わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

トークバラエティから「知らない」と言えるようになった話。

ようやくコミケも済み、先週はおたっきぃ佐々木さんとのトークイベントも無事に終わり。総じて、遊びに来てくださった方、お世話になった方は本当にありがとうございました。

 

先週記事の通り、引き続き新刊の通販やらA-buttonさん、大怪獣サロンさんでの委託販売は継続していますので、こちらは何卒よしなに。トークイベントも継続されそうなので、また告知致します。

wagahaji.hatenablog.com

 

それにしても、イベントが開催される前後というのはブログが書きやすい。だって、話題が常にあるから。しかし、そんな「ハレ」の日は過ぎ去るもので、人は否応なしに日常に帰っていく。週1度の更新。余り気張らずにふと感じた根暗な独り言を漏らしていく。

 

 

過去を振り返ると。これまでに作った同人誌はほとんどが対談によって構成されてきた。にも関わらず、普段から僕と交流がある人は分かると思うが、あまりコミュ強という性格でもなく、特に知らん人と話す時にはめっちゃ物怖じする。Twitterのスペースとか、複数人いて、知らん人が入ってくる場所でよう喋れんなと思う。

 

この夏コミでも。知り合い(と呼んでいいのかも一度躊躇う)のサークルへ挨拶に行くのに、絶対数回はその前を通り過ぎる。本人か分からないし、そうだと確信しても、なんて話かけるべきかで迷う。結果、3~4回スペース前を通過してから、ようやく声をかけてみたら「…何度か通過してましたね」なんて言われ、赤面する。人間は怖い。

 

こんなのが、過去対談企画を続けてきたのだ。ハッキリ言えば、元来の根暗な性格面を、上っ面なスキルで何とかやり過ごしていた、という事だと思う。そのスキルについて、余り自分自身で考えた事がなかったけれど、対談ベースの同人誌シリーズもひと段落したところで、僕のコミュニケーションについての考えを簡単に文として残してみようという試み。

 

なんだなんだ偉そうに講師面してコミュ力ハウツーでも書くんか?お前も評論島で情報商材を売るんか?など色々と厳しい指摘が(脳内で)聞こえてくるものの、一旦無視をさせて頂きそんな話題について語ってみようと思う。

 

 

「コミュニケーションは場数だ。」これは大学時代、就職活動に取り組んだ時期、大学のキャリアセンターで死ぬほど刷り込まれた言葉である。

 

文系大学生にとって、就職試験は実質コミュ力試験と言っても過言でない。そして、僕はそこで一度爆死した。「面接はとにかく数だ。」そう言われ、素直に信じた僕は、大学4年生の頃、面接で都度撃沈を繰り返し留年。不安神経症も再発し、まぁボロボロだった。

 

しかしながら、ひとつ気づけたこともあった。学生同士が数人のグループを組まされ、特定の話題に沿って議論するグループディスカッションという選考。僕はこれを得意と豪語してもよかったと思う。就職留年したので、2年間合計100近くの会社を受けた中、一度も苦に思ったことがなく、現にその段階で落ちた事もなかった。

 

比較的浅い選考タイミングで行われるということもあったけれど、働き出して10年ほど。こういうフラットな場の話し合いというのは、比較的問題なくこなせていると思う。

 

では、面接とディスカッションはなにが違うのだろうか。面接とは端的に言えば、自分の事を話し、相手に理解して頂かなければならない儀式だ。自分自身を「ロクな人間でない」と思っている状態で、そんな自己をさも上質な商品のように相手に提示しオススメするわけである。

 

僕みたいな元々自分に自信がない人間がこれをやるとなると、マルチ商法を自覚しながら、胡散臭い商品を相手に押し付けている気分になる。無論、そんなメンタリティで受かるはずがなく、延々そんな面接を繰り返す中で当人の精神性は崩壊する。

 

それに対して、グループディスカッションは、自分が客観の立場に立てば良い。加えて、ロールプレイで構わない。自分という商品を無理に介在させる必要性もない。ていうか正直な話、一般的話題を扱うディスカッションなど、テレビで見るトークバラエティで見たまんまを再現出来れば上出来なのだ。

 

僕自身、そうしたバラエティ番組を見るのが好きだったので、小さな頃から集団コミュニケーションの教科書代わりにしていた側面がある。その中で、僕が未だに最も参考にしているのは「アメトーーク!」の蛍原さんの振舞いではないかと感じる。

 

なんならあの番組は、回にもよるが好きな漫画や家電といった同好の芸人をカテゴライズ化し、わいのわいのと盛り上がりつつ、対象のプレゼンを挟んだりするという構成であり、オタクの飲み会に近い。その中で蛍原さんは、どちらかと言えば「そこに与しない視聴者」側として、一言挟むというMCの立場である。

 

当然、実際のオタク飲み会の場面を想定すれば、楽しむうえでその場に出てくる話題を知っている事に越したことはない。ただ、参加者の年齢にバラつきがあったり、専門的な知識を持つオタクばかりが集まれば、当然のことながら自分の知らない話題も沢山出てくる。

 

更に言えば、オタクという人種は「知らない」という事を悔しいと感じがちな人種で、尚且つ、情報量を抱え過ぎた結果話が下手になったりする。知ったかぶりをしてでも、こいつに負けたくないと思う反面、加えて相手の話の骨を折ってしまうという恐怖が二重に重なり、会話が悪循環に陥る事もある。

 

そんな中で「アメトーーク!」で蛍原さんが、周囲から沸いて出てくるマニアックな話題に平然と「いやぁ、知らんわぁ」「へー、そうなんやぁ」とただ素朴に返すのを見て、当時中高生だった僕は小さな衝撃を受けたのを覚えている。それでいて場の空気が死んでいない。「あぁ、知らないって言っていいのか」。これは会話における発見だった。僕も徐々に無理をする事を辞め「それ知らなかったわ」と素直に伝える術を身に着けた。

 

すると寧ろ相手は、こちらが即座に共感出来なくとも「知識を共有したい」という意思があるのだから、こちらがその知識を得る姿勢さえ身につけておけば自然と話題は弾む。僕はきっとディスカッションにしろ、対談企画の場にしても「アメトーーク!」「さんま御殿」「いいとも!」などで見て学んだ「ただ聴くことの豊かさ」を、単になぞっているだけな気もする。

 

勿論、対談前には相手の事は学ぶし準備は出来る限りした。だけれどぶっちゃけた話、聴く方が自分が喋るよりも楽しいのが本音だし、これはあくまでも僕の気質の話である。

 

ただ、最近。この「知らない」事を素直に受け入れる姿勢が重要だと特に感じてしまう。家電だったり特定の漫画でなくとも、何かにとことん詳しくなって、饒舌にプレゼンするだけがコミュニケーションではない。ネット上では「論破」や「言葉の強さ」がコミュニケーション能力を決めるかのように見えやすい。反論に次ぐ反論の勝者にこそコミュ強だと。ただ、その反論による殴り合いにコミュニケーションとしての価値はあるんだろうか、とも思う。

 

コミュニケーションは、本来受け手が居て初めて成立する。決してそれは「打ち合い」ではなく「受ける」という行為が要る。相手が受けるからこそ、人は安心して話してくれる。そこにコミュニケーションが生じる。

 

僕はこれまでに書いてきた通り、自分事や何か対象を主体的に話す事が苦手だ。この文字もゆっくりと練りながら、消しては書き足しを繰り返している。恐らく反論の余地はいくらでもある。隙だらけの文章だと思う。それでも誰かしらが、静かに受けてくれるのでは。という仄かな期待から文字を残すことが出来ている。

 

日々、Twitterで殴り合いみたいな会話を眺めていると、自分の言葉を吐き出す事すら難しいと感じてしまう今日この頃。ネット上では「民放のトークバラエティなんてバカらしい」と一蹴されるかもしれないけれど、丁寧にエピソードを引き出す小さなリアクションの一つ一つにこそ、今バラエティを見るべき価値があるんじゃないか、と思った独り言でした。

 

自分のコミュニケーション能力分析というアレな話から始まり、案の定、暗い話になってしまいましたが、何とか更新出来たという事でまぁいいか。今日もお疲れ様でした。

 

 

 

コミケが終わって、コミケが始まる。(告知と内省)

ということで、夏コミお疲れ様でした。来て頂いた方は本当にこのような時勢の中ありがとうございます。御礼ついでにいくつか告知。新刊については、下記の通りBOOTH通販してますので何卒よしなに。

 

加えて、今回もご厚意に甘えて行きつけ飲み屋委託させて頂いております。

秋葉原では「Game Bar A-button」さん。

twitter.com

中野では「大怪獣サロン」さん。

twitter.com

それぞれ、ちょっと癖のある飲み屋さんですが新刊並びに既刊も置いていただいておりますので(大怪獣サロンさんへは明日持参する予定)是非、お近くの方は遊びに行ってみてください!

 

また少し趣向が変わりますが、今週19日(金)先月に引き続いておたっきぃ佐々木さんとのトークイベント開催いたします。

まぁ普通に飲み会ですね。ここでも、夏コミ新刊は持参するかと思いますので、お暇な方は遊びに来てね!

 

と、柄にもなく告知を終えた所で、今日は2週続けて、コミケに纏わる湿っぽい話。まあ、このブログでは余り需要など考えずに、独り言を巻き散らかす場所だという事で、多少我慢頂けると幸いです。今週でコミケ進行も終わるから許してね。

 

 

8/13(土)14(日)の2日間に渡り開催された夏のコミケ、とうとうC100が終わってしまった。コロナ渦中の熱狂を振り返りつつ、しぶしぶと現実の生活に戻り、雑然と仕事に向かう。

 

仕事に全く集中できないお盆明けの平日。そんな中僕はと言えば、自分自身に対して完全に呆れていた。こんなはずではない。いつからこのような人間になってしまったのだろうか。何度、自分を叱責したところで、この思考はもはや変わりそうにない。そんな葛藤の一片をここに書き残してみたい。

 

既にこのブログでも感慨を漏らしていた通り、今回は記念すべき100回目のコミケ。他の人にとってもそうであるように、僕も今までのコミケと多少異なる気持ちで臨んだイベントだった。

 

ハッキリと言ってしまえば、僕はこの夏コミが終わったら、完全に同人活動も、コミケ参加も終わりにしようと思っていた。地球は平面であり、その端には滝があると頑なに信じていたあの頃の人たちみたいに、昔からなんとなく「C100の先はない」と、そう信じ込んでいたのだと思う。

 

10数年前ほどだろうか。同世代の友人らと、早朝の東ホール駐車場に並びながら交わした会話が頭を過る。「俺らいつまでコミケに参加してるんだろうな」「さぁ、C100くらいじゃない?」「その時には、俺ら30半ばか。」「そこまで参加したくはないかも」「確かにな」

 

その会話の通り、大方参加していた10人前後のメンバーは絞られていき、結局今の今まで飽きずに有明に集ってしまっているのは、僕含めた2〜3人ほど。

 

何も根拠はない話なのだけれども、10代からコミケに参加して。なんとなくC100を迎えるタイミングというのは「自分自身が大人にならなければならない時」なのだろうと、そう思っていたのだ。年齢の節目とかでなく、僕はそこをひとつの「大人としての区切り」と捉えていた。

 

そして2019年冬。10年近く続けていた同人雑誌シリーズが最終号を迎え、この先どうしようか。なんて考えていたところ、コロナ禍があり、2年に渡ってコミックマーケット自体が開催されなくなってしまった。不謹慎ながら、僕は丁度良かったと思っていた。もうサークル参加する意欲もあまり湧かなくなっていたし、引き際を探っていたのが本音。

 

加えて結婚だったり、仕事も安定してきて、僕もいい大人になったのだから、もう余計な振る舞いは終わらせよう。スクール水着も着なくなって久しい中、この10年以上名乗っている「すくみづ」なんていう馬鹿げたHNにも別れを告げるべきとも思っていたし、そもそも何者でもない人間の創作活動など若さ故の特権じゃないか。と感じるようにもなっていた。

 

せっかくの余暇。仕事でもないのに締め切りに焦り、入稿出来たと思えば、必死にTwitterやウェブ上で事前告知。一つの拡散やリアクションに一喜一憂するのも、いわゆる世間様で言う「大人らしい」態度ではない。

 

だから、この夏コミが最後。C100を迎えたら、僕は大人になって、一区切り付ける。その思いで総集編を作り、在庫も残さない程度の部数に設定。大方、想定通りの頒布実績。あとは周辺に手売りやら、協力頂ける方々に委託をお願いし、全てキレイになったらおしまい。同人誌という趣味も他の趣味同様に楽しかった。それで終わり。

 

以上がちょっと前、具体的には先月終わりくらいまでの思考。

 

それがどうだろうか。まさに今僕は仕事に集中もせず、冬コミの企画に頭を悩ませている。C101の参加申請と白紙のサークルカットを前に、またこの冬コミで一体何を作るべきかで、思考回路が忙しく動く。アホじゃないのか。つい先日まで抱いていたあの感慨は何だったのだ。完全に辞める辞める詐欺じゃねえか。そんな自分をいくら罵倒してみても、バカな下ネタ評論企画ばかりが浮かぶ。こんなん呆れる他ないだろう。

 

自分の中の背反する感情に戸惑う中、ぼんやりとこめかみ辺りから声が聞こえる。「聞きなさい、理性よ」脳内の感情を司っていそうな箇所がまるで歌劇のようなテンションで反駁してくる。多分、病気なのだろう。諦めて耳を傾けてみる。

 

「自分で分からないのであればハッキリ言ってやろう。お前、夏コミがすげえ楽しかったんだろ?自分含め、むしろそれ以上にバカな人間どもが、好き勝手本やらゲーム、音楽、衣装を作り、互いの脳内を曝け出す奇祭が、それに参加することが、久々にクソほど楽しいものだと改めて実感したんじゃねえの。約3年ぶりのコミケに、ただただ興奮を覚えたんだろ、違うか?」

 

思った以上に、ぐうの音も出なかった。

 

感染拡大傾向にあったり、台風が直撃したりと情勢を見れば完全にアゲインストな状況下であったことは確かだった。本当に人が集まるものなのか、そもそも自分自身が参加していいのかという葛藤は先週ここでも書いた通り。

 

それでも、やはり多くの人が集まった。参加者1日8万人辺りだったらしい。全盛からすれば半分前後なのだから盛り上がりに欠けるのかもしれないが、そもそも2年半ぶりにあそこまで多くの人を見た。そして、その中には顔を長いこと見られなかった人も多くいた。まず純粋にそのことが嬉しかった。

加えて、こんなご時世にも関わらず、あれだけの人がバカみたいにモノを作っているという事実に震えた。何年もコミケに通い、既に当たり前になっていた光景も、3年の時を経て再度確かめると全く違うモノに映った。なんだ、俺もまだバカでいいんじゃん。肩から力が抜けた気がした。

 

同人作家にもっとも必要なモノは、狂気だと言う発言をよく見る。それはその通りだと思う。上で掲げた通り、冷静になれば同人活動などコスト過剰の趣味だ。コミケにサークル参加したものの全く売れなかったnoteがバズっていた通り、リターンもどれだけあるか分からないのに、自分の趣味趣向だけで投資をし、殆どの人が赤字に終わる。本当に狂っているとしかいいようがない。

 

でも、狂っていることが許される場所こそがコミケだ。理屈や理性、損得から勘案すれば生まれ得ないモノばかりが並ぶ場所。コスパも悪い、阿保らしい趣味だからこそとことん没頭できる、そんな可能性を久々に身体で実感してしまったというのが今回の敗因。最初から負け戦の感も否めない。

 

面白さってのは、そういう理性でコントロール出来ない所に生じる何かであって、やはりあの場所はそういうモノの吹き溜まりなのだ。そういう場には、まさかと思うような出会いがあるし、何か作らねばと思わせてくれる。正直言って、大人になれない痛々しい人らの集まりではある。でも、痛々しい、恥を晒すことでしか生じ得ないものもある。

 

野放図に、なんでも勢いで出来た頃から歳をとり、少しずつ、そういうバカらしさを敢えて取り込むタイミングに差し掛かっているのかもしれない。ふと、そんな事を教わった今回のコミケ

 

入場だとか規制に関して、ネットを見れば様々な反省点やら課題なんかは山積しているんだろうけれど、コミケってのは有志の祭りだ。純粋にあの場を保ち、開催まで漕ぎ着けてくれた方々には感謝の念しか沸かない。終わるつもりが、こうしてまた何か作るモノを探しているというのも、次のコミケを開催してくれるという同志がいるからに他ならない。そこに関しては、ただただ頭が上がらない思いである。

 

なんだか結局長くなってしまったけれど、C100本当にお疲れさまでした。今回参加出来なかった方々も含めて、次回の冬ではお会いできることを祈って。

『バス江』に感じた「ふざける」ことの本懐

いや、面白いね。バス江。


こう週1回、ここに何かしらを書き続けようと思い立って早2ヶ月が経ったらしい。我ながら、継続できている事自体は偉いと思う。

 

ただ、いつもの悪い癖で「気軽に続けたい」とか言いながら、気づくとすぐ硬めの論調だったり、無駄にエモを狙った書き方をし始める。すぐ人の目が気になりだして、安易に評価を求めたがる。自分の論調や思考に自信のない証拠である。とか、内省を始めれば2秒でオーバーキル自傷ワードで頭が満たされるため、こういう時、思考は止めるに限る。

 

コミケの原稿も終わり、なんなら完成した新刊が家に届いた。あとは当日の感染対策および灼熱地獄を耐えるだけとなったので、本ブログコンセプトを軌道修正する意味も込め、今日は適当な事を漏らすことにしたい。

 

 

今更だけど『スナックバス江』が面白い。好き。

 

前々から気になってはいたものの、手を出すまでには及ばなかった。ただ最近周辺で2〜3人から「お前は読んだ方がいい」「あの精神性に、お前はマッチしている」「バス江に向いている性格だ」などと言われ「多分、disられてんだろうな」と感じながら、薦められたものは仕方ないので、ようやく電子版をポチポチして、読み始めたら堕ちてしまった。実際、向いているらしい。

 

知っている人は流してもらいたいが、場末のスナックを舞台にしたヤングジャンプ連載のギャグ漫画だ。基本的にはママとチーママの明美、および客が織りなすオムニバスギャグという感じ。読んでみると、気楽に読める割に、扱っているネタが結構今の世の中の空気感を的確に抉っていて、笑うだけで済まされない感情が胸に残ったりもする。

 

特に昨今のネット文化には敏感で、普段僕らが「これ言ったら、きっと怒られんだろうな」とSNSで飲み込む言葉も、容赦なくボケに昇華され、バッサリとキレの良いツッコみにより成仏してしまう。こうした小気味の良い応酬は読んでいて清々しさすら覚える。とまぁ、ギャグマンガを事細かに解説することほど詰まらない事はないので、機会があったら黙って読んでみて欲しい。

 

と、この漫画を読んでいてふと感じたことは、そもそも最近こう「ふざける」という事自体の重要度が増していないか。と思ってしまったのである。先に述べた通り、強めなモノ言いをするもんだから『バス江』はバズリやすい。コマの切り抜き画像が挙げられ、拡散しもはやネットミーム化している。要するに「ギャグマンガという前提じゃねえとこんなストレートにモノ言えねえよ」という民意の裏返しにも思える。あまり言ってはいけない「ふざけたい」という願望が、この漫画の人気を支えているようにも感じる今日この頃。

 

また、ギャグマンガという枠組みだけでなく、舞台である「場末のスナック」であるからこそ許される会話、という側面もあるだろう。僕自身も実際、スナックだとかバーだとか。そういう客や店員との区分けがラフな飲み屋で適当な事言ったり、周囲の話を聴くのが好きな質である。

 

例えば、席に付いてくれたフィリピン人ママが突然、引くくらい重たい過去を独白しては「ダメねこんな暗いハナシばっかしてちゃ」と誰に言われた訳でもなく未来を見据えたり、延々やしきたかじんを歌うオッサンにママが「あんたバリバリの東京人だろうが」と笑い、オッサンはキレ返す。なんか、こう会話に混ざらなくとも、人間って脈絡がなくていいんだと思わせてくれる。

 

特段目的もなく、適当な言葉を吐き、笑い、下らないやり取りを交わす。ネットに籠っていると味わえない空気。そういう場では、誰しも、どこかふざけている気がする。訳の分からない人間が集まり、知らない人同士会話が始まり、好き勝手言ったりする。流石にギャグマンガのようにオチはないが(『バス江』すら数回に一度オチを見いだせていない)それすらも、人の一面として受け入れてくれる場所というものは、やはり必要だと思う。

 

更に翻って考えると。「ふざける」ってのは、思った以上に簡単な行為でなかったりする。こう文章を書いていても、真面目な文章の方がスラスラ書ける。だって、ロジックに沿えばいいだけだから。淡々と順接を並べ、時に逆説を挟み、多少の抑揚を付けながら結論に向かえばそれでよい。

 

え?面白くない?当然、だって真面目に意見を書いているのだから。面白さより、正しさがそこにあるべきでしょう。ハッキリ言えば、今のネットにおける文字や言葉はこんなんばっかが目に入る。

 

それに対して「ふざける」という行為には下心がある。誰かに構ってほしい、笑ってほしい。詰まるところウケを求める行為そのものだ。そりゃウケを狙うってのは、人のリアクションありきな事だし、それを気にした時点で、考える事が増すのは当然かもしれない。だからこそ、程よくふざけるのは難しい。でも、その割「ふざける」事が蔑まれていたりする。こんな多くの社会問題、政治問題が跋扈するこの時代にバカなこと言ってんじゃない。そういう人が多いように思えてしまう。

 

ついでに言えば、真面目な方が楽なのだ。「正義を掲げて、信条に沿う」ってのは、一面勇気ある言動にも映るけれど、もう一つの側面は、ただただ楽だったりする。陰謀論やら似非科学でも何でもそうなのだけれど、人間は楽したがる生き物だから、常に疑いを持ち、思考を回しているのはツラかったりする。そういう時に頼れるものが、いわゆる「正しい思想」になってしまう、という人はよく見かける。そして真面目な人ほど、正しく、案外楽な方へと無意識に流れていく。

 

ウケ狙って、ふざけるにも体力がいる。世の中を疑って、笑うにも思考の回転がいる。一介のシュールなギャグマンガでありながら、ネット上でその言葉の暴力を存分に振るっている『バス江』は、今の時代において「ふざける」ことの重要さを、結果的に示してしまっているんじゃなかろうか。とか、

 

 

まぁ、自分で書いていても過言だと思う。それでも、色んな人の事考え、意識してバカやる事は結構大変で、皆が笑えたり、ふざけ合えたり出来る状態を作りだすってのは思った以上に大切な事ではないかと思った次第。それにしても、スナックの水割りって、家で作るのに比べてなんか旨いんだよな。『バス江』を読んでて、そんなことまで思い出してしまった日の戯言でした。

 

度々のコロナで、行けていない店も多くある。何年前かに行った湯島のパブや、錦糸町のスナックのママから延々LINEが届く。そろそろ顔を出すべきだろうか。何はともあれ、そういうグダグダした飲み屋の空気を存分に楽しみたい。夏だしね。

 

という事で今日はここら辺で。

 

 

C100だよ!夏コミ新刊総集編「'00/25 essentials」の話。

入稿出来たー。

本題の前にとりあえず、本日、星街すいせい1stソロライブがブルーレイ化したよ。

www.animate-onlineshop.jp

 

言いたいことも言えたので、意図せず溜めてしまった話題をようやく書き出す事にする。タイトルの通り、夏のコミケで出す予定の新刊の話だ。

 

気づけば8月も目前。コロナの感染者数は高止まりの中、そもそもコミケはやるんか、できるんか。という一抹の不安はあるが、まぁ印刷所にきっちりとデータ入稿・入金してしまったので、現物は否応なしに出来上がることだろう。コミケがもし中止になったら、どこかで泣きながら手売りするので、その際は是非なにとぞよしなに。

 

 

それにしたって今回は、冒頭に表紙を掲げた通り「総集編」だ。「壁サー」「売り子レイヤーとアフター」の次ぐらいに、全同人作家の憧れ的存在とも言っていいのではないか。「総集編なんて、誰だって出そうと思えば出せるじゃねえか」と言われればそれまでなのだけれど「総集」と名付けるからには、過去にそれなりな冊数、本を出していなければ恰好が付かない。

 

当方、気づけば2010年頃から細々ながら、同人活動を続けてきた訳である。その姿勢くらい褒められたっていいのでは、とたまに思い、時おり自分を褒めることにしている。もちろん、深夜に酔った勢いで「っぱ、俺すげえな…」とひとり呟くと、ものすごい虚しいし、死にたくなる。

 

アルコールで正気を飛ばし自己肯定を図るのは、あまり効率的ではないのは確か。ただ、そうでもしないと、需要も定かでない本を、自らのリビドーに任せて作り続けるトチ狂った趣味など、真っ当な精神でやってられねえのである。

 

と、ほぼ書いていることが愚痴になったところで、早速今回作った本を簡単に紹介してみよう。

 

「総集編」ということで、当然過去の本のまとめだ。これまでに当サークル「わがはじ!」で作った同人誌は下記のサイトをアーカイブにしているので、まずは覗いてみて欲しい。

sukumizumi.tumblr.com

上記のリンク先でも分かる通り、一時期特殊性癖まっしぐらな創作着ぐるみエロ漫画を描いてたりもしたが、主だっては対談メインの雑誌シリーズ『'00/25』という本を作って同人活動を行ってきた。今回はそちらの総集編となる。

 

手前味噌ではあるが、たまに過去に発刊した同人誌を読み返すと、時間が経っても尚、対談の随所に「あ、ここ、いい言葉だな」「本質を突いているな」と思う箇所がある。そうした部分を少しずつ集めたというのが企画の趣旨だ。

 

また今回選別の対象としたのは、本格的に対談雑誌として作成した「Vol.3~Vol.10」まで。特集内容を並べれば「着ぐるみ」「オタク」「フェチ」「女装」「近未来の下ネタ」「中野の飲み屋」「秋葉原」「ケモナー」などなど。まぁ、自分でも少し引くくらい色々やったなとは思う。

 

ピックアップさせて頂いたラインナップはこんな感じ。

実際、これだけ見てもなんのこっちゃという事だとは思うので、当日は足を運んで、ぜひ手に取って頂きたい。抜粋した短いやりとりの中でも、ど下ネタから創作の本懐、オタクの生きざまから、秋葉原の趨勢まで。中々に含蓄ある対話が詰まっているのは確かだ。オールモノクロ、56P。頒布価格は多分700円くらいの予定。加えて、Vol.4、9、10あたりはいくつか家に既刊もあるので、持参するかと思います。

 

8/13(土)お盆なのに実家にも帰らず、親不孝かましているオタク諸氏は是非スペースまで遊びに来てくださいな。スペース場所やら頒布物詳細やらについては、逐一下記アカウントにて固定ツイートで宣伝するかと思うので、よろしくお願いします。

尿道責め専門店特集・巨乳白書スペースに挟まれるという、素敵な性癖評論島にぶち込まれております)

すくみづ🎪/C100/土/東フ/11-a (@suku_mizumi) / Twitter

 

 

ということで、宣伝も終わり以下余談。あとがきとも重なる所もあるけれど、同人誌でそこまで読む御仁もそう多くないだろうから、書いてしまうことにする。

 

今回、総集編を作る中で改めて「よくぞ、こんな趣味を続けてこられたもんだ」と感慨に浸ったりして。勿論、時には買っていただいた方から褒めて頂くこともあった。それは大きなモチベーションになるし、自分の作った同人誌が人から評価してもらえるのは純粋に嬉しい。

 

ただ、僕の作っている同人誌は見てわかる通り、純粋な創作ではない。人にインタビューをし、寄稿を募り、一冊を組み上げていく雑誌だ。なので一つ一つ記事への評価は、本来インタビュイーや寄稿者に向くべきものであり、編者というスタンスをとる限り僕は裏方に他ならない。周囲の人の言葉を借りながら、同人誌を作らせてもらっているに過ぎない。

 

そういう意味でも、冒頭書いた通り「自分で自分を褒めるしかない」という帰結になるんだけれど、それはそれとして。詰まるところ、人からどのように評価を受けるかという事だけを眼目に置いていては、こんな趣味続けてられん。という話である。

 

それでは、こんな酔狂な雑誌作りに、僕自身何を求めていたのだろうか。

 

今の時代。昨年開催したオリンピックで某ミュージシャンが激しく炎上した通り。雑誌やメディアに言葉を残すというのは正直リスクでしかない。90年代のニッチなサブカル誌の対談から、あのような大きな騒ぎになった事は、世の中の片隅でこんな小規模同人誌を作っている自分にとっても少なからずショックだった。

 

誰の役にも立たないどころか、協力してもらった方々のリスクだけを生成していたとなれば、今までやってきた事はなんだったのだろう、とちょっと落ち込んだりもした。

 

それでも、今回「総集編」を作るに至ったのは、やはりこれまでの対談を見返して純粋に面白かったからだ。「自画自賛乙」というちくちく言葉も、既に妄想ながら脳内に突き刺さっている。ただ、言葉を残すリスクにただ怯えるより、言葉を残す可能性を信じてみたかったというのが素直な所だろう。

 

世には出ないけれど、本質的な事を語ってくれる人は案外身の回りにいる。「有名な人をこぞって集めた」のではなく普段、Twitterであいさつ交わすような身近な距離感の人から得られる言葉を集め、そこに現れる価値を見る。そこに、ある種、人間関係そのものの可能性を信じてみたかった、というのが動機の根本かもしれない。

 

やはり人と話すと、会話特有の空気がそこに生じる。それは、コロナ禍においてひと際実感するに至った。LINEやSNS、メールでのやり取りとは異なる。ましてや、セクシュアルな来歴や、自分の性癖にまつわること、オタクとしての生きざまなど。普段思っているけれどなかなか言う機会に恵まれない言葉には、力がある。力はあるけれどそれが、真っ当に伝わるかどうかは、それを読んだ人次第。

 

詰まるところ「キモイ」と「エモい」は、紙一重なのだ。往々にして、その差異の判断は受け手の側に委ねられる。そうした意味で、モノを作って発信する上では、誰しも性善説に立たざるを得なくなったりする。普段、僕はあまり性善説的な物言いは嫌いだったりするので、本を作ることで「どこか人に希望を持てた」という感覚が心地よかったのかもしれない。

 

ある種、モノづくりの本懐には、作りたいというリビドーの裏に「誰かに届く」という期待があるような気がする。そうした気持ちのやり取りこそ、あらゆる創作を受け入れるコミケという場に対して、僕が抱いてしまう愛着の本質なのだろうとか、思ったり思わなかったり。

 

 

最後は、まとまってもいないし、言いすぎた感も否めないけれど、やはりエモさに任せて文を書くと、キモさと隣り合わせになるというのは改めて実感した。危ない危ない。ということで、とかく簡単ながら、宣伝は出来たと思うので、今週の更新はここら辺で勘弁頂きたい。ほんとコミケが無事開催されることを祈って。

 

「宗教二世」の為のブックレビュー

この歳になると、読めなくなる本もあるよなと最近思う。

 

先週ここでも告知もさせて頂いた、おたっきぃ佐々木さんとのトークイベントが先週無事終わった。あまり何を喋ったのか詳細は覚えていないのだけれども、来て頂いた方、スペース覗いて頂いた方は本当にありがとうございました。久々楽しかったので、またやるかと思います。その際は、また是非よろしくお願いします。

 

 

ということで、今週も水曜更新。夏コミ新刊の原稿作業もほぼ終わり、印刷所へ入稿出来る状態にまで仕上げた所で、ようやく新刊の話題でも。と思ったのだけれど、再び別の話題。この頃、ニュースやらTLで盛り上がっている話題に少し触れて僕の立場から、言える事をここに残してみたい。

 

件の銃撃事件があってから、日常において「宗教二世」というワードをよく見るようになった。犯人のプロファイルが進む中でどうしたって触れなければならないワードだろう。そうすると案の定、ネットやらSNSで様々な人の語りが沸いて出てくる。思った以上に、この手の話で悩んでいる人は多いのだと驚いた。

 

と、かく言う自分もその一人。あまりこれに関する事を外に漏らしたこともないけれど、近頃余りにその単語が目に入り、多少のガス抜きをしたいと思ったのが本音。とは言っても。増田みたいな匿名の空間だったり、その為だけにTwitterアカウントを作っては、過去の恨みつらみをぶちまけるような真似は、芸風でないので避けたい。

 

端的に今自分の立場だけ書くならば、生まれてこの方、母が属する国内某大手宗教団体に僕も属しており、その組織に敵対心を抱いた訳でもなく、何なら思想や教義には賛同している。ただ、母は熱心、父親一族が猛反対という中で育ち、幼少から色々考え続け、挙句にはメンタルぶっ壊れたりして、ちょっと疲れたので今は明確に距離を置いている。というのが現況に関する簡単な説明だ。

 

ちょうどいい距離感でこの件を語るには…と考えた所、宗教二世の一人として悩みつつ「この本は読んで良かったなぁ」と感じた本をいくつか挙げることにしてみた。勿論、自分も解決済みの問題はない。だからこそ、こうした列挙が誰かの、何かの参考になれば。加えて、それを通じて僕のスタンスも整理出来れば有難い。すみません、ちょっと長くなるかも。

 

<原因療法的>

ここでは原因療法と書いたが、今抱いている直接的な悩みというより、信仰そのものについて考えるきっかけを与えてくれる作品をいくつか例示してみる。どれも、正直言って「信仰の限界」を示す作品ばかり。ではあるけれど、二世にとっての葛藤の根本は、親から与えられた絶対者、あるいは絶対的な法に疑問を抱いていいのか、端的に言えば、裏切っていいのかという点にある。

 

その葛藤を解きほぐすには、所与の信仰を一度自分の言葉に落としこむ必要があり、それは理屈のみで納得できるほど容易なものでない。ネットではこの話題について、論破やら対策と、あたかもライフハックのように解説しているのを見るけれど、信仰が本当に根付くのは、ロジックや理屈でなく、感情であり生活だ。そして、その生活にまで浸透して、信仰を考えるヒントを明示してくれるのは文学作品だと僕は思う。という訳で、ベタなチョイスになるけれど下記4選を示してみる。

 

 

1、『カラマーゾフの兄弟ドストエフスキー

信仰を問う物語としては、ここに始まり、ここに終わるという感。学生時代に読んでそれきりなので、ぶっちゃけ詳細は忘れかけている。個人的には新潮版が読みやすかった気がする。「古典中の古典」というイメージがあるかもしれないけれど、この手の悩みを抱えている人にとっては、かなり具体的事案として読めるのではないだろうか。特に兄弟がいれば尚よし(良くはないんだけれど)。僕個人はアリョーシャとイワンの関係性に痛い程共感した。やはり名作とだけあって物語のスケールも大きく、人生に残る一節も多い。悩み関係なく、一度読破しても損はない作品と思う。

 

2、『沈黙』遠藤周作

これも構図としては一緒。遠藤周作自身も『カラマーゾフ』を「名作」と掲げている通り、遠藤周作の立場から神という存在への疑問を問うた作品。2016年にはM・スコセッシ監督が映画化もしており、そちらでもいいけれど、文字で読んだ方が内省には向いている気がした。キリスト教弾圧下の日本にやってきた宣教師の葛藤を描く作品で、ひたすらに救われない。「何故この場面で神は救いを齎さないのか」という疑問に読者も向かい合う羽目になる。構成もシンプルかつ短く、日本の話なので『カラマーゾフ』より読みやすいとは思うが、案の定タフではある。独特の読後感と共に、自らと向かい合えると思う。

 

3、『疾走』松重清

高校時代、個人的には現代版の『沈黙』のような気持ちで読んだ気がする。端的に言ってしまえば、主人公がひたすらに報われることなく、人生の坂道を転がっていく話。その転がり方も『疾走』のタイトル通り激しく、むごい。10代で読み、トラウマ化した作品。個人的には、ちょっと過激な描写から本筋とは異なる興味関心を抱いてしまい、拗れてしまったのはまた別の話。とかく、この物語を通しては、そもそも「人が救われるってなんだろ」みたいな内省と向かい合う事になる。親や環境、逃れようのない「不幸」という概念の泥沼で「救い」とは、どのような概念なのか考えさせられる一冊。

 

4、『るん(笑)』酉島伝法

2020年に発刊され、各所に鈍いタイプの衝撃を与えたカルト系日常SF小説。展開も奇抜で非常に引き込まれ面白い。読んでよかったとは思うけれども、やはりしんどかった。スピリチュアルと科学が逆転し、迷信が常識化した近未来の日本社会のリアルな描写に、自分の過去が過ったり、色んな人の顔が浮かんだりしてくるのもキツイ。この作品では、むしろ信仰云々というより、「信じる」という事と「社会の繋がり」がいかに密接なものであるのか、嫌な角度から抉ってくるので、一度身の回りや自分のスタンスを冷静に見つめなおすにはいい薬であると思う。

 

 

と、以上挙げた通り4作。どれも基本的には宗教に対して懐疑の目を抱くような作品で、フェアじゃないと怒る人もいるかもしれない。しかし、これは二世の立場をフラット化させるための処方箋であり、そもそも二世の人生自体、信仰を考える上でフェアな土壌にない。

 

親に、教養やバランス感覚が備わった家庭であれば、また違うのだけれども、大体泥沼まで悩む羽目になる家庭はそうでない。生活や家族の形を維持する為に宗教が必須になっている家庭だからこそ、子は悩まざるを得なくなる。そして反論や懐疑は、そのまま家族を壊すことになる。

 

そうした中で、上記4作は信仰や迷信、また自分ではどうしようもない生まれによる絶望を扱っている。しかし物語におけるバッドエンドや絶望というものは、案外、現実における絶望から人を救ったりする。古来から人は同じようなことで悩み、足掻き、裏切られているという事を知ることで、自分の懐疑や裏切りが多少許された気持ちになる。正直、この気づきは大きい。だからこそ、原因療法的。まずは、文学による追体験を得て、自分を狭い罪の檻から解放するという事が重要だと感じる。

 

<対症療法的>

ここからは対症療法的な本を列挙する。何をもって対症療法なのかと言えば、こうした二世の生育の中でしこりになるのが、自己肯定感の歪みによる生きづらさだったりする。教義が幼少から日常に組み込まれ、成長する中でそこから外れていくことは、自己乖離的な感覚に繋がる。いつまでも「絶対的な正しさ」に沿って歩ければいいのだけれど、道を踏み外した時の自責の念は、通常の反抗期や親離れと比べ大きいものになり得る。

 

また、愛着に関する問題も生じやすい。そうした家庭で親が子供を見る時、どこかで信仰というフィルターが掛かっている。子が何を言ったところで、最優先されるものが別にある。大体、こうした目線に子供は気づく。直接的に、親が自分を「直接見ていない」という事を薄っすら理解してしまい、少しずつ自己愛の形にズレが生じたりする。なので、大人になってから、承認や愛着以外のアプローチで自分を肯定する事を学び、少しでも安心できるような本を、また4冊ほど列挙してみたい。

 

1、『当事者研究の研究』石原孝二(編)

当事者研究」とは、精神障害などを持つ当事者が、自分の精神障害について研究をするという試みで、20年ほど前、北海道「浦河べてるの家」という共同生活の場で始まったものだ。それについての論文集がこの本。一応医学書扱いという事もあって身構えたものの、読みやすく、衝撃を受けた。保護を受け、病気を治し、社会復帰を果たすという想像しやすい「回復」はそこになく、障害は障害として、自分の一部であると受け入れ、開示し、共有する。それが決して綺麗ごとでなく、生きる上で必要な手筈であるとひとつひとつの論文が丁寧に教えてくれる。自分含めたあらゆる人を肯定する上での重要な示唆が詰まっている。

 

2、『断片的なものの社会学』岸政彦

社会学者であり小説家でもある、岸政彦さんの手がけたインタビュー兼エッセイ集。本筋の研究の合間から漏れ出てきた「社会学とまではいかないけど、社会の中で生きる人を考えるには重要なエッセンス」を少しずつ集め、一冊の本に纏めたという本。大阪をメインに展開される軽妙で多種多様な人々との掛け合いからは、誰しもが、独自の人生を、自分の足で歩んでいる事を痛感させられる。同氏が編集した『東京の生活史』というクソ分厚い本も同様。多様性をそのまま喰らい、誰かの人生を静かに覗くことにより、時に重要な知見を得る事が出来ると思う。

 

3、『野の医者は笑うー心の治療とは何か?ー』東畑開人

臨床心理士の東畑開人さんが、沖縄で怪しい民間療法師やらヒーラーと出会いながら、その本質に迫る一冊。とはいっても、悪徳業者を切る!みたいなテンションでは決してなく、自ら積極的にその施術を受けて回り、取材をしたりしながら、現代の心理療法そのものが実は曖昧なものではないかという問題提起に繋げる面白エッセイ。勿論、上記で掲げた『るん(笑)』のような世界観が裏にありながらも、その実態を見れば極めて人間的。何を信じようと、どんな思想だろうと、そこに在るのは、結局色々な人生。今まで憎んでいたはずのモノすらも、憎めなくなる東畑さんの作風は、他の著書にも通じていて全般おススメ。

 

4、『ゲーテ格言集』

急に古典かつ、どストレートな本だけれども、結局僕はここに帰ってきてしまう。学生の頃から、読む本がなくなると持ち歩き、本の端を折るドッグイヤーをし続けたら、ほとんど折れ曲がってしまい意味がなくなってしまった。それ程にツライ事があるとこの本を開いていたのだと思う。相談できる人も、頼れる親もいない時に、やはりこういうザ・文豪の一言には力がある。ふとした時に力を貰える。この存在に何度助けられたか分からない。こういう「この本の前では親以上に素直になれる」一冊というのは、持っておいて損はない気がする。

 

 

ということで、以上4冊を挙げてみた。最後を除いて「多様性」を受け入れる論調が強い。やはり、承認や愛着といった角度以外で、自分を肯定するには、まず他者を肯定できる心を持つのが安定的だと思う。誰かを許せるから、自分も許すことが出来る。こうした気持ちにさせてくれる本をピックアップしてみたつもりだ。

 

そして『ゲーテ格言集』においては、頼れる思想を手元に抱くことが精神的安定を生んでくれるという好例。親は所詮、どこかで交わった男女でしかなく、家庭環境という意味では大きな存在だが、所詮生きていく上で必要な「何か」を確実に与えてくれる保証はない。勿論、親に対する感情は人それぞれなのだけれど、家族によって追い込まれた時に、自分を支えてくれる親以外の存在が、僕にとっては読書だったりした。活字は、いい意味での逃げ場を作ってくれることもある。

 

その場に居て自覚するのは難しいが、今見えている環境が全てではない。そこから得てしまった短絡的な決心は往々にして、悲劇しか生まない。実際、そうなりかけた場面も多くあった。そんな時、少しでも余裕を得るためには、ネットで恨みつらみを吐き出すでもなく、信頼のおける本と向かい合うことを是非勧めたい。上記だけでなく、沢山の良書がある。人の世はとことんクソに思えても、案外捨てたものではないと教えてくれるかもしれない。

 

 

と、珍しく時事に絡んだ事を書いてみた訳だが、思った以上にタイピングが進んでしまい、案の定長くなってしまった。僕自身も色々と溜まっていたのだと思う。こういうことは余り書くべきことではないのかもしれないが、共有する意味が多少なりともあると、ここ数日のネットを眺めて思ってしまった次第。

 

とかく、週一ペースでこんな気負っては続けていけないので、次週以降はまた気を楽に持って何かしら、気になった事を書いてみたい所存です。コミケ、ちゃんと開催されるといいなぁ。

 

 

「多様性」という言葉と心根について

情報過多な一週間だったような気がする…
更新に先んじて、明後日イベントがあるのでここで宣伝。7/15(金)たまーにお誘い頂いて不定期配信をしている、おたっきぃ佐々木さんとオフラインでトークイベントみたいな事をやります。性癖やらオタク話をしながら飲むというイベント。秋葉原で開催予定ですので、お暇な方は是非に。

 

ということでここから本題。毎週水曜に更新しているわけだけれど、こう1週間で余りに大きな出来事が続くと、何を書けばいいのか分からなくなる。周囲の関心を集められそうな時事ネタに寄せるべきか、はたまた硬派に、まるで関係のない話題でいくか。
 
 
そういう時、潔くスパッと決められればいいのだけれど、結局のところいくつかのテーマを浮かべては消し、浮かべては消し。ぼんやりとそれらから共通項を見出してみては、ちょうどすべての話題と等間隔にあるような言葉を抽出し、テーマにしてしまった。今週も色々な事を頭に過らせながら、比較的短く、簡単に書いてみることとしたい。
 
 
 
ここ数年、よく聞くようになった言葉の筆頭として「多様性」というものがある。今回の参院選でも争点のひとつとして捉えられていたのではないだろうか。
 
 
この言葉は、旧態依然とした一律的な発想を抜け出して、性差や趣味趣向など幅広く他者を認めていこう、というスローガンに使われることが多いように思う。近年セクシャルマイノリティの主張を皮切りに、働き方改革やこのコロナ禍を経て、一気に社会に広まった言葉の一つだ。
 
 
そして案の定というか、やはりこの言葉を巡って、ネットでは様々な議論を見ることが出来た。やれフェミニズム勢が女性の権利を叫ぶための論拠にしてみたり、あるいはガラパゴス化・硬直化した古い日本産業や文化の批判に用いられたりと、なかなか万能なワードである。
 
 
ただ一方で、そうした主張に対して、こちらも既に手垢がついた反論が投げつけられる。「多様性を掲げながら、他者の権利を妨げるのはおかしい」「ガラパゴスも多様性の一つではないか」などといった具合だ。
 
 
これら応酬を見てわかる通り「多様性」という言葉の性質上、何かを主張する根拠に使うと、それに反駁する他者も認めなければならないという縛りが生まれる。
 
 
そうすると何が起こるのかと言えば、理屈の上で結論に行き着かなくなり、上記の通り議論がぶっ壊れてしまう。正直なんでもアリになる。水掛け論に次ぐ水掛け論。一見万能に見えて権利主張に使うには余程明らかなマイノリティでない限り、何も生み出さない、虚無に近いアイデアでもある。
 
 
勿論、虐げられた人々が権利主張に使うのは合理的だと思うのだけれど、僕自身、一時期この言葉を聞くと辟易するというのが本音だった。詰まるところ「何をしても私を認めろ。」こうした脅迫のようにも聞こえてしまう。強く権利を叫ぶ人の為に、自分の信念を捨てることが「多様性」に従事することになるし、どれだけ阿保らしいと感じた事にも付き合わねばならぬのが「多様性」への貢献であったりする。
 
 
こんな事を考えていると行きつく先はニヒリズムリバイアサンだ。虚無か闘争。多様性に黙るか、多様性で殴り合うか。結局、耳触りがよいだけの無用な言葉なのだろうか。ネットを眺めては、そんな事を考えていた。
 
 
しかしながら、既にここまでこの言葉が世に広まっているということは、どこかで皆が「日本社会に不足しているもの」あるいは「社会は多様であるべき」という認識を持ち合わせているからなのだと思う。では、この「みんな違ってみんな良い」という考え方が我々を引き付ける根本的な発想は、どのようなものだろうか。
 
 
実際、答えはいたってシンプルで「他者を他者として許す」という姿勢のように思える。多様性を自分が強く主張する前提で使うと上記の通り、議論が立ち行かなくなる。むしろ、本来の使い道は、他者を許すことで自分も許されやすい環境を作るという、他者依存的な概念と言える。
 
 
「多様性」というワードの面白さは、この言葉を使う人の心根によって、露骨にその意味が生きたり、死んだりする。強い自己主張に使うと意味は雲散霧消し、他者容認の姿勢になることでようやく本来の意味を帯びてくる。いくら声高に「多様性」を叫んでみても、実際に多様な社会になるどうかはそれを聞いた人の態度によって決まってしまう。最初から言葉の意味に相互性が付与されているからこそ、この語は使う人の態度を如実に示してしまうのである。
 
 
こういう事は、何もこの言葉に限ったことではない。マジョリティをうち倒すためのマイノリティの言葉だからといって、権利を何にでも振り回していいわけでなく、与党を非難する立場の野党だから安易に過激な言葉を使っていいわけではない。公共的な価値を考えるためには、利己を超えて言葉を扱う姿勢や、その人の心根が問われたりする。つまり自分の為だけに「多様性」や「権利」が存在することはあり得ない。
 
 
また「多様である」という事は、先にも書いた通り、誰かが誰かを許すことであり、または誰かが誰かを諦めることだ。自我の執着から離れ、人と自分の間に無を受け入れる事。かなり仏教的な発想であるように思えるけれど、法華経で女人成仏や悪人成仏が説かれていたりするわけで、要するに昨今の人権の多様性重視という話は、誰だって成仏できる、つまり許すと説いた大乗仏教ブームにも近いものを感じる。
 
 
人には皆仏性が備わっているのだから、命あるものを全て救っていく。綺麗ごとのようだけれど、これが多様性の正体であり、本質なのだろう。よって自分の都合で多様性を他人や外部の社会にだけ求める事は、やはりお門違いだったりする。要するに「認めろ」というベクトルの時点でそれは多様性でない。自分を多様の一人として認め、諦め、多様の一人として他者を見る。そういう一種の境涯を示す言葉のように僕は思う。
 
 
 
なんていうか、冒頭にある通り色々と考えさせられる一週間だった。銃撃やら参院選やら。とてつもない事件があり、いやまして選挙の時というのは、とりたてて普段気にも留めないフォロワーの政治信条が垣間見えてしまう。あ、あの人、そういう発想なんだ。こういう考え方なんだ。思った以上に、色々なものが現われる。
 
 
そうすると、こういう発言をしたらあの人に切られるなとか、嫌な思いをさせるかもしれないな、という事も過ってくる。飲み屋でタブーになるのも分かる。色々な意見が存在することに、それを許すべきことに対して虚無感を抱いたりする。しかし、ニヒリズムと隣り合わせでも、やはり世は多様であるべきだと、ナイーブになりっぱなしな自分に喝を入れる。
 
 
同人誌を作っていても、ブログを書いていても「これ、何の意味があるんだっけ」と自省を始め、タイプする指も止まりそうだったけれど。一人くらいこんな人間がいてもいいだろう、という婉曲なセルフ励ましのような話。
 
理屈も話も取っ散らかっているけれども、今日はこんな所で、更新出来ただけ良しとしたい。
 

Twitterを13年続けて。見知らぬ人を偲ぶこと。

13年という時の重さに潰される。

7月になってしまった。毎週水曜ということで今週も更新。コミケに関することを書き連ねるつもりが、Twitterを通じてちょっとした感傷に浸ることがあったので、そちらを優先して書いてみることにする。

 

 

Twitterに日々勤しむ勤勉な方であれば見た事があるだろう。毎年Twitterを始めた日が、勝手に記念日にされ、リプ欄に突如「記念日おめでとうございます」という文字が現れる。ハッキリ言えば、日々の貴重な時間の中で、ダラダラとSNSに依存を続けた年数が如実に示されるという意味で、決して喜ばしい日ではない。

 

画像にも掲げた通り。僕に関して言えば、今年の7月で13年が経過したという。ネットという虚空に向け、140文字以下の情報を淡々と打ち続けて、既に気づけば15万ツイート近い。ふと『コンタクト』や『三体』といったSF作品を思い出してしまった。

 

果たしてその13年という時間で、僕は何を得られたというのか。未知の存在からの返答はあったのだろうか。まぁ正直、そうした虚無感にちょっとした恐怖すら感じた訳である。そして虚無感ついでに「僕はなぜこんなツールを眺め続けてしまっているのか」という自問に至った次第。

 

そもそも現在のTwitterは、見ればすぐ理解できるほどに混迷を極めている。様々な主義主張が乱れ飛び、毎日言い争いや、お気持ち主張を眺めるには事欠かない。そういえば5年前、僕はここでこんな記事を書いた。

wagahaji.hatenablog.com

クソリプ」という言葉が丁度定着した頃だった気がする。バズったツイートに対して求められてもいないのに自分の意見や経験を投げつけたりする「クソリプ」に対する分析と、ある意味それは人間らしい営みなのではというフォローを加えてみた与太話だった。

 

当時はネットマナーをちょっと角度を変えて論じたつもりだったが、最近ではこの「クソリプ」も、ユーザーからはTwitterの基本的な仕様のひとつであるように捉えられている節がある。

 

かなりの人は、引用RTで高圧的なコメントすることに躊躇がなさそうだし、むしろ「聞かれてもいない体験談や意見を、誰かに投げつけつけられるストレス発散ツール」だと考えている人の方が、マジョリティになっているようにすら見える。まぁ、間違いではないのだけれど。

 

要するに、多くの人がTwitterを使うようになり、もはやエンタメニュースとワイドショーを垂れ流していたマスメディアとその性質は何ら変わりがなくなったという事だろう。昭和生まれなら理解出来ると思うけれど、あの頃ミッチーとサッチーの確執を毎日のように報じていた番組と、それを眺めていた視聴者という構図が、現在SNS上で再現されている訳だ。人はやはりどうしたって揉め事が好きなのである。

 

僕らはあの頃のそんなマスメディアを下らないと思って、ネットに引きこもったというのに。もはや安息の地は失われてしまったのだろうか。あれ、考えていたのは、Twitterを続けていた理由だったような…と、こんな調子でSNSへの愚痴を書けば書くほど、タイピングが速くなってしまったわけである。

 

 

と、真面目にこんなツールを使い続けてしまっていることに疑問を抱き、ふと理由を考えていたりしたのがここ最近のこと。そんな折、ある人の事を思い出してしまい、こんなツールが齎してくれた恩恵と、僕がネットの先に何を見ているのかという話が薄っすら浮かんできたので、今日の本題として残してみたい。

 

 

とある新聞社に福田さんという記者の方がいた。オタク関連の記事を愛を持って書いてくださる文化部メインの名物記者で、Twitterでは(福)さんとして知られていた。個人的には氏の記事を読み、精神的に救われたこともある。僕が評論同人誌作成を始める端緒になった一人だった。

 

まるですべてを受け入れるかのような懐の深さで、コスプレや着ぐるみ文化にも造詣が深い。最早何をきっかけに関わりを持たせていただくようになったかまでは覚えていないけれど、確か僕もそうした趣味の方面でフォロー頂いたような記憶がある。

 

しかも毎度、僕が夏コミ冬コミと発刊する同人誌を購入頂いていた。現地では買えないからと、わざわざ連絡を貰い、ご住所に発送していたのも懐かしい。都度感想も下さった。

 

その中で、一度。ぜひ直接お会いしたかったのと、そのオタク文化への思いについて詳しくお話を聴いてみたかったこともあり、僕の同人誌での取材の申し込みをしたこともあった。丁寧に対応下さったけれど、その時はちょうど忙しい時期が重なってしまい「是非、また」ということで話は流れてしまった。

 

そして昨年21年6月。福田さんは49歳で亡くなった。くも膜下出血だったという。Twitterで訃報を知った僕は、強く、後悔した。「是非、また」じゃなかった。すぐにでも、機会を別で作り、会いに行けばよかったのだ。本当に会いたい人、行きたい場所について、チャンスを逃してはならないと心から悔いた。

 

しかしながら、後悔と共に、ふとこんな事を思った。氏の事をここまで強い気持ちで偲ぶことが出来たのも恐らくTwitterのおかげであることは確かだった。僕が趣味やら生活やらで適当な事を日々吐き、それを福田さんが見つけてくれたこと。それは、ある種の奇跡だった。そして、彼が亡くなった折に、ここまで氏の事に深い悲しみを覚えたのも、SNSを通じて縁が生じていたからである。

 

先月。福田さんが亡くなって1年が経った事をぼんやりと思い出し、まだ残っている彼のアカウントを覗いてはその言葉を追ってみた。人との出会いというものは、自分の意思だけで決められるものではない。結局、会う事は叶わなかったけれども、こうして残された言葉を通して、どこか繋がっている気がする。SNSを眺め、見知らぬ人を偲ぶ。不思議な気分だった。

 

冒頭『コンタクト』や『三体』を挙げたけれど、案外僕がTwitterを続けてしまうのはそういう所だ。この意味のない140字以下の情報が、どういう形でか、得体の知れない人に届く事がある。それによって齎されることは、パニックSF映画のように良いことではない事もあるけれど、少なくとも僕にとって良いことの方が多かった気がする。

 

なんだかんだで、人は一人で生きられない。寂しくなったりする。だからこそ人と人の感情が露わにになる揉め事も好きだし、得るべきでないと分かっている他人の情報すら報酬系は求めてしまう。下らないと分かっていながら、やはり人や人に纏わる何かを求めるのは仕方のないことなのだろう。

 

Twitterというツールを眺めて13年が経った。自分の人生において多くの時間が無駄になっているのは間違いない。それでも、そこでしか得られなかったものまで、否定することも出来ずにいる。言葉がネットの海に残り続けることは、今の時代では勿論大きなリスクだけれども、僅かにでも残る確かな思いと、その可能性を信じてしまうからこそ、適当な言葉を吐き続け、その場所を未だに捨てられずにいるのかもしれない。

 

 

梅雨が本当に明けたのか分からない中途半端な天気の中で、感傷に浸ってしまったお話でした。こんなこと書きながら、怒られないよう徐々に夏コミ新刊の準備も進めております。そろそろ言葉通り、同人誌に関する話題も載せられるよう精進していきたい所存。日々の暑さに疲れるけれども、少しずつ前に進んでいきたい7月初旬でした。

 

「推す」という語の本質を考え出してしまった話

アクスタ初めて買ったわ。

 

クソみたいな暑さが続く。

 

先週「梅雨真っ盛り」と書いたはずなのに、もうその梅雨が明けたらしい。通常、入梅して多少の晴れ間があって、また曇天を繰り返し、7月上旬~中旬にかけて「やっと明けたか」と言っている記憶が強い。

 

最早、何が異常で何が正常なのかも分からない中、週一更新ということで今週も今週で面倒なオタクの内省を晒していくこととする。

 

 

オタクの世界において「推す」という単語は、もはや広く一般化したと言っていいだろう。最近「かつてオタクは好きなキャラを「嫁」と呼んでいたが、昨今ではオタクが嫁を貰う甲斐性もなくなった挙句、一定距離を保って見続けたいという願望から「推す」という所に留まるようになった」なんていうネタをどこかで読んだが、辛辣で笑った。

 

実際「推し」って言葉は、ドルオタ界隈の発祥単語だと思っている。(特段ソースを調べていないけれど)リアルアイドルを前にする現場でいちファンが「嫁」なんて呼称を使った日には、そりゃ同志の間では空気が悪くもなる。「推し」という言葉の距離感こそ、同担を現場内で共存させるには程よい温度感ではないか。

 

そうしているうちに『アイマス』『ラブライブ!』『WUG』『プリパラ』やら、アイドルアニメブームが一気に押し寄せた結果、先のドルオタ文化と重なって、オタク全般好きなキャラに対する呼称として「推し」という語が一般化したのでは、というのが簡単な推測。

 

ただ、僕個人。世代の問題なのか、どうもこの「推し」という言葉に二の足を踏みがちだった。むしろファナティックの略である「ファン」の方がすんなり理解が及ぶ。一方で「現在は好きなキャラやアイドルを「推し」と呼ぶんだから従えばいいじゃない」っていう話もその通り。その通りなんだけれども、なんか「推し」って違うんだよなぁ。と前々から思っていて。

 

ということで今日は、この言葉の意味についてうだうだ書いてみる。

 

 

 

もとより、僕にとって「推し」と呼べる存在は既に居た。ここでも以前散々まくし立てた通り、声優の堀江由衣氏と上坂すみれ氏。それぞれラジオを長時間聞いたり、現場にも行ったし、元よりファンであって、今風に言えば間違いなく「推している」訳だ。

 

ただ、僕は元々アイドル文化がなんとなく苦手であった。元来の人間不信も相まって、昔からテレビで見るようなアイドルには裏があるとぼんやり思いこんでいた。外見がとかく優先される風土もどこか馴染めなかったり、実態がどうだったに限らず、とかくあの商売の形態が苦手だったのだ。

 

だからきっとアイドル的な印象がある「推し」という語に対しても素直になれない気持ちがあったのだろう。それにも関わらず、何故上記声優を「推す」事が出来たのか。その答えは、やはり新たに「推し」が生じる過程を通過する中で気づくことになる。

 

その対象は、ホロライブ所属のVtuberの尾丸ポルカだ。ポルカおるよ、でおなじみホロライブ5期、サーカス団の座長を目指すフェネックこと尾丸ポルカだ。

www.youtube.com

 

そもそもVtuberにハマったのが、昨年の11月。知人に勧められたのが最初であり、早々にVtuber自体飽きると思っていたのだけれど、今もってその熱量は続いていたりする。

 

よく、Vtuberに対しても「ガワを被っただけのアイドル」という批判がなされるけれど、逆に僕には好都合だった。アイドル文化に対して感じていた生々しいルッキズムが、Vtuberとなることでオブラートがかけられたように映る。詰まるところ、3Dアバター化したことにより、僕個人が抱いていたアイドル文化への苦手な点が薄まったのも、この世界にハマった一因だろう。

 

その上で、明確に尾丸ポルカに対して「推し」を意識したのは今年の1月。彼女の生誕祭ライブイベントだった。普通、生誕祭なのだから主役は彼女だ。にも拘わらずそこでポルカは、自らソロで歌う場面を作らず、前面に出る事を敢えてしなかった。むしろ周囲のメンバーを呼んで、ライブをプロデュースをするという立場を取った。ホロライブという枠の中で自分が見たいものを演出し、我々に提供したのである。

 

勿論Vtuberとはいってもアイドルなのだから、自分が見られてなんぼの世界なのは前提のはずだ。それでも「本当に好きなモノを作りたい、むしろお前らにそれを見せたい」という彼女の思いを喰らった時に「あぁ、この人。オタクとして信頼出来る」と悟った。その後、チャンネルをサブスクし、彼女の雑談配信やらゲーム配信やらを眺める中、生誕祭に抱いた信頼感は一貫して尾丸ポルカというタレントの気質に通ずるものだと確信した。

 

要するに、この「信頼」こそが、僕にとって誰か、何かを「推す」為に一番重要な事であると気づいたのだった。

 

これまで書いてきた通り、僕がアイドル文化に対して苦手意識を抱いていたのは僕個人の身勝手な不信感が原因である。アイドルの二面性(を勝手に邪推したり)や、ファン側からも外見を優先する(と勝手に邪推する気持ち)ことに対し、「そこに双方への愛はあるんか?」と懐疑の目を向けてしまっていた。

 

そんな苦手意識が、Vtuberという枠組みにより、配信で長時間そのパーソナリティに触れ、パフォーマンスの裏側が知れたりした結果、自然と懐柔されてしまったわけだ。声優に対してアレルギーが働かないのも、多分基本的にラジオ文化が浸透しているからだと思う。トークを何時間も聴いた上で、僕は人格として信じられるか否か、つまり推せるか推せないかを判断しているように思う。

 

尾丸ポルカという存在に、アイドルに対する先入観を浄化され「推す」事の本質を、改めて知った気分である。多分そんな事が言いたかったのだろうけれど、余り纏まっていないのでこの辺で終わりたい。

 

自分で言っておきながら本当に面倒くさい性分である。何なら、Twitterのアカウントに「推しマーク」(キャラ毎に推している事を表す絵文字)を付けるかどうかで、当初1か月くらい悩んだ気がする。現在では、しれっとマークを付けているものの、それほどに「推し…とは」みたいな事で悩んだのだ。とことん、どうしようもない。

 

加えて書きながら思い出したのだが、5年前にも『Wake Up Girls』を鑑賞した際、今日と同じような記事を書いていた。まるで成長していない....…

wagahaji.hatenablog.com

絶望しながらも、とりあえず今週も更新出来たので、少しは自分を褒める事にしたい。そろそろ、次週辺りコミケの話題でも出したいところです。