わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

コミックマーケットは誰がためにある

・あけましておめでとうございます。

ということで始まっちゃいましたね、令和5年。年末しばらくブログ更新もしなかったので、久々の更新が新年のご挨拶となってしまった。なんだかんだで忙しかったし、仕方ないよね。

 

まぁ、それにしても。

 

仕事納めの翌日、新型コロナウイルスに感染し陽性判定。そのままコミケ参加出来ず・・・。いやあ、このタイミングで感染するかー。この歳になっても、こんなに凹むことあるもんなんだ、と学びを得た次第。

 

この十数年、同人誌を作っては売るという自虐行為を繰り返しては、承認欲求と自己肯定感を得てワナビー自我を誤魔化し続けてきた身として、直前になって参加出来ないという事態は思った以上にツラい。

 

当方大手サークルでないにせよ、まず金銭面のダメージは大きい。コミケ参加費や、制作の為の資料代、安くはない印刷代を払って新刊を仕上げてしまった訳で、それをペイ出来る場所というのはやはりコミケ当日の販売くらいなものである。在庫は手元に残ったのだから資産計上と言えるが、機会損失であることには変わりない。

 

具体的に言えば『ぼっち・ざ・ろっく!』の影響をモロに受けて、つい買ってしまった十数万のギターも、もちろんコミケの売上を見越してのもの。捕らぬ狸の皮算用・・・この国にはバカを表すいい言葉があるものだ。

 

同情するなら買ってくれ、ということで以下通販をなにとぞ。

sukumidu.booth.pm

 

そんな浅はかな収支管理もあって、年末年始は天井をただひたすら見つめながら「何がいけなかったのか」と恨み節をぶつぶつ唱えたまま過ごした。その他楽しみにしていた飲み会やら、正月のごちそうも全て泡となり、その癖、仕事初めには療養期間解除がキッチリ間に合うというこの社畜ぷり。今年一年の始まりとしてはこれ以上ないスタートを切ったと言える。

 

コミケの転換期

それにしても、コミケを巡るネット学級会というか、種々イベントそのものの性質・変遷を憂う声は、コロナ禍を機に増えている気がする。数年間イベント自体が中止になり、復活のC99(昨年の冬コミ)以降は感染対策として参加者数を管理、チケット入場制がとられるようになった。その甲斐もあって参加者は抑えられたが、それによる弊害を唱える声もチラホラ見かける。

 

先日は「もうコミケでも大手サークルしか利益だせねえのでは」という匿名記事がプチバズしてたり、同人誌の頒布部数実績が露骨に減少したという声もよく聞く。

 

その他、コミケ参加者やボランティアスタッフの高齢化問題、あるいは「紙媒体の同人誌に意味なんてあるの?」「BOOTHなど通販やDL頒布があるのに直接頒布にこだわるのは何故?」という具合に、コミケに留まらず同人即売会というイベント自体の本質を問う意見も、コロナ禍以降増えたように思う。

 

コロナ以前のコミックマーケットを振り返れば、拡大基調こそ正義と言わんばかりに、圧倒的な参加者数を誇り、開催日数も4日間に至るなど、日本のオタクはもとより国際的に見ても最大規模を誇る「オタク文化の祭典」としての位置づけに近づいていたのは間違いないだろう。

 

確かに多少規模の小さいサークルでも、キッチリプロモーションすれば一定の売上は見込めた気がするし、高度経済成長期のような、ある意味「良くなる未来」に依拠したサイクルが回っていたとも言える。

 

ただ、昨今では人が集まること自体に制約を強い、その意味を問い直したコロナ禍によって、そうした性質も転換期を迎えている。それが様々な疑問や問題提起に繋がり、同時に「そもそもコミケコミケって騒ぐけれどさ」という冷ややかな目線が、イベントとしての在り方を再考させるタイミングに差し掛かっているのかもしれない。

 

・個人的にコミケにブレないでいてほしいこと

「いかがでしょうか」で締めれば適当なまとめサイト感ぽく終わる事も出来たのだけれど、流石に新年からチープ過ぎるのでもう一歩だけ踏み込んで終わりたい。

 

そうは言っても、やはりコミケという場所は特別だ。今回参加出来なかった事で余計に実感するに至った。参加してしまうと「なんだかんだ今年も楽しかった」という感じで、疲れと達成感で語彙がナーフされ、都度うやむやになってしまう。今回その体験が出来なかった分、不足している栄養分が明確になった感じ。

 

当然冒頭に掲げた金銭の問題もツライのは確かだけれど、それ以上に「同人誌を作る、買うようなバカな人らと場を共有できた」という実感が足りていない。それなのだ。

 

フォロワーさんのツイートに乗っかる形で、呟いたのでちょっと烏滸がましいのだけれど先ほどこんな事をツイートした。

 

オタク文化に限らずだけれど、この頃世の中はどんどん真面目になっていく。そもそもネットが広まったことで、様々な空間もオープン化し、いつどこでも社会的倫理に沿うような振舞いを求められる事が普通になった気がする。

 

不要なモノを選別し、コロナ禍においては「不要不急」「本当に必要な機会を除いて」など、様々なイベントや文化が社会的価値の基準で計られる機会が爆発的に増えた。詰まるところ「極力、無駄な事はするな」という価値観が、圧倒的に優勢となった3年間だったと思う。

 

更に先にも掲げた通り、コミケは転換期を迎えている。同人活動も多様になり、より効率的な運営を求め、頒布数や利益面でバックがなければ参加する意義もない、と考える人もいるとは思う。これまで旧態依然としたやり方や、存在価値が見つめ直されるというのは、今後イベントが継続される上でも必要な過程だ。

 

だけれども、その本質をよくよく冷静に考えて欲しい。そもそも、コミケに生存的、生産的「意味」はない。不要不急オブ不要不急。本来、帰省して親に顔出すべきであろう年末という時勢に、有明なんていう海っぺりの埋立地において、十数万人の社会不適合趣味を持った人間が集い、承認欲求や物欲、金銭欲を煩悩のままに満たそうとしているヤベー場所である。

 

それなのに、そんな場所にそれだけの人が集まってしまう、あの場を求めている。その事実にこそ本質がある。生存になんの意味もないはずの非日常が、誰かの生を豊かにさせている具体的事象ではないだろうか。

 

また他の即売会と比べてもコミケ特有なのは、ノンジャンルだからこそギリギリのラインまでふざけても比較的受け入れてくれる文化だと思う。普段の社会ならバカにされるようなネタ、恰好、頒布物であっても、笑いながら見て、買っていく人がいる。だから、あの場に固執してしまう。

 

世の中がキッチリとした理屈で回れば回るほど、コミケのような非日常が担う役割は今まで以上に大きくなると思う。バカバカしいモノを作り、わざわざ足を運んで買いに行く。こうしたサイクルは、思いのほか我々を深い部分で支えてくれているし、そういう祭りに救いを感じている人はきっと自分だけではないのかもな、と布団の中で悶々と考えていた次第。

 

なので、どういう批判に晒されても、このコミケが持つ「無意味こそが有価値」という本質だけは見失うことなく、今後もブレないことを祈りつつ。

 

 

 

と、コロナで遊べなかったおっさんのボヤキ記事でした。酒が足りていない。何はともあれ、冬コミの新刊のリアクション見ずに、夏コミの新刊(多分続編)を作るのは怖いので、是非通販で購入された方は感想下さいませ・・・本年も宜しくお願い致します。

「普通」の事が難しい時代で。

〇〇の秋って、誰が言い出してんだろね。

冬コミに向けた同人誌の企画や作業に時間を割いたり、あるいはシンプルに日常生活の中でネタがなかったりと理由はあれど。週によって、普通にこなせている記事の更新が、急に次の週には無理難題に変わり果てるというのも、なんだか不思議だ。

 

折角の読書の秋、ということなので、最近読んだ本と自分の考え事がマッチしたので、そんな話でも書き残してみたい。



ここ1年ほどだろうか。臨床心理学者である東畑開人さんの書籍をよく読んでいる。以前『現代思想』というお堅めな雑誌で、精神科医で批評家の齋藤環さんとの対談から氏を知った。

 

東畑さんの著書が取り扱うのは「心理学」という難解かつふんわりとしたジャンルをベースにしながら、沖縄のデイケア施設で心理士として勤務した経験談や、研究と称してフィールドワークで怪しい施術を受けまくった話。実際、心理士として日頃クライアントと接するカウンセリングの現場から書かれるコラムなど、多岐にわたる。どれも比較的気を休めながら読める上に、現代における「こころ」の本質を突いているように思える。

 

そんな東畑氏の新刊が、この頃ちくま新書から刊行された。『聞く技術 聞いてもらう技術』と題されたその本では、メンタルヘルスを守る上で「話す」「聴く」ことよりも、ふと「聞いてもらう」、意識せずに「聞く」という事を、人とのつながりの中で会得する必要があるのではないか、という視点が提供されている。

 

傾聴、という語がある通り「聴く」というのは、意識して聴くこと。対して「聞く」というのは受動的に耳に入ってくるというニュアンスの差がある。カウンセリング等の場合、クライアントの話をしっかり「聴き留める」必要があるように思えてしまうが、氏は普通の生活の延長にある「聞く」ことがより大切だという。



人の話を聞き、自分の話を聞いてもらう。なんだ普通のことじゃねえか、と思うかもしれない。確かに普段は意識もせず日常の一部としてこなしている訳だが、ふと改めて考えてみると、人との会話というものは思いのほか、複雑で際どいバランスの上に成り立っている行為だと感じる。

 

なにしろ相手の頭の中は見えない。ある種、延々とポーカーやら麻雀をしている気分に近い。相手が作ろうとしている役は見えず、いつ何時こちらに攻撃を仕掛けてくるかも分かったもんじゃない。またゲームと違い、勝てばいいわけでもない。

 

そもそも、会話自体が「どこを目指せばいいのか」ということすら一度当事者間で決めなければならないわけで。今はオチを作るべきなのか。軽い相槌で流すべきなのか。それとも徹底的に相手の心中を引き出させるべきなのか。

 

上記、会話でのスキルを昨今では「コミュ力」と呼ぶが、複雑なやり取りをスムーズに行うには一定の知識が必要であることは確かなのかも知れない。

 

 

本書でも指摘のあったことだが、そこに加えて時代が変わったことで、コミュ力の要件も変容している。ネットによる個人的な意見の過剰な噴出で、道徳概念にも大きな波が押し寄せている。明記されない察し文化であり、更にその正解すら一様ではないのがまさに今だ。

 

そう思うと、コミュニケーションそのものが、実に複雑な時代を我々は生きているのだと改めて感じてしまう。答えやルールが常に変化し、そこから外れればコミュニティから放出されるリスクもある。

 

SNSではそれが日々数値化、見える化されている。フォロワーの増減や、リアクションの多寡によって、自分の発言や振る舞いの正しさを計られるようなメンタリティ。そんな中にいては社会に対して「怖い」という印象を持つほうが、むしろ自然なようにすら感じる。

 

 

 

そんな状況だからこそ、基本的な「普通の営みに」翻って注目が注がれているのだと思う。

 

紹介した本書では、メンタル上のヘルスケアを維持する上で、ふとした気持ちを聞いてもらうための「小手先の技術」を紹介していた。例えば、トイレに多く行ってみたり、人前であえて薬を飲んでみたり、締切をすっ飛ばしてみたり。「大丈夫?」と相手が思わず聞いてくるような仕草や行動である。

 

そうしたちょっとしたスキルは、思いのほか誰が教えてくれるわけではない。日常生活で少しずつ周囲の誰かに試しながら、時に怒られたり、成功体験を得ながら、トライアンドエラーで学んでいくものだろう。それでも、コミュニケーションが複雑化した今の状況では、それもスキル化することによって、誰もが「聞いてもらう」基礎力を作ることが重要なのかもしれない。

 

共感を積極的に催させる「話す」「聴く」ことでなく、些末でちょっとした「聞いてもらう」ことをあえて小手先のスキルとして示し、それらがただの日常であり、普通の事であると自覚する。現代のメンタルヘルスケアを維持するには、コミュニケーションを図ることに対して、妄想よりシンプルで怖くないものだと、改めてそのようにマインドセットを行う必要がある。

 

そして、聞いてもらうことと、聞く事をセットにしている。上記のようなスキルを「聞いてもらう」ための受動として使うだけでなく、そういうスキルを使っている人を見たら、こちらも聞いてみる。この循環こそが社会でメンタルケアの基礎を維持する営みの根源ではないかと。

 

本書を読んでみて。そして、改めてこの文を書いてみても思ったけれど、これらは本当に普通の事だ。周囲を見て、自分がしんどければそういう振舞いをしてみる。逆にそういう振舞いをしている人がいれば「あの人しんどいのでは」と心配してみる。これだけの話なのだ。

 

ただ、これまでもにも書いた通り「普通」は近年、難易度を上げている。テレビのような大きなメディアは細分化してしまい、人々の共通項は減っている。SNSと対面では言える事も異なる多重レイヤーの中で生活し、生まれた年代によって同じことでも大きく受け取り方は変わってしまう。

 

そんな中、東畑さんの著書には、本書に限らず、思った以上に普通の事が書かれている。「こころ」を巡る「そりゃそうだよね」という事柄が、丁寧かつユーモラスに記されている。それが僕を始め、読者には受け入れられているのだろう。

 

個々がひたすらに個性を伸ばせ、一人で生きろと叫ばれている今だからこそ。きっと、万人をただ万人たらしめるような普通の事が今、とても重要になっている時代なのだと思った。当たり前と思っていた事を具体的なスキル化として明記したり、見返す事で、自分自身をフラットな立場に落とし込んでいく。

 

人はより輝かしいもの、時間、場所をついつい望んでしまうが、日常や普通という確固たる地盤があるからこそ、次の場所にも進むことが出来る。色々な苦しみやツラさを抱えてしまった人々が、日常の再構築を行うには、やはり社会含めて「普通の営み」を明示する必要もあるのだろうと思った。



ふと自分の日常生活においても、ちょっとしたすれ違いや会話のズレによる苛立ちが増えてきている中で。本書から改めてそうした自然なやりとりの大切さを学べた次第。是非、おススメの本なので、読書の秋という事で読んでみてはいかがでしょうか。

ネット時代における、あの頃のエンタメの価値とは

好きだったな、と未だに思い出す番組ってあるよね。


ここの所、気圧の変化が激しく、身体が動くかどうかは気候次第という、大変環境任せな毎日を送っている。気圧に影響を受けない人は、前世どんな徳を積んでいたのか教えて欲しいレベル。

 

と、そんなことはさておき、明日は第3回目のおたっきぃ佐々木氏とのトークイベント。おたさささん誕生日&うる星やつら放映開始記念&アニゲマスター放送開始25周年という、なんだか盛沢山な記念日イベントになってます。

 

入場料不要、19時から開始しますので是非、秋葉原のBAR from scratchさんに遊びに来てくださいね。詳細は下記ツイートから。

 

ということで、明日の準備も兼ねて。頭の体操がてら、内省を吐き出す事にしたい。

 

 

毎回言ってるかもしれないが、後期アラサーになってくると、1年ってものはとても早くなってくるもので。今回は何をもってそう実感したかと言えば、僕がYoutubeで、Vtuberやら配信を見るようになって、来月で約1年が経過してしまうようである。

 

「早々に飽きるんじゃね」とか思っていた割に、切り抜き・配信はちゃんと追っかけているし、なんなら登録チャンネルも、ホロライブに始まり、にじさんじ、ぽこぴー、おめシス、あおぎり高校、ハクノ…としっかりと沼ってきている。推しも出来て幸せな生活を送っている次第だ。

 

加えて、配信を見ているうちにYoutubeという媒体自体にも抵抗がまるでなくなったように思う。日々テレビ替わりにオモコロチャンネルやらリュウジのバズレシピを嫁と見ながら飯を喰らい、野球好きがたたって、上原浩治古田敦也辺りのチャンネルも欠かさずチェックしているし、これまで興味が余り湧かなかったような、麻雀などのチャンネルも眺めるようになってしまった。

 

詰まるところ、ネットや周囲でよく見る「テレビすか?あんま見ないっすね…」と言ってるような人が、この1年で完璧に出来上がってしまったように思う。

 

正確に言えば、NHKは毎朝見るし、ニチアサは未だにプリキュア~戦隊までチェックはしている。ただ、それ以上テレビを見るかと言われればそうでもない。むしろ、Youtubeはプレミアム登録をしてしまい、広告を飛ばす事でインターネッツにおいて快適にコンテンツ摂取を行っている毎日である。

 

と、ここまで書くと「テレビ文化は死に絶えた」みたいな論調か?と早合点される方もいらっしゃるかもしれないが、今日言いたいのはその逆なのだ。ネット配信を多く眺めるようになって1年、却ってこれまで見てきたバラエティ番組や、過去に聴いてきたラジオ番組といった存在の価値を感じる事が増えたのである。

 

要するに、今までマスメディアという、比較的距離感があった枠組みとして眺めていたモノが、ネットを通して急に身近な存在に代わり、逆にその「企画を生む」という生々しさまでも垣間見える機会が増えた、という事である。

 

そのことを特に象徴的に感じてしまったのは「オモコロチャンネル」での一場面だろうか。10年以上前から、尖ったスタンスで記事を掲載し、着実にその地位を得てきたネタ系ポータルサイト「オモコロ」だが、近年Youtubeにおいてもチャンネルを開設。メインで活躍しているライター5人を中心に、動画で様々な企画にチャレンジしている。

 

そんな中「低レベル格付けチェック」という企画を行った回があった。タイトルを見れば分かる通り、テレ朝系で今も年末や改変期に放映されている『芸能人格付けチェック』のパクリ企画。本物では数億円するバイオリンの音を聞き分ける、といった豪勢な企画だが、オモコロチャンネルでは「数百円高い鮭フレークの味を見極める」と言った庶民版。パクリとは言っても、その目の付け所は面白かったし、十分楽しめた。

 

ひとしきり盛り上がった末、動画の最後にライターの一人で副社長の永田さんが「いや、面白かったね。このフォーマット作った人やっぱ天才だわ」としみじみ感想を述べるシーンがあり、見ているこっちも「確かに」と唸ってしまった訳である。

 

これまで、民放のバラエティ番組を垂れ流すように見ていて「この番組好き」とは思えど、その企画を思いつくまでの困難さであったりとか、企画がどれほどに優れているか、という点まで意識することは、正直あまりなかったように思う。

 

しかしながら、この1年。様々なチャンネルを見る中で、当然Youtuberの方々も企画に悩んでいることが分かるし、人々の可処分時間が取り合いになる昨今では、発信するコンテンツ数が非常に重要になっている。チャンネル登録数を確保する為に、人も予算も限られる中、数と質を保たねばならないという実にシビアな状況下だったりする。

 

そんな時代において、90年代以降、これまでに数多く存在していたバラエティ番組におけるアイデアや着眼点の価値が、今相対的に上がっているというのは間違いではないだろう。

 

例えば、90年代にニッチな人気を博した『ウンナンの気分は上々。』この番組を未だにお気に入りに掲げるアラサー諸氏も多いだろう。「友情発見バラエティ」と銘打たれ、緩い旅番組のテイストをメインとしながら、芸人がそれぞれ車を走らせ、旅をする。淡々と字幕とコメントが画面に表示される光景は、今のYoutuberがアップする動画のいちスタイルとも合致する。その系譜で言えば当然の事ながら『水曜どうでしょう』は完全に現在のYoutuberが行っている事の先駆であるのは間違いない。

 

また、にじさんじコンテンツを日常的に見ている人であれば、特に感じるところは大きいのではないだろうか。「にじヌ→ン」「にじさんじのB級バラエティ」「ろふまおチャンネル」など、露骨なほどに元ネタにバラエティ番組が存在していたりする。当然、現在活躍しているYoutuberやVtuberタレントの価値が、その各番組の面白さを保っているという部分は多分にあれど、そこに格子として存在する「企画・枠組み」の強さは無視出来ないのではないだろうか。

 

加えて言ってしまえば、雑談を中心とした配信全般におけるラジオ番組の文脈も非常に大きいだろう。オールナイトニッポンやらジャンクなど、古来からのラジオ文化は勿論のこと、声の才能を十分に活かしているVtuberなどは取り立てて、声優ラジオのフレームワークが多分に活用されている事だろう。先人が築いてきた「番組の枠」というモノが、色々な所で活躍していることを再度実感させられている日々である。

 

と、このように1年間Youtubeに浸った事で翻って、これまでのテレビ・ラジオが積み重ねてきた「文化」を改めて感じてしまったという話。

 

いや、Twitterとかでも「テレビはオワコン」とか「マスゴミ」とか、そんな安易な論調を見る度に感じていた不平不満をこんな形でぶちまけてしまった訳だけれども、僕自身もこんな形で過去に好きだったバラエティやラジオの再発見を果たすとは、という気持ちである。

 

「温故知新」とはよく言ったもので、古きを知り新しきを知るし、新しき中に、古きものの価値を感じる事が増えたように思う。多分、僕がここまでYoutubeで見る動画や配信者にすんなり肩入れ出来ているのも、そうした古いフォーマットがそれぞれのチャンネル内に着実に受け継がれているからなのだろうとも思う。

 

単純に、古いものはオワコン、切り捨てるべきという思考から、一体僕らはどのような土壌の上で僕らはエンタメを楽しんでいるのか。そんな文脈も踏まえてコンテンツ消費に勤しみたいと思う秋の日でした。気候の変動が激しいので、ご自愛くださいませ。

 

最近の雑感詰め合わせ(情報商材・AI絵師・うる星)

6月から週1のペースで続けてきたこのブログも、先週とうとう水曜日であることを忘れ、サクッと飲みに行ってしまったので更新が途絶えてしまった。

 

ぶっちゃけて言えば、更新を忘れるほどに書くことが何もなかったというのが本音である。季節の変わり目という事もあり、日々仕事に行くだけでメンタル左右されまくり。今、落ち着いて文章を書くこと自体、かなりハードルが高い行為だったりする。

 

という事で、今週もその状態が完全回復とはいかず。ブログにするには短いけれど、Twitterで愚痴るには長い。そんな中途半端な事柄を項目ごとに少しずつ書いて、一つの記事にしようという試み。Twitter連投でええやんけ、と思うかもしれないが、あのセルフリプライで延々長文書くスタイルが僕は好きでない。あれ、すげえ読みづらくない?

 

とまぁ、他者への不満話は始めてしまうとキリがないので、ぽつぽつと書き溜めてみたい。

 

・怪しい「情報商材」って何でなくならないのって話。

先日「投稿の冒頭にはこれを付ければバズる!」という名目で情報商材屋さんが掲げたツイートがプチバズ&プチ炎上していた。

 

「あまり言いたくないけど」「厳しい事を言うけれど」とか、目を引く書き出し100選を掲げた画像を上げていて、結局他のユーザーからは「これミュートワードにすれば、情報商材アカウントをシャットアウト出来る」という具合に裏目な形で話題になってしまった話。

 

確かに、こういう書き出しでバズっているアカウントって、名前は「〇〇@投資」とか「〇〇|職業」で、bioを覗けば大体「〇〇年で月収〇〇万円に!」「〇か月でフォロワーが1万人に!」というような感じ。しかも中身は業者が複数アカウントを運営していたりする。多くの人から目の敵にされている存在であるにも関わらず、何だってこう情報商材屋ってものは消えないのだろう、とぼんやり疑問に思っていた。

 

そんな中、ふと去年『ウマ娘』ブームから競馬にハマった時があった。そうすると様々な予想屋YouTubeチャンネルを持っていることを知る。その中には有料情報として、動画以上に精密な予想を課金によって提供するという人もいて。それには「なるほど」と納得すらしていたわけだけれど、思えばそれも立派な情報商材だったりする訳だ。

 

競馬の場合、どれだけ精密な予想を立てたとしても、最後の結果は時の運というのが明の理である。だからこそ、情報に課金をしたとしても、最終的な判断は自分で行うべきという自己責任感が残っていて、むしろ課金に対する納得感も生じる。外れたら不満はあるだろうけど。

 

同様に、ネットでよく見る情報商材屋さんの「投資で儲かる!」「月収が倍に!」みたいな話も、やはり結果は分からないという意味で言えば競馬と同様なのだ。信じるか信じないか、結果が出るか出ないかも、その購入した人次第。

 

加えて、そうした情報商材というのは誰が発言したか、というのがとても重要な要素になる。そこら辺の素人予想よりも、はるかに元ジョッキーとか、競馬専門紙の着順予想に価値があるというのは当然だろう。

 

だからこそ、Twitter情報商材屋さんは相性がとてもいい。特に現実において何か実績がなかったとしても、相互にフォロワー関係を密に構築し、RT・いいね!を増やす事で「〇万フォロワー、バズ連発のカリスマ」にすぐなれるわけである。そりゃあ、Twitterからそういうアカウントが居なくならない訳だ。

 

特に何をしていなくとも数の理屈と広がりやすい言説だけで、虚像を作れるのがSNSの良いところではある。

 

そういう事を踏まえると、数というのは信用ならないものだと思う。改めてモノを見る物差しを整えねばなと思った次第。情報商材屋さんという存在が、今のSNSの可能性と虚構性をよくよく示しているなという事を逆に教えてくれた、という話。

 

 

・AI絵師登場に、絵師はモチベをどう保つ?という話。

ここ最近、AIの発展が目覚ましい。特に絵を描くツールとしての可能性は一気に広がったと言っていいだろう。短いセンテンスからスチルが生成されたり、あるいは雑なイメージ絵から、精密な完成図を提供するなど、Twitterを日々眺めているだけでもその可能性には舌を巻いてしまう。

 

そうなると当然の事ながら、普段趣味で絵を描いているような僕みたいな人間は「これ自分が絵を描く意味あんの?」という気持ちになったりする。特に僕のような、筆が早くもなく、精一杯描いた絵がそこまで評価されない事が多かったりすると、尚更「もうAIが描いた方がいいんじゃん」と拗ねたりする始末。現に、少し拗ねている。

 

現時点でも完コピイラストを超え、キャラ専用に特化させたAIも作成出来、好きなシチュエーションを踏まえた二次創作イラストも、現時点で生成可能と思われる。

 

実際に絵を描いて仕事にしている方々は、こんな趣味で描いているような僕以上に様々な思いの丈がある事だろうと思う。同様に絵を描くことに対するモチベーションを失う人もいれば、反面、独自の感性をより磨く事で差別化を図ることが出来ると前を向いている人もいる事だろう。

 

しかし、そんな状況において、人がクリエイティビティを維持する上で重要なマインドセットがある。あくまで、AIは「学習」の枠を超える事が出来ないという事実だ。特に萌えイラスト(死語)というのは、過去から様々なマイナーチェンジを経て今に至っている。その技法が定着し、一般化され、洗練されたことで数多の絵師も存在している。

 

今のお絵描きAIは、シンギュラリティ的な存在というよりその中の一系譜として捉えるべきだろう。逆説的に言えば、今我々が描いているようなイラストはどこまでがオリジナリティを有しているのか、という話でもある。どんな人であれ、かつては好きな絵師や漫画家の絵を模写しながら、今の画力に至ったという事は事実ではないだろうか。

 

詰まるところ、AIがどれほど絵の汎用性を上げた所で、一絵師の登場くらいの感覚でいいのだと思う。だって、神絵師は今だって他に沢山いて、そんな人らを見ていたら底辺絵師である自分は、AI関係なく描く理由をなくしてしまう。

 

上手いか下手か、という価値観ではなく「自分が描けるものを描く」というスタンスについては、これまでも、これからも変わらないのでは、と自分に言い聞かせたついでに、好きな絵師さんには、いつまでも絵を描き続けて欲しいよなと思った雑感です。

 

・『うる星』リメイク楽しみだね、という話。

『うる星』が始まってしまう。これを受けて、という訳でもないけれど、来週13日、おたっきぃ佐々木氏とトークイベントを行うので、是非来てね。

 

 

放映開始日とイベントの日が重なってしまったことで、おたっきぃ佐々木氏の人生を中2で狂わせたという『うる星やつらビューティフルドリーマー』の話題になるだろうと思って、先日10年ぶりくらいに映画をAmazonで見たのだけれど。

 

いや、めちゃくちゃ面白い。こんなに押井押井していたっけ…という感じで、友引高校や諸星家での日々全てを「ラムちゃんの夢ですよ」なんて言われた日には、そりゃあ高橋留美子先生もキレますわ。と再度納得した次第。それにしても、手書きなのに、緻密な作画とぬるぬる動くアニメーションというモノはあの時代ならではの産物だし、恐ろしいまでの傑作だと改めて実感されられた訳で。

 

加えて『うる星』のデジタルリマスターがAmazon Primeで見放題になっているので、早速冒頭1話も拝見。なんていうか「ラブコメ」という言葉は、この作品を語る為にあるのではないか、と思えるくらいに完成度が高い。1話Aパートでは地球崩壊を守るという名目で、あたるとラムちゃんが婚約、Bパートではぼったくり宇宙タクシーの代金肩代わりするという理由から同棲生活がスタートと、全てがナンセンスギャグのように見えるのに、まったく展開に無駄がない。

 

果たして、小学館100周年をも背負う今回の令和の『うる星」はどのパートを放映するのか、そして何クールやる予定なのか…今から楽しみでしょうがないのだけれど、ガチのファン(おたささ氏)に言わせれば、不安が付きまとうとのこと。

 

やはり愛する対象がリメイクというのは一筋縄では受け入れられないもんなんだなと、思いながら来週のトークイベントを楽しみにしておる次第です。オチもクソもないけれど、来週の宣伝ついでに。

 

 

という具合で、気づけばいつも以上の文字数で着地。この手法も書きやすいのだけれど、結局文字数増えてしまって、負担が増えるので次回からは2本くらいがちょうどいいのかもしれない。

 

何とか続ける事を優先にしながら、徐々に冬コミの作業も進めていきたいと思います。一気に寒くなりますが、皆様も健康には気を付けて。今日はそんなところで。

 

ブリジット議論から「多様」という在り方に再び思った事

こういう話題が出るってのも時代なんでしょうね。

 

 

なんかすげー、一気に涼しくなった。

 

どうせまた残暑がぶり返すだろう」などと言ってるうち、普通に寝冷えして風邪を引きそうである。涼しいというか、これを書いている9月21日の朝は普通に寒い。

 

ここ数日、台風による低気圧にも見舞われ、気候弱者にとっては、実に厳しい日々を過ごしているわけだが、一週間は淡々と回ってくるので、今日もまた淡々と更新である。

 

 

ちょっと前にネットで話題になった話でも簡単にしてみたい。個人的に格ゲー好きなので、それに近い話が盛り上がってくれるのは個人的に嬉しいことなのだけれど、ここ数週間での盛り上がりはゲームそのもののとは多少性質を異にしたものだった。

 

それは『ギルティギア』の最新作シリーズ『STRIVE』にプレイアブルキャラとして00年代男の娘ブームの先駆(諸説あり)として知られるあのブリジットが数作ぶりに登場した事を端に発する。EVOでこの件が発表されて以降、国内外からの反響は大きく、解禁後にはプレイ人口が一気に増えたとのこと。そのキャラ人気は今も尚健在である事を世に知らしめた。

 

と、そんなことに関連してどうやらそのブリジットの性自認について一部国外のネットで話題になったようである。そもそも主語は「he」なのか「she」なのか。そんな素朴なやりとりから、無視できる規模の討論を超え、ついには公式アークシステムワークスから「性自認は女性」という見解が提出されたという顛末。

 

多様性を謳う社会であるはずの欧米から始まったとされるこの応酬を眺め、頭が痛くなった我が国古来からの男の娘ファンの諸兄は多かったのではないだろうか。

 

やはり主語を始め、何なら人名の前にも「男性」「女性」をいちいち文法上定めないといけない言語を使っていると、何が侮蔑的で、何が名誉なのかという感覚も日本語のそれとは異なってくるものだろう。

 

他方、別の国の言語では名詞にすら「男性名詞」や「女性名詞」というカテゴライズがある通り、男女に対する機微というものは、思いの外同じ人類であっても、文化圏によって共通項にしづらいデリケートな話題だったりする。

 

と、そんなブリジットちゃんの性自認炎上問題を眺める中、果たして「多様である」事とは一体どのような事かを問いかけられたようにも思えた次第。とまぁ、そんな事があったもんだから、この前も少し書いたのだけれど、改めて多様性という言葉について再び書き残しておきたくなったわけである。

 

その記事でも触れたけれど、多様性というものは主体的な発想ではない。自らの権利主張を行うにはあまり親和性がない思想である。というのは前回行った主張。一応リンク貼っておくね。

wagahaji.hatenablog.com

 

そもそも、昨今でよく言われる性的マイノリティ、いわゆるLGBTQ諸々についても、本来ならば「カテゴライズおよび団結すら不要」というのが目指すべき状態ではないだろうか。

 

そうしたカテゴライズや組織化が為されることによって、昨今は「時代が進んでいる」「仲間がいる」と前向きに捉えられる節が強い。勿論中世だったり、宗教的な教義一辺倒な時代よりは先に進んでいるのだろうけれど、実際にはそれも次のステップに進むための準備段階である事をより意識すべきではないかと思うことも多々ある。

 

実際、マイノリティが単独でいることのデメリットは、マジョリティにどうしたって多数決で勝てないからである。多数決による決め事では負けてしまう。ていうか、マイノリティという言葉の定義上、少数派が多数決で勝つこと自体不可能なわけだけれども、そうした方々が何か社会的に不便な事があって、それを覆すのであれば、一定数でも同様の人間がいるということの証明を行う必要がある。

 

つまり連帯と団結はあくまでも手段である。そこが目指すべきものでは決してなく、その先にある自然体として、個が個として受け入れられる状態こそが実態として目指されるべきゴールだろう。

 

ただ、どうしたって人間は変にドラマ化したがるところがある。目的よりもそのスタイルに重きを置く。その類のドキュメンタリーを見てもマイノリティの生き方が受け入れられるか否かという葛藤や、古い考え方との衝突、そして和合を経て大団円に至るという「和解」の姿を描きがちだったりする。

 

多様性という綺麗なお題目を強調しようとすると、そこに「異文化間対話」や「相互理解」を欲しがってしまう心理がある。マイノリティの苦悩の共感だったり、仲間の存在というエモさや美しさをストーリーとして、無意識下で欲しがってしまう傾向がある。

 

ここから透けて見えるのは、人は何かフレームワークを踏まえなければ物事を考えられないという悪癖だ。組織や属性、男女に国籍や宗教。自分自身が属する立場から相手を許容するのか、あるいは拒絶するのか。そうした二律的な物事の捉え方が、多様性をただの権利的お気持ち闘争に下げてしまう要因にも思う。

 

改めて、多様性という言葉が、究極的に指し示すものは、社会性を排除し、目の前の一人や出来事をどう見て、どう考えるのかというひたすらにシンプルな態度のことだ。

 

冒頭に挙げた話で言えば、純粋に目の前のブリジットちゃんを愛せるか否かという話である。彼が男だから、女だから、男の娘だから、という事でもなく、各種設定などから垣間見える生き方やセリフのひとつひとつを踏まえ、個として好きかどうか。愛せるかどうか。このナチュラルな姿勢こそが多様性本来のスタンスであろう。

 

加えて、身も蓋もない話をすれば、真に多様な社会というのは特段大きなカミングアウトも要らず、マイノリティであることの心的ハードルも低いという状態。もし何か当人に纏わる属性を知ったところで「へーそうなんだ」で終わらせられるそのような在り方ではないだろうか。

 

一見、エモさもなく、冷淡に見える「無関心」な場所こそが多様性の行きつく先だ。そこには軽蔑や卑下は勿論のこと、反対に優しさも気遣いも必要ない。マイノリティがいない世界というのは、同時にマジョリティも存在しない世界である。帰属意識が曖昧で、どうでもいい、という在り方。これが良くも悪くも多様性の極地と思う。

 

それは最早境界が存在しない『イマジン』の世界観であることは承知しているけれども、観念としては意識すべき場所ではないだろうか。どうしたって今、「多様」という言葉が権利闘争や、共感の奪い合いに使われやすい言葉であり、現にブリジットというキャラクターの性自認を通じて、主義主張がぶつかり合い、このようにネットは燃えてしまったわけである。

 

誰も気にかけない、それこそ真空のような場所こそが、多様性が最も根付く場所である。この基本的な発想こそ、改めて認識すべきものだと思うし、実現可能かどうかは別としても、エモさ優先、共感優先の価値観によって「多様性」の妙な濫用を防ぎ、不要な分断を防ぐ、という意味では持っていていいアイデアではないだろうか、と感じた次第。

 

 

なんか前回とあまり変わり映えのない話になってしまったけれど、やはり個人的には気にかかるキーワードのようでつらつらと今週も書いてしまいました。某国ではないけれど、本当、不要な争いというものは出来るだけ排していきたいものですね。多様性って概念は、そのヒントになる言葉だと思っています。

 

何はともあれ、こう一気に涼しくなる時には、体調崩しやすいのでご自愛くださいませ。

 

小説を書ききってみて感じた事について

今日はシンプルに、やっぱ自分で体験してみないと分からないものってあるもんだよな、という話。

 

そういえば昨年夏、1年くらいかけて小説を書きあげた。その勢いで1件、賞レースにも投げてみたけれど結局のところ、箸にも棒にもという具合だったので、もう1年経った先日。やっと、気持ち的にも整理がついたのでネットに上げてみた。

kakuyomu.jp

 

昔から絵やら音楽など、創作全般に手を付けた欲張りな性なもので、やはり小説も一度書いてみたいと思っていた。10代の頃から何度か過去に手をつけたことはあったものの、やはり書ききることは出来なかった。

 

そんなこんなで、30代に入ってから「この10年のうちで一作くらいは書ききろうか。」と思っていたので、昨年本腰を入れて書いてみたら、ついつい15万文字も書いてしまった。

 

完成出来てしまったはいいものの自分でも扱いに困り、一度賞レースにでも投げてみるかと、夏休みの宿題のような感覚で新人賞に提出。まぁ上記の通りの結果に終わり、加えて燃え尽き症候群のような状況も相まって、1年の間、自分で書いた作品を触れたくもなくなってしまっていた。

 

そうこうしていると、世の中宗教二世の問題だったり、家族の話題だったり、そんな時事が周囲を騒がせる中で、自分が書いた小説もそれに近いジャンルだったため、1年経って読み返してみたら、身勝手なもんで「案外悪くないじゃん」と思えたわけで。これだけの文字数をただ放置しているのももったいないので、今回カクヨムにアカウントを作り、アップしてみたという次第。

 

こういうネット小説ってのは、読んでもらえれば確かに嬉しいのだろうけれど、同人誌と違って、実売がコスト回収に直結するわけでもなく、広く宣伝してみたところで、長すぎて読むこと自体人に勧めづらい。そもそも、最早客観視出来る代物でもなくなり、話として面白いのかどうかも分からない。つくづく、自分で作った小説や物語というモノは扱いに困るもんである。

 

以下、物語本筋の話というより、物語を作ること自体を通して得た実感を簡単に書いてみたい。

 

 

端的に言えば、小説というものは絵や音楽以上に難しい創作だと感じた。やはり一番のハードルは完成というゴールが遠い事だろう。そりゃ本数を書く中で掴めるコツやプロットの技術はあるのだろうけれど、あまり自我にテーマ性が近寄ってくると、最早話として面白いかどうかが判断つかなくなってくる。そういう意味でも、最初は短い話を書くべきだったのかもしれない。

 

ただ15万文字にも及ぶ物語を書く中で、オタクとしては通過出来てよかった経験だと思った。面白い物語を作る事に対するリスペクトは、以前と段違いに上がった気がする。オタクをやっていると、こういうブログやら知人との会話で、アニメや映画などの物語を批評する機会というのは否応なしに生じてくる。

 

そんな折、安易に「もっとこうすれば面白いのに」などと言えなくなったのは間違いない。1年間、淡々と小説を書き続けてみて、都度自分の書いているモノを読み返してみても、そもそも「面白い」って何なんだ、という沼に幾度となくハマった。今回、書ききるというチャレンジの中で一番意識したのは「面白いかどうかの判断を捨てる」という事だった。プロット時点で「面白そう」であれば、後は面白いかどうかは気にしない。でなければ、書ききることなど出来なかったし、こんなコンセプトを掲げてしまったからこそ、話が膨大な量に膨らんでしまったのだと、少し反省している。

 

多分プロやら本職の方は、上記のような全体の構成におけるバランス感覚や、どうすれば自分の頭の中にある「面白さ」を引き出すことが出来るのか、ある程度型に落とし込む術を知っているのだろう。起承転結を把握し、全体の長さを踏まえ、自分の作家性をどう表出するのか、恐らくそうした一連のプロットが形作られているような気がする。あくまで素人の妄想だけれど。

 

しかも、恐ろしい事に、話を作ることには面白いかどうかという内省だけが敵ではない。小説には単純に面白さを求めない「純文学」なるジャンルもある。だから、面白さなど気にせず、思うように書けばいいのだ。貴方のアートをさらけ出せばいいのだ。みたいな主張もまかり通る。詰まるところ、バーリトゥードなのだ。

 

長期間、ストーリーを練るという行為は、面白さの基準を失い、そもそも面白いものを生み出す意味も曖昧になるような危険と隣り合わせなのである。本当に最初の時点で自分が何をしたいのか、ゴール地点を明確に定めなければ確実に迷子、ひいては遭難し、テキストファイルは雪山の中に取り残された凍死体の如く、二度と日の目を見ない存在になり果てる。実際、そういうファイルはいくつかある。

 

一本書ききってみて。そういう恐怖感を味わうと、心から日々大量のアニメが制作され、ゲームが開発され、そして小説が刊行されていること自体がある種奇跡のようにも感じられる。例外なく荒行のような道程を経て、それらが世に出ている事を思うとひとつひとつの物語というモノをより大切に扱うべきなんだとなと実感したという話。

 

 

と、こううだうだと書いてみて「小説なんて懲り懲りです」で終わらせればいいものを、また凝りもせず、別件で話を少しずつ組み上げようとしている。やはり創作はトライアンドエラー。何度かやってみないと分からないもんだよな、と頭の片隅が主張してきているので付き合うことにしている。

 

正直言えば、文章を書くこと自体、このブログを続けている通り、嫌いではないのだと思う。懇々と、作りたいモノを作ってみるというプロセスは人生において貴重な時間をごっそりと奪うけれども、そんな時間をとれない程、お前は貴重な人生を送っているのかと問われれば、すぐには解答も用意できず。

 

しばらくは絵を描いたり、冬コミの同人誌作ったり、はたまた別途文章を書いてみたりしながら2022年の間はやっていく予定ですので、引き続きよろしくお願いいたします。気が向いたら、冒頭URLから小説も覗いてみてね。まぁ無理はしないでね。ということで今週はこの辺で。

 

そろそろ冬コミの企画を考えなければという話

C101受かれば、ちゃんと作る予定です。


何回経験しても、何故か失念してしまうという事がある。休日出かける際にカバンを変えた結果、平日、財布を家に置き忘れる。漫画の単行本を何巻まで買ったのか思い出せず、棚に同じ巻が2冊ある。ブログ更新をすべき日に酒を飲んでしまう。大江戸線に乗り換える時、結局どちらに乗ればいいのか分からず慌てて逆方面に乗る・・・

 

そして同様に。夏のコミケは8月。そして、冬のコミケは12月。そう書けば分かるのに「コミケは1年を等分している」と勝手に勘違いして、9~10月にかけて思いっきり油断していたら、当落が発表されたりする。

 

そんな危険信号に対して、今年は何とか気づく事が出来たため、タイトルの通り早々に動き出している。例年、コミケに出す同人誌に関する情報は、万が一落とすリスクもある為、ほとんど完成か、入稿の目途が立ってから宣伝も兼ねてブログに書くことにしている。ただ、今回に関しては、情報を公募するという手段を初めて取ってみたわけで。

 

その手前、すこし早い気もするけれど、冬コミの企画についてここで書き殴ってしまい、自分の逃げ場をなくした方がいいのではという思いもあり、このような記事を書き出してしまったという具合だ。

 

加えて、既に情報を集めている現時点で僕自身が既に楽しくなってしまっている。

 

なんならこの集まった情報を眺めながら、酒を飲むだけでもいいんじゃねえかと思えてきている。まぁ、そんなこと言っているとせっかく情報提供頂いた方から誹謗中傷が届きかねないので、冬コミはどのような本にしていくのか、ちょっと現時点での投票頂いた内容を覗きながら、短く企画を紹介してみたい。

 

 

 

ということで、冒頭にサークルカット画像を掲げた通り。「貴方の性癖を歪ませた漫画」を特集した漫画評論本を作成する予定である。王道からニッチ作品まで「この漫画のせいでちょっと人とは違ったこだわりを持ってしまった」という経験だったり「どうも自分はストーリーの本筋とは違う楽しみ方をしているのではないか」と内省した事はないだろうか。

 

実際、僕自身もそのような経験があったし、なんならオタク同士の飲み会なんかでもたまに同様の話題で盛り上がった覚えがあって、冬コミはこのテーマで同人誌を作ってみる事に決めた訳である。

 

やはり自分だけの経験をもとに書いても、視点が狭まってしまうため、今回は公募という形で現在下記URLから誰でもフォームに記入できるようにしてみた。

 

是非お暇な方は、ご協力して頂きたい。フォーム内の自由記述文が全て掲載されるとは限らないけれども、作品については全て掲載する予定。幅広い観点からのご意見お待ちしています。

docs.google.com

 

ていうか、この募集を開始したのが一昨日。そして、現時点で既に50件を超える投稿を頂いている。本当にありがたい、というかやっぱみんな読んできた漫画に対して一物抱えてるのね…と、オタクは哀しい生き物だと再確認してしまった次第。

 

そして、今回の企画を立ち上げてよかったと思ってしまうほどに、既にその内容が面白いのである。男女も、性癖ジャンルも問わずというレギュレーションにしたおかげなのか、誰もが知る王道作品から、古典的名作、あるいはその人しか知らないようなニッチな作品と、非常にバリエーションに富んでいる。

 

勿論、作品が被っている人もいるのだけれど、またそれぞれに異なる観点から性癖に異常を来しており興味深い。本が出来ていないうちからこんな事を言うのも怖いのだけれど、この本、出来上がった暁には、仲間内とワーワー盛り上がる意味合いでも結構おススメである。

 

 

と、今日の記事では、詳細の記載はネタバレになるので避けておくけれど、今のところ最も得票を得ている作品を2つほどピックアップしてしまおうと思う。

 

その一つ目は『名探偵コナン』である。週刊少年サンデーに連載されており、毎年GWには映画化され、大ヒットする国民的アニメの筆頭作品である。個人的には意外なチョイスと感じたものの、やはり多くの人の目に触れているという事もあって、影響を与える母数が多い事は想像がつく。そして、サスペンス要素と少年少女。確かに意識をせずに見ていたら、あんな部分、こんな部分がやけに気になってしまったという点もあるのだろう。

 

そして、二つ目は『カードキャプターさくら』である。こちらについては「なかよし」に90年代に連載され、未だにファンを多く持つCLAMP作の傑作魔法少女作品。真っ当に見れば、真っ当なのだけれど、やはりオタクというのは作品内での様々な関係性が気になってしまう質で。年齢差、同性への恋慕、などなど多くの可能性に満ちた作品であるところは既に多くの読者の知るところであろう。

 

それぞれ異なる『コナン』『さくら』との向き合い方はやはり本になってから紹介してみたい。いや、本当に漫画の読み方って人それぞれなんだなと改めて実感している。

 

とまぁ、そんな有名作から「そんな漫画あったんだ」という作品まで。今回そうした作品群を眺めながら感じた事としては「沼というものは、沼にハマってから沼だと気づく。」という事だろうか。まさかそんな大衆作品が人の性癖を狂わすなんて、と思うかもしれないが、きっと人にはそれぞれの琴線やスイッチがあって、どういう作品やきっかけでそれが「オン」になるかは当人さえも分からない。

 

振り返ってみれば、あの作品が僕にとって、私にとっての「沼」だったりするわけだが、そんな各人の沼について語りあう事は多分、皆さまにとっても楽しい時間になるのでは、という思いでこれから大晦日に向けて本づくりを開始していきたいと思います。当落はこれからなのでそもそも受かるかどうか、という話はあるけれども、まだしばらくは上記フォームで「フェチ漫(仮)」に関する情報を募集していますので、何卒良しなに。

 

今日は短いですが、こんなところで。引き続きよろしくお願いいたします。

 

 

普段と違う街でグダグダになるほど飲んだことについて

久々のゴールデン街、楽しかった。


先週日曜日。何年かぶりに「何でそんな飲んでしまったんだろう」というレベルの深酒をした。後悔はしているが、反省はあまりしていない。

 

普段の日曜であれば、僕は比較的保守的な人間なので、飲みに行ったとしても早々に家に帰る。真っ当な社会人生活を営み10年超、ましてや嫁も家に居ることを考えれば、月曜日からの出社に備え、早々に就寝準備を行う事こそ、日曜夜の最適解だと容易に理解できる。

 

まぁ、理解はしてても、人間はそれ以上に愚かだったりするんだよ。

 

この日は何だか楽しくなってしまったのだと思う。ずっと無駄にヘラヘラしていた記憶が強い。あまり記憶にないが、写真に撮ってもらった僕はやけにいい笑顔だった。

 

結果、帰路の電車では、途中の駅で下車し、トイレにしばらく籠る。帰ってからは、気持ち悪くてベッドの上で寝ていられず、妻の冷たい視線に見守られ、リビングの床で就寝。当然のごとく、月曜朝にまで響いてしまい「もう二度と酒なんて飲まない」というバカ酒飲みあるある感情に襲われた次第。

 

今回あまりオチも主張もない。数年ぶりにそこまで飲んでしまったほど楽しかったということで、せっかくだしそんな日の事をツラツラ書いていこうと思う。

 

 

普段僕は、山手線の極東、神田・秋葉原・上野辺りを拠点に飲み食いをしている。そうすると、中々新宿ゴールデン街なぞ行く機会はない。先週末はふと知人から「納涼祭やってるよ」と誘われて、なんのこっちゃ分からんけれども、1~2杯くらい飲むつもりで足を運んでみたわけである。

 

ゴールデン街で飲むこと自体、久々というレベルを通り越していた。もう7~8年は足を運んでいないように記憶している。楽しい街なのは分かるのだけれど、こんな人見知り野郎が一人でフラッと覗けるような場所ではない。

 

実際、僕も過去に何度かゴールデン街で飲むことに憧れた時期があり、ソロチャレンジしようとしたわけだが、結局どの店の前でもドアを開けるのが怖くなって、入ることなく横丁を何度かスルー。そこから踵を返し、新宿三丁目辺りのタイ料理屋に収まるというクソほど情けないムーブを3回はやった。

 

そんなこともあって、ゴールデン街自体が紹介制の飲み場という印象も強く、お高く留まった印象すらあった。そんな中、久々に開催されたという「納涼感謝祭」では、多くの店が協賛しており、スタンプラリー形式になっている。つまり、最初からフラっと入っては500円で1杯飲んで、スタンプ押してもらって帰るのもOKという、ある種、それぞれお店のお試しが出来るというテイストが強い。

 

そもそも、30代も半ばに差し掛かってくると、新宿という土地以前に、普段生息している秋葉原や上野においても、新しい店にまず行かなくなってくる。馴染みの店があるのだから、そちらに顔を出した方が自分も安心するし、行きつけの店の為にもなる。リスクとリターンを考えると、ついつい「いつもの店」に行ってしまう。

 

そんな安定を求める気持ちというのは、酒を飲んでいるうちに忘れてくるから不思議である。知人に唆され、おススメのお店をいくつか回ってみると、思った以上に楽しむことが出来た。勿論、いくつか店を回っている時点で、アルコールも相当量回っており、最早、敷居に対する不安など感じられる状態でなかったという話もある。

 

それでも、あの狭い区画の中で、豊かなバリエーションの飲み屋が密集しているという事実はやはり圧倒的である。サブカル、下ネタ、昭和テイストにと、数店回っただけでも、非常に居心地のいい店と出会えたりして、自分がいかに出不精になっていたかという事を再度実感させられた。また、ゴールデン街から少し場所を変え、もう数店素敵なお店を紹介してもらい、気づけばその日だけで7件のはしご。

 

まぁ、そりゃあ冒頭で書いた通り酩酊するわ。それでも、やはり普段と違う街だからなのか、知人と別れるまでは比較的シャキッとしていた記憶はある。ただ、別れた瞬間にはもうボロボロだったから、なんだかんだでアウェーの飲み場に気を張っていたのかもしれない。営業時代、客先との飲み会で無理をした後のようだなと、思い出しついでに少しほろ苦く感じたのは、多分普通にこみ上げた胃酸のせいだと思う。

 

コロナ禍があり、なかなか慣れない街で飲む機会も少なくなった。人によっては「そもそも飲みに行くなんて」という人もいるのだろうが、まぁ、飲み屋というものは往々にして行き場のない人が行くものであって、そんな行き場すら失うと、僕みたいな人間は結構本気でやってられなくなってしまう。人間強度が露骨に下がる。

 

そして、たまには違う街で飲むのも改めていいなと思った。当然の事ながら、店も客もそこに居る人の空気が違う。たかが狭い東京の中、更には山手線の東西の違いじゃねえか、と思われるだろうが、新宿を拠点にする人はそういう事情があって、秋葉原に居座る人はそういう性質がある。それぞれ固定の場で飲むことに、何か問題があるわけでもないのだが、たまに遠征でもして、そうした違いを味わうと、それはそれで酒が進む材料になる。

 

僕は相当人見知りするくせに、根本的に人が好きなので、店主と客の話を聴いているだけでも良い。酔っていれば、そこに応酬をしてみたりもする。すると会話が弾んだりして、どこの誰だか知らない相手と一瞬だけでも意気投合したりする。その感覚というのは、そういう雑多な飲み屋ならではだろう。ましてや、馴染みのない土地であれば発見も多い。そんな空気に乗せられて、ついつい吐くほど飲み過ぎた、というのが日曜の顛末。ダメだねほんと。

 

 

折角今回、納涼祭というお試しイベントを経験し、ゴールデン街にいよいよソロでデビュー出来るのでは。という期待感を自分に持ってみたものの、多分無理。だってイベントの日に来たくらいで、再度顔出したって言われてもな…みたいな反応されたら傷心で死んでしまう。

 

と言いつつも、出来る限りまた行ってみたいなとか思ってます。誰か連れてって。ということで、今日で8月も終わり。今回本当にネタがなかったので、諸々ネットに纏わる事でも書こうと思ったらまた極めて根暗な話になるので、敢えて夏の良い思い出を残してみました。

 

たまにはそういう日があってもいいと思います。今日はそんなところで。