わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

大人になってミニ四駆を組み立てて思うこと

ここしばらく。前も書いたかもしれないが、コロナ禍状況でこう日々に抑揚がなくなると、取立ててブログやらネットに書くこともなくなる。休日もぼんやりと家で嫁はソシャゲ、僕は格ゲー。進みもせず、後退もしない。「平日は仕事だけ適当に済ませ、他に何もしていない日々」がずっと積み重なっているだけのように感じられてしんどい。無力感にとかく潰されそうだった。


ただでさえ根暗なのに、社会情勢によって更に根暗に磨きがかかっては溜まらない。ちょうど一気に寒くなったところで、久々にブログでも書いてみようと思った。とはいえネタがなくては、何も書けない。「最近何もしていないしな…」と思いつつ、自粛中に手を付けてみた事をツラツラ箇条書きにしてみたのだが、思いのほかポロポロと挙がってくれる。


なんだよ、本当に周りが見えなくなってたぽい。書き出された項目を眺め、多少は人間らしい生活をしていたのだと、自分のことながらホッとしてしまう。たまに改めて何かを書き出すって大事だなと思った中で。今回は「ミニ四駆」を20数年ぶりに作ってみたという話をしてみたい。

 


80年代以降生まれの男子には説明不要だろうが、ミニ四駆というおもちゃ、言うなればホビーがある。タミヤが製造販売している単三電池とモーターで走る、手乗りサイズのプラモカーだ。小学生のバイブル『コロコロコミック』誌上で10年に一度くらい漫画になり、その都度ブームが起きているようなイメージ。今年で30+アルファくらいの年齢の僕も『爆走兄弟レッツ&ゴー!』という作品で漏れることなく90年代ブームに引っかかった世代である。


数年前からリバイバルブームの兆しがあるのは知っていたし、何度かヨドバシカメラミニ四駆売り場にも足を運んだこともあった。それでも、作ったところで走らせる場所もなく、引いては「買っただけで満足して飽きるっしょ」ということすら簡単に想像がつく。何に背中を押されたわけでもなく、別に手を出すまでもない。と、そんな感じで二の足を踏み続けていたものの、昨今の暴力的な空白時間には負けてしまい。「まぁ、作るだけ作ってみるか」という気持ちにさせられ、とうとう僕はミニ四駆に手を出すに至った次第だった。


今思えばミニ四駆の購入なんて、ヨドバシをふらつく中で抱いた一種の気の迷いだったと言える。但し、きっかけは迷いであったとしても、選んだ道が一本ならば進むしかなかったりする。半ば諦めと共に買うと決めて、マシンとパーツを選ぶ間、既に頭の中には、どのようなマシンに仕上げようか、このパーツ組み合わせると重すぎるか?いや、外観は悪くない・・・という子供の頃抱いていた葛藤と妄想が広がっていた。「ミニ四駆を買う」と決めたわずか10秒後である。即堕ち2コマも笑えない。その瞬間にして、小学3年生以来の気持ちの高まりと向き合う羽目になった。


結局僕が選んだのは「ソニックセイバー」という、主人公兄弟の弟の初代機体だった。王道なチョイス。オーソドックスながら90年代スポーツカーを思わせるフォルムに、あの頃と何ら変わらない高揚感を抱いていることに気づく。元々、小さな頃は車が好きで父親にせがんで毎年モーターショーにも連れて行ってもらっていたくらいだ。GT-RにRX、ユーノスロードスタースープラNSXからフェアレディZまで、国産でも探せば探すだけカッコいい車があった時代。三つ子の魂百迄など言うまでもなく、ミニ四駆の箱を久々手にした時、そんな国産車に憧れていた当時のように、純粋にカッコいいものに触れたという心地を思い出してしまった。


そして昂った気持ちのまま会計に行くと、マシン+パーツ込みで3,000円強だという。あの頃は親に必死にせがんだアルミ大ローラー(600円)すら買ってもらえなかったのに。最早自分が三十路過ぎのおっさんである悲しみを知ると共に、大人の財力の無尽蔵さに感動した。レジ前で謎の無敵感すら抱く始末。これはもうタガを外してしまって構わないのではないかと考えた刹那、その後はもう小学生みたいなテンションで行動した。(結局、工具等揃えるのに1万弱使ったのだけれど)


翌日、新橋にミニ四駆のコースを備えたタミヤの専門店があると知った僕は、早速ランチに出かけようという口実を使って、嫁を連れて新橋に向かう。コースはコロナ禍で予約制となっており、直接見ることは出来なかったが、ヨドバシで不足していたパーツと缶スプレーを購入。また、ミニ四駆用のメッシュ(ネット地の布でボディに穴を空けて、そこに貼る外装用のドレスアップパーツ)が現在生産されていないと知ると、布地のお店で代用のハードチュールを購入。着々と脳内妄想を現実の形にすべく、次々と(嫁の迷惑を顧みず)手を打った。


買う前はアレだけ躊躇していたのも馬鹿らしくなるほど、その後数日間、ソニックセイバーを完成させる事しか頭になくなっていた。「臭い」と苦情を貰いながら、ベランダでこれもまた20数年ぶりに缶スプレーをボディに吹きつつ、自分はなんでこんなに夢中になっているのだろうとふと冷静になる。シンナー臭に頭がぼんやりしながらも、数秒思いを巡らせれば、そんなの既に分かりきった事であった。男なんて、幾つになろうが小学生の頃から本質の部分は何一つ変わっていない。ただそれだけのことだった。


物心ついたかどうかという時から、無性にカッコいいと思えた名車の数々。直接手は届かなかったけれど、その夢がミニ四駆という形になって、自分の手の中に収まった時の感動は、やはり20数年経っても未だに脳内のどこかに根付いている。今、小学生にはちょっと厳しかった改造も容易にこなせるようになり、価格が当時には高すぎたパーツの数々も簡単に手に入る。弱体化したのは部品を落とすと、目がチラチラしてあの頃より拾いづらいくらい。自分の手で、ミニ四駆を完成させるという体験は全く色褪せることなく、あの頃のワクワクがそのまま再現されるからこそ、今大人になろうと手を動かすのがこんなにも楽しいのだ。


と、熱量高く一気に完成まで漕ぎ着けたソニックセイバー。しばらくは眺めながら、写真にとってSNSに上げてはウットリとする日々だったのだけれど、どこか切なさも同時に感じるようになってきた。あれか、作るばかりで、走らせる場所がないからか。新橋はもちろん、ネットを探せば色々な場所にコースはあるようだし、コロナ状況さえ改善して仲間内でも声をかければ、共に走ってくれる知人はいそうである。でも単に走らせるとかそういう部分でもない、何だかセンチメンタルな気持ちに気づき始める。ああ、あの頃と同じ気持ちで作ってしまったからこそ、今俺は大人なんだな、ということに改めて思い至ってしまった、という具合だ。


あの頃は、団地にあったおもちゃ屋の軒で、店主が作ったであろうコースに自分の大事なマシンを持っていけば誰かしら友達がいて。適当に駄菓子食いながら、ミニ四駆走らせて、コースアウトしたなら必死で追っかけて、夕方になったらまた明日、みたいな。そんないい思い出ばかりじゃない。隣の小学校の不良にマシンを盗まれ、自転車で轢いて車体ごと壊されたり、狼やら神風やら違法モーターから煙出して店主にすげえ怒られたりとか。当然、ミニ四駆を通して、大人になった今の楽しさがあるように、やはり当時は当時の楽しさがあったということも、何となく思い出してしまった訳である。


今回ミニ四駆を作ってみて、自分の本質はその頃となんら変わっていないことに気づけたのと同時に、やはり自分は大人になったのだなと改めて当たり前のことを実感させられてしまった次第。


だからこそ、今作ってみたミニ四駆を走らせながら、早く今だからこそ得られる楽しみを味わいたいと思っている。書いてなかったが、その間に気づけば2台目も組み上がっていて、現在3台目を買うか悩んでいたりする。出来上がった機体を飾るばかりでは勿体無いという話もあるので、そろそろ外出できるようになったら、走らせる場所でも探してみようと思う。

 

コロナ禍で得た趣味のひとつの話でした。

 

45歳定年制から考える「会社」って場所

たまには短く時事ネタでも。つい先日、サントリーの社長新浪氏が発言して、ネットでも話題になっていた「45歳定年制」。半ば炎上を伴いつつ、いろんな人が発言していたので、僕も気になってしまった。

 

news.yahoo.co.jp

 

発言の背景は、それだけ定年を早めれば、人は自分の人生についてちゃんと考えるようになるだろうって要旨とのこと。なるほど、新卒で企業に就職して約40年間。その長いスパンをひとつの組織で終えてしまう人は、終えてしまうわけで。そうなると、思考停止やら成長の欠如やら。あるいは雇用コストの増大、向上心の低下と個人にとっても企業にとっても、デメリットが存在するというのは簡単に想像がつく。

 

そうであるならば、一気に定年を早めることで「組織に属さない自分」の在り方を模索してもらおうという意図なのだろう。言ってしまえば副業やら現在一般的となっているテレワーク議論とだいたい同じ議論だ。つまるところは、働き方改革の本質的な部分。企業と個人の程よい距離感を探して、個人にとっては組織に縛られない自由な生き方、企業からすれば新規性や生産性向上を保てるように、お互いにメリットあるシステムを作りましょうって話。

 

新型コロナが流行ってからというもの、ほぼ毎日といっていいほどこの手の話題が目につく。どちらかと言えば革新的な事が好きな身としては、頷きながら読んでいるわけだけれども。どうも、今自分の働いている職場と照らし合わせると違和感しかない。この意識高めな「働き方改革」ってものが、何か今この国の「会社」って場所に対して性善説を抱きすぎているような。そんな、歯に何か詰まったような感じがしていた。

 

そもそも、会社って。一様に、バリバリと自分のスキルや、成果を振り回して「成長を!!」と叫ぶような場所かと言われると、即座に肯定する人もいれば、いや、全然。と横に首振る人もいらっしゃる。僕個人は、どちらかと言えば後者寄りな会社に勤めていて、上の世代を見れば、隙あらば楽な仕事に安住するスキルに長けた先輩なんかもよく見る。あるいは、仕事の合間に長話に興じている女性陣なんかも。

 

先に言っておくと、こんなブログで普段の職場の愚痴を言いたいわけでも、それらを非難したいわけでもない。それは彼、彼女にとって、会社がそういう場所であるのだから仕方のない話だったりする。会社からすれば多少頭の痛い話かもしれない。そうした無駄によって生産性が上がらない、効率の悪い勤務形態が残っている。それは企業からしたら是正すべきものだ。

 

但し同時に、仕事が好きかどうかは別にしても「会社がその人にとって居心地のいい場所」であることは、社員から求められ、会社が提供すべきことだったりする。そして、昨今の世の中。地元地域とのつながりが希薄になる中で、この中高年なる方々の横のつながりを具体的に支えているものこそ「会社」だったりしないだろうか。

 

当然設立間もないベンチャーや、平均年齢が30そこそこのIT企業でこの論法は通じない。どちらかといえば、昭和に設立され未だにその風土を脱しきれず、バブル期の雇用の空気が色濃く残り、昔ながらの商売で何とか糊口を凌いでいる会社を指している。実際、上場企業の従業員の平均年齢は40歳を超える。

2020年3月期決算 上場企業1,792社 「従業員平均年齢」調査 : 東京商工リサーチ

結構、この手の雰囲気の企業ってのは、未だに日本において多いのではないだろうか。

 

今「会社」は一種の社会福祉を担う施設のように思える。賃金が発生しながら、職業訓練の場となり、人的コミュニティを担保する。これが、令和3年における「会社」の実態的な姿なのではと個人的に思ってしまう。テレワークの普及が、逆説的にこれを鮮明化させたとも言える。そしてもちろんだけれど、今30そこそこの自分からしても、単なる「上の世代批判」の話ではない。

 

これから我々が突入する時代も「VUCA」とか言われる通り、まるで価値観の推移が読めなかったりする。仕事に対する捉え方もまるで異なってくるだろう。

 

その中で、そんな社会保障的な役割の企業像って、そう簡単に捨てられるんだろうか。いやむしろ、稼ぎ方も変わり、常に新しい働き方をアップデートしなければならない中、そして住む土地土地での繋がりが希薄になればなるだけ、また自治体のサポートが小さくなればなるだけ、そうした「担保してくれる」関係性に対する希望者が減るとは思えない。企業の福祉化、その風潮はより進んでいくのでは…とちょっと思ってしまった。

 

もちろん、これは業界によって、会社によってさまざまな風土があり文化がある。新浪社長が言ったように、成熟した個人として会社と雇用契約を結び、良き関係性の中で共に成長するというのは理想論だろう。ただ、大きな政府論ではないけれど、今この国の「会社」の実態の6割くらい(適当な推論)は先に挙げたように「賃金の支給」だけでなく「職業訓練」「コミュニティの担保」が従業員への供物となっている気もする。

 

結果、この国の企業は競争力が足りないと言う。新たな新規性のあるプロダクトが開発されないと嘆く記事をよく見る。僕が冒頭に抱いていた違和感というのは「はて、多くの会社、そこに属す従業員がそれを望んでいるのだろうか…」と、とどこか当事者不在でありながら、嘆きのみが拡散される今の状況に対して抱いていたものなのかもしれない。当然、その当事者不在も思考停止の賜物だったりするのだろうけれど。

 

45歳定年というのも、ある種で面白い試みだと思う。実施してみないと分からないこともあるし、今からでも想像つく結末も存在する。確かに持続可能な成長を、とのんべんだらりとしたこの閉塞感を打ち破る意味では必要な施策かもしれない。ただ、今「会社」が担っている本質くらいは、もう少し見据えたほうがいいのではないかなと、そんな独り言でした。

 

『月姫 - A piece of blue glass moon-』をプレイして(ネタバレ)

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家にポスター貼ってるのもどうかと思う。とにもかくにも『月姫』である。そう、日付を超えて本日9/9(水)はネタバレ解禁なのだ。

 

何度でも言うが、リメイク制作発表から12年強待った。それだけの時間をかけると、先月8/26に迎えた本作の発売はもはや奇跡の類に感じる。限定版が宅急便で家に届けられ、現物を手に取った時でさえ、何かの間違いではないかと数度疑ったほど。何はともあれ、4度の五輪を経て、ようやく『月姫』は我々のもとに届いたのだ。

 

延々待ちわびた僕も30を超えたいい歳のおっさんになっていた。もう大人なのだから、ゆとりを持ち、悠然と時間をかけてプレイするつもりだったが、実態は誕生日にでも大好物を眼前に置かれた小学生男子のソレだった。休日とテレワーク、間隙すべてを使いのめり込んでしまった挙句、約4日間で全シナリオを走り切ってしまった。正直既にロスって仕方がない。

 

そして、本日。発売2週間が経ち。ようやくネタバレ解禁ということで自由に文字を書いてしまいたい衝動に任せて今文字を書いている。ネタバレ禁止とはいえ、こんなご時世でなければ、アキバにでも飲みに行って、プレイ済みの御仁と感想合戦を投げ合っていたところだけれども。それも出来ない中、リメイクに対する感謝と鬱屈とした思いだけが募っている。寂しいけれど、今できる最大の憂さ晴らしをしていきたい。出来ることなら、みな早くプレイしてくれ。そして酒でも煽りながら一緒に語りたいのだ。

 

まぁ、前置きはそんなところで。以下ネタバレしかしてないので、未プレイであればスルー推奨です。

 

 

 

なんにせよ、やっぱし全員かわいくなってるよね。冒頭からネタバレでも何でもない、佐々木少年先生のレポ漫画そのままな意見でしかないのだけれど、本当にキャラデザの「残しつつ、今に改める」バランスが最高だと思う。どう足掻いてもかわいい。ショートで身軽になったアルクも、雰囲気が柔和になったシエル先輩も、もう何をしてもブレない琥珀さんも、まだ表ルートだからギクシャクが残りつつも純真な翡翠も、そして悪辣な言葉で兄を叩きのめす妹も。ずっと画面見ていたい。

 

しかも我々プレイヤーに対するサービスもいちいち素敵じゃないですか。そう、衣装のバリエーションですよ。アルクエイドルートでは、戦闘用ドレスやらデート用私服とか、もう童貞を殺す気満々なデザインにしてやられるし、シエルルートは、硬派な埋葬機関の秘密兵器っぷりが増しているしで大満足。

 

正直言ってしまうと、原作プレイ当時シエルにあまり萌えを感じなかった僕が、今回は完全に落とされかけたよね。CVの本渡楓さんの演技も相まって、なんか学生の頃にエロゲやってて感じた、淡い恋心みたいなものの片鱗を、この歳になって食らうとは思ってないじゃん。深夜ディスプレイに向かって「あ、これって恋かも」とか抱きだすアレ。もう絶対思い出したくないと思っていた真っ黒な感情、案の定このリメイクは呼び戻してくれた次第。

 

個人的にはエクストラEDよりも、ノーマルエンドのほうが『月姫』って感じがして好き。あの「もう元には戻らない、けれど進まなければいけない」という姿勢は、原作の鬱蒼とした中二感をくすぐるし、シエルの再生を志し、バチカンで学ぶ遠野志貴とか何それクソほど熱いじゃねえか…と泣きながらプレイ。そもそもこの作品、メインヒロインが「別れ」で終わるあたり本当に面倒な感情をプレイヤーに植え付けるし、あの悲壮さ溢れるシミジミとした空気感、ああ、これこれ型月じゃん!!と夜中1時半くらいに叫びたくなった。

 

そして、新キャラの多さよね。リメイクと言いながら、原作を粛々と焼き直すのかなと思っていたら、またアクの強いが出てくること。しかも、今回はあくまでも「月の表側」と言わんとばかりに、そのバックボーンについて語られたのは一部のみ。遠野家に出入りしている人間はあくまでも「次回」に取っておくこの用意周到さよ。

 

まず協会側の上司に、なんでマーリオゥとかいう、そういうショタを使うんだ武内社長。口の悪いショタ佐倉綾音とか最高じゃねえかと叫びつつ、セリフもいちいち気障ったらしいのが似非イタリア風情を醸してて悪くない。しかもなんだかんだでいいヤツ。当然、思惑に様々なバックボーンを抱えながらもジャパニーズ反社勢力みたいな恩義の感じ方なのは、嫌いになれるはずがないのよ。罵られた過ぎる。

 

そして、あの怪しい医者、阿良久先生なんだけれど。何が驚愕って、CV能登麻美子って。なんであんなハイテンションキャラを能登麻美子御大に任せるかな、と思いつつ、しっかりと物語のエグイところに絡んでくる両面性に納得。締めるところは締める、そのギャップの魅力ね。怪しい注射に、完全に「そっち」を理解した言い回し、そしてチラチラと匂わせてくる蜘蛛のモチーフも解明しないまま、今作は終えたけれど、色々今から解釈を巡らせるのも楽しい時間ってことで。

 

更に、遠野家に顔を出してくる斉木業人。何あの怪人。どうせ見た目だけのモブ枠かなとか思ってたら、分岐ミスると、サクッと後ろから殺しに来る辺り完全に黒。秋葉ちゃん普段からこんな奴と商談してんの?!と驚きを隠せなくなるくらいには、志貴に敵意丸出し。そして、街でたまに顔を合わせる「みおちゃん」だよね。丁寧に分岐を漁っていると、彼女の苗字が明らかになり…え?この子、全身黒ずくめのおっさんの娘なん?!んで、この詳しい話は次回?!モヤモヤしすぎる。もう早く、年末くらいには新作出してくれ。

 

と、叫んできたけれども、今回の弓塚さつきですよ。CVがレジェンド南央美から田中美海に変更され、あの女性声優界でもきっての型月ファンガールがさっちん役で抜擢。この人選にまずは五体投地で感謝。本編では相変わらず、さっちんルートっぽい分岐はあるんだけれど、選ぶと無難なルートとしてあしらわれる。まあ、最初から分かっていたことだけれど、案の定切ない。今回はホテルに滞在していたとか、ピンチの時には助けにきてね的原作にもあったような描写もカット。ただ、途中で長く学校を休んでしまう描写だけが語られ、これは…伏線ってことでいいんですよね。と静かにプレッシャーを抱く。

 

とりあえず、ここまで書きながら、これ終わらない。『月姫』語りは延々、続けられるなと感じてきたので、もう後はどこかの誰かとの飲み会の席に回すとして、今回一番僕が嗚咽したお話だけしておく。その時は最後の最後に訪れた。すべてのシナリオ、シーンを確認して、型月作品ではおなじみ「デッドエンド全回収」を果たしてみたわけだ。教えてシエル先生を全てコンプリートし、何も用意してないわけないよね?いや、期待しすぎか、と期待半分、諦めも半分でギャラリーを覗くとそこには最後の「教えてシエル先生」のアイコンが。

 

さすがはわれらが型月、こういう心配りが憎いねえと早速拝見してみると。そこで展開されたのはなんと「次回予告」。月の表側で起こる今回のアルクエイドルートとシエルルートが終わり、物語はいよいよ後半の遠野家の中へ。琥珀翡翠、秋葉ルートがあることが示される。その次回予告がすでに存在していたことに、そしてこのオールクリアを果たした後に開示してくれたという心配りに発狂。深夜じゃなければ叫んでたね。スマブラの新キャラ登場に沸く海外勢ってこういう気持ちなんだ、と一瞬で理解。そして、恍惚としたまま予告が終わりそうな雰囲気。あれ?さっちんは?

 

そんなファンの不安をあざ笑うかのように、最後のシーンに夕日に浮かぶ弓塚さつき。叫んだね。叫びながら泣いたよね。ようやく我々の悲願が叶う。何度諦めようとしていたことか、そのルートの存在は最初からなかったものと思い詰めていたところに、何年越しかはもう数えたくないけれど、あの「スタッフの総意」が現実になる日が来るのである。

 

それにしてもプレイしながら「これ高校時代とか10代にプレイしなくてよかったートラウマになってたわwww」とか朗らかに笑ってたけれど、一瞬で手遅れだったことに気づいた。これリメイクだったわ。まだまだ語り尽きない本作の魅力と次回への展望。とりあえずネタバレ解禁記念ってことで、書き連ねてはみたけれども。またしばらく時間が空いたら、ロスを埋めるべくもう1周くらいはしそうな勢いである。

 

この状態でまた数年待ちたくはないので、是非。次回作をすでに喉から手が出るくらい待ちつつ、来年中くらいの発売をひそかに期待するのでした。

 

キャンセルカルチャーとコミケに関する独り言

夏本番。賛否が盛大に渦巻きながら五輪は開催されており、コロナ感染者数は過去最大の推移だという。そんな中で日常だけが、淡々と変わりなく過ぎていく。スポーツ観戦は好きなので、毎日暇はせず済んでいるが、不思議な感じだ。未曾有の事態が何個も重なって、新聞の一面からでは何が大事なのかもわからなくなってきている。

 

そういえば、少し前から、五輪の開会式関係でキャンセルカルチャーなる言葉をよく聞くようになった。僕は言葉の意味すら知らなかったけれど、調べてみると「団体や個人の一面だけを取り上げ、非難をすることで今のキャリアや社会的地位を貶めようとする風潮」だという。

 

なんかこの説明だけ見ると、今回の小山田氏やら小林氏やらの件が被害者っぽく感じられる。まぁ、正直な話。小学校の頃から地元の古本屋のサブカルコーナーで一日座り込んでGONやらQJやら裏モノジャパンなんかをせっせと読んでいた僕個人の立場から言えば、90年代のサブカルアングラカルチャーには、何か子供心ながら「大人にならないと分からない独特な匂い」を感じていたし、つまるところそれは大人への憧憬だった。

 

世の中から外れている事をあえてやることに、ある種の尖りがあって、それがロックだと持て囃された時代だったのは間違いない。現在の倫理観に照らし合わせれば、ほとんどアウトな思想で埋め尽くされていたと言っていいと思う。そうこうしているうちに、ログがいつまでも残る時代になってしまったし、このキャンセルカルチャーが働きやすい状況になった今、それら危ういカルチャーに関する書物や情報はすべてリスクでしかなくなってしまった。

 

僕はギリギリ、そんな90年代に弾けていた世代の文化を頭上に見上げていただけのマセガキだったので、今回の件を受けて特段寂しいもんだなとか、そういう文化が叩かれるだけのサンドバッグと化すことに、ハッキリ言って大した感慨はない。ゆとり世代だから仕方のない話だ。

 

でも、キャンセルカルチャーという考え方が自分と関係ないかと言えば、決してそんなことはなかったりする。

 

思い返せば、既に20代の間。僕個人、コミックマーケットという場を介して同人誌を何冊出したのかわからない。評論雑誌だけならなんとかなりそうだけれど、その中には、創作エロ漫画だってある。しかも既存ジャンルのモノじゃ抜けないからとわざわざ、エキセントリックなシチュエーションを必死に作り上げた特級レベルの黒歴史と言っていい。黒歴史と言っておきながら、尚もそのDL販売で小銭を稼いでいるあたり、取り立てて反省はしていないのだけれど。

 

恐らく、将来僕がお仕事を頑張って、ひょんなことからそれなりの地位を得ることになるような時に、ネットで炎上される種を自ら蒔いているのは間違いない。あの人実は、すくみづなんて名前で、訳のわからない性癖を自ら漫画にして、シリーズ2作作って、英語翻訳までして、世界にその恥を晒しているみたいよ。とか。文字にしてみたら、思った以上にクビの可能性が上がった。夏目さんどころの騒ぎじゃない。

 

じゃあ、それらの書籍やデータを今から探しに探して消して回るのが正解なのだろうか。残念ながら、このネット社会で痕跡を完全に消すことは不可能だろう。タマホームだって、タマちゃんTVがしっかりと放出されている通り、親しい知人でも、先輩でも、取引先の誰かかもしれない。社会性を保っている限り、誰が文春と繋がっているか分からないのである。

 

そんなエロ漫画を引き合いに出すまでもなく、Twitterで12年つぶやき続けている発言自体も危ういものだ。多少自意識過剰に考えれば、いくらでも「こいつにキャンセルカルチャー仕掛けたろ」と思えば、僕ですらいくらでも燃やし続けることは可能だ。この感じが今なのだと、改めて思う。

 

こうした「叩かれる」可能性やリスクが蔓延する中で、自衛を行うことや、普段の発言を気に掛けることは勿論、正論中の正論だし、模範的なネットユーザーのふるまい方である。それと同時に、どうしたってネット空間というのは全力でふざけていたい場所でもある。現実でふざけちゃいけないんだったら、ネットくらいいいじゃん。そう思うのだけれど、ネットもほぼ現実と化した時代において、僕らはどこでふざければいいのだろう。と、思ってビッグサイトが浮かんだ。

 

やっぱし、そんな世の中だからこそ、コミケが開催されない時代ということをとても悲しく思う。やはり現実でも、現実化するネットでもない場所。我々にはそんな塩梅の場所が必要なのだ。

 

先日、用事があって池袋に足を延ばした。すると、街中にコスプレイヤーさんがチラホラ。ああ、これが世にいうアコスタってやつか、と時間もあったのでイベント会場であるサンシャインを覗いてみた。普段からコスイべに行くような人間ではないけれども、そこで久々に現実に非日常を謳歌している人らを見ることが出来た。

 

毎年二度にわたって、超大規模な非日常があったことをいまさら思い出す。誰に叩かれるでもなく、誰もが表現を許し、共存できる場所。日々ネットだけを眺めていて、いよいよ厭世的な感情に支配されることが多くなる中で、あのイベントに、次に参加できる日が来るまでは、最低限我々の心の中で生かし続けないといけないのかもなと思ったりする。

 

と、自分の人生や出世の不安以上に、ふざけられる場所の方が大切なんだなと思ってしまった次第だ。社会人10年もやってんのに、この発想である。どうしたものか。大人として大丈夫なのだろうか。蒸し暑くて眠れなさそうな夜に、久々の独り言でした。ああ、野外で騒いでビールが飲みたいものです。

 

 

言葉がどんどん難しくなってきていることについて

多分、することがなくなってきたのだ。ハマりかけた競馬も春のG1全てが終わり、そんなテンションからかウマ娘からも少し離れ。FGOは未開放の後半パートの存在に気づいて、一旦休止。格ゲーもほどほどプレイに切り替えたので、ボコられ放題。そもそも梅雨時期で酒すら飲みに行きづらい世相に、うじうじ悩むか寝るかくらいしか楽しみがない。

 

そんな毎日死に体だけれども、今日はまだ少し眠くない(最近は22時就寝が平均)ので、また日々思うところを書いてみたい。意識高そうで高くない話になると思う。

 

毎日ぼーっとした頭でニュースを見ていると、言葉がどんどん難しくなっている気がする。VUCAだとか、SDGsだとか、アジャイル、Z世代、カーボンニュートラル、終盤にはビックフライオータニサンアゲイン・・・多分、スポーツコーナーになったんだなということくらいは理解出来ている。

 

そうした略語、横文字言葉が増えてるということも勿論そうなのだけれど、それ以上に「良さげ」な単語が多いわりに、本当に「良い」ものなのか分からないことが多くなってきた気がする。そもそも冒頭の「VUCA」って要するに「不確実性」みたいな言葉の寄せ集めにも関わらず、同じ口で「SDGs」=「地球にやさしく」みたいなこと言ったりする。

 

そもそも論なのだけれど、SDGsみたいなフワッとした(と言ったら怒られそうだけれど)「地球に優しい15か条」を「VUCA」の時代に掲げるってどうなの。今は「先々わかんない時代ですよ」と言い張っておいて「これは地球に優しいから」みたいな指標掲げること自体、どうなんってずっと思ってた。極論だけれど、二酸化炭素出すな!って、本当にこの先50年後も常識なんすかね、と意地汚いことを思ったりもする。

 

(15色の輪っかバッヂを強制的に身に着けているサラリーマンが言っていいことでもないとは思う。あれメルカリでも売ってるよね。)

 

つまるところ今日言いたい「言葉の難しさ」って、いい感じのこと言ってるのは分かるんだけれど、その「いい感じ」で包括される中に相反するもの沢山あるんじゃない?ってこと。簡単な例を挙げると「再生可能エネルギー」って地球に絶対優しいっしょ、と思ってたけれど、災害や老朽化みたいなソーラーパネル設置リスクが再生エネのメリットを上回ってたみたいな話。

それはVUCAの話じゃなくて、事前の検証が足りてないだけだろ。というのは真っ当なツッコミのようにも思えるのだけれど、今「絶対これは地球にやさしい」と思って行っていることが10年、20年後「検証不足乙」って非難されてることも絶対あると思う。悲しいけれど。

 

少し話題は逸れるのだけれど、投資商品にサスティナビリティボンドってものがある。企業が地球にやさしいことに使う使途資金として(節電設備のビルを作ったり、再生エネ事業に使ったり)募る社債で、投資家も「いいことに投資してる」とアピール出来るので、個人から大規模まで低利率でもめっちゃ人気がある。

 

そんなある日、取引先の証券マンが嬉々としてサスティナビリティリンクボンドなるものを勧めてきた。お題目は二酸化炭素排出の削減が使途、そこに何が「リンク」されているのかといえば、排出量の削減目標値を決め、一年後に達成できていなければ、投資家へ払う利回りがプラスされるという商品だという。

 

これってつまり投資家の人らは、企業の目標未達成を願うんです?と聞いてみたら「まぁ、どうなっても得ですよってことで」とのこと。しかも、さっきも言った通り往々にしてSDGsに絡む社債は利回りが低い。発行企業からすれば安いコストで調達できて、投資家はいいことしたアピールになる。善なるものにお金を使う、という観念は経済性で説明がつくもんだろうかとふと疑問が過ったりする。

 

また最近よく見る例を挙げれば、バフェットさんみたいな富豪が節税対策で納税を十分にしていない、と批判されるけれども、本人からしたら否定もせず「納税するより、得られた資産で効率的な慈善団体に寄付する方が多くを救える」という主張を展開したりしているわけで。格差是正ってなんだったっけとも思う。

 

まぁちょっとした例を見てきた通り、今、使われる言葉だけは延々といいほうに向かっている。冒頭からイジッているSDGsだけでなくWellbeingなんかもそう。各国の企業を中心に、スローガンとして「善」なる方向にひたすら進みたいのは分かるのだけれど、その中身について、本当にそうなの?と検証を始めると足が止まるんじゃなかろうか。

 

足が止まるだけならいいものの、恐らく一斉に「SDGsを進めよう」とすると、それぞれに利害が相反することも出てくる。貧困をなくすことと不平等を是正すること、全員の都市生活の享受と気候変動リスクへの対策など、いくつか点と点を眺めてみても相性が悪そうな項目同士の存在が浮かんでくる。Wellbeingも同様に、誰かの幸せが皆の幸福だとは限らない。

 

これまで「より良き地球」だったり「個々人の幸福」は宗教が受け持ってきた分野だ。本来教義をベースにしないと具体的な話に進めないような事を今、個人ベース、言葉ベースで進めようとしているように見える。だからこそ、観念の対象たる「言葉」が極めて複雑化、多義化するのも無理はない。神やダルマなしで「善」を説こうとするのは、やはり人間には難しい所作なんだと思う。

 

そもそも宗教を示す「reilsion」語源はラテン語の「religio」とのことだが、その語自体が非常に多義的だとかどっかで読んだ気がする。そうした標語群の頻出は、ある意味で「善」とは何か、その根源を考え出す原点回帰を今、無意識下に人類規模で行おうとしている証左のかもしれないとか。大雨でやることもないと、誇大妄想を捗らせるよりほかにすることもなく。

 

 

最後の方はあまり何を言いたいのか分からなくなっていたところも否めないけれど、言葉に背負わせる概念がだんだん重くなってきて、そうした標語を会話で使ってみても「一体俺は何について言及しているんだっけ」ということが、仕事でも増えてきたので書いてみた次第。

 

何を言っても、意味が言葉に吸い込まれていく感じ。前回書いたようなネット上で言葉を吐く陳腐さに繋がってるのかもしれないなと。ふと、その違和感を残してみたかったのでこんな文章になりました。また、気が向いたら更新します。

 

 

 

いまネットに文字を書くこととは

小島アジコ先生が「はてなから人がいなくなってる、というかネットで「はてな」って見なくなったよね」というタイトルの記事を上げられていた。

orangestar.hatenadiary.jp

その通りだと思う。今日は特段何があったわけでもないけれど、ふと2021年というこの時代においてネットで文章を残すことについて、考えてみようと思った。

 

 

ブログって一度、更新が止まると見事に書き出せなくなるもので。前回3月はエヴァの完結という大きなお題目があって、感想などをダラダラと書けたのだけれど、こう日常で続けてみるかというのがまた難しい。それにしても、いよいよ個人で淡々とブログをやる理由ってのも本当に薄くなってきたなと思う。

 

何故かって、ネットで流れる情報で140字以上の文章なんてわざわざ読まんしょ。という話だ。ゲーム配信にとどまらず、個人の意思発信自体、こんな長ったらしい文字よりも、瞬時に伝わる音声だったり映像というのが主流の時代になってしまった。まぁ、いずれはそうなるだろうなと感じていた以上にその推移は早かったように思う。

 

そうなると、うんうん言いながら文字を生み出し続けるよりも、ハローYouTubeなんて視聴者に語り掛けつつ、自分のやりたいことで生きていった方が見る人にも伝わるし、諸々コスパもいい気がする。(動画編集とか大変なのも理解しているので僕には難しいと思う)こんな事を言っているうちに、いよいよTwitterの140字を吐き出すことすら面倒になってきていたりしている。

 

このブログも数年前までは時事ネタ社会ネタ、ライブやイベントレポまで好き勝手書き綴りまくった結果、その頻度が月に5本ペースを保っていた時期もあるというのだから自分ながらに驚く。絶対に今は無理だ。このモチベーションの変化は一体なんなのか。これが歳に伴う意欲低下では、とか安易に言うと上の世代からめちゃくちゃお叱りを受けるので、また違う理由を考えねばならない。

 

以下、僕が勝手に考えているぼんやりとした意見なので、適当に残してみたいのだけれど。今「ネット」で文章として意見や意思を残すことは、何を書いてもとても陳腐な感じがする。この陳腐な感じこそ、ブログという文化自体が不要になってきた根本的な原因だと思う。陳腐化の理由は二つあると思うので好き勝手書いてみる。

 

まず一つ、露出と情報強度の比例関係だ。ネットはいわゆるメディアの一つだ。誰かに何か情報を届けるための枠組みである。さっきも書いた通り、扱えるデータの容量も格段に増えたことで音声や動画といった配信手段が拡充して、ミニブログと呼ばれたTwitterですら今では画像付き、動画付きの方が主流だろう。

 

つまり人の表情や声という直接的な個人情報を晒しながら情報発信をすることが主流になったわけだ。先日も著名YouTuberらの自粛無視パーティが週刊誌ですっぱ抜かれるなど(誰一人知らず凹んだけど)配信者には社会的リスクが伴う。しかしながら、そうしたリスクを背負いながらでも情報を発信することは、情報の信頼度や影響度、つまり強度を増すのに役立つ。

 

最近、中年世代がふとYoutubeを見て突然陰謀論を信じ込んだり、極右化するというのが社会問題になっているらしいけれど、その要因の一つがこれなんじゃないかと思っている。今まで書籍や新聞でしか得られないと思っていた尖った情報が顔出しメディアで垂れ流されている。情報提供者の顔が見えると、案外信じてしまったりする。これが情報強度の差だ。

 

ネット上に文章のみで強い主張をしたところで、ここまで露出がスタンダードになった今、文字には自然と匿名性が付随する。そうすると文字で表す、ということ自体が陳腐になってしまうというのが今の現状なんじゃないか。逆に増田の投稿などがたまに盛り上るけれど、あれは自白や独白に近い。情報発信とも違うジャンルなので、匿名性とは異なるベクトルで情報を補強するんじゃないかと思う。

 

そして、もう一つの理由。ネットにおけるというより社会全般における「バーリトゥード」な風潮だ。リベラルという言葉が機能しているのかもわからないのだけれど、今はどんな主張であろうと「多様性」が守ってくれる建前が存在している。どんな人でも「取り残されることは」許されないのだ。

 

例えば、ここ数年でLGBTを掲げることの意味合いは変化しているし、その議論を行う角度も「多様性は確保されるべき」というのがスタンダードになる。また引き合いに出すべきではないかもしれないけれど、NHKをぶっ壊すなんて名前を掲げた団体も政治活動を積極的に行い、ネット世論から賛否を同時に引き起こしている。昭和には多分あり得ない出来事だろう。

 

様々なものがネット世論に晒され、批判も肯定も「みんな違って、みんないい。」存在にまで昇華される。そして、ここ数年では新型コロナが旧態依然とした考え方すべてに疑問を投げつける。「今の常識を疑え」「昭和を完全に終わらせろ」という風潮が完全に支配的だ。つまるところ「なんでもあり」なのだ。

 

そして、こんなところ、はてななんかで延々文章を書きなぐるような人間は、社会に対して何らかの恨みつらみを抱えたような捻くれた人間か、人間には無限の可能性があると信じている意識高めな方が多い。だって、仕事場でふと同僚に10年近くブログを続けていますなんて言ったら、確実に何か過激な思想でもお持ちで?という目が向けられるだろう。そしてそれはあながち間違いでなかったりする。

 

時代はスマートになって、正義と悪の二軸なんてものはないという論調が一般論になっている。世の中がなんでもありとなってしまえば、いくら尖った発想を持とうとしても、すべては陳腐の海に飲み込まれる。90年代遺恨しか残さなかったエヴァだって、監督含めたキャラ全員の精神分析の末、大団円を迎えたのだ。こうしたある意味で優しい世界も、ネットにおいて個人が文章を残す意味を死滅させる一因になっているように思ったりするわけで。

 

 

と、文章を書かなくなった理由を文章にしてみたのだけれど。

 

多分、こんな場末のブログで、これまでのように肩肘に力入れて「社会の問題」チックな文章を書こうとすると、空振りして余計に虚無に放り投げられる気がする。そんな意思自体、成立しないのだと思う。

 

だからこそ、簡単に。ふと、思ったことでも、こんな感じでぼやいていければと思うのだけれど。何とか、続けられるタイミングでは続けてみたいものです。

 

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想

思い付きでしばらくTwitterから離れることにしてみた。12年間ほぼ毎日つぶやいていた中毒患者がそう簡単に離れられるわけないと半ば諦め半分だったのだけれど、気づけばまぁ1カ月以上が経っていた。近況としては、ウマ娘、マジで面白い。ゴルシかわいい。

 

離れた理由はいくつかあれど、その一つに、そろそろエヴァの最終章が公開するから。というものもあった。やはりここまで風呂敷を広げてきた作品なのだから、何一つ情報を事前に入れることなく対峙してみたかった。

 

95年のテレビ放映当時から見ていたのかといえば、そうではなく新劇場版が公開になるあたり、友人から「お前は絶対ハマるはず」と説き伏せられ、TV版と旧劇場版を一気に見た結果、案の定ハマった。テレ東が映らないからと山の山頂まで上って、アンテナ立てて最終回を見たという逸話を残す強者からすれば、にわかもにわかである。

 

それにしても、この四半世紀の間。登場人物が何を言っているのかわからないままストーリーが進み、分かるような、分からんような理由によって、登場人物が死に、シンジ君が病んだりしながら、人類は滅ぶということを繰り返したエヴァンゲリオンの世界観がようやくここで決着を見たわけだ。

 

大枠の感情から言えば面白かった。見て損はない。というか、エヴァ好きなら見ないのはどうかと思う。その上でなんていうか、感じられたのは壮大な治療行為という印象。そして物語への納得感、ちょっとしたガッカリ感、また旧劇以上に辛辣なラスト、というイメージを抱くに至る。そんなことについて飲み屋でも語れない時勢であり、フラストレーションがたまりすぎたので、身勝手に滔々と書いていきたい。いわばガス抜きだ。

 

以下、ネタバレ余裕のため、読むかはお任せする。特段、楽しい話でもない。





ということで以下、雑感。やはり今回、特色として挙げるべきなのは、アスカがシンジに言い放つ「メンタル強度が低すぎる」という罵倒や、北上ミドリ(ピンク髪のひと)がゲンドウの立てた人類補完計画に対して吐き捨てる「ただのエゴじゃん」という言葉だったり、エヴァにおいてこれまでタブーだったような「メンタルヘルス」に言及するような単語がチラホラ出てきたことにある。

 

作中ではミサトさんがシンジ君をそそのかしたことで発生したニアサードインパクトから14年が過ぎている設定なわけだけれど、現実世界も思えば『破』が公開された2009年から12年が過ぎている。震災もあり、コロナもあって、世の中はようやく本格的に昭和的価値観からの脱出を試みている。

 

そんな中、今回公開された最終章『コーダ』では、これまで「なんか病んでる人たち」というレベルだったやりとりから、やっと各登場人物の精神分析を行う段階にまでやってきたように映った。例えば、これまではハリネズミのジレンマよろしく「環境と内省」の対峙を延々繰り返すだけだったシンジに対して、周囲が同情する姿勢を示したり、同時にミサトの苦しみをシンジが理解しだすというような相互性が生じている。

 

更には本作の大きなテーマであるエディプスコンプレックスに真正面から対峙する王道展開に及び、むしろ父であるゲンドウの弱さを息子が開示させている。その過程は「なんか病んでる人たち」というだけだった群像に、一つ一つ病名が与えられ、治療が試みられる様子そのものだったように感じる。

 

またセカンドインパクトやニアサードインパクト双方に対してトラウマとしての「人災」ではなく、あくまで「災害」としての側面を認め「誰かのせいではなく、むしろ生き残れたことの僥倖」を噛みしめるようなストーリーが各所に散りばめられているわけだ。

 

これまで、主人公たちを悲惨な状況下に置き、散々嬲るだけなぶっておいて、今回にきて「共感」というテーマが前面に押し出されているので「急にお前どうした」と困惑する場面は多かったものの、それぞれがそれぞれの傷をさらけ出し、不足を自覚、そして納得のうちに次へと進む明確な前進が描かれている。

 

もちろん、ひとりのファンとしてそうした病理が解決される「トゥルーエンド」的結末を歓迎しているわけだが、同時になんだかエヴァの二次創作を見ている気持にもなった。特に饒舌に、つまびらかに自らの過去を語るゲンドウのシーンは「答え合わせなど必要ない」と総監督自ら無駄な議論に終止符を打つ姿勢にも感じられる。ちょっとサービス過剰な感もあり、正直言えば、これに抱いた感情が冒頭に書いた「納得感と少しばかりのガッカリ感」、要するに、エヴァがここにきて、ちゃんとしたロボアニメと化したような喪失感だ。

 

今回の『コーダ』のストーリーを踏まえると、これまでのエヴァというストーリー性質がより明らかになってくる。ゲンドウ始め、冬月、ミサト、カヲル、アスカ、レイ、など、結局皆、大人になりきれない大人たちだったのだ。そして、そんな土壌で形而上生物学という謎学問の延長で科学と神話が融合、人類補完という壮大な逃避計画を行うに至ったという物語こそ26話で完結するエヴァの本筋だろう。

 

そんな計画を生み出したゲンドウが自らの動機を鮮明に語れば語るほどに、この壮大な神話は、実は小さなエゴの生み出した矮小な物語だったという結論に落ち着いてしまう。ストーリーの整合性や腑に落ちる感情や、物語としての面白さとは別に、なんだか抱いてしまう少しばかりのガッカリ感はそういう所にある。

 

そもそも『Q』の「ネルフvsヴィレ」という構図によって、ようやく我々はゲンドウの人類補完計画が「悪」であると認知したわけだが、エヴァが本来描きたかったものは、ゲンドウの無垢さだったような気もする。シンジ以上に純粋な感情で、人との関わりを拒絶し、すべて魂が同化した世界を求めたゲンドウ。そこでは、精神的に満たされる環境が全てであり、皆が同一に幸福であることが保障される。

 

対して、ミサトを始めとしたヴィレは生きる者の知恵を信じるという王道の対抗軸。勿論、世の中で生きる上で、ヴィレが示すように「生きて知恵を重ね、原罪を乗り越えていく」という姿勢はそれ以上ない結論だ。我々人類が身体を持って生き続けるのであれば、ブレることなき基本方針であると言える。

 

テレビ版と旧劇場版は基本的に観点の差であると思っている。テレビ版の最終2話はシンジの精神世界からの補完計画後を描き、そして旧劇場版では外からみた補完計画の様相を見ることが出来る。旧劇場版ではなんとか、シンジとアスカが一命を取りとめるラストにはなるものの、その先は恐らくない。

 

新劇場版では、そのループでありトゥルーエンド版と言えるだろう。ニアサードインパクトでシンジが綾波を救うという選択肢をとったことにより、ネルフおよび住民の一部壊滅は避けられたというルートだ。つまり生き残った人間がいる時点で、人類補完は悪の所業になり果てる。

 

ゲンドウは結局のところ、典型的社会不適合なサイコパスであり、妻への愛がすべてとなり果てたマッドサイエンティストだったわけだ。息子は、そんな父との関係性に悩むひとりの少年であり、悲しくも血縁から父の罪を背負ってしまったに過ぎない。

 

以前ならシンジは大人になることなく、周囲の凄惨な環境に狂いながら精神世界で救われるか、えげつない現実を晒されるかの二択に至ることになっていた。こうしたテレビ版および旧劇場版での「救われなさ」は、ある意味においてゲンドウが救済に至ったという裏返しだ。そうした意味でエヴァの「救われなさ」に、救われていた視聴者もいたのではないかと邪推する。

 

そう考えると、今回『コーダ』のラストが個人的には旧劇場版以上に辛辣なものになっているのではないかとも思えてくる。旧劇場版の終わりでは、劇場の観客を思わせる実写映像を映し出し、声優をそのままコスプレ姿で画面に投影し、現実と虚構を曖昧にさせるような演出をした後、シンジにアスカが言い放つ「気持ち悪い」という拒絶をもって幕をおろす。

 

エヴァ視聴者のようなめんどくさいオタクに対する、明確な挑発行為だと僕は思った。エヴァで描かれる大人になりきれない子供のままの精神性。それはそのまま、エヴァを愛好しているようなオタクどもの精神性とマッチする。そんな奴らは気持ち悪いだけ。

 

しかしながら、そこにあるのは恐らく同族嫌悪だ。そんな挑発すら自らの一部に対する嫌悪に端を発しているような、非常に子供っぽい手段に感じられた。悪口であっても同じ土俵であれば、残酷さはそこまで生じない。

 

対して今回のラスト。シンジはゲンドウを打ち破り、子供の姿から大人になる。するとまさかCVも緒方恵美から神木隆之介にかわり、同一人物とは思えない成長を果たす。つまるところ、あのように承認を求め、逃避を続けていたシンジですらとうとう大人になってしまった。そこからは「おいおい、もう承認とか自己愛とか、そんなこと言ってんなよ」というように、我々へエヴァからの卒業を促す姿勢にも感じる。

 

最後、シンジの相手に選ばれた相手がマリなのも象徴的である。ユイの後輩学者だったマリの残したクローンという解釈を個人的に採用しているが、つまるところ「近親相姦」的関係からも完全に離脱をした恋愛対象をも見つけている。親の承認から離れた自分で生きる自覚、という意味での大人と同時に、母の愛からも自立を果たし、自らの家庭を築く覚悟を得たようにも見える。

 

四半世紀続いた大人になれない大人と、大人になれない子供の話は、エディプスコンプレックスの打破により完全に終結したと言える。しかも、拗らせた解釈をすれば神木隆之介を起用するという点に恣意を感じたりもする。壮大なタイムリープを描き、世間的にも大ヒットしたボーイミーツガール大作『君の名は。』を想起させることで、完全にシンジが我々ウジウジしたオタクのもとから旅立ち、完全に別人となってしまったという寂寥感すら催す。もう、承認ひとつで悩み続ける中学生はどこにもいないのだ。

 

辛辣さとは書いたが、あくまでも大人になるという過程を示したに過ぎない。ただ、この期間続いたエヴァという根暗作品に、ここまで明確に突きつけられるとやはりショックが大きい。どこかでエヴァが終わらないという事実が、子供っぽさを脱出できない我々の精神を支えていた部分もあったのでは、と完結後にふと感じる。

 

そして、エヴァが終わり、シンジが大人になったその背景には震災から10年、そして、コロナを迎え2年という災難が続くこの国の日々が過る。「あの」シンジ君すら見事に大人になり、縁する人々の精神分析までこなし、創世を成し遂げたのである。

 

先に書いた昭和からの脱出という意味においても、今この時代のこの国こそがエディプスコンプレックスを抱えているように思える。戦後成長という父たる成功体験を殺さねばならぬ。日々のニュースを見れば、過去の栄光を叩くような記事がいくらでも目につく。まさに今社会そのものが葛藤をしている最中、昭和を引きずる90年代の象徴が幕を閉じたことは大きな転換点なのかもしれない。

 

とまぁ、好き勝手書き散らしたわけだが、エヴァが終わったのだ。こんな面倒な文章が生み出されないような展開だったにもかかわらず、無視してしまいなんだか申し訳ない気持ちにもなっている。

 

もちろん、最終章『コーダ』も映画としての出来は素晴らしく、見るべき映画であり面白い。ただ、やはりエヴァである限り、我々としては要らぬことを言いたくなるし、終わってしまうという儚さを受け入れることには、少し時間がかかるような気もしている。

 

なんていうか、社会と絡めたりするのも確実にウザいのだろうけれど、何年待ったのかもわからないのだから、好きなこと言わせてほしいという感じだ。早く、飲みの席で同じく本作を見た人と感想をぶちまけたい所存である。無駄に長くてすみません。

 

混迷する世の中だからこそ忘れたくない竜騎士07氏の言葉とひぐらしの思想

先日の記事がじんわり伸びてくれたようです。記事冒頭に過去の同人誌既刊アーカイブ更新の件なんかものせたおかげで、少し電子版の通販も伸びた模様。いやはや、ほんとありがたいもんです。これがその前回の記事でござます。

 

wagahaji.hatenablog.com

 

と、前段はそこそこにして。今回は最近の新聞ニュースの話題と、一部で話題をかっさらっている新作『ひぐらし』を視聴が重なってしまい。忘れていた点と点が繋がってしまったので淡々と書いてみたい。ちょっと話が飛んだりするけど、ちゃんと(自分の中では)繋がっているので、悪天候で暇な人は読んでみて欲しい。

 

・「民主主義の危機」

日々オタク活動に邁進し、ここに適当なことを書き続けていても、気づけば30歳を超えて数年が経った。学生時代の自分が聞いたら「まさか」と言うだろうが、社会の圧力に負け、こんなオタク野郎でも日経新聞を毎朝読んで仕事に備えたりしている。世も末である。

 

ただ新聞を読んでいると「世も末」なのは、どうも局地的な話ではないらしい。昨年度あたりからその日経新聞紙面には「民主主義の危機」といった言葉がよくフューチャーされるようになった。1月20日、日経に英フィナンシャルタイムズの翻訳版コラムが掲載された。タイトルは「民主主義を破壊する陰謀論 抑え込み急務に」。

 

いやはや、なんともすげえ時代である。記事によれば今リテラシー教育とネット規制こそが急務とのこと。確かにフェイクニュースやら陰謀論の拡散、各国知識人によるSNSでの非難合戦などスマホ画面の中では日常茶飯事と化している。新型コロナウイルスなんていう見えない世界的危機も、その勢いを加速させている。新世紀明けたばかりというのに、本当に世も末ぽい。

 

一昔前までネット上の陰謀論といえば、軍事板やらオカルト板にいる根暗なヤツが「世界の真実を見つけてしまった」とか騒ぎ立てるサブカル的事案が中心だったような気がする。ただ、そんな陰謀を望む声は世界的にどんどんメジャー化していて、先日の米国の議事堂占拠など最たる例で「大統領選の結果こそ陰謀だ!」なんて話になれば冗談では済まないし、現に冗談で済んでない。

  

案外、世の中のことを気にする小市民の一人である僕は、そんな身の丈に合わない憂いを抱きつつ。完全に話は飛ぶのだけれど、もうひとつのトピックス『ひぐらしのなく頃に 業』の視聴を通して、こんな記事を書き出してしまったのである。

 

・「ひぐらし」という作品の本懐

前にもこのブログで紹介したが、竜騎士07氏による同人ミステリノベルを原作としたシリーズ『ひぐらしのなく頃に』の新作アニメ『ひぐらしのなく頃に 業』が2021年1月現在各局で放映されている。

 

リメイクではなく完全新作と謳っている通り、雛見沢症候群の説明もなく後半クールに突入。先日は(16話)幼女ヒロインの腹部が延々黒く規制されたまま10分以上経過するという荒業を披露。訓練されていない御仁には結構キツイ仕様が話題になっている。

 

同人時代から『ひぐらし』を寝食忘れてプレイしていた身として、今回も「うへえ」とか言いながら耐え忍んでいたわけだけれど、ふと同時に。2007年のアニメ化の際に起きた事を思い出してしまった。

 

2007年9月。回答編のアニメが放映されていた最中、各局は突如アニメ放送を休止する措置をとる。公式に理由は述べられていないが、当時16歳だった少女が父親を殺害した事件が起き、現場状況に本作を想起させるものがあった、ということが影響したという話だ。

 

その際、関西ローカルの番組が事件と関連付け『ひぐらし』を「少女が斧で敵を殺していくゲーム」と紹介。本作を完全に誤解させる報道であり、ネットでも話題に。僕も憤っていたのを覚えている。その騒動が少し収まってから、作者である竜騎士07氏の「制作日記」にコメントが上がった。

 

かいつまんで書けば、くだんの件により体調を崩していたこと、ファンからのメッセージにより回復基調にあること、そしてこの『ひぐらしのなく頃に』という作品が示す本懐についての話だった。下記は実際に今でも公開されている竜騎士07氏の「制作日記」のページから2007年9月23日の一部を抜粋したものである。

(省略)

ひぐらし』はもちろんエンターテイメントです。ですが、劇中ではくど過ぎるぐらいに、ある一連のメッセージを重ね重ね繰り返しています。その中でも、もっともシンプルにして、一番最初のメッセージがこれです。

 

・ひとりで悩みこんで殺人しかないと考え至るのは、惨劇(バッドエンド)の近道である。

 

そして、それを打ち破るもっともシンプルな最初の方法として物語が提示したのが、

 

・ひとりで悩んだら、身近な人(友人・家族)に相談しよう!
ということです。

(省略)

ひぐらし』の世界では、ひとりで膝を抱えて至った短絡的な発想でハッピーエンドになれることは絶対にありません。それこそが、「短絡的な犯行」に対する明白な否定であるつもりでいます。

(省略)

正しい方法で、大勢に相談し、力を合わせ、法律やルールに則って解決する。その過程を愚直に描いたのが「皆殺し編」です。

http://07th-expansion.net/kyu/Cgi/clip/clip.cgi

 

大学生だった僕はこれを読んだ。読んで大きな感銘を受けたことを、今の今まですっかり忘れてしまっていた。僕がどれほどに影響を受けたのかと言えば、その後、僕の卒業論文は「ネットと民主主義の関わりについて」と銘打ったのだが、実際にはこの内容が着想のきっかけだった。

 

(中間発表までは順調だったが、就活の最中にメンタルを完全に折ってしまい。そのため教授から最終提出は「出世払い」で許され、未完にて終わってしまった)

 

政治とは手続きである。個人の利害という小さな力を、梃子のように大きな力に変えて政策化していく為の手段だ。中間団体や利益団体などを介し、民意を反映させる民主主義の基本とも言える過程はまさに『ひぐらし』、特に「皆殺し編」の中に込められている。

 

僕のやりたかった研究を一言で言うなら、昭和58年の雛見沢になかったインターネットという仕組みがあったら、というイフだ。圭一は、レナたちはどう繋がり、どう振舞ったのだろうか。そんな下らないオタクの妄想からスタートしており、もはや二次創作だったのかもしれないと今では思う。要は冒頭の日経記事の話も含めて、セットでそんなことを思い出してしまったわけである。

 

・この国で重要なことを教えてくれるのはいつもエンタメだったりする 

先に引用した竜騎士07氏の書いた『ひぐらし』における本懐は、シンプルながら冒頭で掲げた日経新聞記事が不安視する現在の社会において、なお光り続けるものだと僕は思う。「正しい方法で、大勢に相談し、力を合わせ、法律やルールに則って解決する。」ネットが拡充し、ローカルの意味が相対的に薄れる中だからこそ、安易な陰謀論に流されないためにも持つべき基本方針ではないかと感じる。

 

最近様々なネットの情報やニュースなどを眺めていると、その混迷の度合いは日々増しているように思える。欧米などのように規範となる宗教を持っていない我々の文化では、明確な対立は生まれにくいが、反面様々な問題に自分たちで考えねばならないというハンデを負う。危機的状況にはとかく耐える。これがこの国における美徳となるのは、ある意味で「為すべきことがない」ことの裏返しでもある。

 

そう言う僕も緊急事態宣言でやることもなく、家で漫画やら配信アニメに耽っているわけだが。そんな中で案外、我々にとってそうした数々の難問に対する答えへのアプローチはアニメ作品をはじめとするエンタメ作品に包括されているのはないかと、改めて感じ、そしてこれを書き出している次第だ。

 

戦後から、戦争に対する反省や葛藤の過程を克明に記してきた『ガンダム』を挙げるまでもなく、『イデオン』『ザンボット3』『エヴァ』『パトレイバー』『グレンラガン』やらなんやら数々のロボアニメから、人生たる『クラナド』文学たる『Fate』などなど所謂萌え系アニメに至るまで。我々は色々な物語からその生きる意味を貰ってきた。

 

ひぐらし』のメッセージ性が、民主主義の危機を迎えた今の世にマッチしていると僕は感じ、こんな文字を吐き出しているわけだが、そのように数々の物語を食らい尽くしてきたオタクらが得た人生観は、思った以上に、様々な問題を抱えるこの国の状況下において捨てたものではないんじゃないか。とか、そんな仰々しい妄想に行き着いてしまうのは、単純に暇を持て余してしまった結果なのだろう。

 

とまぁ、あまり纏まらずに好き勝手のたまってしまったわけだが。以上で見てきた『ひぐらし』について。各所で見る「民主主義の危機」に対しても耐えうる考え方を掲げる稀有であり貴重な作品だと僕は思っている。確かにグロや悲壮感あふれる描写など癖は強い。それ故に、一途なメッセージは強く胸に響く。

 

現在放映中の新作も、いよいよ一番暗い最深部は超えたのではないだろうか・・・佳境に向けて毎週怯えつつも楽しみにしたい。明日からの仕事から目を背けているうちに長文になってしまったオタクの独り言でした。