末である。

 

ただ新聞を読んでいると「世も末」なのは、どうも局地的な話ではないらしい。昨年度あたりからその日経新聞紙面には「民主主義の危機」といった言葉がよくフューチャーされるようになった。1月20日、日経に英フィナンシャルタイムズの翻訳版コラムが掲載された。タイトルは「民主主義を破壊する陰謀論 抑え込み急務に」。

 

いやはや、なんともすげえ時代である。記事によれば今リテラシー教育とネット規制こそが急務とのこと。確かにフェイクニュースやら陰謀論の拡散、各国知識人によるSNSでの非難合戦などスマホ画面の中では日常茶飯事と化している。新型コロナウイルスなんていう見えない世界的危機も、その勢いを加速させている。新世紀明けたばかりというのに、本当に世も末ぽい。

 

一昔前までネット上の陰謀論といえば、軍事板やらオカルト板にいる根暗なヤツが「世界の真実を見つけてしまった」とか騒ぎ立てるサブカル的事案が中心だったような気がする。ただ、そんな陰謀を望む声は世界的にどんどんメジャー化していて、先日の米国の議事堂占拠など最たる例で「大統領選の結果こそ陰謀だ!」なんて話になれば冗談では済まないし、現に冗談で済んでない。

  

案外、世の中のことを気にする小市民の一人である僕は、そんな身の丈に合わない憂いを抱きつつ。完全に話は飛ぶのだけれど、もうひとつのトピックス『ひぐらしのなく頃に 業』の視聴を通して、こんな記事を書き出してしまったのである。

 

・「ひぐらし」という作品の本懐

前にもこのブログで紹介したが、竜騎士07氏による同人ミステリノベルを原作としたシリーズ『ひぐらしのなく頃に』の新作アニメ『ひぐらしのなく頃に 業』が2021年1月現在各局で放映されている。

 

リメイクではなく完全新作と謳っている通り、雛見沢症候群の説明もなく後半クールに突入。先日は(16話)幼女ヒロインの腹部が延々黒く規制されたまま10分以上経過するという荒業を披露。訓練されていない御仁には結構キツイ仕様が話題になっている。

 

同人時代から『ひぐらし』を寝食忘れてプレイしていた身として、今回も「うへえ」とか言いながら耐え忍んでいたわけだけれど、ふと同時に。2007年のアニメ化の際に起きた事を思い出してしまった。

 

2007年9月。回答編のアニメが放映されていた最中、各局は突如アニメ放送を休止する措置をとる。公式に理由は述べられていないが、当時16歳だった少女が父親を殺害した事件が起き、現場状況に本作を想起させるものがあった、ということが影響したという話だ。

 

その際、関西ローカルの番組が事件と関連付け『ひぐらし』を「少女が斧で敵を殺していくゲーム」と紹介。本作を完全に誤解させる報道であり、ネットでも話題に。僕も憤っていたのを覚えている。その騒動が少し収まってから、作者である竜騎士07氏の「制作日記」にコメントが上がった。

 

かいつまんで書けば、くだんの件により体調を崩していたこと、ファンからのメッセージにより回復基調にあること、そしてこの『ひぐらしのなく頃に』という作品が示す本懐についての話だった。下記は実際に今でも公開されている竜騎士07氏の「制作日記」のページから2007年9月23日の一部を抜粋したものである。

(省略)

ひぐらし』はもちろんエンターテイメントです。ですが、劇中ではくど過ぎるぐらいに、ある一連のメッセージを重ね重ね繰り返しています。その中でも、もっともシンプルにして、一番最初のメッセージがこれです。

 

・ひとりで悩みこんで殺人しかないと考え至るのは、惨劇(バッドエンド)の近道である。

 

そして、それを打ち破るもっともシンプルな最初の方法として物語が提示したのが、

 

・ひとりで悩んだら、身近な人(友人・家族)に相談しよう!
ということです。

(省略)

ひぐらし』の世界では、ひとりで膝を抱えて至った短絡的な発想でハッピーエンドになれることは絶対にありません。それこそが、「短絡的な犯行」に対する明白な否定であるつもりでいます。

(省略)

正しい方法で、大勢に相談し、力を合わせ、法律やルールに則って解決する。その過程を愚直に描いたのが「皆殺し編」です。

http://07th-expansion.net/kyu/Cgi/clip/clip.cgi

 

大学生だった僕はこれを読んだ。読んで大きな感銘を受けたことを、今の今まですっかり忘れてしまっていた。僕がどれほどに影響を受けたのかと言えば、その後、僕の卒業論文は「ネットと民主主義の関わりについて」と銘打ったのだが、実際にはこの内容が着想のきっかけだった。

 

(中間発表までは順調だったが、就活の最中にメンタルを完全に折ってしまい。そのため教授から最終提出は「出世払い」で許され、未完にて終わってしまった)

 

政治とは手続きである。個人の利害という小さな力を、梃子のように大きな力に変えて政策化していく為の手段だ。中間団体や利益団体などを介し、民意を反映させる民主主義の基本とも言える過程はまさに『ひぐらし』、特に「皆殺し編」の中に込められている。

 

僕のやりたかった研究を一言で言うなら、昭和58年の雛見沢になかったインターネットという仕組みがあったら、というイフだ。圭一は、レナたちはどう繋がり、どう振舞ったのだろうか。そんな下らないオタクの妄想からスタートしており、もはや二次創作だったのかもしれないと今では思う。要は冒頭の日経記事の話も含めて、セットでそんなことを思い出してしまったわけである。

 

・この国で重要なことを教えてくれるのはいつもエンタメだったりする 

先に引用した竜騎士07氏の書いた『ひぐらし』における本懐は、シンプルながら冒頭で掲げた日経新聞記事が不安視する現在の社会において、なお光り続けるものだと僕は思う。「正しい方法で、大勢に相談し、力を合わせ、法律やルールに則って解決する。」ネットが拡充し、ローカルの意味が相対的に薄れる中だからこそ、安易な陰謀論に流されないためにも持つべき基本方針ではないかと感じる。

 

最近様々なネットの情報やニュースなどを眺めていると、その混迷の度合いは日々増しているように思える。欧米などのように規範となる宗教を持っていない我々の文化では、明確な対立は生まれにくいが、反面様々な問題に自分たちで考えねばならないというハンデを負う。危機的状況にはとかく耐える。これがこの国における美徳となるのは、ある意味で「為すべきことがない」ことの裏返しでもある。

 

そう言う僕も緊急事態宣言でやることもなく、家で漫画やら配信アニメに耽っているわけだが。そんな中で案外、我々にとってそうした数々の難問に対する答えへのアプローチはアニメ作品をはじめとするエンタメ作品に包括されているのはないかと、改めて感じ、そしてこれを書き出している次第だ。

 

戦後から、戦争に対する反省や葛藤の過程を克明に記してきた『ガンダム』を挙げるまでもなく、『イデオン』『ザンボット3』『エヴァ』『パトレイバー』『グレンラガン』やらなんやら数々のロボアニメから、人生たる『クラナド』文学たる『Fate』などなど所謂萌え系アニメに至るまで。我々は色々な物語からその生きる意味を貰ってきた。

 

ひぐらし』のメッセージ性が、民主主義の危機を迎えた今の世にマッチしていると僕は感じ、こんな文字を吐き出しているわけだが、そのように数々の物語を食らい尽くしてきたオタクらが得た人生観は、思った以上に、様々な問題を抱えるこの国の状況下において捨てたものではないんじゃないか。とか、そんな仰々しい妄想に行き着いてしまうのは、単純に暇を持て余してしまった結果なのだろう。

 

とまぁ、あまり纏まらずに好き勝手のたまってしまったわけだが。以上で見てきた『ひぐらし』について。各所で見る「民主主義の危機」に対しても耐えうる考え方を掲げる稀有であり貴重な作品だと僕は思っている。確かにグロや悲壮感あふれる描写など癖は強い。それ故に、一途なメッセージは強く胸に響く。

 

現在放映中の新作も、いよいよ一番暗い最深部は超えたのではないだろうか・・・佳境に向けて毎週怯えつつも楽しみにしたい。明日からの仕事から目を背けているうちに長文になってしまったオタクの独り言でした。

 

ネットワークビジネスやらにハマる心理についての内省と同人活動の効能

先日、過去の同人誌既刊をまとめたアーカイブサイト「わがはじの!」を更新いたしました。ぜひ、覗いてみてくださいませ。同人活動終了から1年になったので、そちらの感慨についても記事にしたいものです。

 

と宣伝はそこらで。珍しく、ちょっと時事ネタに触れようと思ったのはこの件。

note.com

映画館でよく予告を見たもんだから、話として実際どうなんかな面白いんかな。と気になっていたところに、これ。この記事において既に大まかな概要やら、注意喚起についてよく纏まっているので、僕が改めて目新しく書くこともないのだけれど。

 

ただ、過去の自分の姿を振り返るに「こんなんに引っかかるとかバカじゃねえのwwww」「マルチじゃんwwww西野終わってるwww」とか下らないネットニュースとして流せなかったので、文字を打ち出している次第。

 

プペル云々は置いておいて、よくよく思うとこの「意識高い系に憧れる気持ち」あるいは「何者にかになりたい」という羨望や憧憬。引用の倉本さん同様、僕もなにひとつ他人を笑えなかった。

 

タイトルの通り、自分も環境やタイミングさえ合えば、こういう所に足を踏み入れたんじゃないのかという自戒がある。というか振り返ったら結構危なかったという過去の話。そして翻って、何故僕は踏み入れずに済んだのかという点について簡単に残してみたい、という記事です。

 

・何者にかにならなければならない焦燥感

やはり想像の通り。不景気という社会情勢は、若者をネットワークビジネスや怪しい商法、ひいては安易なカルトに向かわせる。自分自身の就職活動当時を振り返る。過去にも書いた通り2008年のリーマンショック後、内定率最低を記録した年だった。

 

僕自身も内定がなかなか貰えず苦戦をしていた。単位は取り終えていたので、企業の説明会参加だけを繰り返す日々。自分は前に進んでいるのか、停滞しているのか、はたまた後退しているのか。その座標感覚すら失うとやはり人間焦り狂い出すものである。年齢が若ければその焦りは一層加速する。そして当時の僕は、やはりというかネットに煽られ、採用試験の合間をみていくつかベンチャー企業のワークショップ、セミナーなるものに顔を出すようになっていた。

 

「企業から見放される自分を変えたい」「なんの肩書も持てずにいる自分から抜け出したい」この焦燥感は、今では痛々しいと笑えるものの、当事者になってしまうと切実なものである。そして、上記記事の元ネタ自虐noteでも頻出する言葉そのものだ。そして、そうした場所に参加しているのは、想像の通り「リク〇ート卒業生」とか「某代理店から独立志望」とか、あと加えてそれに群がるなんでもない人々だった。完全にまんまで笑えてくる。

 

幸いなことに、僕が参加したいくつかの会はただの企業PRを含んだ純然たるワークショップやセミナーだったので、金銭問題も何事もなく今に至っている。ただそこで、いかにもな商材でも売り出されていたら、僕はそれに手を出さずにいられただろうか。周囲が「挑戦」とか言い出していたら。リスクを取らねば自分は変えられないと煽られていたら。今回の件を単純に指さして笑っていられない感情は、そんなところを根源としている。

 

・何者にもならなくても、何かは作れる

その後、何とか就職を果たし、そうしたワークショップへの参加は落ち着いたものの、依然20代前半は「何者にかにならないといけない症候群」が延焼していた。就活~社会に出てすぐというのは意識高い単語が特にしみ込みやすい脳みそに仕上がっている。志望通りとは言えない企業へ入った僕は、会社に埋もれるなんてまっぴら、何か大きなことをしてやろうと息巻いていたわけだ。

(まぁ、恥を忍んで言えば今も燻ってはいる。もうこれは仕方のないことだと思う。)

 

当時留年して内定を得たわけだが、1年目の就活で僕は出版社ばかり受けた。編集者になりたいという安易な願望を抱えて仕事を探した。上記の通り苦戦、結局持たざる者だったのだなと自信を完全に失い、落胆した。

 

失意の中、始まった社会人生活。憂さ晴らしに仕事帰り日々秋葉原に通っていると、次第に行きつけの飲み屋ができた。そこで色んな人と出会う。その中には同人誌を作ってたり、自分でもの作りをしてるするおっさんらもいた。話を聞くうち、実際編集でも何でもないおっさんが、実に興味深い本やモノを作っている。素人のはずが、めちゃくちゃ面白い企画や技術、知識を持っていたりする。

 

それらおっさんらの話を聞き、作られたモノを見て、ようやく僕はそこで気づいたのだった。手を動かしさえすれば、何者でもなくとも何かしらは作れる。就活で挫折しようと、誰からも振り向かれなかろうと、結果はモノとして残る。本当に単純だし、言葉で書いてしまうと陳腐すぎる。

 

ただ、立場や地位に目がいっているとまるで気づけないことでもある。すでにコミケにも参加して同人誌という文化には嫌というほど触れていたことも幸いし、編集者にはなれなかったならば、自分で雑誌を作ればいい。そのDIYな発想に至れたことは「何者」の呪縛から少し解き放たれた原因になったと今では思う。

 

・市井の人にも偉大な略歴がある

どうしても若い頃というのは「社会的にすごい人」とか「地位や名誉がある人」に靡きたくなる気持ち、あるいは反発する気持ちが強い。まだ自分自身に対する自信あるいは諦観が定まっていない為、憧れる意味でも、また反発する意味でも「何者」にかならなければ、という傾向も同時に認められる。そして、ありがちな話として上を見続けるあまり、身近な存在を見下しがちになったりする。

 

そんな中で、僕にとって同人活動は「何者か」という問い以上に自分で手を動かすことを最優先する大切さを教えてくれた。更に、制作過程の中で学んだことがある。多くの尖った人と対談をさせて頂いたわけだが、どの対話で得られた言葉も、その人が人生を生きてきた跡そのものだったと思う。結局、誰であろうと、何もしてなさそうでも、必死で生きた人間は何者かになっている。

 

話をじっくり聞くことは、それを引き出す効能がある。あまり書くべきことでもないけれど、この同人誌を作る過程の中で拗れた父親との関係性も回復した。稼ぎも甲斐性もない人間だと蔑んでいたけれども、やはり彼も何者かだった。問題は、それを認識できるこちらの度量があるかどうかだった。

 

そして何より、自分自身に対してそう捉えることが一番難しい。自分が何者かになっているのかなんて分からないからこそ、人は周囲の評価を気にするし、占いに一喜一憂したり、そして「成長」を確約してくれるネットワークビジネスやプペルに手を出してしまう。周囲の目線なく自信を持つことは本当に難事業だ。SNSでいくついいね!を得られれば「何者」なのか保証してくれる人もいない。

 

だからこそ、身近な存在に「何者」かを見出すことが一番の近道なのかもしれないと僕は思う。ネットサロンの天井人に憧れるのも悪くはない。ただ、目の前の友人やら家族にまずリスペクトを抱くことが、一番安価で手軽で、的確な方法ではないかと感じた次第。

 

 

と、長々好き勝手書いてみたわけだが、どんどん文章が説教くさくなってきている気がする・・・ここで飲み始めた養命酒のせいかもしれない。ほんとあまり歳はとりたくないものです。ということで、根暗おじさんの日曜夜の独り言でした。

 

 

新年を『月姫』リメイク発売決定と共に迎えられる幸せをだらだら書くだけ

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Fate展で唯一買ったグッズです。


気づけば開けてしまいました2021年。令和も3年に突入。あけましておめでとうございます。

 

昨年を思い返せば、各所で暗いニュースに振り回された1年だった気がする。個人的にも人生の張りであるコミケは消え、生活の潤滑油である推しのライブは中止、友人と会うこともできず、悶々とした日々ばかりを過ごした感。SNS恒例、年末年始の1年振り返りツイート大会を覗いても「色々ありましたが」「大変な1年になりました」という枕詞から始まるものばかりが目についてしまう。

 

人によっては悔しい感情や厳しい状況を引きずったまま年末年始を迎え、今年もそんな情勢は続きそうな気配が漂う・・・ただそんな中、令和3年に向け一抹の光が我々に降り注いだ。

 

月姫』リメイク発売の確定情報。

www.famitsu.com

 

このブログやTwitterでもさんざん、血の涙を流しながら10年に渡りネタにし続けてきた「月姫リメイク」という呪詛。呪詛というのもあながち比喩でもなく、言ってしまえばリメイク発表から昨日の発売決定告知までの間は、我々オタクは生きて新『月姫』を拝むことができるのかという疑問、そして本当に待ち続けるべきなのかという葛藤の日々だったと言っても過言ではない。

 

サグラダファミリアより先に完成することはないだろう」「3代目奈須きのこの時代まで待たねばならない」などネット上で様々な憶測が流れていたものの、とうとうこの年末。我々のマーブル(幻想)が確実にファンタズム(具現化)されるという、そんな吉報が、この年末恒例となったFGO特番の最後で開示された。やったねたえちゃん。

 

特段、昔の思い出を語ったところで片腹痛いエピソードが羅列されるとは思ったものの、こんな歴史的年始にお気持ちくらい残しても罰は当たらないというもの。以前書いた記事とも繰り返しになるかもしれないが、ぼんやり回顧しながら、暇な正月、この『月姫』への高まりをネット上に書き散らしてみたという次第である。

 

・『月姫』という病理の本質

思えば『月姫』に触れたのは自分が高校生だった頃。確か2004~2005年頃で、すでに同人ゲームとして発売された『月姫』が熱狂的ファンを生み出し、商業メーカー転向後第一作の『Fate/Stay night』も爆発的な売れ行きで広まっていた時分だった。

 

当時、精一杯の学力と実家のガチな貧しさによって得た奨学金をすべてはたいて、ノートPCを購入した。もちろん親には「これからの時代はネットで知見を広めるべき」というプレゼンを建前に、本音はエロゲをやりたいという一途で真剣な理由だけで押し切った次第である。

 

そうなると、オタクから必然的に「Fateってゲームが面白い」という情報が届く。圧倒的な評判はすでに伝え聞いていたため、素直な気持ちで購入しプレイ。まぁ書く必要もないほどハマり倒し、すべてのルート、すべてのタイガー道場を早々にコンプ。そうすると、またまた必然的に「前作の月姫も面白い」という話が。当時は『月箱』バブルが最大風速の頃で、プレミア価格数万円を余裕で超えていたため、全人脈を尽くしてなんとかした。

 

プレイした実感として、スクリプトなどシステムは『Fate』の前作かつ同人作品ということもあって、多少チープさを感じた。ただ、そのチープさ故なのか、あるいは同人作品特有の情念故なのか。『Fate』で感じた以上の「どうしようもない厨二衝動」に襲われ、こちらも寝る間も惜しんで全ルートプレイ。

 

結果「詰襟に憧れる」「急に伊達メガネをかけ始める」「道端のガードレールにやけに座る」など個人的に忘れたい思念や行動は多くなるが、本編シナリオに含まれる多幸感、切なさ、儚さ、など全ての感情を包括したような全5ヒロインのルートは圧巻の一言。『Fate』が完璧に組み上げられた中二病という概念の結晶を死ぬ気で鑑賞する行為ならば、『月姫』プレイは中二病という原子核を直接ぶつけられたような暴力的アクティビティに近い。

 

だって「最強吸血鬼を殺してしまった万物の「死」が視える主人公と、その殺された吸血鬼との恋慕」だよ?いや、もうこの40文字で分かるでしょ?簡素なあらすじだけで、もうオタクにとって致死量である。中学時代にちゃんとした中二作品を摂取できなかった僕にとって、それは受けてはならない一撃だった。

 

また、同人ゲームという不完全性も凶器となった。「ルートが与えられそうで与えられなかったモブヒロイン」が発生したのだ。それこそ「弓塚さつき」という存在。彼女は吸血鬼や能力者といったメンバーがそろうヒロインの中で唯一の一般人枠で、シナリオ途中ハプニングに巻き込まれ、吸血鬼化してしまう。当初の予定ではルートが確保されたヒロイン候補だった。

 

当初何も知らない僕は「マジかーいや、俺こういう薄幸ヒロインにめっちゃ弱いんだよな・・・」勇んで弓塚さつきをクリアしようとゲームを進める。事前のネタバレを徹底的に避けるポリシーによって悲劇が生じていた・・・ルートに入れない?なんだこれ。と根負けしてネットを調べると「ルートがない」ということを知る。質が悪いのは「制作途中までルートが存在していた」つまり、途中で廃線になったのである。だから、レールは敷かれているし、あたかもその先の終点を想起させる仕様になっている。

 

過去、エロゲをいくつかプレイする中で「トラウマ」になる事は結構あったが、これもその一つだ。推しのルートがそもそもない・・・とんでもない名作とめぐりあえたという激情と、途中で分断されたレールを眺める虚無感こそ、この『月姫』という作品を病理と変貌させた元凶である、

 

・リメイクという与えられた呪詛

数年経って、そんな病理の治療が開始される。すなわち、弓塚さつきルートを含めた『月姫』のリメイクを作るというのだ。その第一報がなされたのは2008年だった。型月情報誌『TYPE-MOON エース』創刊に掲載されたブレイキングニュースとして、当時ネットは衝撃を持ってこの報せを受けた。2008年当時、暗い内省ばかりを書き記していた僕のアナログ日記にも「やったね!!さっちんルート!!!!」とそのニュースだけ明るいテンションで記されている。今見ても痛々しい。

 

ただその際の唯一の懸念は「発売未定」という文言・・・まぁ、我々は待つ。待つしかない。そして待たされるのには慣れている。『月姫』FDの『歌月十夜』でもネタにされた弓塚さつきのルートへの言及「さつきシナリオはどんな形にしろきちんと発表する、というのがスタッフさんの総意だそうです」その言葉は、一部熱狂的なファンの心をくすぐったまま、我々ファンとタイプムーンのリメイクの待機合戦に突入した。

 

ネットでも早速『月姫』リメイク発売に関する予測が飛び交った。「1年くらいだろうか」「1年後?ありえない。タイプムーンなら3年はかかる」「3年?楽観的だな。小学1年生が卒業するくらいは待つだろうーーーーーーー」

 

ふと僕は目を瞑る。

Fate/ExtraFate/anlimited code、Fateアニメ化、Fate/zeroアニメ化、Fateアニメ化、Fate/Grand Orderサービス開始・・・・・・・・・

 

時は流れ、2020年・・・え、13年?いや流れすぎだろ、小学生卒業?高校生になってるわ。てかむしろ大学生だった当時の俺、もう社会人になって結婚してるよ?いろいろ経験して、すでに弓塚さつきの着ぐるみとか発注しちゃって色々やってるよ?大丈夫?

 

まぁ、そんな過去のことをうだうだ言っても仕方ない。とうとう我々は、毎年毎年オタクへの年賀状に「月姫まだかなー」とか書きながら、この瞬間を迎えたのである。藤丸役ただのTMオタクであるノッブ氏ではないが、やはり叫ばざるを得ない。我々はようやく勝ち取ったのだ、月姫リメイクが発売される世界線をーーーーーーーー

 

・日本の夏、『月姫』の夏

コロナがいよいよ勢いを増し、外出制限も増え、なかなか希望を持つことすら難しいこの情勢下。年末年始も飲みにも行けず、静かな年越しを強いられたわけだが。僕は、ただ一つのニュースをもって、今年を迎えられたことを心から喜んでいる。

 

自分でもあほらしいと思う。たった一つの同人ゲーム作品。高校時代のトラウマ。そんなものを13年間も待ち続けてしまったこと。そしてその発売決定にここまで心躍らせてしまっている事実。

 

我々にとって『月姫』とはなんだったのだろう。これまで見てきた通り、それはまさしく「病理」であり「呪詛」だったと思う。好きという感情は反転して、当人を縛る。忘れればいいものを、忘れられずにいる。そんなものを神妙な面持ちで有難がる神経のほうがどうかしている。

 

ただ、そんなモノ、心を焦がし、13年間もの間、待っていられる対象が他にあるのだろうか。リメイクと言うからには原作と別物だ。期待は勝手に肥大化している可能性も高い。今この歳になって、実際のシナリオを見てみたら幻滅するかもしれない。様々な憶測はあれども、我々は結局神妙な面持ちでプレイすることだろう。ついついこの夏を楽しみにしてしまう、この感情はどうしようもないのだ。

 

アルク、シエル、秋葉、翡翠琥珀、そして弓塚さつき。高校時代に遠野の屋敷を巡って味わったあの高揚感や、やるせないほどの絶望から、どのように変化しているのか、そして物語はどのように拡張されているのか。それを想像するだけで、オタクとして幸せな1年が始まる。始まってしまう。

 

ちなみにトレーラーを見る限り、これまでのメインヒロイン5人と主人公である遠野志貴のCVは確定している。ルートもあるのであろう。ただ、上記つらつらと書いてきた弓塚さつきの情報が、開示されていない。大丈夫・・・だよね?信じていいんだよね・・・。一抹の不安は残るものの、きっと大丈夫。さすがにね。

 

 

と、いや、何の話だったか。長々とりとめもなく文章を書くのはよくない。気軽に収めようと思ったらすでに4000字。原稿用紙にして10枚を超えているではないか。まぁ、最初から行く当てもなく書き出したので、こうなるのは自明の理なのだけれども。

 

とかく、13年待ったのだからせっかくの今年を楽しみましょうって話です。こんなおっさんオタの内省で波及効果があるかはわからないけれど、今まで『月姫』やったことないです!え?あれ格ゲーじゃなかったの?とかいう御仁は、ぜひプレイしてみることをお勧めします。ということで、本年もなにとぞよろしく。

お気持ちは誰かの呪詛となる

 
ちょっと短い内省レベルのお話を残しておきたい。
 
 
「お気持ち」と称される記事やつぶやきが散見される今日この頃。元ネタ、と言ってもいいのか分からないが、生前退位を検討されていた現上皇さまの「お気持ち表明」以降、それがそのままネットミームになった印象がある。ニュアンスとしては「ちょっと改まって言っておきたいこと」くらいな感じだろうか。よく見るものでは、他者批判だったり多少トゲがある内容、とかくネガティブなことを表明するときによく使われるようである
 
 
そんな中で、本日こんな感じの記事が流れてきた。(元記事は消されていたので、あえてこの文を残そうと思った次第)
 
現在の二次創作を中心とする同人文化に対する一次創作者、つまるところとある漫画家からの匿名の「お気持ち」。現在この国において、ある作品のファンは二次創作を作り、消費する・されるのが当たり前という空気。彼らは「好き」という善意をもとにしているが故に無垢であり、自身の無謬性を信じ込んでいる。二次創作は本当にそんな良いものなのか。自分はそうした空気自体が嫌であり、作品を好きだから弄ってしかるべきという文化など一次創作者に対する冒とくではないのかー
 
 
これがかなり拡散された模様で、各所で議論の的となっていたようだ。やれ特定やら犯人捜しの様相となり、記事も削除となったところではないかと想像できる。
 
個人的な所感としては、偏っていはいるものの話の筋は通っており、極論ながら考えさせられるところは多いにある。主張内容からして、こうした騒ぎになるのは目に見えていたと言える。しかしながら、僕が最も感心した点は主張以外にある。さすがは創作を生業にしている漫画家先生といったところか。二次創作を否定したいという「お気持ち」を述べた上で、それを「呪い」と呼んだ点だ。
 
「二次創作に対して、私みたいな態度の人間もいるということを残しておきます」
 
この言い回し。現在のネットにおけるふんわりとした「お気持ち」という表現に対して、そのオブラートをバッサリ剥いだところにあるものは何なのか、明確に示しているように思う。現に僕自身もこの記事を開いてから心境の変化があった。
 
日々Twitterで流れてくる二次創作イラストを特段何も考えずポチっと覗くわけだが、この記事を読んでからというもの、タップするのになんとない後ろめたさを感じたりする。そのうしろめたさは非常に微かなものではあるが、気持ちに影を落とさせるという意味では、十分「呪い」という語に足るものだろう。
 
それにしても、この「呪い」という言葉。この情報が過剰に流れ、言葉の価値が相対的に薄まる時代の中、なかなかハッとさせられるようなクリティカルな表現だと思う。現代のネットでのやりとりを見ていると非常にしっくりとくる言葉ではないだろうか。
 
何もスピリチュアルに頼り切った感覚でなく、誰かが吐いたいわゆる「お気持ち」=呪詛によって、該当する対象に批判圧力が生じる。よくある例でいえばネットフェミ勢の広告表現への問題提起。そうしたクレームはある種の呪詛ではなかろうか。そのような問題提起がなされるとなんとない後ろめたさを発生させ、「性的搾取」と見られそうな表現は公共の場に掲げる事が難しくなる。
 
また今回は例の記事を参照して「呪い」と呼んでみたものの、それは反面、実は「祈り」でもある。「こういう社会に変えたい」「より良い社会に」といった前向きな主張も、先から見てきた通り、もちろん誰かにとっての「呪い」になりうる。日照権表現の自由を例に出すまでもなく利害衝突、権利闘争と呼べば、より実務的な話になる。SNSが様々なコミュニティの間をつなぎ、価値観も全く異なる普段出会うはずのない人までをつなぐ中で。ネットにおいて、こうした祈りと呪いが入り乱れるある種異様な空間が生み出されているのだと、ふと感じ入ってしまった。
 
古来より言霊、というような概念がある。言葉は人に伝播し、その人の発想を変え、思った以上に他者を縛ることが出来る。SNSという概念が普及した今、我々はもう少しこれら言葉の威力や重みについてやはり考えた方がいい。
 
先の筆者は自覚的に「呪い」という語を使った。果たして、今この拡散される「お気持ち」は一体誰を呪っているのだろう。そんな非日常的な単語を踏まえてみると、言葉が持つぼんやりとしたチカラも、ふとリアルなものとして実感できるのではないだろうか。
 
自分自身もSNSなど適当に言葉を吐いていながら、それが実は誰かへの呪詛だったりする昨今。言霊信仰などをいまさら掲げる気もないが、ちょっと考えさせられる匿名記事だった。

『鬼滅の刃 無限列車編』に覚える畏敬の念

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時間があるときは落書き描いときます。

今週の週末ブログ更新。


興行収入が10日間で100億円を突破というのは、どのくらい凄いのだろうか。1年で1億稼ぐプロスポーツ選手が凄いのだから、きっと間違いなく凄いのだろう。

 

ということで、もはや社会現象といってもいい『鬼滅の刃 無限列車編』を見にいった面倒オタクが何を思ったのかということについて、TMAとかの話題をなるべく排して、端的に書いていきたいと思うよ。

 

一応、私自身『鬼滅の刃』に対して、今どこまでコンテンツ摂取が進んでいるのかを明示しておく。無限列車の直前で終了したTVアニメはすべて視聴済み、そして映画が公開されることが分かっていたので、漫画読了も同様のところで止めていた。ストーリーを知らない状態で映画を楽しみたい、と思ったわけである。

 

まぁ、実際見てみるとよく出来ている。ufotable作画はいつもの通り圧巻だし、ストーリーも素晴らしい。いやー、ほんとちゃんとしている。こういう作品が世間で流行っているということに対して、どこか安心を覚えるような出来の高さであった。

 

※普通にネタバレするので、各自読むかどうかは判断してね。

 

・数々のパクリ疑惑を眺めて

 

それにしても『鬼滅の刃』は連載開始から今もなお、その人気の高まりに比例するようにして非難めいた声もネット上でチラチラ散見されてきた。その最たるものは「パクリ疑惑」だろう。今でも「鬼滅 パクリ」で検索すればわかる通り、絶望感溢れるYahoo!クソ袋的質問にたどりつけるので、それはそれで面白コンテンツと言える。

 

だが確かに、有象無象のネットご意見番たちが指摘する通り、本作において様々な作品のオマージュが散見される。ある程度の年数オタクやっていれば「あー、隙の糸が見えるかー」とか「呼吸法ねー」とかそういう感情を抱くのは自然なことだ。まぁ、それをすぐパクリとか言い出すやつは、絶対にオタクじゃないのでスルー安定である。

 

そもそも、物語や創作物は往々にしてパターンが決まっている。更に「少年ジャンプ」なんていうコンテンツ界におけるセンターポジション的掲載誌の性質上、許されるパターン幅は更に狭まる。敵がいれば、やっぱ倒さなければならないし、成し遂げるために主人公はどんどん強くなんなきゃいけない。これが王道バトル奇譚となれば、外れてはならない。

 

そして『鬼滅』はこの王道を突っ走っている。根暗サブカルオタクからすれば、炭治郎の過剰に純な性格に胃もたれしてしまうこともある。しかしそんな王道を走りながら、こうした数々のパクリ疑惑を呼び起こすほどのオマージュを用いているのも、おそらく原作者が王道を走りながら、多くの過去作に対してリスペクトを抱いているからであると確信する。だからこそ『鬼滅』は面白いのだと、そんな話を続けたい。

 

・物語はこうして連なっていく

今回の劇場版『無限列車編』、個人的に視聴していて強く感じたオマージュは『天元突破グレンラガン』だった。前半の魘夢(えんむ)が都合の良い夢を見せるパート。『グレンラガン』では主人公シモンを始めとした戦士たちが、物語最終盤の戦いにおいて、敵である知的生命体アンチスパイラルから精神攻撃を受ける。それこそ夢の世界に閉じ込めるというものだった。

 

この攻撃に対する内省と突破方法は、双方ともに大差はない。心地よい夢にとどまっていれば、苦痛も何も生まれないのに、何故あえて厳しい現実に立ち向かわねばならないのか。この問いにキャラそれぞれが答えを見出し、覚醒し戦いの地へはせ参じる。という流れである。

 

後半の煉獄杏寿郎の殉死についても、キタンの殉死を思い起させた。『グレンラガン』も物語の終盤に向かい、一気に仲間が殉死していく。その中でも、仲間の窮地を救い数多くの名言を残したキタンの死が、上弦の参 猗窩座(あかざ)を前に、死闘を見せた杏寿郎の熱さと重なった。 

 

だから所詮は『グレンラガン』の焼き直しっしょ?みたいな結論にはならない。

 

おそらく、僕らの世代のオタクは確かに『グレンラガン』によって、上記の感情を得た。心地よい白昼夢に留まらず、歯を食いしばってでも厳しい現実と戦わねばならない。戦っていれば自分を惜しむことなく費やすべき場面に出くわす。その時どう自分がふるまうべきなのか。その結果、どういう結末が待っているのか。

 

今『鬼滅』を見た若い世代が、僕らが10数年前に『グレンラガン』で身に着けた感情を得ているかもしれない。そのことに対して、ただただ感謝というか、物語が受け継がれていくことの深遠さを見た気がした。

 

当然のことながら『グレンラガン』よりはるか前に『ザンボット3』や『イデオン』で絶望を抱いたり、『トップをねらえ!』で活力を得た世代がいた。その線上に『グレンラガン』もいることは間違いない。

 

人間の精神性なんてものは案外有史以来大きく変わってはいないと思う。必要とされる宗教も物語も、気遣い対象が増えただけであり、大筋はそのままだったりする。数々の仏典が紀元前から形を変え、漢訳されながら今に伝えらえれた通り、生きる本質を突いたアニメや漫画といった物語も、やはり作品を変えながら受け継がれていくべきものなのだと思っている。数々のオマージュによって飾られた『鬼滅』は、やはり今の時代における伝道師であると、映画を見ながらそんな感想を抱いてしまった次第である。

 

また、注目・人気作ということもあって、映画開始前には数多くの予告編が流された。そこには、セラムンエヴァおジャ魔女ポケモンドラえもんといったリメイク作、周年記念作、大御所作が並ぶ。もちろんオタクだし、ほとんど見に行きたい。

 

しかし、当てるには過去作をもう一度作りなおすのが安定化しているという傾向のようにも見える。そんな中で、ジャンプの現行連載作品が、ここまでのヒットを飛ばしながら走っていること自体、賞賛に値すべきことだと思う。アニメ化2期も決まっているようなので、改めて楽しみに漫画も読み進めたい。

 

と、短いけれどとりあえずこんなところで。また来週も続けていきたいっす。