わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

同じ映画を何周も見れない人の話


あまり肩肘張ったような話題でなくとも、定期的にブログを書いていきたい。この前、寝ている間にそんな事を思ったので、短く、のんべんだらりと書いていくことにする。

 

目標は毎週水曜更新だ。週一ペース?いいのか、そんな事言ってしまって。と脳内の自分が囁くが、目標などどこかに書いて張り出さねば確実に頓挫するし、書いても6割は頓挫する。だったら書いた方が、4割成功の可能性が生まれる。そんな壮大な目論見を踏まえて、大したことない話題を書き連ねていきたい。

 

 

ふと。嫁は、今シーズンのコナン映画を何度見たのだろうか。よく知人と「コナンの映画を見てくる」と言って出かけていくのを、何度か「行ってらっしゃい」と見送った記憶はあるのだが、はて。

 

「おい、何度目だ」なんてツッコミを入れてしまうのも野暮な気もするし、「狭量な夫だなぁ」などと思われるのも今後の生活に支障をきたす。コナン映画には、きっと何度見ても良い成分が配合されているに違いない。互いの信仰(趣味)には口を出さないというのも、適切な距離を作るための夫婦生活の知恵である。

 

それにしてもだ。よく同じ映画を何度も見られるものだ。と個人的には思うわけで。僕としては、そもそも同じ映画を何度も見る事があまり好きでなかったりする。オタクがよく「この映画は5回見てきた」「いやいや、10回は見るっしょ」なんて話題を投げ合っているのを見て、すげえなと思うものの、一本の映画をたくさん見るという行為をいまいち理解できていない。

 

勿論。一人で一度見た作品を別途友人から誘われて、もう一度見に行く。みたいなことはよくある。すると、全体のストーリーを分かってから見た方が「なるほど、このシーンはこういうことなのね」と理解が行き届くという経験も得た。それでも、映画は一度だけ見たい。多分、映画に期待しているものの違いなのかもしれないなぁ、などとぼんやり思っていたのだけれど。

 

そんな内省に少し答えを見た気がしたのは先日。昨今話題になっている『シン・ウルトラマン』を僕も観てきた。早速、感想についてTwitterのスペースで、知人らと討論交わしてみたりしたわけだが、特撮マニアから言わせれば、この映画はネタの宝庫であり、庵野&樋口コンビによるネタ演出が細部に至るまで散りばめられているという。一度見て、それらを網羅するのは大変だったし、何より疲れる。これは何度か見る必要があるでしょ。という見解だった。

 

それに対して、結局のところ、僕は「逃してしまったシーンは逃してしまった」で良いと思っていることに気づいた次第。こう言うと「緻密に作りこまれた所まで気が付かないのは、受け手として作品を作った側を冒涜している」とオタク全般を怒らせてしまう気がする。いつの時代もネットは怖い。

 

それでもだ。2時間前後の時間、映画館において映画を見るというのは、その物語に没頭する行為なわけで。鑑賞している最中というのは、自分の時間軸と映画の時間軸が重なっていて、それは、自分の人生の時間と同様に、後戻りの出来ないものであってほしいという感情が僕の中のどこかにある。そこで得られた感情や感動こそが「すべて」なのであって、それ以上繰り返すのは「たられば」の世界線の感情ではないか。と。

 

いや、完全に屁理屈だし、映画なんて何度も見に行けるんだから、行けばいいんじゃねえかと自分でも思うのだけれど。その「一度きり」というのが僕は好きなんだと思う。この人生というか、今日が何度も体験可能だとすれば、恐らく何事もラフな態度になってしまう。次の機会があると分かっていると、真剣みに欠ける。映画も、一回で得た感情こそ大事にしたい。どうも、そういう捻くれた思想が僕にはあるようだ。

 

結局『シン・ウルトラマン』については、ウルトラマン素人の身としてはかなり薄い情報量しか得られていないと思う。それでもDAICON  FILM時代の作品が過ったりしながら、個人的には一度であっても、良質なエモさを得てしまったので、それで良いと思っている。

 

まぁ、ふと過った映画の見方に関する感想として、同調するも、軽蔑するもよし。とりあえずは脳内にあった感情を吐き出せたので、スッキリして今週は終えたい。本当に続けられるのだろうか。まだ6月というのに夏日が続いているため、体調には気を付けていきたい。

 

 

堀江由衣ツアー「文学少女倶楽部Ⅱ」に行って感じた「17歳教」の本質

ライブレポというよりほぼエッセイなおじさん回顧文章となります…

唐突だが、自分がオタクだと自覚してから。推しのライブは貴重な生きがいのひとつとなった。

 

現場特有の高揚感、同じ時間を共有することで得られる臨場感、参加出来ることへの昂ぶりと参加出来た事への達成感。これらの感情は、なかなか他で代用出来るものでなかったりする。しかしながら、この2年ほど。この「ライブ」という文化自体がタブーとなってしまった。オタクでなくとも、様々なイベントやフェス、公演が中止になり、悲しい思いをした人も多かったことだろう。

 

2019年12月。思えば、僕がコロナ前の世界で最後に参加出来たライブは、堀江由衣のライブツアー「文学少女倶楽部」だった。上記の話に漏れず、コロナ禍以降、僕自身も以前エントリで残したこの時の感情を思い返しながら「チケット予約⇒中止」悔しい思いを繰り返した。

wagahaji.hatenablog.com

そして、それから2年半。ようやく、世の中は少しずつ「正常」に向かい始めている。以前と異なるルールは組み込まれているけれども、皆で集まって音楽を聴けるようになってきた。そして、コロナ以降初めてのオタク現場への参加も、何の因果か、堀江由衣のライブツアー「文学少女倶楽部Ⅱ」となったわけで。

堀江由衣ライブツアー2022 文学少女倶楽部Ⅱ~放課後リピート~

 

今回は勿論、参加出来て楽しかったよという思いと共に、本件について、関係あることないことも含めて、つらつらと独り言を漏らしていく。と、ライブの話に移る前に少しばかり、自分の昔の話をしたい。暇つぶしと思って付き合ってほしい。

 

・17歳での初体験

そう書くといかがわしい話っぽくなるけれど、単純に初めて堀江由衣のライブツアーに参加したという話だ。なんなら声優のライブというのも初めてだった。冒頭の写真に当時の半券を掲げた通り2006年のこと。年齢がバレてしまうけれど、まぁ、そんなところである。

 

既に本ブログに書いている話ではあるのが、僕は中学時代、同じ野球部だった友人(ここでは「A」としよう)に堕とされオタクの道を歩み始めた。徐々に深夜アニメを見始めたという僕に、Aは優しく布教するでもなしに「声優の名前分からないとかダサい」というスタンスで煽りやがった結果、異常なほど悔しくなって一週間でほぼすべてのアニラジを聞き通して、今の僕がいる。

 

そして、Aは特に堀江由衣を推していた。音源などを貸し出された結果、やはり影響され、僕は楽曲やアニメ、ラジオを通して同様に彼女のファンとなった。そしてライブに行ってみよう、という話になる。

 

2006年2月の東京国際フォーラム。なんとかチケットを確保し、ライブ当日。今でも朧気ながら覚えている。その日は平日だったので、2人とも放課後に部活をサボって、制服のまま急いで有楽町に向かった。開演ギリギリ、何とか現場に到着するとそこで目にしたのは屈強な黒ネコ同盟の面々。声優ライブ自体が初めてだったこともあり、周囲のオタクやその雰囲気に怯む気持ちを何とか抑えて会場入り。

 

そしてライブが始まると、完全に圧倒された。ラジオで毎週楽しみに聞いている、その御声が目のまえで歌い、MCトークしている。そして周囲からは一糸乱れぬコールが沸く。これがオタクのライブか…完全にカルチャーショックだった。興奮気味に感動を語る僕をよそ目に、Aは「まぁこんなもんだろ」と何故か冷やかに返した。そういうやつだった。

 

それから気づけば16年。社会人になってこの10年ほどはAとも会わなくなり、しばらく共に参加していたコミケも、僕一人だけが参加するようになった。友人づたいに聞けばAは、オタク文化とも縁遠くなったとのこと。僕をオタクに堕とした根源でもあるだけに多少寂しいもんだと感じつつ、今回のライブツアー参戦に当たりそんな事を思い出していた。

 

・「17歳」を本気で信奉しているように見える堀江さんにやはり涙する

ここからライブセトリやストーリーの話などネタバレ含むので、読むかどうか各位ご判断ください。

 

昔話を終え、ライブ当日の話をするに当たり、少し「17歳教」の話をしたい。言うまでもないことなので、かなり割愛するが井上喜久子氏を教祖とする声優界で一時力を持った新興宗教である。あまり僕が講釈垂れても仕方がないので、知らない方はニコニコ大百科あたりを参照してほしい。

17歳教とは (ジュウナナサイキョウとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

 

とかく「自分は17歳である。」という気概と信念を持って生きていくという発想なのだけれども、こと堀江女史のライブツアー「文学少女倶楽部」に参加してみるとその思想の強さに感じ入る。特に今回コンセプトに関して言えば「高校生活文学祭でのライブをタイムリープしながら繰り返す」である。17歳教が形骸化して久しい中、もはやルターの宗教改革のような姿勢が潔い。

 

バンドメンバーとダンサーらが部活である「文学少女倶楽部」の一員としてバンド結成、文化祭でのライブ成功を目指し、我々「劇団ほりえ」(ライブに集うファンのこと)がその文化祭の観客となるストーリー構成なのだが、不思議なもので幕間のドラマ映像と共に、細かく演出されたライブを見ているうちに、自分の高校時代も(黒歴史含めて)過ってしまう。

 

セットリストも良くなかったのだろう。当然のことながら、今年の3月にリリースされた新譜『文学少女の歌集Ⅱ-月とカエルと文学少女-』の曲を主体としながらも、あの頃の楽曲をふんだんに盛り込んでくる。2000年代、シングルとしてリリースされた『キラリ☆宝物』『ALL MY LOVE』『ヒカリ』『Days』『恋する天気図』などなど、10代電車内でバカ程聴いた楽曲は心の奥底に染み込んでおり、いちいちチョイスが刺さって仕方ない。既に前半で涙ぐんでいる。

 

ライブお馴染みの『笑顔の連鎖』『YAHHO!!』ももちろんのこと、更に、堀江女史のファンで知られ、数々の複雑な名曲を提供するアーティストの清竜人氏の楽曲も加わり、当時からMDに録音しては、通学途中に聞き続けた楽曲が生バンド演奏となって延々押し寄せてくるわけだ。改めて一言で言おう、そんなん感無量じゃねえの。

 

今回コロナ対策ということで発声は禁止。いつものコールが出来ないことに対して「それで楽しめるのだろうか」という一抹の不安は正直あった。それでも、今回はペンライトに「声援ボタン」(フー、とかハイ!とか言う)を仕込むといった離れ業や、一曲丸まる振り付けを強いられる(劇団なので仕方のないこと)場面もあり、声を出さずとも楽しめる気遣いが随所に見られた。

 

そして、やはり普段なら全力でコールしている場面において、僕らは全力でペンライトを振る。声は出せずとも、決してほっちゃんへの「思い」が消えたわけではない。ライブ本編最後の定番曲『CHILDISH♡LOVE♡WORLD』において「大好き」と叫ぶはずの箇所では、万感の思い溢れて、やはり涙が零れてしまった。正面から見られたら完全なるキモオタのそれである。その上、声が出せない分、内省が強まったのか、2006年に有楽町で『笑顔の連鎖』を聴いて流した涙と重なった。

 

その瞬間、まるで僕自身も、17歳だった頃に戻ってしまったようだった。「若き頃を忘れない」なんて言えば、老いたことがただ鮮明化するだけかもしれないけれど、10代に得た感情・激情は、やはり貴重なものである。数々の楽曲と堀江女史の声に触れる中、それを呼び起こされたのは間違いない。自ら17歳であることを信じ、見る人にすら17歳を具現させる。

 

そうした意味で、僕にとって今回の「文学少女倶楽部Ⅱ」は「17歳教」の真髄を見せられたライブだったと言えるのかもしれない。

 

・あの頃から続き、そして、これからも続くもの。

少し話は戻るが、この連休。先の友人Aに対して「久々飲もう」と誘った。というのも、彼が勤めていると聴いていた会社が傾きかけているというニュースを偶然見て、多少心配になったからだ。こちらに他意はないものの、向こうは怪しんだかもしれない。ただ、思いのほか簡単に承諾してくれた。

 

Aから提示された日程を見てみると、不思議なことに見覚えのある日にNGがついている。「これ…いやまさかな。」脱オタしていたと聞いていた為、恐る恐る確認を取る。

 

堀江由衣のツアー日程じゃねえのこれ?」

「そうだが」

 

案の定、彼は今回ツアーに参戦していた。実際に飲みに行って話してみた結果、何のことはない。コミケやら同人文化には多少縁遠くなっていたものの、アニメは毎期数作品見続けているし、何なら堀江由衣現場には足を運び続けていたらしい。2019年のツアーにも参加していたということだった。僕としては、なんだかホッとしたのと、少し嬉しくなってしまった。

 

昨晩のライブ終了後。予想を遥かに超える3時間半の公演を終え、終電もギリギリだったため、一緒に参加したメンバー各位との打ち上げは見送って、早々にAと地元へ帰ることにした。何も食べていなかった為、駅周辺で深夜までやっている寂れたラーメン屋に入り、さっそく瓶ビールを傾けた。

 

Aはあの頃のまま不愛想で、何を言っても言い合いっぽい口調となる。「最高だったな、 『ALL MY LOVE』を令和に聞けるなんて」「『陸上防衛隊まおちゃん』なんて、今誰が分かるんだよ。」「バカ言え、今むしろ見るべき名作だろ。丸山シルヴィアの関西弁で俺はファンになったんだから。」「大阪弁と言えば、松岡由貴一択だろ。」「は?お前、松岡由貴大阪弁キャラ全員言えんのか?…」気づけば、日付が回っていた。

 

16年前。こいつと共に、学生服着ながら追っかけた声優が、今も尚推しとして居続けてくれている。心から凄いことだと思った。一時は離れた関係がこうして、一人の推しのライブを起点によみがえった。Aとはもしかしたら、この10年そうであったように、この後10年会うことはないかもしれない。それでも、ある種連なった結び目のように。出会うべきタイミングがあれば、邂逅するときは来るのだとぼんやり思った。

 

「本当、元気でいてほしいよな。」「それな。」

 

最後にそう言って僕らは店を出た。17歳教は、僕にとってもあの頃に戻れる思想なのだ。堀江由衣という存在がいつまでも17歳でいようとしてくれるおかげで、僕らも、いつだって17歳に戻れる。現実逃避だと怒られるかもしれないけれど、また10代の気持ちを背負って、歳を取っていく。あの時の推しが今も尚推せるからこそ、後ろに支えがあるからこそ、人は前を向ける。しかも今も尚、その17歳はパフォーマンスを更新中なのだ。はっきり言ってやろう。最高じゃないか。

 

そんなことを思いながら、胃もたれで目覚める今日。いや、もう深夜のラーメンはしんどいすね。

 

 

以上、という感じ。今回ライブも最高だったけれど、やはり全力で声を出したい。コールで思いを伝えたい。書きながら、改めてそんな感情が強まってしまった次第です。

 

4000文字強書いておいて、半分以上エッセイ記事になってしまい恐縮なのだけれども、現場で見るほっちゃんはやはり最強なんだよな…という気持ちだけ伝われば僥倖でございます。連休最後ということで鬱蒼とはしておりますが、本当にいい体験でした。いつまでも、この貴重な経験が出来る事を祈って。

 

心理カウンセリングを受けてみて気づいたこと。

毎度ながら明るい話ではない。要旨はタイトルの通りだ。こういう機会を初めて設けてみて、気づいたことについて、思考の整理がてら書き残すことにする。そういう類のモヤモヤを抱えている人の一助になればと、少し思う。

 

 

高校くらいの頃からだろうか。このブログでも少し触れてきたけれど、過去色々な事があり、突然の動悸だったり軽い躁鬱、パニックを起こす傾向がある。それら身体症状を抑えるため、長らく安定剤に頼る生活を続けている。とは言っても、日々飲まなければならない程ではなく、調子が悪くなってきた時用の頓服としてだし、貰っているものも強くはない薬だ。

 

しかしながら、そんな生活ももう15年以上続いているもんだから、延々クリニックに通い、薬を処方し続けてもらうのも面倒になってきた。もはや、性格にまで落とし込まれたメンタルヘルスの欠落を抜本的に直す方法はないものか。ということで、先日初めて心理カウンセリングというものを受けてみることにした。

 

心療内科やクリニックは主だって、医師がいて処方箋で対応してくれるところと、心理士がカウンセリングをしてくれるところに分かれる。もちろん双方兼ねている場所もあるけれど、心療内科を受診して後者を期待していたら、風邪のように簡単な問診で薬を出され、拍子抜けした方もいるのではないだろうか。今後、そうした医者に掛かろうとしている人がいるならば、自分がどちらを望んでいるのか、検討しつつ事前に調べた方がいい。

 

ということで、自分の話に戻る。カウンセリングを受ける、ということは自分の心理的な分析を心理士の先生と一緒に行う事になるわけだ。まずは自分の来歴や、メンタルの傾向を持つに至った経緯を整理して話す必要がある。

 

クライアントにもよるのだろうが、カウンセリングは数年単位の長期間に及ぶ可能性があるという。そりゃ、性格に根差した部分の修正・改善を目指す訳だから当然のことだろう。逆に言えば、初回は導入の導入。自分の来歴や気になる症状、その要因について簡単に説明する程度のものだろうと、気軽に思っていた。

 

正直言えば、僕は自分の心理面でのセルフコントロールに多少の自信があった。何せ僕のようなメンタル弱者は、素人なりにも自分の感情制御を理解していなければ、日々会社に出社し、現実社会を生きていくのは難しい。

 

実際、僕が行っていることは至ってシンプルである。少しでも気分が滅入ったら、その時の素直な感情をノートに書きだして、都度見返したりする。こうすることで自分の感情を客観視することが出来る上、習慣に出来れば季節ごとの傾向や周期も掴むことが出来る。個人的な経験則に照らせば、これは有用だったし、このノートも薬と同様に15年ほど継続している。

 

SNSで同じことをやろうとするとリアクションが気になってしまうので、当然の事ながらしんどい。アナログの方が自分に正直になれるし、何より書きっぱなしで済む。)

 

その為、カウンセリングを受けるにあたっても、自分の事は自分で理解出来ていると思っていた。それを説明した上で何か助言を貰えれば、というくらいに考えていたわけである。そして当日。事前に想定していた通り、自分の来歴と経緯について、改めて言葉として心理士先生に説明する。至ってスマートかつ事務的に進むと思っていた説明の中で、僕は思わぬ感情に陥った。

 

「あれ?思った以上に自分の人生、しんどい部類だったりする?」

 

アホみたいな状態だった。自分の知っている自分の歴史である。それに対して、自分は既に様々な角度から評価を下していて、ツライ過去も乗り越えたと思っていたし、振り返っても仕方がないとドライな距離感を保つよう心掛けていた。自分にとって、それら過去は終わったことだからだ。

 

一方で、これまで自分の生い立ちの「あまり笑えない部分」について、ノートに愚痴のように書き散らしたことはあっても、誰か人に語ったことはあまりない。何せ、聞いたところでまるで面白くないからだ。笑いどころもない、取れ高もない、暗くなるだけ。つまり需要のない話はしたくない。誰も得をしないではないか、とそう思っていた。

 

今回、心理士先生には60分間、安くない料金を払ってそんな需要のない話を聞いてもらった訳だ。だからこそ僕も腹を決めて話が出来た。そして、言葉にして、その言葉を聞いている心理士先生を見て、ようやく自分の経験がストーリーとして感じられたのだと思う。

 

そして、それは思った以上にキツかった。簡単に文字に出来た事が、まさか言葉にしづらいとは思っていなかった。エピソードトークになると、こんなエグみが増すのかと自分でも少し笑ってしまった。常に過去起こったことの評価を自分だけで判断し、PDCAを回してきた自分にとって、初めての経験だった。

 

会話の本質は、反射にあるのだろう。言葉が相手に届き、そのリアクションで、自分が言ったことを再度理解する。双方向による情報の摂取は、個人で行う情報の理解とはまるで性質が違う。自分の悩みは、話してみて初めて悩みの「深度」が分かる。出来事として、自分がどう判断するか、どう処理するかでなく、そもそもそれが「どんな事態なのか」をやっと把握出来る。これは貴重な体験だった。

 

その細かい話についてはここで書く必要もないし、多少長い目でこのカウンセリングと向き合う事になると思う。今回はその初回であり、今の僕の状況になんら進捗もない。ただ、やはり「人に話す」行為と「自分の中で考え答えを出す」という行為は、まるで別物なのだと思った。何か抱えている人は、何もカウンセリングでなくてもいいけれど、信頼のおける人に話すというフローを経た方がいいと感じ、ここまで文字にしてしまった。

 

悩みは一人で抱えるべきでない。巷でよく聞くその言葉の本意は、解決の糸口云々は置いておいて、そもそも「悩みそれ自体を本人が正しく評価することが非常に難しいから」なのかもしれない。確かに「話す」という行為はコストを伴う。けれどもそれだけの見返りもあるのだと。それを肌で実感できただけでも、今回カウンセリング依頼をしたことは、悪くない判断だったと感じる。

 

コロナ禍で中々人と会う機会も減り、人との距離感も測り兼ねる中、どうしたってストレスやモヤモヤは増加傾向にある。「人間」と書くその字の通り、人はそもそも社会の中で群れながら生きる生き物だ。ネットや動画サイトなどで一方向的に文字情報や動画情報を日々得る中で、個人での理解を繰り返しているうちに歪んでしまう認知も多くある。現に歪んでしまっている言説を日々眺める。そんな中、こんな経験から自分の感情を人に話すこと。改めて、この役割を感じた次第である。

 

もう桜も散る季節なのに、相も変わらず暗い内省を残して、明日からの仕事に備える所存です。適当に頑張りましょう。

 

内を省みると書いて、内省という話。

やっと今年に入って最初の記事を書いている。年が明けてから既に20日が経つ。日々社会でせっせと働いている身としてはもはや新年という気分も抜けて急ピッチでやってくる年度末に向けて身構えるべき……ところなんだけれども。

 

今回は、非常に内省的な事を書いていこうと思う。最近のモチベーションの状況と、維持方法についてだ。こんなことを書き出すということは、そう。完全に不調だったりする。仕事にも気力がない。趣味もいまいち熱が沸かない。ブログにも書くこともない。20万したゲーミングPCを買ってみても、ケツに火がつかない。コロナも相まって、人と話す機会は減っているから、冷静に自分を顧みることも難しい。並べて書いたら陰気な吉幾三みたいになってしまった。

 

そんなこんなで、30そこそこの中途半端な時期に差し掛かったおっさんが、何をしてもピンとこず、あの時期の欲や熱はどこいった。というような日々を過ごす中で、少し真面目にこの状況を考えてみようと思った次第。適当に考えた自分向けっぽい文章になってしまったので、お暇な方はどうぞ。



 

さて、これまで30年ほど生きてきて。「何かをしよう」という気持ちをどう起こしてきたか、という点についてちゃんと考えねばならなくなってしまった。思考の癖というか、自分のやる気スイッチの押し方そのものだから、毎度「何かをしよう」と考えるたびに、そのルーティンを繰り返してきたわけである。

 

例えば長いことやってきた同人誌制作。もちろん、何か企画を立ち上げようとする際には、話を聴きたい人を思い浮かべたり、あるいは今この枠組みで雑誌を作ったら面白いのではと脳内で盛り上がったりする。それがモチベーションにはつながるのだけれど、今回はそれ以前の話。そもそも「何か作ろう」なんてどうして思うんだっけってこと。

 

それら衝動みたいなものをどう呼び起こしていたのかと言えば、個人的な発想として、まず現状の否定がある。逆に「何もしない」ということは、自分の人生における時間を否定するものだという考えが、いつの頃からかぼんやり頭にあった。そもそも、人生には何か目的があって、人生に付随する時間は手段である、ドヤアみたいな。文字面を見れば、どんだけ生き急ぐのと思うのだけれども、何か行動を起こす淵源になっていた発想ではあるので、安直に否定は出来なかったりする。

 

まあ目的なんて大げさに書いたけれど、それはその都度、何をするかという事を決めれば良いだけである。試験だったり、創作物だったり、何でもいい。自分の人生を使うに値すると、自分で決めればそれで納得する。何かをする整合性がそこで生じる。そうすればあとはTODOと期日を纏めれば、成果物は自然と出来上がっていく。そんな流れを20代の間は繰り返しながらやってきた気がする。

 

一見して、悪くないサイクルなんだけれども、最近この手法自体に戸惑いや綻びが生じるようになってしまった。エラーが起きていたのは恐らく「目的に対する納得」の箇所。何か行動をそこにセットしてみても、自分からの承認が降りてこない。承認者の機嫌が悪いのか。日を改めてみてもそれが覆ることがなかった。

 

それがここしばらく、1年ほど続いている。これは明らかにおかしい。こう書かないとルーティンが壊れていることにも気づかないのもある種の恐怖だ。そして、何をすべきか承認されないままでいると、最初に書いたモチベーションの淵源である「現状の否定」が機能不全を起こす。免疫みたいなもので、ウイルスを除去するという目的から外れ、自分自身の攻撃だけに勤しみ出す。延々と続く自己否定。何をしようにも承認は降りることなく、意欲は湧かず、正直かなりしんどい。



ところでネットで「クォーターライフクライシス」という概念を見たことがある。20代後半から30代前半にかけて、人生100年と考えるとクォーターあたりのタイミングで抱える抑うつとした感情のことだという。てか、これじゃん。完全にこの状態にハマっている気がする。世間一般あるあるなのかよ、と少し恥ずかしくなったが、今も抜け出せたとは言い難い。

 

恐らくながら、この10代からのルーティンの故障時期というか、ある種ソニータイマーのような時限設定が存在していて、それが現在自分が抱えているクライシスの原因ではないかと思う。ではこのタイマーの本質は何かと考える。

 

それを見出すには、これまでのモチベーションの正体を捉える必要がある。先ほど、それは現状の否定だと書いた。つまるところ、悪く言えば逃避欲求である。今は自分の収まるべき状態でない、場所でない。ワナビーの根源みたいな感情だ。だからこそ何かを作ったり、手を動かすことで生じる僅かな可能性に縋ってきたとも言える。

 

反面、これをよく言えば投資とも言える。不鮮明な将来に対して、今何か行動を起こすことで影響を及ぼすことが出来るのだから。

 

言い方はそれぞれあるのだろうけれど、仮に投資だとしよう。それはある種若さに依拠した金融商材のように思える。人生が長く、先がまだまだ不鮮明だからこそ出来る手法。「満期」までの猶予という不確実性が投機的な要素になる。つまるところ、先々がうっすらと見えてきてしまうと、投資に対するリターンがなくなる。投機は先々不明だからこそ、リスクに対応する形で損得が生じるものだ。

 

硬直的なデリバティブに利息がつかないのと同様、年齢を重ねるだけ相対的に、何か行動を起こすことに対するリターンは減る(ように思えて来る)。一方で、そうした金融商品と人生は異なり、何か行動を起こした際のリスクやコストは据え置きだったりする。そうなれば、新たな投資に手を出すまでもない。リスクリターンに見合わない行動をすべきか、という理性が自分を止めにかかるのは、自然な摂理だろう。

 

不確実要素の低下。自分の居場所の拘束感。そんなものは言ってしまえば、気の持ちようであることには違いないのだけれど、それら無意識化の発想は思った以上に自分の感情や行動を、知らず知らずのうちに縛りつけたりする。そして反発をしてみるものの、それら「ぼんやりとした圧迫感」が巷で言われるような「減退」「老化」という言葉と化合し、納得や諦観として自分に返ってきて凹む、という次第だと思う。



こう書いてみて、なるほど。と思う。このように考えれば打開策は至ってシンプルじゃないか。これまで持っていた行動原理を書き換えればいい、それだけだ。現状の否定をテコにしながら何か行動を起こすという方法をやめること。つまるところ、現状を肯定すること。今の状態を素直に受け入れてから、何をすべきか考える。楽しいことを探す。趣味が広がる。なるほど。そんなことでいいのか。一瞬で解決ではないか。

 

とここまで考えて、本当に人間というものは、PCよりも劣っている存在だと実感する。バージョンアップが為されれば、一瞬のうちに自動更新してくれる各種アプリケーションと違い、自分の至らぬところが分かっているにもかかわらず「これまで長いこと持っていた思考をどのように切り替えればいいか」なんていう、事務的なところに多くの苦労を費やすわけだ。

 

自分を否定することで動力化する。という過去から沁みついた発想を剥がすだけでも、きっと大手術がいる。自分のことながらほとほと嫌になってしまう。多分、完全な切り替えには早くても数年かかるのではないだろうか。マトリックスみたいな、何でも即インスコ時代が到来しない限り、人生とはどこまでいってもポンコツな自分というソフトウェアとの闘いなのだろう。SFよ早く来い。

 

と、そう嘆いていても仕方ないので、上記を今年1年くらいの目標としたい。というのがようやく辿り着いた今回の主旨。

 

自己肯定と行動。毎日Vtuberの配信見ていても本当にメンタル管理は大切だと感じる今日この頃。何をするにも、良き精神がなければ行動は起こせないものだなと思いつつ、寒い毎日を養命酒でも飲みながら、乗り越えたい所存。

 

もう少し新年ぽい内容にしようと思ったけれど、無理でした。今年もまったり頑張ります。

Vtuberと「中の人」の距離感について

先日Vtuberアイドルプロダクションのホロライブにハマった、というエントリを書いた。日々エンタメとして享受するだけでなく、仕事だったり作業をする際のBGMにもなる辺り、単に「沼」という表現より、生活の一部になったと言って過言ではない。

 

かつてキズナアイやらミライアカリなんか一部配信を見ていた気でいたものの、いつの間にか世の中は進んでいたようで。お前が世間から遅れているだけでは、と言われればその通りなのだけれども、諸々配信や切抜き動画を通して、ホロライブに限らず、にじさんじ、そして個人で展開しているVtuberも多い事を改めて実感として知った。

 

僕に限らず、誰もがYoutubeをチラッとでも覗けばわかる通り、それらVtuberに関連した動画は既に巨大コンテンツ群となっていることは間違いない。また配信者はプロに限らず、ちょっとした知識と設備さえあれば、誰もがアバターを持つことが可能だったりして、参入ハードルも高くない。Vtuberという枠組みが活用されながら様々なジャンルの動画が展開しているというのが、昨今の情勢であるようだ。

 

確かに「配信してみたいけれど、顔出しでのYoutuber参戦は流石に」という心理的な抵抗感をなくすのには、アバターを使って、キャラクターとして配信を行うというのは、今の時代において自然な選択のように思える。例えば仕事をしながら片やアイドルとして活動したいという場合、この仕組みは機能的に作用する。個人がメディアを使って個人にアプローチすることが容易になった現代。VRアバターというのは、ちょうどいい空間を作り出す的確な手段となっているのだろう。

 

ただ、日々動画を視聴したりする中で。ふとした疑問というか、違和感のようなものも感じたりする。以上書いてきた通り、VRアバターというものは、自己開示をしたいという欲と、自らの顔を晒したくはないというリスクヘッジの、微妙な隙間を埋められる概念ともいえる。それだけに、プロアマ問わずそこには思った以上に様々な心理的要素が絡むのではないかと考えたりする。

 

詰まるところ、自分であって自分でないものとの距離感の話だ。以下、ペルソナ的な話題になっていくけれども、インターネットやSNSが普及していく中で、これに限らずネットとリアルのバランス感覚は多くの場所で求められるスキルになってきている。例えば、SNSで普段から表明している考えや意見は、学生生活や社会人生活などリアルな場で表出させていい感情ではなかったりする。半面、飲み会などリアルな友人関係だから言えることであっても、ネット上において書き残すと炎上のリスクを孕む言葉も存在する。

 

TPOと言えばそれまでなのだけれども、過去の時代よりも遥かに高度な領域で、自分の存在している場に沿った、自分を適当に作り出すことが求められるわけだ。Twitterが生まれて10数年経ち、iPhoneを片手にネットと繋がる生活はもはや日常化しているものの、このネットとリアルが絡みあう状態というのは、やはり複雑な「自我の調整」を強いられている時代であるとも言える。

 

ではそんな中で。VR、仮想現実におけるアバターとしての自分ってどこにいるんだろう。Vtuberの活躍を日々見続ける中で、ふとそんな疑問が過るようになっていた。いわゆる「中の人」という存在は、人間の精神性になじむものなのか、という違和感である。勿論、この「中の人」という概念は演劇の世界などにおいても、往々にして過去から存在しているものだ。声優や着ぐるみショーといった世界でもよく聞く話で、表出されているものを裏から演じる役割や概念は、何も新しいものではない。

 

しかしながら、昨今のVR文化と異なる点は「中の人」が完全に演じているか否か、という点だろう。Vtuber文化はかなりその本質が「中の人」当人に近い。完璧に演じる事が求められるというよりも、本人のパーソナルな面がキャラクターの後押しとなり、見る人が完成されたアバターとして認知する仕組みになっている。冒頭から書いている通り、僕自身が一瞬でこの沼に落ちたため、未だにこの「キャラを見ているのか、中の人を見ているのか」という文脈に慣れきっておらず、たまに軸がブレたタイヤを見るような感覚に陥る。

 

恐らく、こうした「中の人」+「キャラ」という認知方法も慣れるか否かという話だとは思う。消費者サイドとしては、そうした違和感もコンテンツを接種していくうちになくなっていくことだろう。しかしながら、その認知を受ける側というのは、整合性がつくものなのだろうか。勿論、当人であることを明かして、VRアバターをあくまでも自分の分身と位置付けていれば話は別である。僕がウダウダ気にしているのは、ほぼ自分のパーソナリティを持った外郭=キャラだけが認知され、人気を得ていくという乖離性についてだ。

 

合理的な欲求に対する行動として、称賛や人気を得たければ、それに見合った成果を残す必要がある。その成果の為には、当然のことながら努力や忍耐が要る。自分が誰かからの承認を望み、その過程をしっかりと踏まえ、残した結果。その結果である称賛を得るのが、自分に近いが、明確に自分ではない何かだとしたら。身体性を持ったリアルな自分には一体、何が残るのだろうか。ふと、そんな想像をすると、うすら寒い気持ちにならないでもない。

 

外部から見た存在が、余りに「中の人」のパーソナリティによって出来上がっているとき。自分と外部の認知のズレに、人は耐えられるのだろうか。心理学上でも、余りに完成されたペルソナは潜在意識との折衝において、様々な問題を引き起こすという話を聞く。VRというペルソナと「中の人」の自我の間において。その衝突がより分かりやすい形で、表出されはしないだろうか。こうした自己認知の歪み、僕のぼんやりとした心配はそういう所にある。

 

Facebookが社名を改めメタバースというVR空間を提供する会社へ舵を切った、というのもネットでは最早手垢がついた話題だ。一般的な市民が匿名性あるVRアバターを使い、社会で生活する物語は既に数多く存在している。SF的な想像の世界で言えば、今はありふれた設定の延長として、エンタメが想像力に追いついてきていると言えるだろう。そして、恐らく我々一般市民もこの想像力の延長に立っているのは確かだと思う。

 

今、活躍するVtuberたちは、我々が今後経験するかもしれない「中の人」と「アバター」の歪みを、先んじて体感しているのではないか。リアルな身体に返ってこない反響を、心はどう処理しているのだろう。好奇心と不安半分、そんな事を考えたりしてしまう。

 

日々、配信として当たり前にみている光景も、かつて人類が歩いたことのない場所だったりする。果たして、そこは人にとって安穏な土地なのだろうか、と妄想をこじらせるのは、やはりSF好きの悪癖なんだろうか。純粋にいちファンとして、種々の配信やコンテンツを楽しみながら、ふと思い浮かんでしまった独り言でした。

1週間でホロライブという沼にハマるまで

年齢のせいなのか、何かにとことんハマるという体験がとても有難く思う。
 
この頃、趣味全般に対する興味関心は薄くなり、何をしていてもどこか上の空という気持ちが支配的になる中。わずか1週間ながら、動画の視聴を延々繰り返したことにより脳内で「こんぺこ~」という声が延々再生され続けるというのは、何か脳の病気か、純粋に沼ったかのどちらかと言える。
 
ホロライブというVtuberプロダクションの動画にハマった。自分でも驚くほど。いや、どうせすぐ飽きるのではないか、という疑いはあれども、今高まっている熱量は文章にしてしまった方がいい。ということでタイトルの通り、書いていきたい。
 
きっかけは先週。「ホロライブ飲みをやるから来てね」という友人の誘いだった。さも僕が、ホロライブというものを好きかのように話は進められるが、さて、ホロライブとは。ていうか、何を指す単語なのだろう、ラブライブの続編だろうか。いくつか脳内で候補を挙げては首をかしげていると、友人からフォローを入れるように通知が入る。
 
Vtuberにハマっててさ」あぁ、Vtuberのことなんだ。まぁ、よくわからないけれど、酒が飲めるなら行くか。そう考え、適当に「分かりました、調べておきます…」と返す。これが11月2日、つい一週間前の出来事だった。
 
ていうか、何故僕は誘われたのか。そういうのは本来、既にハマっている人間同士が盛り上がりたいという意向でやるもんだろ。と内心文句半分、何も知らないまま盛り上がられても癪なので「ホロライブ」Youtubeの検索バーに記入する。
 
今思えば、おススメ動画も何もなく、とかく「学んで来い」という相手の姿勢がよくなかった。逆に反骨心というか、変に負けず嫌いな性分に火をつけられてしまう。昔から天邪鬼な気質で、丁寧なおススメプレゼンテーションには逆に足元を見てしまったりするが、勝手に学んでね、という姿勢にはむしろホイホイ自分から首を突っ込む習性がある。オタク特有の自滅気質である。
 
いくつか動画を見て、コンテンツを調べていく中で、少しずつ概要をつかんでいく。なるほど、ホロライブってのは事務所の事なのか、ていうかかなりメンバーいるんだな…と軽く放心しつつも、おススメ動画を漁ってみる。数多くの配信切り抜き動画がある事は理解したものの、どれを見ればいいのか分からない。
 
キャラの数も多い上、「分かりやすい」「笑える」と銘打たれたシーンを見てみても、各キャラの前提知識がなければどれもイマイチピンと来なかったりする。詰まるところ、数年経過したコンテンツであり、それぞれのキャラ個性や関係性について、文脈が出来上がってしまっているらしい。それを踏まえなければ心から楽しむことは出来ない、という微妙な敷居の高さが存在するようだ。
 
学ばざるは、楽しむべからず。まぁ、そんな事は言ってないんだろうけれど、さっき事務所の名前を知った様な、ズブの初心者には多少の抵抗感があったのは確かだった。と、ここで心が萎んでいれば、こんなことになっておらず、やはり悪い癖で、どうも悔しくなってしまったのである。絶対に面白いと感じる所まで行ってやる、と意気込んでしまった。やはり完全に自滅である。
 
また、それら切抜き職人によって上げられている動画の数々は、質が悪いことに「これ知ってれば更に面白いのに」みたいな、予備知識の大切さを動画の中でこちらに醸してくるのだ。手っ取り早く現在最も有名であろう兎田ぺこらの実況動画を見ていれば「同期のメンバーや関係性を知っていたら尚の事面白いのに」みたいなことを仄めかしてきたりする。
 
更に、同期がいるという事は、先輩や後輩がいるという事で「さくらみことのコラボではこんな一面があるよ」とか「大空スバルとやるとこんな感じ」とか。油断しているうちに、コラボ相手の事を知りたくなり、そちらのメイン配信を見だす。そちらのメイン配信にやってきたコラボ相手が気になり、また覗いてみる…
 
以後これの繰り返しとなる。ここまで堕ちれば、もう逃げられない蜘蛛の巣が完成しているんだなと、自分で書いていて思った。いくら掘り下げても、動画は尽きることなく湧いてくる。どう足掻いても、絶望なのだ。
 
必死に学んだ末、迎えた飲み会。約30時間で得た知識ながら、現在の推しは淡々とした猫叉おかゆと、その対極にいるやかまし可愛い大空スバル。そのチョイスに多少引かれる始末。過去には催眠音源にハマっていたこともあり、ASMRに全く無抵抗で没入できる自分の素質が功を奏したようである。加えて、日々寝る直前まで動画視聴に勤しんだ結果、この日曜日は深夜までぺこらの声が延々脳内に鳴り響き、ついには不眠に陥り、最悪なテンションで今週の月曜を迎えた。何事も程度というものがあることを久々に学んだ気がする。
 
これ以上今ハマりかけているコンテンツの内容を、あの子がどうだとか、あの動画がどうだとか、にわかが宣うのも気が引けるのでやめておきたい。いや、めっちゃ語りたいのだけれど。それにしても、あまりにも一瞬で沼に落ちたため、正直言えば自分でも何が起こったのか判別がつかず、このような文章を残している次第である。やはりコロナ禍において、不足していたコミュニケーションやら、純粋に楽しそうな会話やら。そういう要素が、Vtuberというフィルターを通して入ってくることが心地よかったのかもしれない。
 
どうしても昔から三次元アイドルには没入しきれずにいた。楽曲は好きでも、とことんアイドルを推す、ということは何か自分の中で阻むものがあった。押すべき対象というか人間が見えすぎると、どうしたってメディア露出は増え、余計なモノまで見えてしまうし、見ようとしてしまう。恐らくながら、Vtuberという届きそうで、絶対に届くことのない距離感。ガチ恋勢には忍びないが、これが僕にとって心地のいいモノだったのだろう。そして、ここまで文化が成熟して人数も増え、ソロ活動というより仲間がいて、その中でわいのわいの盛り上がっている様子を見ることが、今の自分にとっては心の清涼剤になり得たのだと思う。
 
今後、どれだけこの沼に浸かっているかは分からないけれど、少なくとも今頭の中は、配信を見ていたいということで占められている。ころさんの復帰を祈っている。何か中高生の頃に楽器にハマったり、エロゲに没頭したり、というあの片鱗を再度味わえているだけでも、感謝したくなる、というのはやはり歳のせいなのか。しばらくは楽しみたい所存です。

コミティアに参加して同人即売会という場所を思い出す

少しずつ感染状況も落ち着いてきている中、コロナ禍の空白を埋めていく。しばらく、そんな記事が続きそうな気がしている。今回もそんな話。

 

そういえば、少し前の話になるけれど。9月に青海展示場で開催された秋のコミティアに参加した。参加、とはいっても一般参加で覗きに行った程度の話ではある。同人誌即売会へ足をはこんだのがかなり久々で、気づけば2019年の年末のコミックマーケットに自分が同人誌を最後に出して以来だった。2年弱もの間、即売会に行かなかったのは、高校時代からコミケに通い始めて、初の事だったと思う。

 

いわゆる同人活動。自分で書き作る本を、自費出版して売る。僕はこの営みにどうしようもなくハマってしまった。中学の頃から「何か面白いものはないか」と書店に通うのが好きだった自分は、いっそ自分で企画できる、という輝きに魅せられ、案の定その趣味に没頭していく。

 

そして10年。気づけば20代のほとんどをそのような酔狂な活動に費やしてしまった。まぁともかくそれだけ長い間、本を作ることを趣味にしてしまうと、ほぼ本を作ることが日常化してくるもので。お盆と暮れに開催されていた年2回のコミケに毎度のように本を出していたから、1年中、同人誌の企画を考えるか、作業をしていたような気がする。

 

もはや「本を作る」という謎の使命感に突き動かされていたわけだが、実際純粋に楽しいと感じるのはかなり短い時間だったりする。企画を立てている時、脱稿した日、後はイベント当日くらい。僕が発刊していたのは対談雑誌だったので、作業内容として協力者探し、アポイントから文字起こしに校正と、そんな業務然とした作業に追われていた。

 

ふと20代も後半になると「このまま続けていると、この人生同人誌作りだけで終わってしまうのでは」そんなバカみたいな恐怖心もあって、一旦活動を停止してみた訳だが、そうこうしているうちに、同人誌を作ることはおろか、同人誌即売会を行うことすら難しい世の中になっていた。

 

ルーチンで続けていたことは一度手を止めると、再開するのにかなりのエネルギーがいる。それは、自分のやっていたことを変に客観視しすぎるからだと思う。よくそんなことやっていたよな、と今では感じたりもする。再び何か企画を立ち上げようにも「そこまでの苦労をかけてまで、するべきことなのか」と冷静な自分が後ろ髪を引っ張り始める。よくよくその説得に耳を傾けると、至極真っ当だったりするので結局、浮かんだ企画は頭の中のゴミ箱に投げ捨てられる。

 

この2年ほど、色んな思いつきが幾度ともなくゴミ箱へ投擲された。果たして、この現象を老いと呼ぶのか、あるいは青臭い時期を抜けて思考が大人になったと考えるのか。その判断はさておいても「自分で本を作って売る。」2年間も時間を空けると、その過程が大それたものに思えて仕方がなくなっている。

 

そんな中、ふと何の気なしにコミティアに参加した。コロナで縁遠くなっていた光景。久方ぶりにあの無機質に並べられた机の上にある、いわゆる薄い本を見た。そして、その本の奥には本を書いた人間が鎮座している。同人即売会では普通の眺めなのだけれども、改めてその状態を目にしてみると異様に映った。自分が作ったものが目の前にあって、それを本人が売る。

 

本屋、八百屋やら家電量販店やら、どんな小売店を思い浮かべても商品とセットに生産者が揃っているという状態はあまり一般的ではない。しかも、自分の頭の中からアイデアを取り出して作られた同人誌である。その当人の分身とも呼べる創作物を当人が売っている訳だ。いや、自分だって長いこと同じ行為をしていたのだから、何も違和感などあるはずないのだけれど。

 

そして、本を購入する側の僕も臆面もなく、気に入った絵柄や企画を目にすれば「読んでみていいですか」と本人に声をかけて、本を手に取る。気に入れば購入する。そんな即売会では当たり前のやりとり。それでも、この営みは狂っている。やはり何か、日々仕事をして、家に帰るだけの日常にはない感情を思い起こさせてくれる。

 

先も書いた通り、同人誌を作らなくなって現れた「冷静な自分」によれば、自分の考えや創作欲を外部に晒すのってどうなんだ、と言う。どこぞのおっさんでしかないお前が、必死に足掻いてモノを作る姿も滑稽だし、成果物に関しても需要なんてあるものかと。このブログ記事を書いていても、頭の片隅で常に批判を投げつけてくる。

 

ただ、コミティアで自分の本を前に座る創作者の列を見て。やはり、そちら側に座っていた自分の気持ちを思い出し、そうありたいという気持ちに気づく。特にこのコミティアというイベントは創作オンリーだ。二次創作を批判したい訳ではないのだけれど、創作物に作った本人が投影されやすい。言ってしまえば、リスクが高いとも言える。もしそれが批判されれば、まさに自分が批判されるのと同意義だったりする。

 

ある意味で、彼ら、同人作家は勝負している。作画や企画に長い時間をかけ、安くない印刷代を払い、本を作ってイベントに参加している。趣味でそんなリスクをとること自体、ぶっちゃければ滑稽だ。分かっているのに、何かそちら側に惹かれてしまうのは一体なんなのだろう。何か、制作物を作る彼らの姿が誇らしげに見えるのだった。

 

悶々とした気持ちと、リュックサックに溜まった本を抱え、帰路につく。家で買った本を捲りながら、やはり同人誌が好きだと思った。そして、買う側で満足出来るかといえば、そうでもなさそうなのである。もう一度、この紙の束を自分で作ってみたい。誰から笑われようが、指さされようが、手を動かしていたい。一体自分に何の得があるのか、理屈で理性に説明をしたかったが、結果が決まっているのだからそんな面倒なことをする必要もない。

 

リハビリがてら、過去に作った総集編にしてみようかと思っている。多分、来夏あたり。形になればいいのだけれど、と不安半分、楽しみ半分。本来、創作ってもんは独りで、自分の意思で、救われていて…とか言いたいのだけれど「やっぱ、みんな楽しそうだから」という、身も蓋もないきっかけで復帰しそう。

 

まぁ、力みすぎる必要もないわけで。ふと思いついたことは、やはり形にしてみよう。そんな事を思った秋晴れの日でした。

松坂大輔と斎藤佑樹が引退することについて

ここでは、ごくたまに野球のことを書いたりもする。野球ファンというだけでなく、実際に小学校から高校まで、プレイヤーとして案外真面目に野球に取り組んでいた過去がある。「体育会系にまるで見えない」とよく職場でも言われるけれど、中学高校と都大会でそれなりなところまで進んだりもした。

 

その後、特定の球団を応援したりはなかったけれど、テレビで試合が放映されていればチャンネルを合わせるし、野球選手のYoutubeチャンネルなんかもよく見る。特に今年なんかは大谷サンの大活躍を都度動画でチェックしたりとなかなか楽しめた1年だったように思う。

 

そろそろ本題。今年をもってプロ野球界を2人の投手が去ることになった。1998年の甲子園で大活躍し、鳴り物入りで西武に入団。その後23年間のNPB、MLBでの生活を経てから、とうとう今年引退を選んだ松坂大輔。一方で同様に2006年、夏の甲子園早稲田実業を優勝に導き、高校生ながら完成された投球でその後を期待され、大学卒業後プロに入ったものの、なかなか結果に恵まれなかった斎藤佑樹

 

当たり前だが、この二人の成績やら投球どうこうを比べようという話ではない。ちょうど僕が野球を始めた時と、野球を辞めた時、甲子園で脚光を浴びていたこの二人には、なんとなく思い入れが生じてしまった、という僕の個人的かつ主観による、ちょっとした思い出話である。

 

先にも書いた通り、自分もかつては野球少年で、僕でなくともそうだろうが、この2人の投手の甲子園での活躍はとても印象的だった。というのも、平成の怪物こと松坂大輔が甲子園で大フィーバーを果たした1998年。それは僕がちょうど野球を始めた頃であった。僕の親父は、団体行動が苦手で野球は嫌いだった為、野球を僕に勧めることはなかったが、子供は勝手に育っていく。ルールは勝手にパワプロで覚え、大まかなスポーツとしての魅力はドカベンで知った。

 

こんなにわか少年にも、当時の松坂の活躍は鮮烈だった。画面でわかるほどの圧倒的なストレート、ストライクからボールゾーンにまで曲がる高速スライダー、更に打者を翻弄するチェンジアップ。投手ってのはこういうものだ、と試合を見るたび投球で示されたような心地がした。プロ入り後も鮮烈なデビューを果たし、イチローとの初対戦などは未だに脳内でプレイバック出来る。同年巨人に入団した上原浩治とともに、新人王を獲得。思い返せば一番、僕がプロ野球に没頭したシーズンだったと思う。2人の投手の活躍を見て、しばらく後には僕も投手を志望することになる。

 

そんな原体験から野球を始め、結局僕は、高校卒業まで野球を続けることになった。やはり、野球が楽しいだけの小学生時代から、中高では基本週6での練習が続く。もちろん練習するほどレベルは上がっていったけれど、オフもほとんどない生活。流石に自分で選んだ部活でも引退が待ち遠しくなるもので。

 

そして2006年、高3の夏。僕らは大会に敗れ、ある意味待ち望んだ引退を迎える。安堵と感傷、そんな微妙な気持ちのまま、すぐに夏の甲子園が始まった。そこで同い歳の高校3年生として躍動していたのが、上で挙げた斎藤佑樹と現楽天田中将大だった。

 

あの夏の印象だけで言えば、ボールに勢いがあったものの多少粗削りな印象を覚えた田中に対して、斎藤の仕上がりはほぼ完成されていたと思う。コースをつく140キロ後半のストレート、少ない四死球、緩急を使って打たせて取るピッチング。早実駒大苫小牧の決勝、そして決勝再試合などは未だに甲子園の歴史において語り草になるほどだ。万が一、僕らも勝てばそこに進めたかもしれない場所で、その2人の投手はとかく輝いていて、最後の栄冠は斎藤佑樹が手にした。

 

思えば「ハンカチ王子」という名も今となっては死語なのだけれど、当時は「王子」という呼称に相応しいオーラが彼にはあった。何なら、夏の甲子園を一度でも志した高校球児として、欲するものが全てそこにあったのだと思う。僕はその夏、そんな高校野球の完成体を眺めながら、わずかな羨望と共に、8年間に及んだ野球人生に一旦の幕を閉じた。

 

そして、現在。その夏から15年が経ったことになる。僕が野球を辞めて、普通の会社員として働いてい今に至る間、松坂と斎藤はそれぞれ全く異なる道を歩んだ。一方は栄光と挫折を繰り返し、引退の際には「最高な場所とどん底を味わった」とコメントする。一方は鎌ヶ谷での2軍生活を続けながら、活躍の日を滾々と待ち続けていた。

 

それぞれが高校時代そのままに、栄冠だけを得られるような15年ではなかったように見える。苦労しながら、彼らも野球人生をここで一旦終わらせる。とうとう、僕にとってはプレイヤーとして最初に憧れた投手と、最後に羨んだ投手が球界からいなくなってしまう。それぞれ、いちファンとして傍から眺めていた身としては感慨深い。

 

小学校時代に特に何も考えず、将来の夢には「プロ野球選手」と書いた身として、その安易さが今になって多少恥ずかしくなる。やはり、スポーツってのは勝負の世界であり、結果がすべてと言うけれども。思い入れのある選手に関しては、色んな葛藤を想像しては、全ての過程に心からお疲れ様と言いたい。

 

どんな選手が、どんな成績で終えようと、プロという厳しい世界において挑戦し続けた事実に対して、そこには確かに憧れや羨望が存在したことは忘れてほしくないものだなと独りよがりに思ってしまった。